酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 準特攻 四

2011-02-18 11:15:20 | 大和を語る
昭和六十年年末12月に塩竈に届きました「戦艦大和会会報『かわら版』」です。
当時の会長は元第二艦隊司令部副官「石田恒夫」さんでした。
石田さんが会長時代、事細かい会報が送られてまいりました。
特に、会計の項目では、使途明細など一円単位で知らしております。
さすが、経二十四期卒です。
写真は、ちょうどパイセスが大和の沈没地点を特定し、遺品数点を引き上げた頃です。
ネクタイ中央の鉄くずは大和のものです。
石田さんのお書きになりました編集後記をここにご紹介いたします。

表紙の写真の鉄錆塊はパイセスⅡ号が着底した際、艦の一部を潜水艇の足が引揚げたもので、9月23日呉海軍基地の碑へ世話人より納められた。読売新聞本社井上憲司記者の好意によるもので紙面をかり厚くお礼申し上げます。
(以下略→カレンダーの内容他は割愛いたします)

戦後、石田さんをはじめ、古村さんも会をとても大事になされ、私ども遺族にとりましてとても親切に対応されておいででした。

「大和は特攻ではない」
この言葉は大きい重みを持っております。

前回の続きです。再び酔漢の私見、史観をまじえましてお話いたします。

「大和が特攻ではない」前回その理由の一つを語らさせていただきました。
「一億総特攻のさきがけ」では大和出撃の理由にはならない。
そういう結論を申し上げました。
そしてすべては「伊藤整一第二艦隊司令長官の腹の中」にある。と結んでおります。
この「腹の中」を検証しなければ、大和出撃の過程を語るには片手落ちとなります。
しかして、司令長官御本人は全てを語ってはおりません。
幸いにして、第二水雷戦隊古村啓蔵司令官がご生還され、以下の文章から読み取れます。
矢矧に乗艦されました山田重夫少尉と古村司令官との会話です。
山田少尉は日系二世。矢矧には同じく蔵元重明少尉もおられました。ちなみに大和では、父がご遺族にお会いしておりますが、中谷中尉もそうです。
「軍艦『矢矧』海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争」より抜粋し紹介いたします。

山田ともう一人の二世少尉倉本重明が英語でおしゃべりをしている時、古村が近づいてきて、英国仕込みの英語で自らの考えを話すシーンが描かれている。
(「帝国海軍士官になった日系二世」を引用されての記述です)
「君たちは通信班だからなんでも知っているので言うが、私も今度の出撃は無謀な作戦だと思っている一人だ。第二艦隊の伊藤長官もそうお考えで最後まで反対されている」
古村はこう言ったという。平然と。しかも英語で。
「考えてもみたまえ。この軍艦だって、訓練された軍人だってみな国家のものだし、一億国民の血税によって得られたものだ。なに一つむだにしては申し訳ない。特に物はつくれても人間の生命は貴いものだ。戦争なんて永遠に続くものではないし、むしろ戦争が終わってから国を再建する力を残すのはもっと大切なことだと思う。私は戦っても我に利あらずと判断された時は作戦を中止するのも恥とは思わないんだ」
聞いている二人は絶句した。古村は続けた。
「伊藤長官も私と全く同意見だよ。私は君たち若い人に死んでもらいたくないんだ。とくに君たちにはね」
二人は顔を見合わせた。
「君たちはアメリカという国と物の考え方をよく知っているはずだ。どうか生命を大切にして最後まで助かる努力をして生きてほしい。日本の将来にとって特に大事な人間なんだから」
(同著 274頁~275頁より抜粋)

古村さんがこのようなお話をされていたのは酔漢も聞いております。
靖国で行われました慰霊祭の準備中、古村さんは(隣りには常に原さん→矢矧元艦長→がおられます)どなたかとのお話で、「無謀な中の作戦を遂行するしか道はなかった」と話されておられました。
指揮官の意識は非常に冷静に事を判断しておった事を、物語っているように考えます。
さて、その伊藤第二艦隊司令長官です。
作戦出撃の瞬間からGFを欺く行為を繰り返します。
一つに出撃時間です。これは出撃の様子を語った際に詳しくお話いたしましたが、出撃時間を変更しております。
歴史の謎の部分です。
四月八日黎明時での沖縄突入時間はGFよりの作戦令に明示されておりますが、実際は六日午後の出向。船速十八ノットでの到着になります。戦闘時であればこの船速では遅いのです。夜間敵潜水艦を避ける為の行動とも考えられますが、作戦時間の変更という通常ありえない行動です。しかも、航路は最短航路を取りません。一度佐世保へ向かうような航路を選択いたします。「敵に沖縄行を秘匿する為」とも言われておりますが、燃料の事もあれば、最短航路を選択するのが当然ではなかろうかと、こう考えます。
ですが、そうではありません。
上記の謎を解く鍵はいくつかあります。
一つは、「空襲を受けるのが必死であれば、敵の出来るだけ遠い位置で受けたい」という事もう一つは「作戦終了と判断された場合、半日で佐世保へ帰投できる距離を保ちたい」という事です。
実際、アメリカ軍では、一機当たりの戦闘時間が約五分と大変短く、雷撃、雷爆戦闘後、直ぐ戻らなければ燃料が切れてしまう恐れを常に年頭において、作戦を遂行しなくてはなりませんでした。大和を撃沈するだけの目的であれば、あれほどの数の艦載機は必要ではないのです。帰艦の時間を稼ぐ為に大量の航空機を発艦させる必要があったのです。(尤も、天候与件もありますが)
佐世保への距離もそうです。実際、二水戦の三艦「雪風」「初霜」「冬月」は即日には佐世保へ帰っております。後進で到着した「涼月」も八日午後二時には佐世保へ到着しております。作戦中止を想定した場合、最も効果的に佐世保へ帰ることの出来る海域を戦闘場とする必要性があり、その戦闘海域を想定した場合、その位置(大和他沈没海域)へ到着する為には、時間の変更と航路の変更が必要だったのです。
「あの海域で戦闘し、艦が傷ついたら即中止、帰投」が伊藤司令長官のシナリオだったのではないのでしょうか。
もちろん、最終目的である「敵艦船の撃滅」は、遂行しなければなりません。
直掩機なしでは途中の傷は相当覚悟しなくてはならない状況です。
ですから伊藤司令長官は逆算したのではないかと、こう推察いたします。
しかしながら、大きな誤算もありました。
「大和の大爆発」です。
シブヤン海の「武蔵」は相当の雷撃を受けますが、最後まで航行しております。
大和型であれば、「戦闘不能になっても、佐世保まで行きつける」こう考えるのは大和のスペックからすれば当然です。
伊藤司令長官唯一の誤算はこの横転大爆発だけだったと考えるのです。

矢矧が「可燃物全て陸揚げ」を無視し、大量の角材を積み込んでいたというお話はいたしました。矢矧は沈没を想定していたのです。ですから輪型陣より飛び出し、最初の空襲を一手に引き受ける覚悟でもって戦闘陣形を自ら崩す戦法を取ったのです。
対空駆逐艦として誕生した月型二隻は陣形の後方におります。
空襲を想定したならば、大和の右舷、並びに直左舷にポジションを取るのが普通です。
これは、「生き残れる確率の高い艦が撃沈された艦の生存者を救うのが目的」と考えれば、合点の行く陣形となります。

駆逐艦へ移した燃料もそうです。佐世保までの帰投を考えての燃料の量なのです。
沖縄まででは片道分でも、駆逐艦へ大和から燃料を移動してます。出撃前夜に行われましたこの移設は、上記のような観点からですと、説明がつきます。

こうした、観点から「坊ノ岬沖海戦」を見ますれば、伊藤司令長官が「いかに生還するのか」と思慮した事の現れではないかと考えます。

これが史実ではないかと。「くだまき」ではこう結論付けます。

「特攻」という言葉を使わらざるを得ない。これは事実です。
戦後、ご生還された方は私達遺族に対して、物凄く気を使って下さいました。
「特攻」と信じておられる方も大勢おられます。
再三再四申し上げます「否定するつもりは毛頭ございません」
酔漢自身、祖父の死に方の意味とその背景を知りたかったに過ぎません。
父も同様であったと思います。
ですから、この海戦の様子を多方面から検証する事にいたしました。
その過程で至りました酔漢の「納得」なのです。
ですが、「準特攻」の「準」とはいったい何に対しての「準」なのか。
深い疑問も今だ解決しておりません。
ご批判も多数おありの事と存じます。
こうした見方を持った遺族がいる事を「くだまき」として表現いたしました。

石田恒夫さんからの父宛のお手紙の抜粋です。

宮城県栗原郡(当時)木田ちどり様の「当時14才の面影が忘れがたいです」というお便りは今も覚えております。また、戦艦大和会へ来られた故前田利祐上曹の尊父前田熊太郎様は「西太平洋で戦死」として白木の箱が届いただけであったので、この箱の中を見ると、ただ南無阿弥陀仏の6字の名号だけで何の記念になる一物もないので
  散り果てし 華の一びらと おもえども
  捨うすべなき 洋(うみ)のただ中
と一首を入れてお寺へ納骨させていただきました。との話はこれまた私の耳に残っております。(略)
(昭和六十年 十二月十二日 石田恒夫さんからの書簡 父所蔵)

戦後、多くの思いを背負ったまま多くの人達が生きてまいりました。
戦艦大和会を見ながら、その戦後を語っていくこととしてまいります。
 
  

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