昭和16年(1941)10月16日。
大和の4基のタービンエンジンが鈍い音を響かせております。
大和はゆっくりゆっくり瀬戸内の海へ出て行きます。
「これまでの艦は試運転のころには、まだまだ工事が残っていて、運転中にもかかわらず多くの工員達が仕事を続けていたものでした。ところが、大和は工事は殆ど終了させており、試運転ではありますが、完成に近い状態でありました」
(広幡増弥 艤装部部員 証言)
大和初代艦長「宮里秀徳」大佐は艦橋にいてこの予行運転を指揮しております。
「宮里大佐、予行運転は全て順調に進んでおります」
艦橋です。これまでの戦艦であれば、多少上下に揺れる感覚はどんな時にではあったのでした。ところが大和の艦橋は静か過ぎる程。あれだけ高い位置にありながら微動だにしておりません。
広幡は宮里の顔を見ました。予行運転も終わりに差し掛かったとき、宮里は突然広幡の手をしっかり握ってきたのでした。
10月20日。大和は瀬戸内を出ました。佐田岬を回って、豊後水道そ出て(この呉からのコースは大和が沖縄へ向うときと同じ航路です)四国土佐、宿毛湾沖で航行試験を行っております。
悪天候です。護衛の駆逐艦三隻は非難いたしました。
「艦長、どうしますか?」
塚本高夫は、艦橋におりました。
塚本さんは、この先、坊ノ岬沖海戦まで大和艦橋におるのでした。そして海戦からも生存。試験航行から大和の最後までおられた数少ない生存者です。
一等兵曹。艦長伝令としての職は最後まで変わりませんでした。
「何か問題でもあるのかね」
「護衛の駆逐艦が非難しておりますが・・・」
「風速20m。強風。この大和を試すには絶好の機会ではないか」
「強行ですか」
「もちろんだ」
大和一艦。試験航行を続行いたします。
「一番砲塔まで波に洗われておりました。丁度風上に向って航行しましたが、艦橋では時折、昇降機の中にいるような感覚でふわーっと上がり下がりをくりかえしておりました」(宮里秀徳大佐 証言)
「さすがに7万トンの巨艦である。一番砲塔がどんどん波に洗われている中を、いささかも速力を落とさず、ガブリも見せず、実にたのもしい感があった」
(広幡増弥 証言)
写真がございます。仙台在住の国文学者、東北大学文学部御出身「星 亮一」先生がお書きになりました「伊藤整一」の表紙の写真が真さにその時のものです。
(すみません。母校の講師でもおられましたことは卒業してから知ったのでした)
大和が白波を立てて航行している姿が写されております。
この航行試験でエンジンを全開させ、15万3千馬力の出力を計測し、速力も27.4ノットを記録いたしました。
その翌々日。10月22日からは、関係者約2000名を同乗させた公試運転をはじめます。豊後水道から高知宿毛湾沖で行われました。やはり全力運転を実施。出力15万3553馬力。速力27.46ノットを記録しております。
11月26日から各火器銃砲の公試を行っております。その最終日。昭和16年12月7日いよいよ主砲の射撃。主砲は機密事項のため、外洋では訓練しておりません。瀬戸内は周防灘で行いました。射程は二万メートルに設定。
9門一斉射撃です。その爆風たるや想像を絶するものでした。
遠くは徳山市内に雷鳴として聞こえました。
「晴天なのに雷様が・・・」
測候所には問い合わせがありました。
「真の巨艦の航行する姿を、今日始めてみた。サスがだ。大勢力を加へる事になつて、喜ばしき次第だ」(宇垣纏少将→当時 日記「戦藻緑」より)
「艦長、暗号電文です」
「またか・・・これで何通目だろうか」
大和は公試運転中です。しかし、GFから暗号電文が届いております。
「やはり・・・・開戦・・・だろう・・か」
大和の所属はまだ決定しておりません。が、二號艦がまだ完成しておらない現在、連合艦隊司令長官乗船は確実な艦なのです。旗艦です。
12月7日。その日の公試予定を終えました。その日は呉へは寄港せず、徳山へ停泊です。徳山の旅館です。祝賀会が開催されます。
「庭田工廠長。どうやら雲行きがあやしい感じですな」
宮里がふと漏らしました。
「宮里君もそう感じておったか・・」
そう言えば、いつもの酒豪達も何かを感じてか、酒量を控えている・・そんな祝賀会だったのでした。
翌朝大和は呉へ回航します。
大和を降りた、庭田は佐世保へ向うよう知らされます。
「伊号潜水艦が壱岐付近で遭難。現在救助活動中です。工廠長も現場へ向って下さい」
「途中、下関駅頭で号外を見て、開戦を知りました。佐世保に着いたときは灯火管制中で街は真暗でいたるところに衛兵が立ち、水交社は全く戦時気分に沸き立ち、真珠湾の空襲大成功の第一報が入って祝杯を挙げている最中だったので、這々の体で急ぎ帰呉しました」(庭田 証言)
しかして、大和公試最終日が開戦の日と重なったことは、なんとも歴史の複雑さを物語っているように思えてなりません。
真珠湾を攻撃したのは、機動艦隊。そして、その二日後、マレー沖開戦でイギリスの新鋭戦艦「レパルス」「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈したのは、航空隊。
くしくも、この戦争が航空機が主役となることを暗示しているようです。その日に「大和」が公試終了。
開戦した際、もう主役ではなくなっている。
「この緒戦の大勝は、この大戦艦出現の根本戦術を、皮肉にも一挙に覆す結果となった。生まれると同時に無用の長物となる運命となったことは何たる因果かと長歎しないではいられなかった」(庭田 戦後の証言)
「又しても飛行機の手柄となる。ビスマーク葬るに参加せる新鋭の本戦艦も案外に防御力薄弱にして、独の復讐 江戸のの敵を長崎にて内たる格好となれり。戦艦無用論、航空万能論之に依りて一層熾烈を加ふべし」(宇垣 纏 「戦藻緑」)
12月16日竣工した「戦艦大和」は連合艦隊に編入。昭和17年2月12日旗艦となったのでした。
昭和16年6月。酔漢祖父は海軍陸戦隊へ通信隊へ随行する通信士として広東へおります。開戦時は横須賀鎮守府へ戻っております。
開戦時は横須賀の通信隊へ所属していたと推察いたします。
GFの暗号電文のやり取りをしていたのではないのでしょうか。
次回で「大和を生みし者達」は最終話を迎えます。
「戦艦大和建造」酔漢の史観を交えながら検証しようと考えております。
大和の4基のタービンエンジンが鈍い音を響かせております。
大和はゆっくりゆっくり瀬戸内の海へ出て行きます。
「これまでの艦は試運転のころには、まだまだ工事が残っていて、運転中にもかかわらず多くの工員達が仕事を続けていたものでした。ところが、大和は工事は殆ど終了させており、試運転ではありますが、完成に近い状態でありました」
(広幡増弥 艤装部部員 証言)
大和初代艦長「宮里秀徳」大佐は艦橋にいてこの予行運転を指揮しております。
「宮里大佐、予行運転は全て順調に進んでおります」
艦橋です。これまでの戦艦であれば、多少上下に揺れる感覚はどんな時にではあったのでした。ところが大和の艦橋は静か過ぎる程。あれだけ高い位置にありながら微動だにしておりません。
広幡は宮里の顔を見ました。予行運転も終わりに差し掛かったとき、宮里は突然広幡の手をしっかり握ってきたのでした。
10月20日。大和は瀬戸内を出ました。佐田岬を回って、豊後水道そ出て(この呉からのコースは大和が沖縄へ向うときと同じ航路です)四国土佐、宿毛湾沖で航行試験を行っております。
悪天候です。護衛の駆逐艦三隻は非難いたしました。
「艦長、どうしますか?」
塚本高夫は、艦橋におりました。
塚本さんは、この先、坊ノ岬沖海戦まで大和艦橋におるのでした。そして海戦からも生存。試験航行から大和の最後までおられた数少ない生存者です。
一等兵曹。艦長伝令としての職は最後まで変わりませんでした。
「何か問題でもあるのかね」
「護衛の駆逐艦が非難しておりますが・・・」
「風速20m。強風。この大和を試すには絶好の機会ではないか」
「強行ですか」
「もちろんだ」
大和一艦。試験航行を続行いたします。
「一番砲塔まで波に洗われておりました。丁度風上に向って航行しましたが、艦橋では時折、昇降機の中にいるような感覚でふわーっと上がり下がりをくりかえしておりました」(宮里秀徳大佐 証言)
「さすがに7万トンの巨艦である。一番砲塔がどんどん波に洗われている中を、いささかも速力を落とさず、ガブリも見せず、実にたのもしい感があった」
(広幡増弥 証言)
写真がございます。仙台在住の国文学者、東北大学文学部御出身「星 亮一」先生がお書きになりました「伊藤整一」の表紙の写真が真さにその時のものです。
(すみません。母校の講師でもおられましたことは卒業してから知ったのでした)
大和が白波を立てて航行している姿が写されております。
この航行試験でエンジンを全開させ、15万3千馬力の出力を計測し、速力も27.4ノットを記録いたしました。
その翌々日。10月22日からは、関係者約2000名を同乗させた公試運転をはじめます。豊後水道から高知宿毛湾沖で行われました。やはり全力運転を実施。出力15万3553馬力。速力27.46ノットを記録しております。
11月26日から各火器銃砲の公試を行っております。その最終日。昭和16年12月7日いよいよ主砲の射撃。主砲は機密事項のため、外洋では訓練しておりません。瀬戸内は周防灘で行いました。射程は二万メートルに設定。
9門一斉射撃です。その爆風たるや想像を絶するものでした。
遠くは徳山市内に雷鳴として聞こえました。
「晴天なのに雷様が・・・」
測候所には問い合わせがありました。
「真の巨艦の航行する姿を、今日始めてみた。サスがだ。大勢力を加へる事になつて、喜ばしき次第だ」(宇垣纏少将→当時 日記「戦藻緑」より)
「艦長、暗号電文です」
「またか・・・これで何通目だろうか」
大和は公試運転中です。しかし、GFから暗号電文が届いております。
「やはり・・・・開戦・・・だろう・・か」
大和の所属はまだ決定しておりません。が、二號艦がまだ完成しておらない現在、連合艦隊司令長官乗船は確実な艦なのです。旗艦です。
12月7日。その日の公試予定を終えました。その日は呉へは寄港せず、徳山へ停泊です。徳山の旅館です。祝賀会が開催されます。
「庭田工廠長。どうやら雲行きがあやしい感じですな」
宮里がふと漏らしました。
「宮里君もそう感じておったか・・」
そう言えば、いつもの酒豪達も何かを感じてか、酒量を控えている・・そんな祝賀会だったのでした。
翌朝大和は呉へ回航します。
大和を降りた、庭田は佐世保へ向うよう知らされます。
「伊号潜水艦が壱岐付近で遭難。現在救助活動中です。工廠長も現場へ向って下さい」
「途中、下関駅頭で号外を見て、開戦を知りました。佐世保に着いたときは灯火管制中で街は真暗でいたるところに衛兵が立ち、水交社は全く戦時気分に沸き立ち、真珠湾の空襲大成功の第一報が入って祝杯を挙げている最中だったので、這々の体で急ぎ帰呉しました」(庭田 証言)
しかして、大和公試最終日が開戦の日と重なったことは、なんとも歴史の複雑さを物語っているように思えてなりません。
真珠湾を攻撃したのは、機動艦隊。そして、その二日後、マレー沖開戦でイギリスの新鋭戦艦「レパルス」「プリンス・オブ・ウェールズ」を撃沈したのは、航空隊。
くしくも、この戦争が航空機が主役となることを暗示しているようです。その日に「大和」が公試終了。
開戦した際、もう主役ではなくなっている。
「この緒戦の大勝は、この大戦艦出現の根本戦術を、皮肉にも一挙に覆す結果となった。生まれると同時に無用の長物となる運命となったことは何たる因果かと長歎しないではいられなかった」(庭田 戦後の証言)
「又しても飛行機の手柄となる。ビスマーク葬るに参加せる新鋭の本戦艦も案外に防御力薄弱にして、独の復讐 江戸のの敵を長崎にて内たる格好となれり。戦艦無用論、航空万能論之に依りて一層熾烈を加ふべし」(宇垣 纏 「戦藻緑」)
12月16日竣工した「戦艦大和」は連合艦隊に編入。昭和17年2月12日旗艦となったのでした。
昭和16年6月。酔漢祖父は海軍陸戦隊へ通信隊へ随行する通信士として広東へおります。開戦時は横須賀鎮守府へ戻っております。
開戦時は横須賀の通信隊へ所属していたと推察いたします。
GFの暗号電文のやり取りをしていたのではないのでしょうか。
次回で「大和を生みし者達」は最終話を迎えます。
「戦艦大和建造」酔漢の史観を交えながら検証しようと考えております。
国家的大プロジェクトの変更というのは、
いかなる先見性をもってしても難しいのでしょうね。時代の流れの運不運もあるのでしょう。最後は結果論。
新大臣がダム中止で騒いでいますが、深い思慮があってのことではなく、マスコミ受けをねらってるとしか思えないです。
国家の存亡をかけた大事業で、
超怒級戦艦の建造中止→空母、航空機の増産
の号令をかけることの出来る人、それは天皇だけしかいなかった?
生で観たいものですね。短い命ではありましたが、日本が誇れる大和には間違いありません。
終戦で残っていたとしても沈まされたのではないでしょうか?
やはり被弾を恐れ、あまりに大事にしすぎたのでしょうね。
輪形陣の中心は開戦劈頭時は戦艦であったような記憶もありますが、すぐに母艦となりました。
その一点だけでも、哀れさを感じます。
27ノット強という数字は、本来の戦略思想上は決して遅くはなかったのです。
制式空母の30ノットが機動部隊の速力基準と、自ら時代を変えてしまった帝国海軍。
結局、輪形陣にも加わることが出来ませんでしたね。
歴史の顛末を知っている僕等ですから、結果論はいかようにも語れるところです。ですが、そうではない、史実もやはり語れるところと自問の繰り返しでした。
はたして「信濃」は空母として存在しえたでしょうか。「特攻機 桜花」を数十機搭載するだけしかなかったのではないかと推察しております。これも、判断が後手だったでしょうか。
第二艦隊所属でした。おそらく祖父は「信濃」に乗艦したかも知れません。
ここでも歴史の複雑さを思わざるを得ませんでした。
トム様のお部屋へ遊びに行くことも最近の多忙で出来なくなっております。
お久しぶりでございました。
あの顛末があったから人々の心の中に「何かを残した艦」だったのでしょうか。
その辺りも掘り下げてみようと考えております。
しかし、高速空母の足にはやはり着いていく事は出来ませんでした。
大和がディーゼルで、全長が長くなり、横幅が狭かったと想定します。29ノットは出たのではないかと、後世の私は勝手に想像いたします。ポケット戦艦の発想は海軍には無かったのでした。あっても使えなかったとも考えます。
「速力を多少犠牲にしてもタフな艦にしようと設計した」福田啓二は戦後語っておりました。
そのあたりも次回検証したいと考えております
前回の投稿で、ああいうことを書きました。
でもやはり、世界に向って大和を誇りたいという思いもあるのです。
「戦前の技術が戦後日本の復興を支えた」とは、確かに言い切れません。
でも色々な意味で、大和級の戦艦は当時の日本の技術の結晶だったのではないでしょうか。
)もっともこれは大和に限らず全ての工業製品に言えることでもありますが)。
最大射程40キロの46センチ主砲然り、
目標を狙う測距儀(16メートルでしたっけ?)また然りです。
あれは長ければ長いほど解像度が高くなるのだそうですね。
光学照準器としては世界最大のものだったのではないでしょうか。
実際、公試の際に砲術長だか方位盤射手だかが「これは狙いやすい」と言っています。
またこのクラスの艦(フネ)は、従来の軍艦に較べれば居住性も抜群でした。
「苦労を与えて鍛える」意味で少尉候補生は吊床でしたが、残りは一水兵に至るまで寝台です。
確か居住区には冷房装置もついておったのではないでしょうか。
乗員を最高の状態で働かせるには、今日銃声にも配慮しなくてはなりません。
日本の軍艦が居住性を犠牲にしての徹底的な不沈化対策に走ったのは、昭和十九年になってからだったかと思います(阿川弘之『軍艦長門の生涯』)。
後世の我々は、当時の人々とは比較にならないほど豊かな情報を持っています。
ですからつい「○○は××だった」と言ってしまいます(つい最近まで小生もそうでした)。
曰く「シブヤン海で武蔵が主砲を斉射したら、方位盤が故障して砲側照準に切替えざるをえなかった」。
曰く「大和の完成はハワイ海戦とマレー沖海戦の後。航空優位を証明した日本海軍が、実践の役に立たぬ戦艦を作った」
などなど・・・
しかし「想定外のこと」がしばしば起きるのが世の中というもの。
戦争や兵器もまた然りです。
斉射一回で方位盤がダメになった話ですが、
長門の初代砲術長が砲術士だった黛治夫に言ったことがあります。
「一号艦というものは、却って不具合が色々出た方がよい。その不具合を克服することが二号艦以下の建造の役に立つ」(趣旨)(阿川弘之『軍艦長門の生涯』)。
ところが大和の就役は開戦後です。姉妹艦も三番艦は母艦転用(信濃)で、四番艦は建造中止。
その意味ではやはり運がなかったと言う他ありません。
大和の建造計画は、真珠湾攻撃の計画よりも早かったはずです。
山本さんは平賀さん(だったでしょうか)に、
「悪いけど、あんたらそのうち失業するよ」という意味のことを言いました。
また井上さん(当時は海軍次官)は蒼龍の艦長になる柳本さん(同じく軍令部員だったと思います)の軍備計画を「月並」と批判した上で、
「海軍の空軍化」ということを口にしています。
山本さんや井上さんは確かに先見の明というものを持っていました。
ただ後世の我々が訳知り顔で、当時の海軍の主流を「時代遅れ」と批判することが果しでできるのでしょうか。
日本に限らず、軍隊には案外と保守的な傾向があります。
圧倒的な火力を前にして、密集隊形による歩兵の突撃は損害のみ多くて効果が少ない。
このことは日露戦争における旅順要塞の攻防で証明されました(もっともこれは乃木大将が戦下手だったからではなくて、あれだけの犠牲を払って初めて旅順の攻略は可能だったのだという説もありますが)。
日本軍にもロシヤ軍にも観戦武官がついており、このことは当然、戦訓として欧米諸国に伝わった筈です。
しかし第一次世界大戦のドイツ軍は、ランゲマルクで歩兵による密集突撃をやり、敵の機銃掃射でとんでもない損害を蒙っているのです(確か一箇連隊全滅だったかと)。
また米国は真珠湾で沈没した戦艦を引き揚げて修理しました(しなかったのはアリゾナともう一隻)。
やはりこれは真珠湾攻撃に結果、太平洋における日米の戦艦保有が極端な不均衡に陥ったからに他なりません。
その際に引き揚げた戦艦を徹底的に実戦向きに改造したのがアメリカの凄い所ですね(副砲を廃止して対空火器を充実させるなど)。
またアメリカは太平洋戦争中に母艦を何席も就役させていますが、戦艦を全く建造しなかった訳ではありません。
ミズーリは戦争中に就役しましたし、ニュージャージーや英国のヴァンガードの就役はは戦後です。
航空機による攻撃が有効なことをあれだけ劇的な形で示してしまったことが、
結果としては日本が想定していた艦隊決戦が生起しなかったことの原因になっているのではないでしょうか。
これも想定外といえば想定外のことだったと思います。
(作戦を立案する以上、成功することを想定していたには違いありません。しかしあそこまで一方的な展開の完全試合になると予想できたでしょうか)。
その結果、出番がなくなった戦艦は泊地に錨を下している状態になり(機動部隊に随伴できたのは金剛級の四隻だけでしたね)、
居住性に優れた大和と武蔵が「ホテル」の「御殿」のと揶揄されるようになってしまったのです。
レイテ海戦に二艦隊が出撃する際、大和は確かに輪形陣の中心にはいませんでした。
これには次のような理由があります。
栗田さんはじめ二艦隊司令部は、旗艦を大和にしたいとGFに意見具申しました。
「重巡洋艦よりも戦艦の方が通信設備が優れているから」というのがその理由です。
GFの回答は、旗艦変更まかりならぬというものでした。
理由は「二艦隊は前進部隊であり、前進部隊の機関は重巡でなくてはならぬ」というものです。
パラワン水道を通過する際に旗艦の愛宕は潜水艦の魚雷を受けて沈没します。
その後は大和が中心になりました(一戦隊の旗艦にして二艦隊の旗艦にもなりましたから)。
所で一つ疑問があるのです。
日本海軍が近代化改装で戦艦の速力を増した時、艦尾を何メートルだか延長していますね。
大和級の幅は「パナマ運河を通航できない」という発送が元でした(アメリカ対策ですね)。
全長を実際よりも長くすれば、あと3ノットぐらいは出せる艦になったのではないでしょうか。
読者の皆さんへ
このコメントは次の話が出る前に登校するはずでした。
この答は、次の話の中で酔漢さんが書いています。
失礼しました
大和型は主砲発射の際「5秒間隔で4回ブザーが鳴ります」その間に機銃の照準装置、ならびに高角砲照準装置のプリズムの狂いを防ぐために、射撃指揮者は照準プリズムを取り外して待避所へ入ります。レイテの際、「対空戦闘用意」の後、二番主砲がブザーも無いまま、三式弾を発射しました。その間、機銃射撃指揮装置のプリズムが全てやられてしまいます。主砲側にいた機銃を打っていた者の鼓膜が破れたとも聞きました。それを二回もやってしまった武蔵です。何故とは思いますが、訓練と熟練度が大和とは違っていたのかな?とも推察します。
もしかしたら、砲側照準装置も故障していたのでしょうか。そしたら、本当に戦闘力は激減だったのでしょうね。
丹治様、酔漢もそのところは詳しくはないのです。訂正等ございますれば、お願い申し上げます。
シブヤン海戦の第一次空襲で、武蔵には魚雷が一本命中していますね。
それが故障の原因です。
太田出版の『戦艦武蔵』(下)と光人社NF文庫の『レイテ沖海戦』(上)(下)に記述がありました。
この被雷では被雷箇所に近い鋲が何本か緩んだのと、外板がめくれてしぶきが大きくなった程度で、戦闘航海を続行するのに何らの支障もなかったそうです。
さすがは大和の姉妹艦。頑丈にできていますね。
ところが電気系統の故障によって一部の機銃群が人力操作になり、主砲の方位盤が故障で旋回不能になりました。
艦体そのものよりも、こちらの被害の方が重大だったと思います。
二番主砲塔の無警告射撃ですが、やはり方位盤による統一射撃が不可能になり、ここの砲塔が砲側照準による独立射撃を行なったからではないでしょうか。
方位盤射撃ならば、二番砲塔のみの無警告射撃というのは考えにくいと思います。
戦闘記録によれば、この海戦における武蔵の主砲発射弾数は九発だったそうです。
二番砲塔が二回打ったとすれば、残りの一回は何番砲塔だったでしょうか。興味があります。
二番砲塔の無警告射撃で機銃のプリズムが壊れたというのは、河出書房の『戦艦武蔵』にも書いてあります。
著者の佐藤太郎さんは、確か機銃分隊所属の下士官だったと思います。
プリズムが壊れた後、機銃は確か第二射法で射撃したはずです。
これは照準器によらず、自ら打った弾丸の曳痕を狙って打つもので、レイテ海戦時の高射長・広瀬少佐の前任者だった古賀大尉(神通砲術長として戦死)が考案ました。
非常に実際的だったそうですが、砲術学校から文句が出て、正式には採用されなかったそうです。
武蔵の越野砲術長は、漂流者の救助に当った後、武蔵の沈んだ方角に向ってどこまでも泳いで行ったそうですね。
自決に近い最後です。
方位盤の故障で主砲の統一射撃が不可能になったこと、
二番砲塔の無警告射撃で機銃のプリズムが壊れてしまったこと、
その結果として対空射撃が極めて不本意な形になったこと、
多くの部下を死なせてしまったこと・・・
これらの責任を取っってのことだったのでしょうか。
方位盤は確かに故障しましたが、魚雷命中の衝撃によるものでした。
主砲の斉射によるおのではありません。
考えてみれば・・・
主砲発射の衝撃で方位盤が故障するなら、
公試の段階で発生しているはずです。
やはり物を言う時は、きちんと調べなくてはなりません。
何とも御粗末な話です。
酔漢さん、なにとぞ御容赦下さい。