北緯30度43分。東経128度4分25秒。
「大和沈没地点」
1985年7月31日。潜水艇「パイセスⅡ」が水深344mの地点で大和の艦首部分を発見いたしました。
その模様はTV画面で放映され、酔漢自身もその映像を見たときは、「案外艦はしっかり残っているのではないか」と一瞬思いました。
が、しかし、全容を映し出された映像を見たとき、艦が特に主砲がぽっかり吹っ飛び。艦橋部分は跡形もなく壊滅状態。もっと驚かされたことは、「艦が全体にねじれて海底にいる」という事実でした。
思えば「きのこ雲」というものは自身の記憶では広島、長崎の原爆でのきのこ雲と小学校低学年の頃に読んだ「能村次郎」氏著(当時、大和副長)「慟哭の海」での大和最期のきのこ雲なのです。
あの大爆発であれば艦形を留めているとは考えられません。
この映像をみた三號艦設計に携わった「福井静夫」は、設計者の視点で映像を追いかけました。
福井の視点は「何故、こういう破壊現象がおきたのか。何が足りなかったのか。想定外とは言え、あんな壊れ方は絶対にしないはずだ」と言うものでした。
ですが、これは事実なのです。
この「大和の海底映像」を見る度思うのですが、シブヤン海で沈んだ武蔵はどうであろうか。武蔵は艦首から徐々に沈んでおります。沈没してからも航行していたのかとも考えられております。実際の沈没地点は現在でも特定することが出来ておりません。
「筆者が、非才の老体にむち打って日米戦艦比較論を行おうとする反面には、造船屋の身びいきといわれても、戦艦優位論を結論づけたい下心からでもある。少なくとも通常の海空決戦では、設計上に重大な欠陥がないかぎり、近代大型軍艦は熾烈な集団空襲あっても喪失することはない。それを証明したいのである」
「世界の艦船 昭和62年9月号から翌年9月号まで連載された牧野茂著『日米戦艦比較論』」の冒頭でございます。
酔漢は「でもやはり大和は不沈艦ではなかった。何故あんな大爆発を起したのか」
甚だ疑問に思うのでございます。
しかしながら、設計者らしく、しかも自画自賛することもなく客観的にその損害の事実を整理しようとされておいででございました。
この話を語ります際、最初に「友鶴事件」や「平賀譲」と「藤本喜久雄」との確執。その経緯が大和建造に大きく影響した史実を語りました。
「この爆弾動議(金剛代替案会議中に平賀が緊急動議をし、会議を紛糾させた)の提出は技術会議を混乱に陥れ、結論を後日に持ち越す結果となった。この技術会議から設計室に帰ってこられた藤本計画主任からは平素の笑顔が消え、悔しさに満ちた表情で先輩の処置を非難された姿が今のなお、目に浮かんできます」(牧野茂艦船ノート)
「おい、牧野、平賀元主任の艦、どう思うんだ」
「どっちもどっちだな。砲塔の配置と主砲の数が一門づつ違っているくらいだろ。平賀さんは藤本主任の設計が『重量が兵装に比較して一割ほど重量が軽減されている』と言っていたけど、平賀さんの図面もかなり無理があるよなぁ」
「お前ならどうするよ?」
「俺?俺なら軽くする。長くする。速くなる。だから、機関も変える。ディーゼルにしたい・・でやはり復原性が大事でしょ」
平賀はその後、容赦なく藤本設計艦を改善(←この言葉は適切ではない史実でございますが)させるべく、容赦ない処置を施していきます。
「あのぅぅぅ・・・平賀主任・・・お伺いしてもよろしいでしょうか」
「牧野君、何だね?」平賀の眼光が鋭く光ります。
「友鶴の改善方針は・・過分ではなかろうかと・・・考えます」
本当におそるおそる平賀に聞いた牧野です。
「何を言っておる。乗員の士気というものが艦では大事なんだ。この艦の対策は標準より相当上回った性能を与える必要があったのだ」
牧野は平賀の政治力のこだわりを見た気がしたのでした。
「わが海軍でも技術各般の進歩改善を見たが、途中で発生した友鶴および第四艦隊事件によって強いブレーキが掛かって進歩を阻害させてしまった。この事は造船官が功を焦って、新規考案に対し、充分な検討を経ずに実艦に適用したことなどに原因があって、その一員として懺愧に堪えないところである。わが国は造船設計に関していささか自負慢心が強く、諸外国の技術情報、蒐集に真剣味を欠いていたと感じることが切実である」(牧野茂著 日米艦船比較論より)
「平賀主任は凄いと思うけれども、神様になっちゃ終わりだよね」
「お前そこまで言う?」
「尊敬はしているところもある・・でもね」
牧野は戦後、好きなフランス料理を食しながらこう話しているのでした。
「大和に46cm/45口径搭載の決定をしたアウトレンジ戦法について言えば、大遠距離から相手の火薬庫に命中させて轟沈させようとする戦法であります。しかし、これは大変虫のよい発想です。その結果、過大な兵装各所に弱点を有する根源となっておりました。日米両国戦艦共に、どうしても避けられない弱点と設計家の見逃した弱点が各所の存在する。多くの箇所で弱点を衝かれた方が敗者となる。だから大和型でも米戦艦でも弱点の存在がただちに敗因に繫がるのではなく、指揮官以下の乗員の士気、決戦意欲の高低に、決戦の際の行動力、砲術、ダメ・コンといった弱点を補う兵術要素のほかに、さらに運不運が戦艦の運命を左右するものと筆者は信ずることでございます」(牧野茂 日米戦艦比較論より)
例えば、昭和16年に「一號艦のコンセプト」が確立しておったなら、空襲に対する防御も可能であったとするとは思うのです。ですが、これは歴史を知った酔漢が感じる我がままでもあります。昭和9年はどこの国も「大艦巨砲主義」だったわけですから。
ですが、その「我がまま」を許していただけるなら、「くだまき」はこうなります。平賀、福田主体の設計思想ではなく。藤本、牧野主体の設計思想であれば、「A-140」は、全長が長くなり、スマートな艦になっておったでしょう。側板の210mm装甲板とバルジが弱くなりますが、その分速力が増します。機関もディーゼル搭載となったに違いありません。もしかしたら、9門の砲塔は全て前部に集中していた事も考えられます。46サンチ主砲9門搭載で速力は30ノットです。
これは、絵空事ではございますが、酔漢はこう考えました。
「我が海軍は八・八艦隊時代の戦艦の世界的評価に自負し、ユトランド海戦の戦訓に対する研究対策が精一杯で、攻防ともに火薬庫爆発轟沈の夢が忘れられがたく、安易に主砲と艦型の巨大化に走ったかに思われる。顧みると、平賀設計に依存して知らず知らずに安住し過ぎた感がある、平賀計画主任の後を継いだ、極めて進歩的な藤本計画主任の失脚を回想するに、その原因として筆者(牧野茂自身)らが設計補佐の任を果たさなかった責任を痛感し、感慨深い思いをこめて、この恩師(藤本喜久雄)に敬意を捧げたい」(日米戦艦比較論より)
艦政第四部。予算部。主任「西島亮二」です。
大和の建造を終えた西島は今度は艦政四部の金庫番となっております。
「ふざけるなぁぁぁぁぁ!何だこの金額は!絶対にどこかおかしい。早急にやり直させろ!」
西島の声が部屋中に響きました。
三菱長崎造船の社員は、請求金額の書いてある書類を泣く泣く長崎まで持って帰ったのでした。
「どうして二號艦はそんなに工数がかかるんだ」
「主任、あそこは呉より艦船を作っている経験が少ないですから。それにドックではありませんし」
「そんな事はわかっている。だがな同じ設計図。しかも二號艦なんだぞ。普通一號艦の経験があるから、二號艦は一號艦より作りやすいはずなんだ。そして何より工数の数値がまったく記載されてなくてだよ。いきない『金が足りなくなった』だと。俺を納得させるだけの数値をだしてこい!って言いたいくらいだ」
「主任は一號艦の資料は全て長崎三菱造船に渡しましたよね。そう聞きました」
「ああ、渡した!ズベテダ!何故をれを有効活用せんのだ」
「海軍では戦艦大和は安価に短期間に建造するための持てるあらゆる技術を集中し、施設も完備していた呉海軍工廠で第一號艦だった戦艦大和を建造し、第二戦艦の武蔵は第一艦の経験、建造方策、試験方案、各種の海軍での試作器具の貸与、海軍との協同設計等により安価に建造できるようにして三菱長崎造船所で建造する運びとなった」(西島証言)
「(一號艦の場合)当初、従来の実績の基づいて工数の予定を立てた際には、過去実績の90%で工事を遂行すると過程して、船殻工事を1474000工数と予定した。実際には999000工数にまで低下している。予定数の86%で完成したことになる。この工数は二號艦でも比較されることとなる」(戦艦武蔵造船記録より)
「主任、実際はいくらの請求だったのですか」
「いいか聞いて驚くなよ6253万円だ!」
「大和との差は?」
「38%の開きがある」
「では艦政部は三菱にいくらまでなら出せると・・」
「そうだな5265万円だな」
「第二号艦が長崎造船所で建造されることになって発注の際の建造費が問題となった。(中略)一號艦と比較し船殻関係は特に開きが大きくほぼ完成した状況では、武蔵は大和と実績の約2倍にも達していた」(造船官の記録より)
戦艦武蔵建造記録。この編纂には「牧野茂」も関わっております。が、この本を持ってしても「武蔵、最終建造費」の項目は抜けておるという事を聞きました。
「三菱側では追加変更工事の度に増額請求をしたようであるが、その経緯を示す個々の記録見当たらないので、増額の内容は明らかではない。建造費に関する記録も皆無であり、したがって大和型戦艦建造費の全貌を示すものではない」
と結んでおります。
三菱としては、一號艦船殻主任を相手にするわけですから、もう引くしかなかったのでした。同じ設計図からこれだけ差がでるものだったとは、知りませんでした。
西島の凄さを物語る史実でございます。
しかし、終戦近くになって西島は自身の実績からはかけ離れた仕事に着きます。
「海軍艦政本部は当時、充分な工事がなく造船能力に余裕が出来た時は飛行機製造にあてるのが一番よいと考えて、呉海軍工廠に飛行機製造の経験をさせておくとの方針になった」(西島手記)
この飛行機とは所謂「彗星」や「紫電改」です。が、それもすぐに生産できなくなります。ある日、西島の元に電話が。
「艦政本部へ出頭?今頃どうして」西島が疑念を抱きながら艦政部の入ります。
「軍令部より海軍事務局から陸軍の『キ115』と『桜花』合わせて1千機を、昭和20年9月末まで海軍艦政部等の工場で制作するよう言われた。西島。できるだろ」
「これは、依頼ではないですね。命令ですか?」
「そうだ!」
「無理です。試作機ができればいい位です」
西島はきっぱり言い切った。
「違うのだよ、君が想像しているような飛行機ではない。所謂・・そのう・・簡略化された。特攻機だ」
西島は嘗て「回天」設計に携わった経緯があった。自身の意思とは無関係なところで仕事を回される。
「今の艦政部は完全に間違っている」
こう思った途端。平賀や藤本達がいて、論議を尽していた頃が非常に懐かしくもあった。
「まぁ、俺はあんまり関係なかったけどな・・」
「造船技術者としては不得手な飛行機製造時代であった。私の三回目の艦政部勤務はせぬ方がよかった」(西島手記)
呉での後輩、堀に西島はにやにやしながらあるものを見せます。
「西島さん何なんです?これ?」
「これか、B-29の部品なんだ。どっかのバルブだがね」
西島が撃墜されたB-29の残骸から見つけたものだったのでした。
それは、ほんの小さな部品であったが「ダイキャスト」で作られていた。
「日本では、このダイキャストでさえ満足に生産できやしない。アメリカは全てのB-29 にこれを使っている。
「こん部品までダイキャストでつくられてるんじゃなぁ・・かなわんなぁ」
堀は珍しく感情を表情に表して、方言で話す西島を初めて見たのでした。
呉海軍工廠。
「設計の牧野」「現場の西島」この二人のタッグが無ければ、こと建造に関する「大和」はあれだけの日程で。あれだけの予算で。あれほどの完成度は無かったかと信じます。
建造の過程を語ってまいりました。もっと整理したい事実もございましたが、これで最終話といたします。
ありがとうございました。次節からは大和戦闘の記録を若干語ります。
追伸
丹治さんと酔漢。共に高校生。
昭和56年11月。塩竈港。
「砕氷艦宗谷」が停泊しておりました。
「酔漢。宗谷はやはり質感がちがうなや」
「んだ。だれ、こいずで南極さまで行ったっちゃ。途中相当、難局さぁあったってきいたべさ!」
「おめぇの冗談、おもせぐねぇど」
「牧野茂設計だっちゃ」
「んだ!」
「大和と兄弟艦なんだっちゃなや」
「大和沈没地点」
1985年7月31日。潜水艇「パイセスⅡ」が水深344mの地点で大和の艦首部分を発見いたしました。
その模様はTV画面で放映され、酔漢自身もその映像を見たときは、「案外艦はしっかり残っているのではないか」と一瞬思いました。
が、しかし、全容を映し出された映像を見たとき、艦が特に主砲がぽっかり吹っ飛び。艦橋部分は跡形もなく壊滅状態。もっと驚かされたことは、「艦が全体にねじれて海底にいる」という事実でした。
思えば「きのこ雲」というものは自身の記憶では広島、長崎の原爆でのきのこ雲と小学校低学年の頃に読んだ「能村次郎」氏著(当時、大和副長)「慟哭の海」での大和最期のきのこ雲なのです。
あの大爆発であれば艦形を留めているとは考えられません。
この映像をみた三號艦設計に携わった「福井静夫」は、設計者の視点で映像を追いかけました。
福井の視点は「何故、こういう破壊現象がおきたのか。何が足りなかったのか。想定外とは言え、あんな壊れ方は絶対にしないはずだ」と言うものでした。
ですが、これは事実なのです。
この「大和の海底映像」を見る度思うのですが、シブヤン海で沈んだ武蔵はどうであろうか。武蔵は艦首から徐々に沈んでおります。沈没してからも航行していたのかとも考えられております。実際の沈没地点は現在でも特定することが出来ておりません。
「筆者が、非才の老体にむち打って日米戦艦比較論を行おうとする反面には、造船屋の身びいきといわれても、戦艦優位論を結論づけたい下心からでもある。少なくとも通常の海空決戦では、設計上に重大な欠陥がないかぎり、近代大型軍艦は熾烈な集団空襲あっても喪失することはない。それを証明したいのである」
「世界の艦船 昭和62年9月号から翌年9月号まで連載された牧野茂著『日米戦艦比較論』」の冒頭でございます。
酔漢は「でもやはり大和は不沈艦ではなかった。何故あんな大爆発を起したのか」
甚だ疑問に思うのでございます。
しかしながら、設計者らしく、しかも自画自賛することもなく客観的にその損害の事実を整理しようとされておいででございました。
この話を語ります際、最初に「友鶴事件」や「平賀譲」と「藤本喜久雄」との確執。その経緯が大和建造に大きく影響した史実を語りました。
「この爆弾動議(金剛代替案会議中に平賀が緊急動議をし、会議を紛糾させた)の提出は技術会議を混乱に陥れ、結論を後日に持ち越す結果となった。この技術会議から設計室に帰ってこられた藤本計画主任からは平素の笑顔が消え、悔しさに満ちた表情で先輩の処置を非難された姿が今のなお、目に浮かんできます」(牧野茂艦船ノート)
「おい、牧野、平賀元主任の艦、どう思うんだ」
「どっちもどっちだな。砲塔の配置と主砲の数が一門づつ違っているくらいだろ。平賀さんは藤本主任の設計が『重量が兵装に比較して一割ほど重量が軽減されている』と言っていたけど、平賀さんの図面もかなり無理があるよなぁ」
「お前ならどうするよ?」
「俺?俺なら軽くする。長くする。速くなる。だから、機関も変える。ディーゼルにしたい・・でやはり復原性が大事でしょ」
平賀はその後、容赦なく藤本設計艦を改善(←この言葉は適切ではない史実でございますが)させるべく、容赦ない処置を施していきます。
「あのぅぅぅ・・・平賀主任・・・お伺いしてもよろしいでしょうか」
「牧野君、何だね?」平賀の眼光が鋭く光ります。
「友鶴の改善方針は・・過分ではなかろうかと・・・考えます」
本当におそるおそる平賀に聞いた牧野です。
「何を言っておる。乗員の士気というものが艦では大事なんだ。この艦の対策は標準より相当上回った性能を与える必要があったのだ」
牧野は平賀の政治力のこだわりを見た気がしたのでした。
「わが海軍でも技術各般の進歩改善を見たが、途中で発生した友鶴および第四艦隊事件によって強いブレーキが掛かって進歩を阻害させてしまった。この事は造船官が功を焦って、新規考案に対し、充分な検討を経ずに実艦に適用したことなどに原因があって、その一員として懺愧に堪えないところである。わが国は造船設計に関していささか自負慢心が強く、諸外国の技術情報、蒐集に真剣味を欠いていたと感じることが切実である」(牧野茂著 日米艦船比較論より)
「平賀主任は凄いと思うけれども、神様になっちゃ終わりだよね」
「お前そこまで言う?」
「尊敬はしているところもある・・でもね」
牧野は戦後、好きなフランス料理を食しながらこう話しているのでした。
「大和に46cm/45口径搭載の決定をしたアウトレンジ戦法について言えば、大遠距離から相手の火薬庫に命中させて轟沈させようとする戦法であります。しかし、これは大変虫のよい発想です。その結果、過大な兵装各所に弱点を有する根源となっておりました。日米両国戦艦共に、どうしても避けられない弱点と設計家の見逃した弱点が各所の存在する。多くの箇所で弱点を衝かれた方が敗者となる。だから大和型でも米戦艦でも弱点の存在がただちに敗因に繫がるのではなく、指揮官以下の乗員の士気、決戦意欲の高低に、決戦の際の行動力、砲術、ダメ・コンといった弱点を補う兵術要素のほかに、さらに運不運が戦艦の運命を左右するものと筆者は信ずることでございます」(牧野茂 日米戦艦比較論より)
例えば、昭和16年に「一號艦のコンセプト」が確立しておったなら、空襲に対する防御も可能であったとするとは思うのです。ですが、これは歴史を知った酔漢が感じる我がままでもあります。昭和9年はどこの国も「大艦巨砲主義」だったわけですから。
ですが、その「我がまま」を許していただけるなら、「くだまき」はこうなります。平賀、福田主体の設計思想ではなく。藤本、牧野主体の設計思想であれば、「A-140」は、全長が長くなり、スマートな艦になっておったでしょう。側板の210mm装甲板とバルジが弱くなりますが、その分速力が増します。機関もディーゼル搭載となったに違いありません。もしかしたら、9門の砲塔は全て前部に集中していた事も考えられます。46サンチ主砲9門搭載で速力は30ノットです。
これは、絵空事ではございますが、酔漢はこう考えました。
「我が海軍は八・八艦隊時代の戦艦の世界的評価に自負し、ユトランド海戦の戦訓に対する研究対策が精一杯で、攻防ともに火薬庫爆発轟沈の夢が忘れられがたく、安易に主砲と艦型の巨大化に走ったかに思われる。顧みると、平賀設計に依存して知らず知らずに安住し過ぎた感がある、平賀計画主任の後を継いだ、極めて進歩的な藤本計画主任の失脚を回想するに、その原因として筆者(牧野茂自身)らが設計補佐の任を果たさなかった責任を痛感し、感慨深い思いをこめて、この恩師(藤本喜久雄)に敬意を捧げたい」(日米戦艦比較論より)
艦政第四部。予算部。主任「西島亮二」です。
大和の建造を終えた西島は今度は艦政四部の金庫番となっております。
「ふざけるなぁぁぁぁぁ!何だこの金額は!絶対にどこかおかしい。早急にやり直させろ!」
西島の声が部屋中に響きました。
三菱長崎造船の社員は、請求金額の書いてある書類を泣く泣く長崎まで持って帰ったのでした。
「どうして二號艦はそんなに工数がかかるんだ」
「主任、あそこは呉より艦船を作っている経験が少ないですから。それにドックではありませんし」
「そんな事はわかっている。だがな同じ設計図。しかも二號艦なんだぞ。普通一號艦の経験があるから、二號艦は一號艦より作りやすいはずなんだ。そして何より工数の数値がまったく記載されてなくてだよ。いきない『金が足りなくなった』だと。俺を納得させるだけの数値をだしてこい!って言いたいくらいだ」
「主任は一號艦の資料は全て長崎三菱造船に渡しましたよね。そう聞きました」
「ああ、渡した!ズベテダ!何故をれを有効活用せんのだ」
「海軍では戦艦大和は安価に短期間に建造するための持てるあらゆる技術を集中し、施設も完備していた呉海軍工廠で第一號艦だった戦艦大和を建造し、第二戦艦の武蔵は第一艦の経験、建造方策、試験方案、各種の海軍での試作器具の貸与、海軍との協同設計等により安価に建造できるようにして三菱長崎造船所で建造する運びとなった」(西島証言)
「(一號艦の場合)当初、従来の実績の基づいて工数の予定を立てた際には、過去実績の90%で工事を遂行すると過程して、船殻工事を1474000工数と予定した。実際には999000工数にまで低下している。予定数の86%で完成したことになる。この工数は二號艦でも比較されることとなる」(戦艦武蔵造船記録より)
「主任、実際はいくらの請求だったのですか」
「いいか聞いて驚くなよ6253万円だ!」
「大和との差は?」
「38%の開きがある」
「では艦政部は三菱にいくらまでなら出せると・・」
「そうだな5265万円だな」
「第二号艦が長崎造船所で建造されることになって発注の際の建造費が問題となった。(中略)一號艦と比較し船殻関係は特に開きが大きくほぼ完成した状況では、武蔵は大和と実績の約2倍にも達していた」(造船官の記録より)
戦艦武蔵建造記録。この編纂には「牧野茂」も関わっております。が、この本を持ってしても「武蔵、最終建造費」の項目は抜けておるという事を聞きました。
「三菱側では追加変更工事の度に増額請求をしたようであるが、その経緯を示す個々の記録見当たらないので、増額の内容は明らかではない。建造費に関する記録も皆無であり、したがって大和型戦艦建造費の全貌を示すものではない」
と結んでおります。
三菱としては、一號艦船殻主任を相手にするわけですから、もう引くしかなかったのでした。同じ設計図からこれだけ差がでるものだったとは、知りませんでした。
西島の凄さを物語る史実でございます。
しかし、終戦近くになって西島は自身の実績からはかけ離れた仕事に着きます。
「海軍艦政本部は当時、充分な工事がなく造船能力に余裕が出来た時は飛行機製造にあてるのが一番よいと考えて、呉海軍工廠に飛行機製造の経験をさせておくとの方針になった」(西島手記)
この飛行機とは所謂「彗星」や「紫電改」です。が、それもすぐに生産できなくなります。ある日、西島の元に電話が。
「艦政本部へ出頭?今頃どうして」西島が疑念を抱きながら艦政部の入ります。
「軍令部より海軍事務局から陸軍の『キ115』と『桜花』合わせて1千機を、昭和20年9月末まで海軍艦政部等の工場で制作するよう言われた。西島。できるだろ」
「これは、依頼ではないですね。命令ですか?」
「そうだ!」
「無理です。試作機ができればいい位です」
西島はきっぱり言い切った。
「違うのだよ、君が想像しているような飛行機ではない。所謂・・そのう・・簡略化された。特攻機だ」
西島は嘗て「回天」設計に携わった経緯があった。自身の意思とは無関係なところで仕事を回される。
「今の艦政部は完全に間違っている」
こう思った途端。平賀や藤本達がいて、論議を尽していた頃が非常に懐かしくもあった。
「まぁ、俺はあんまり関係なかったけどな・・」
「造船技術者としては不得手な飛行機製造時代であった。私の三回目の艦政部勤務はせぬ方がよかった」(西島手記)
呉での後輩、堀に西島はにやにやしながらあるものを見せます。
「西島さん何なんです?これ?」
「これか、B-29の部品なんだ。どっかのバルブだがね」
西島が撃墜されたB-29の残骸から見つけたものだったのでした。
それは、ほんの小さな部品であったが「ダイキャスト」で作られていた。
「日本では、このダイキャストでさえ満足に生産できやしない。アメリカは全てのB-29 にこれを使っている。
「こん部品までダイキャストでつくられてるんじゃなぁ・・かなわんなぁ」
堀は珍しく感情を表情に表して、方言で話す西島を初めて見たのでした。
呉海軍工廠。
「設計の牧野」「現場の西島」この二人のタッグが無ければ、こと建造に関する「大和」はあれだけの日程で。あれだけの予算で。あれほどの完成度は無かったかと信じます。
建造の過程を語ってまいりました。もっと整理したい事実もございましたが、これで最終話といたします。
ありがとうございました。次節からは大和戦闘の記録を若干語ります。
追伸
丹治さんと酔漢。共に高校生。
昭和56年11月。塩竈港。
「砕氷艦宗谷」が停泊しておりました。
「酔漢。宗谷はやはり質感がちがうなや」
「んだ。だれ、こいずで南極さまで行ったっちゃ。途中相当、難局さぁあったってきいたべさ!」
「おめぇの冗談、おもせぐねぇど」
「牧野茂設計だっちゃ」
「んだ!」
「大和と兄弟艦なんだっちゃなや」
他の戦艦に比べ、沈没場所や艦体の探索まで実施された大和は、まだ幸福なのかもしれません。
最も酷使された金剛は、台湾沖で潜水艦に沈められたまま忘れ去られております。
もちろん他の艦艇、さらに輸送船、商用船・・・
南東太平洋海域は艦船の墓場であるとともに、なぜか戦後日本人のリゾート地となりました。
井上次官(当時)の存在は私の在校当時も二高の誇りではありました。
一高出身者には学者・文化人が多く、二高は政治家・軍人が多い、そんな傾向があったように思います。
宗谷で思い出しましたが、南極観測隊の副隊長を勤めた方が、隣りに住んでおります。
今の造船技術と比較したらどうなのでしょう?
気になる所です。
お疲れ様でした。
これからいよいよ出撃、そして戦闘の場面に移って行くのですね…
この後も酔漢さんのおじい様を始め多くの方々の最後の様子まで、引き続きしっかりと読ませて頂きます。
ところで「川内高校」ではないのですね。「仙台二高」と。
「二高の誇り」いや仙台、宮城の誇りです。
青葉神社に祖父のブースがありますが、最上段は井上次官でございます。
「南の島のリゾート」父は「行きたくない」と本気で申しております。
そう言った感覚は、やはり日本人の中にもあるんだと、そう思ったりいたします。
(能村次郎著「慟哭の海」より)「男たちの大和」でも弾薬庫内に火が入っている映像が映し出されておりました。
給排水装置が最早作動することが出来ず、担当乗務員が全員戦死しておるためでした。
大和の「きのこ雲」今後検証していきます。
ご拝読ありがとうございました。
いきなり、ネット初公開の写真を掲載いたしました。今後、何回か登場する写真ですが、現存十数枚なのです。
建造の記録は地震でも相当勉強になりました。
「船が身近にあった」この感覚があったから語る事ができたかとも思っております。
ドック。クレーン。進水式。
塩竈の風景があったから語る事ができたかとも思うのでした。
片舷に魚雷命中が集中していますが、アメリカとしては意図的にやったことでしょうか。
武蔵の時は両舷にほぼ均等に命中しています。
転覆したとすれば、四十六センチ主砲の砲弾が残らず弾火薬庫の壁にぶつかっていると思われます。
放蕩の部分がスッポ抜けに吹っ飛んでいたのも頷けます。
大和沈没のシミュレーションなるものを、と或るビジュアル本で見たことがあります。
主砲の爆発と、水圧が一定限度を越えた際に起きた缶室の圧潰で熱と空気が物凄い圧力をもって吹き上げ、艦橋構造と(塔檣式でしたね)煙突の煙路がその逃げ道になった可能性が高いとか。
だとすれば艦橋は痕跡を留めぬほどに破壊されてもおかしくありません。
12隻の戦艦のうち、機動部隊に随伴できたのは、金剛級の4隻だけでした。
艦隊決戦における主力として以外にも、千巻の使い道はありました。
曰く艦砲による対陸上射撃(先鞭をつけたのは我が方です)、対空射撃による空母の護衛・・・
マリアナ沖海戦で第二艦隊が第一機動艦隊よりも前方に進出したのは、
敵機の攻撃を吸収するのが目的だったはず。
ミッドウェー海戦の戦訓だと思います。
しかし残念なことに母艦に直接随伴することは不可能でした。
金剛級を除いた8隻の戦艦で速力が30ノットに届いたのはありませんでした。
アメリカは真珠湾で沈没した戦艦を引き揚げ、徹底的に実戦向きの艦に改造しました(機関系統の改装があったかどうかは残念ながらつまびらかにしません)。
日本の戦艦も戦争中に改装されていますが、
対空火器の増加とレーダーの設置に留まっているはずです。
保有する戦艦にアメリカ並みの改造を施せなかったという所に、当時の両国の工業的基礎体力の違いを見る思いです。
クロンシュタットさんへ
小生の高校の旧制時代の先輩に、
終戦後に宇垣中将と共に沖縄に突入した方がいます。
その方と同期の先輩で陸士を出た方が、もう言っていました。
「どこでどういう死に方をしたか分っているだけ、あいつはまだいい方だ。
南方へ向う輸送船に乗って、ガダルカナルや温パールのジャングルで、ニューギニアの山の中で・・・どんな最期を遂げたか分らぬ者が数え切れないほどいるのだ」。
今回のクロンシュタットさんのコメントを拝見して、この先輩の言葉を思い出しました。
また同じく小生の先輩で、短期現役の海軍技術士官だった方はこう言っておいででした。
「戦争中のことを考えれば、サイパンだのグアムだの、俺は行く気になれない」。
クロンシュタットさんの言われる通り、南太平洋は日本人にとってリゾート地となりました。
しかし「南溟の地に眠る日本人の遺骨を故国に迎えたい」と言って
ペリリューの遺骨収集に参加した後輩がいます。
口にするのはたやすきことながら、実行となると口にするほど簡単なことではありません。
このような志を持った人物には本当に頭が下がります。
奄美大島沖からの第58機動艦隊です。大和へ向って北上。大和をこの地点で攻撃することが、空母へ戻る最長距離でした。当然左舷攻撃が燃料節約にも繫がります。こうした視点が働いていたと考えます。また、当時の天候では南よりの風です。右舷へ回り込むにはやはりエネルギーを余計に使います。これは史料として残ってはおりませんが、今後整理しようと思います。
話はレイテから「坊ノ岬海戦」へと進みます。
また、宜しくお願い申し上げます。