李白と杜甫図鐔 金家
李白と杜甫図鐔 金家
この鐔も、ただ眺めているだけで幸せ。このブログでは、筆者が実際に手にとって鑑賞した作品のみを紹介している。印刷物でしか見たことのないものなど、いくらそれらしく説明しても無意味。印刷物はどこまでも印刷物。Webでの画像も同じ。だから何度も言っているのだが、ガラス越しの博物館もいいが、実際に手にとって鑑賞できる刀剣店に行くべきなのだ。そして、手にしてようやくその前にたどり着いたところだ。その後、指先で、掌で、もちろん視覚で、時には聴覚と嗅覚を駆使し(味覚はやめておいた方がいい)、さらに神経を集中させて脳の片隅で感じられる何かを得る。金家の作品は、刀に譬えたら宗近だとか吉光だとか、國俊だとか、正宗だとか、真改だとか、虎徹だとか、清麿だとかという大名刀に値する存在。だからすべての感覚を研ぎすまして鑑賞する、というわけではない。他のどのような作品も同様に、あらゆる感覚を掌上に集中させて鑑賞する。もちろん金家の場合には、なかなか手に取ってみる機会がないため、一層それが強まるだけ。
この鐔は、詩人であった李白と杜甫が一緒に旅をしている場面。
李白と杜甫図鐔 金家
この鐔も、ただ眺めているだけで幸せ。このブログでは、筆者が実際に手にとって鑑賞した作品のみを紹介している。印刷物でしか見たことのないものなど、いくらそれらしく説明しても無意味。印刷物はどこまでも印刷物。Webでの画像も同じ。だから何度も言っているのだが、ガラス越しの博物館もいいが、実際に手にとって鑑賞できる刀剣店に行くべきなのだ。そして、手にしてようやくその前にたどり着いたところだ。その後、指先で、掌で、もちろん視覚で、時には聴覚と嗅覚を駆使し(味覚はやめておいた方がいい)、さらに神経を集中させて脳の片隅で感じられる何かを得る。金家の作品は、刀に譬えたら宗近だとか吉光だとか、國俊だとか、正宗だとか、真改だとか、虎徹だとか、清麿だとかという大名刀に値する存在。だからすべての感覚を研ぎすまして鑑賞する、というわけではない。他のどのような作品も同様に、あらゆる感覚を掌上に集中させて鑑賞する。もちろん金家の場合には、なかなか手に取ってみる機会がないため、一層それが強まるだけ。
この鐔は、詩人であった李白と杜甫が一緒に旅をしている場面。