蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

悲しき熱帯61頁 旅の紙片 弁証法、精神分析、現象論、構造主義 上

2023年07月23日 | 小説
(2023年7月23日) クロード・レヴィストロース著「Tristes Tropiques悲しき熱帯」第2章Feuilles de route (旅の紙片)の61頁、弁証法、精神分析、現象論に対する批判が現れる。それぞれの思想を、構造主義の理念のもと、二律の対立で分解している ;
精神分析、マルクス主義、(古い世代の)地層学は
1 réalité vraie真の現実 対 真実の性質nature du vrai の対立

現象論と実存主義
2 体験するvécu(現実)対 体験を超えたréel(真実)

なおレヴィストロースが標榜する構造主義は3 形forme d’existence(現実)対 思想idéologie(真実)
(ここには本章は言及していないが)

ポケット版悲しき熱帯の表紙

ここで採り上げている手法は、自身が温めていた「構造主義」を基盤として批判するにつきます。彼の主張とそれら説との段差が読み取れる。そもそも彼は構造主義とはなんたるかを講釈しない。この一節を読み取るとは演繹を逆に働かせて、レヴィストロース思想を理解する近道である。1頁の短さながら、読者氏にも(原文で)理解に至るように(比較的平易に)まとまっている。早速、読解と解釈に挑戦せむとす。

書き出し;
« Au niveau différent de la réalité, la marxisme me semble procéder de la même façon que la géologie et la psychanalyse entendue au sens que lui avait donné son fondateur : tous trois démontrent que comprendre consiste à réduire un type de réalité à un autre ; que la réalité vraie n’est jamais la plus manifeste ; et que la nature du vrai transparait déjà dans le soin qu’il met à se dérober » (61頁)
訳;マルクス主義は、地層学や精神分析と同じ手法から生じているかに思える。精神分析については創始者が方向性を定めたやり方がこれに当たる。3の理論が主張する中身とは、一つの現実を別の一つの現実に矮小化させるだけ。真の現実réalité vraieが見えている訳でないのに、真実の「主体」が(創始者が)開発し「その手順をそらしたい」(治療法)の中に見え透いているのである。


旅の紙片61頁

訳注1:精神分析の創始はフロイト。主張は表層意識に対し無意識が深層に隠れ、無意識の記憶が精神疾患の原因であるとする。無意識側が真(réalité vraie)とする説を標榜し、治療に結びつけた。治療法の中に真実の主体(nature du vrai)が透かして見える、ここの意味は ; 顕著に見えていない(深層心理)を、その治療法の中で見えている主体(nature du vrai)に紐つける。Réalité vraieは術者が始めから見当つけているわけだから、それを深層心理に探すとは、結論ありきの治療手段である。レヴィストロースは真っ向批判しているのだが色々と修辞を交えて、明瞭には批判をぶつけていない理由は、両者ともそれなりの学説であるからと思われる(=部族民)。

« Dans tous les cas, le même problème se pose, qui est celui du rapport entre le sensible et le rationnel et le but cherché est le même : une sorte de super rationalisme, visant à intégrer le premier au second sans rien sacrifier de ses propres propriétés » いずれの例も同じ問題がはらむ、それは感性と理性の関係であって、目論見は同じである。すなわち一種の“超理性主義”であり、感性を理性に、その性状(propriétés)にいかなる変質をも認めず、合体させる(絡繰りである)。

この文が記す絡繰りを各理論に当てはめると ; 精神分析は患者の症状(感性で確認できる)を理性(深層心理があるとする)に置き換える。しかし実際は、浮き出る症状(精神疾患)もその原因たる深層心理も、同じ « propriétés » 性状である(前の訳注参照)。現実を別の現実に言い換えているだけである。同じことはマルクス主義にも言える。

« Je me montrais donc rebelle aux nouvelles tendances de la réflexion métaphysique, telles qu'elle commençait à se dessiner. La phénoménologie me heurtait, dans la mesure où elle postule une continuité entre le vécu et le réel. D’accord pour reconnaitre que celui-ci enveloppe et explique celui-là, j’avais appris de mes trois maitresses que le passage entre les deux ordres est discontinu » :
訳 : 私は形而上学解釈の新しい傾向に、それらの輪郭が見え始めるにつけ、反旗を翻していた。つぎに私は現象論に取り組んだ。なぜならそれが体験される世界(vécu)対実際世界(réel)との連続性を紐解くからである。体験世界は実際世界を抱え込み、表現することを再認識する、このことを私は認める。なぜなら3の女主人(maîtresses)を通して、2の秩序(世界)に渡し道があるならば、交流は(連続ではなく)分断されている筈と気付いていたから。

現象論をMerleau-Pontyの説く知覚の現象論とする。
森羅には体験できるvécuと、そこに(隠れる)実際réelがある。VécuはMerleau-Pontyが主張するところの場「milieu」 あるいは 「champ」であり、これは知覚perceptionにより感知される。実際réelがその情景の本質となるが、それはどのように覚知するのか。
レヴィストロースが言うには「vécu体験世界」と「réel実際」は連続してはならない。現象論は見える物vécuと実際réelは(分断せずに、属性の変化もなしに)交流するのであろうか。
そうであるならレヴィストロースの主張、分断があるべき、と正反対ではないか。レヴィストロースの説明を聞こう、
« pour atteindre le réel il faut d’abord répudier le vécu, quitte à le réintégrer par la suite dans une synthèse objective dépouillée de tout sentimentalité » (61頁)
訳; 真実réelに行き着くにはまず現実世界を退け、続いてあらゆる感覚(sentimentalité)をはぎ取った「synthèse objective客観的統合」の手法で現実を再構築する。なにやらかが分からないsynthèse objectiveを持ち出した。これを一応、客観的統合として受け入れる。
悲しき熱帯61頁 旅の紙片 (feuilles de route)  上の了 (7月23日)

追:本稿は2019年7月に部族民通信ホームサイト(WWW.tribesman.net)に投稿した改訂版となります。最近、ワードにDictation機能を取り込んだので(Office365)、元原稿(フランス語)を平打ちせずに文字起こしできるようになった。フランス語段落が多くなっています。
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