大川小学校では、近所の川をせき止めて遺体の捜索をされているらしい。小学校4年生の御嬢さんが行方不明だというお母さんのインタビューなども読んだが、子を持つ親として心中察して余りある。
こういう記事を読んで、あらためて胸に迫ってくる、被災地の悲しみとは何なんだろうか。テレビや新聞で、ネットやユーチューブで見かけるあの地震の実態とおぼしきものは、実はその実態の一部でしかないのではないだろうか。
大多数の日本人にとって、実はあの巨大災害がテレビの映像として終わっている。地震の後、ワシは気仙沼も山元町も亘理町もいわきも行って、被災状況をつぶさに見たつもりだが、それでも、本当のところは、悲しみを悲しみとして感じ取れない。遺族ではないからだ。
昨年、父も義母も亡くしたが、他人には単なる事実でしかない。東北の皆さんの悲しみも、遺族やそこに住む人間でない限り、想像でしかわからない。だからこそ、復興に協力するだけではなく、事実を大切にし、風化させてはならないと思うのだ。