鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

目貫

2009-09-15 | 目貫
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 扇を翳して沖の平敦盛を呼び止める熊谷直実。己が死に場所を感じとり、対決の意思を明確にして太刀を抜く敦盛。両者の姿を鮮烈なまでに際立たせた、後藤宗乗の作と極められている貫禄充分な目貫。宗乗は宗家二代で長享元年の生まれ。初代祐乗と共に足利家に仕えて武家金工としての存立を明確にし、武士の美意識を示した格式高い作品を数多く製作した室町時代後期の芸術家である。
 この目貫は、漆黒の赤銅地を量感豊かに地造りし、打ち出し強く彫像をふっくらと仕立て、彫り込みを的確に実体的な高彫とし、際端を圧し返すことによりさらなる立体感を高め、殊に兜の丸みは見え難い裏側まで捉えて写実的に描写、また、馬の脚と胴も筋肉の動きを想像させる肉感的構成としている。
 赤銅地は四百数十年を経てなお美しい光沢を保ち、厚手に施された金の色絵は鮮やかに輝いて風格あり、銀は華やかに過ぎることなく渋く落ち着いた色合いで深味があり、高彫に加えられた繊細緻密な毛彫が人物に表情を与えている。

扇流し文図鐔 正阿弥金十郎

2009-09-15 | 
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 扇流しの場面を題に得、鍛えた鉄地に焼手(やきて)の手法で川の流れのような鍛え肌を浮かび上がらせて薄肉彫で波を、ここに投げられた扇を金銀の布目象嵌で描き表わした鐔。扇は肥後の又七にも見られる破扇(やぶれおうぎ)。鉄色黒く光沢あり、文様化された要素が上品な構成美を示している。金十郎(きんじゅうろう)は江戸中期の京正阿弥派を代表する名工の一人で、京にて発展した着物などの文様を金工に採り入れていた。
 
 南北朝時代、京都五山の第一位に位置付けられている天龍寺は、禅を背景とした宗教面のみならず幕府運営に重要な位置付けにあり、足利尊氏は度々ここを訪れていた。嵐山を背景とする保津峡、その下流の大堰川の清らかな流れと水瀬、ここに掛かる渡月橋などすべてが遊興の対象であり、尊氏が求めたそれは平安時代とは趣を異にし、いささか覇気の感じられるものであったろう。婆娑羅の言葉が残されているように、雅とは対極にある武骨な美が求められていた時代のことである。
 尊氏が天龍寺に参詣したときのことであった。一行が渡月橋を渡っていたところ、従っていた童の一人が風に煽られたものであろう、手にしていた扇を橋の上で手放してしまった。声を上げる間もなく扇は風に運ばれ、蝶のようにひらひらと宙を舞い、時には風に乗るように落ちて水面に浮かび、水瀬を揺れながら優雅に流れ下っていった。
 尊氏はもちろんのこと、従者たちはこの出来事をつぶさに見ており、感動の声を上げずにいられなかった。まさに自然が生み出した意図せぬ造形美を目の当たりにしたのである。しかし彼らはこの偶然を偶然として終わらせることはなかった。興趣を感じた尊氏の命により、従者は次々と大堰川めがけて橋下を流れる風に扇を投じたのである。
 その後この扇流しは京人の風雅な遊びとして広まり、尊氏の天龍寺参詣の折には必ず披露され、さらにこれが文様化されて着物などの柄に採られるようになったのである。

蕨手透図鐔 神吉深信

2009-09-15 | 
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 上質の鉄地は色黒々として光沢も強く重厚な趣が充満、耳には微妙に抑揚のある筋状の鍛え肌を表わし、鎚の痕跡を随所に残して表面をきめの細かな鑢で平滑に仕上げ、全面に石目地を施している。蕨手(わらびて)文を陽に活かして地を透かし、簡潔な陰影の美しさを際立たせている。独特の寄せ鏨、鎚目と同調するような神吉深信(かみよしぶかのぶ)の刻銘も鑑賞の要点。江戸時代後期の肥後鐔の洗練味が漂い、重層的な鉄の肌を視覚で、微妙な地相を掌中で楽しむことのできる作となっている。深信の在銘作品は極めて少ない。
 この鐔の魅力は、なんと言っても個性的で簡潔な透かしであろう。唐草状渦巻きの先端を、蕨の若芽が拳のように頭をもたげて出てくるところからこれに擬えて蕨手と呼んでいる。なんと雅趣深い表現であろうか。
 唐草のような渦巻きには生命の脈動が感じられる。世界各地に同様の文様が自然発生的に生まれ、用いられているが、肥後金工が手本とした蕨手や唐草もその一つ、西洋から伝来した文物に取材しているように思われる。

虫喰図鐔 古金工

2009-09-15 | 
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 肥後国平田彦三に似て、さらに時代の上がる古様式の鐔。深味のある山銅地(やまがねじ)を耳際がわずかに薄い木瓜形に造り込み、腐らかしで杢目状の鍛え目を表わすことにより枯れた板塀とし、これに鋤彫を加えて虫喰いの有り様を表現している。地面は地肌に抑揚があり、複雑で微妙なその様子が見どころ。虫喰い穴には金と銀の象嵌を施し、耳には可動式の覆輪(ふくりん)が廻らしてある。

 桃山期より古くまで時代の上がる古金工の呼称について、金工個人の名称はもちろん流派についての記録も少なく、多くは、幕府など権力者の御用を勤めていた後藤家と、それ以外の諸工という程度にしか分けることができない状態からの苦肉の表現である。緻密な研究と分類により、作者名までは分類できなくとも、特徴の現われた作風で分類することは可能である。多くの資料を持つ研究団体には、きめ細かな研究を願うところである。