カギロヒとはカゲロウ(陽炎)のことです。ここでは春の日なた水たまりなどで見える「逃げ水」現象ではありません。古くからのカゲロウとは、諸説あるのですが朝、太陽が昇る前に東の空にみえる「丸いオレンジ色の玉」とする説が有力。晴れていればいつでも見えると限らないようで、空気(清澄であること)湿度(幾分水蒸気分が含まれる)雲の有無(当然曇りではみえない)、風向き強さなどが気象条件絡んで最適になったとき、年に幾度か見えるとのことです。
有名なのは柿本人麻呂の
東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
(ネット壷斎閑話から引用、万葉集では東野炎立所見而返見為者月西渡と書かれている)
このカギロヒを先日目撃することが出来ました。2009年3月20日の春分、真西に沈む太陽を拝まむと欲し、ある場所を目指しました。私は東京多摩地区に居住しておりますが、西に景色の開けた場所を見つけました。背後が東にあたり多摩丘陵の雑木で掩われ、西側真向かいは八王子の市街がほぼ真下に見下ろせます。八王子市街とは浅川の扇状地だと鳥観的に見下ろせます。その先に陣馬山(827㍍)その一峰の奥に権現山(1312㍍)が展望できます。
20日には日没開始を17時30分頃と検討つけて、市街地ながら急な坂道を急ぎました。その場所は周囲から隔絶されて立ったまましばらく居ても目立たないという場所です。到着した時はオレンジの太陽が権現山の左峰に入り始める頃合いでした。
まぶしく、見続けるのはつらい明るい太陽。その外観が少しづつ山に削られ、半球までに削られた時にはまぶしさが弱まり、凝視できるまでになりました。わずかな円弧が残されるまでになったとき、私は自分の目を疑いました。別の太陽が西空に昇ったのです。
「これは幻覚だ、犬が猫を生んでも西から太陽が昇るわけがない」と頬を強く叩くと、それは太陽の影、分身が昇るように湧き上がったのでありました。
分身は沈み行く太陽の3倍ほどの直径がありしかも白い。白い円の外辺は青と紫がかすかに見える。さらにその外周に太陽の5倍くらいの直径のオレンジがあり、またその外辺には大きな虹が見えました。沈み行く間際の太陽が、白とオレンジの影分身と2重の虹で彩られたという奇妙な現象を目撃したのです。
太陽本体が沈みきってもその位置で継続し、ほぼ5分間目撃できました。すべてが終わるオレンジの夕焼け、彩りは美しいものの白い半円も2重の虹も見えない平坦な夕焼けとなっていました。始まりが17時35分終わりの時は17時45分。
いわば虹に彩られた太陽の影、この現象が人麻呂の謡ったカギロヒだと思います。
しかし一般に膾炙されている現象との差があります。
1 真冬、雪のあとなどに出る
2 しかも朝方
が大きな差です。そこで当日の多摩地区の気象を振り返ると、朝に豪雨が降った、午後に雨があけると西風がふいた。その風の強さは真冬並でした。さらに祝日なので生産活動がなかった。空気が清澄(雨と祝日)、湿り気(雪の代わり朝の雨)、冬らしい西風などで1を満足させています。そして夕方にカギロヒが出るはずがないという疑問には
>玉蜻(かぎろひ)の 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に旗すすき しぬに押しなべ 草枕 旅宿りせ< (ネット壷斎閑話から引用)
とあります。これは例の短歌(東の野に…)の元になる長歌です。朝のカギロヒが炎、夕べのカギロヒが玉蜻と使い分けたのではないでしょうか。
カギロヒは朝も夕も瑞兆です、でなければ人麻呂が皇太子軽皇子(後の文武天皇)の安騎(あき)の野の狩で2度も読み出すはずはありません。その瑞兆の様の不思議な彩りと形状を知ることで、人麻呂の歌の雄大さを一層理解できるのでないでしょうか。
最後にこの歌の解釈はいろいろですが、
賀茂真淵が「炎」をカギロヒと読みくだし以来、この自然現象で一致しつつあります。今でもこれを「朝飯用意の火と煙」なんて解釈するセンセイもいると聞きますが、そういうお方に巡りあわないよう祈ります。そのカギロイを若い軽皇子に、西に傾く月(一七夜であったとは後年の研究)を父(先に死んだ)草壁皇子を模していると私=部族民は解釈します。一部では月を持統天皇(軽皇子の祖母)とする向きがありますが、月=死者のイメージが強い古代では生きる人を月に喩えることはなかった。
壬申の乱をへて天武天皇の国作り、草壁皇子の死、持統天皇から文武天皇への交代という怒濤の流れを「カギロヒ」で叙景に叙事に歌い上げた歌聖人麻呂の着想にはただ脱帽。
こんな歌を1300年前に詠まれてしまって、日本人は幸せなのですか不幸せなのですか。部族民個人としては人麻呂を読むたびに自身の不才さ加減に落涙しちゃいます。
後記:3月20日夕べのカギロヒ(玉蜻)が瑞兆なら何かよいことがあるはず。本ブログを読む皆様には良きこと到来を祈ります。
有名なのは柿本人麻呂の
東(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
(ネット壷斎閑話から引用、万葉集では東野炎立所見而返見為者月西渡と書かれている)
このカギロヒを先日目撃することが出来ました。2009年3月20日の春分、真西に沈む太陽を拝まむと欲し、ある場所を目指しました。私は東京多摩地区に居住しておりますが、西に景色の開けた場所を見つけました。背後が東にあたり多摩丘陵の雑木で掩われ、西側真向かいは八王子の市街がほぼ真下に見下ろせます。八王子市街とは浅川の扇状地だと鳥観的に見下ろせます。その先に陣馬山(827㍍)その一峰の奥に権現山(1312㍍)が展望できます。
20日には日没開始を17時30分頃と検討つけて、市街地ながら急な坂道を急ぎました。その場所は周囲から隔絶されて立ったまましばらく居ても目立たないという場所です。到着した時はオレンジの太陽が権現山の左峰に入り始める頃合いでした。
まぶしく、見続けるのはつらい明るい太陽。その外観が少しづつ山に削られ、半球までに削られた時にはまぶしさが弱まり、凝視できるまでになりました。わずかな円弧が残されるまでになったとき、私は自分の目を疑いました。別の太陽が西空に昇ったのです。
「これは幻覚だ、犬が猫を生んでも西から太陽が昇るわけがない」と頬を強く叩くと、それは太陽の影、分身が昇るように湧き上がったのでありました。
分身は沈み行く太陽の3倍ほどの直径がありしかも白い。白い円の外辺は青と紫がかすかに見える。さらにその外周に太陽の5倍くらいの直径のオレンジがあり、またその外辺には大きな虹が見えました。沈み行く間際の太陽が、白とオレンジの影分身と2重の虹で彩られたという奇妙な現象を目撃したのです。
太陽本体が沈みきってもその位置で継続し、ほぼ5分間目撃できました。すべてが終わるオレンジの夕焼け、彩りは美しいものの白い半円も2重の虹も見えない平坦な夕焼けとなっていました。始まりが17時35分終わりの時は17時45分。
いわば虹に彩られた太陽の影、この現象が人麻呂の謡ったカギロヒだと思います。
しかし一般に膾炙されている現象との差があります。
1 真冬、雪のあとなどに出る
2 しかも朝方
が大きな差です。そこで当日の多摩地区の気象を振り返ると、朝に豪雨が降った、午後に雨があけると西風がふいた。その風の強さは真冬並でした。さらに祝日なので生産活動がなかった。空気が清澄(雨と祝日)、湿り気(雪の代わり朝の雨)、冬らしい西風などで1を満足させています。そして夕方にカギロヒが出るはずがないという疑問には
>玉蜻(かぎろひ)の 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に旗すすき しぬに押しなべ 草枕 旅宿りせ< (ネット壷斎閑話から引用)
とあります。これは例の短歌(東の野に…)の元になる長歌です。朝のカギロヒが炎、夕べのカギロヒが玉蜻と使い分けたのではないでしょうか。
カギロヒは朝も夕も瑞兆です、でなければ人麻呂が皇太子軽皇子(後の文武天皇)の安騎(あき)の野の狩で2度も読み出すはずはありません。その瑞兆の様の不思議な彩りと形状を知ることで、人麻呂の歌の雄大さを一層理解できるのでないでしょうか。
最後にこの歌の解釈はいろいろですが、
賀茂真淵が「炎」をカギロヒと読みくだし以来、この自然現象で一致しつつあります。今でもこれを「朝飯用意の火と煙」なんて解釈するセンセイもいると聞きますが、そういうお方に巡りあわないよう祈ります。そのカギロイを若い軽皇子に、西に傾く月(一七夜であったとは後年の研究)を父(先に死んだ)草壁皇子を模していると私=部族民は解釈します。一部では月を持統天皇(軽皇子の祖母)とする向きがありますが、月=死者のイメージが強い古代では生きる人を月に喩えることはなかった。
壬申の乱をへて天武天皇の国作り、草壁皇子の死、持統天皇から文武天皇への交代という怒濤の流れを「カギロヒ」で叙景に叙事に歌い上げた歌聖人麻呂の着想にはただ脱帽。
こんな歌を1300年前に詠まれてしまって、日本人は幸せなのですか不幸せなのですか。部族民個人としては人麻呂を読むたびに自身の不才さ加減に落涙しちゃいます。
後記:3月20日夕べのカギロヒ(玉蜻)が瑞兆なら何かよいことがあるはず。本ブログを読む皆様には良きこと到来を祈ります。