2010年あけましておめでとうございます。旧年中は弊ブログ、およびHP(部族民通信)をご拝覧頂きまして有り難うございました。今年も宜しくご訪問お願い申し上げます。
さて昨年末、いろいろな本を通し読みしている中で気になった部分がありました。気にとめた一節を土偶、特に合掌土偶と重ね合わせて新しい解釈が出来ないかと年末の焼き鳥バイト(駅前のサブちゃんで31日夜まで)の中、元日はお屠蘇に浮かれながら考えていました。結論を今年のブログ始めにと早速書き込みです。
気になった一節とは梅原猛著の古代幻視(文藝春秋)北の天神縁起の謎の二章から。「愛知県知多郡内海町の汐干の天神は汐が満ちると隠れ、引くと現れると言い伝えがある。しかしそこは海から1キロも離れているので汐が満ちたり引いたりとは何時のことか、少年の私はおそらくそれはあり得ない、何かの間違い(伝承)なのだと考えていた」しかし鉄道工事があって天神社近くを掘り返したところ「その近くから貝塚が出てきた。それも元々貝塚があって、いったん海になりまた陸に戻り、その上に貝塚が堆積したことが明らかになった」。
Yahoo地図で南知多町内海の天神社を確認すると、名鉄知多船の内海駅北側100メートル辺りに天神社がありました。ちなみに梅原邸は駅の南側で博士が小学生の時期に聞いた言い伝えとも合致しているので、この社であることは間違いない。
海から遠くの一帯にかつて汐の満ち引きがあった。これは縄文海進と呼ばれる現象でした。縄文の一時期、気温の上昇に伴い4-5メートル海水が上昇して、海岸線が内陸深く入り込んだ。今の沖積平野と呼ばれる河口平野の多くが海におおわれていました。海進のピークは6000年前とされます。4000年前からは海退が始まるとされる。梅原先生は汐干天神の伝承を3500年前としています。その時に海進が最大になったと言っているので、海退の反動期があって、3500年前頃に海がまた押し寄せた期間があったのかも知れません。
梅原先生は「伝承という物は果てしなく遠い時代の記録を留めるものであると思い知った。3500年もの間ずっと(海進)を言い伝えてきたのだ」と哲学者らしき分析を披露しています。そこで考えました、「遠くの過去との繋がりを安堵させるのはは言い伝えだけではない」と。ではどの社会条件下でかくも長い伝承が可能なのか。
まず民族が連綿と同一で続いていることが条件です。言葉も芸術も歴史価値観も、一体に文化とよばれる精神活動に同一・連続性があることがその社会の、ひいて伝承の継続である。日本は列島なので他民族の征服を受けなかった、民族言語は連続性がある。弥生人の影響も軽視出来ないが、基盤は1万年以上続いた縄文だ。この観点から縄文文化を見直す動きがあり、梅原先生はその旗手といえます。
縄文人は今の日本人と同じ感性を持つ「日本人」であると言えるのではないでしょうか。国宝合掌土偶は縄文後期の作製とされます(八戸市風張遺跡出土)縄文後期がまさに3500年前。この土偶を観察、分析するにあたり、いまの私(部族民トライブスマン)の感性で良いのだ!と気付きました。
前回の「国宝土偶展での金枝篇的雑感」でこの土偶には謎が多いとしました。それは私のなかに、「縄文と平成の世では感性的に断絶がある。今の我々には分からない何かを表現している」のだとの思いこみで勝手に複雑化したようです。梅原先生の「伝承」に勇気づけられ、今の部族民感性から論じるととてつもない結論が導きでる予感に年初から昂奮しました。その結論とは「祈り」に対する考察ですが、次回に(4日予定)
HP(左のブックマーク)も宜しく。
さて昨年末、いろいろな本を通し読みしている中で気になった部分がありました。気にとめた一節を土偶、特に合掌土偶と重ね合わせて新しい解釈が出来ないかと年末の焼き鳥バイト(駅前のサブちゃんで31日夜まで)の中、元日はお屠蘇に浮かれながら考えていました。結論を今年のブログ始めにと早速書き込みです。
気になった一節とは梅原猛著の古代幻視(文藝春秋)北の天神縁起の謎の二章から。「愛知県知多郡内海町の汐干の天神は汐が満ちると隠れ、引くと現れると言い伝えがある。しかしそこは海から1キロも離れているので汐が満ちたり引いたりとは何時のことか、少年の私はおそらくそれはあり得ない、何かの間違い(伝承)なのだと考えていた」しかし鉄道工事があって天神社近くを掘り返したところ「その近くから貝塚が出てきた。それも元々貝塚があって、いったん海になりまた陸に戻り、その上に貝塚が堆積したことが明らかになった」。
Yahoo地図で南知多町内海の天神社を確認すると、名鉄知多船の内海駅北側100メートル辺りに天神社がありました。ちなみに梅原邸は駅の南側で博士が小学生の時期に聞いた言い伝えとも合致しているので、この社であることは間違いない。
海から遠くの一帯にかつて汐の満ち引きがあった。これは縄文海進と呼ばれる現象でした。縄文の一時期、気温の上昇に伴い4-5メートル海水が上昇して、海岸線が内陸深く入り込んだ。今の沖積平野と呼ばれる河口平野の多くが海におおわれていました。海進のピークは6000年前とされます。4000年前からは海退が始まるとされる。梅原先生は汐干天神の伝承を3500年前としています。その時に海進が最大になったと言っているので、海退の反動期があって、3500年前頃に海がまた押し寄せた期間があったのかも知れません。
梅原先生は「伝承という物は果てしなく遠い時代の記録を留めるものであると思い知った。3500年もの間ずっと(海進)を言い伝えてきたのだ」と哲学者らしき分析を披露しています。そこで考えました、「遠くの過去との繋がりを安堵させるのはは言い伝えだけではない」と。ではどの社会条件下でかくも長い伝承が可能なのか。
まず民族が連綿と同一で続いていることが条件です。言葉も芸術も歴史価値観も、一体に文化とよばれる精神活動に同一・連続性があることがその社会の、ひいて伝承の継続である。日本は列島なので他民族の征服を受けなかった、民族言語は連続性がある。弥生人の影響も軽視出来ないが、基盤は1万年以上続いた縄文だ。この観点から縄文文化を見直す動きがあり、梅原先生はその旗手といえます。
縄文人は今の日本人と同じ感性を持つ「日本人」であると言えるのではないでしょうか。国宝合掌土偶は縄文後期の作製とされます(八戸市風張遺跡出土)縄文後期がまさに3500年前。この土偶を観察、分析するにあたり、いまの私(部族民トライブスマン)の感性で良いのだ!と気付きました。
前回の「国宝土偶展での金枝篇的雑感」でこの土偶には謎が多いとしました。それは私のなかに、「縄文と平成の世では感性的に断絶がある。今の我々には分からない何かを表現している」のだとの思いこみで勝手に複雑化したようです。梅原先生の「伝承」に勇気づけられ、今の部族民感性から論じるととてつもない結論が導きでる予感に年初から昂奮しました。その結論とは「祈り」に対する考察ですが、次回に(4日予定)
HP(左のブックマーク)も宜しく。