酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として NHKの放映 五

2012-09-10 12:18:06 | 大和を語る
先に、お詫び申し上げます。
さる8月11日、NHKで放映されました「巨大戦艦大和 〜乗組員たちが見つめた生と死〜」のCGについて、過去の映像をそのまま放映させた。
こう「くだまき」にいたしましたが、若干手を加えており「そのまま」という表現ではなかったと斯様に気付きました。
また、その為、「あまりにも安易だったのではないか」とう言葉も発しましたが、これは、はなはだ失礼にあたる発言だったと深く反省する次第でございます。
ここに改めて、お詫びを申し上げます。
誠に申し訳ございませんでした。
先の「くだまき」につきましては、そのまま記録として残します。
このお詫びにより代えさせて頂きたいと存じます。

過去の放映に於きまして、注排水装置のCGは断面だけですが、今回の映像は大和本体を横切りにして映し出されておりました。
丁度、大和中甲板を水平に断面にしております。
バイタルパートの部分のみの、前回の映像でしたが、艦首から艦尾にかけての映像は今回がおそらく初めてだと思います。
はなはだ、恥ずかしく思います。
何卒、ご容赦下さいますよう、お願い申し上げます。

冒頭は「軍艦大和戦闘詳報」による大和被雷の図です。これは、過去のくだまきに於きまして、その位置、被雷の数などは、アメリカ公文書による原氏、ラッセルスパー氏の被雷の状況を優先して語って来た経緯がございます。
本件、参考として掲載いたしました。

では、本題を語りたいと思います。
「乗組員達が見つめた生と死」という副題がついております。
この映像で多くの方々の証言が映像として残されました。
これは、大変貴重なものです。
皆様、ご高齢にも関わらず、気丈に当時の事をしっかりとお話しされておられました。
前回も語りましたが、「これからもお元気でお過ごしくださいませ」と、心より思いました。
この番組で貴重な証言を残されました「運用科 八代」さん、「艦橋信号 廣」さんは、酔漢の手元にございます「名簿」(昭和42年)にはお名前が記載されておりません。
以前もお話しいたしましたが「大和会 世話人」でございました「三笠」さんも同様で、やはりこの名簿にはお名前の記載がないのです。
おそらく、混乱が招いたものであろうと推察する次第です。
皆様のご自宅での撮影風景でした。
一つ共通点がございました。
それは、撮影されたお部屋の中に「大和に関する何か」が置かれていることです。
大和会からの会報が仏壇の上に置かれ(呉、碑 の寄付金名簿)、大和の模型、大和会のカレンダーの曜日の部分を切り取った、写真など。
ご子息を亡くされました、川崎様のお写真は、祖父の集合写真とおそらく日を同じくして撮影された写真であろうと推察いたしました。(昭和20年1月7日と推察)
皆様、それぞれが自身とお身内が大和と関わったことを自身の生活の中で意識しながらお暮しになられていらっしゃる。
ご遺族、ご生還された方々が、その見方、感じ方は人それぞれであろうと、大和を身近に感じようとなさっていらっしゃる。
「忘れたい部分が多々ある。しかし、その大和を感じていたい」
父の言葉を思い出しました。
父は、大和会から送られてくるカレンダーを毎年購入し(実家に保存されてます。機会があればご紹介いたします)自分の書斎の正面に飾っておりました。
日ごろ、「あの親父の野郎!」と憎まれ口を叩いても、大和を生活の中で共有したかったのではないか。
「親父(酔漢祖父)を好きだった」からこそ、出て来る「憎まれ口」だったのだと、今して思います。
「親父が生きていてさえいたら、俺はこんなに苦労はしなかった」これは親父の本音です。そしてこの言葉は父をはじめ、叔父、叔母にしても同じことだと思うのです。
以前の「くだまき」に於きまして、父が徳之島での慰霊祭、翌年、酔漢家族、叔母、叔父家族を連れて靖国神社の慰霊祭の出向いたことを語りました。
ご生還された皆様は「申し訳ない」と酔漢達家族に向かって頭を下げるのでした。
これは、受付をされた「三笠逸男」さん、玉串奉奠の際にご一緒致しました「清水元副砲長」しかりです。
父はその都度「頭を上げてください。私共、そんな事を一度も思ったことはございません」と言葉をかけております。
これも、父の本音だと思うのです。
「思う」という若干曖昧な表現を使用致しましたが、やはり、揺れ動く、自身との問答はございます。
それは先にも語りましたが、「親父が生きてさえいてくれたら・・・」この部分は動かしようもないのです。
ですが、「生きて帰って来てくれた人がいたから、親父の事も分かったのっしゃ」と自身を納得させるかのような言葉も残しております。
どちらなのか。
どちらも、本音なのです。
酔漢家族に取りましては、今の酔漢はそうです「これからも、末永く生きていらしてください。もう頭を下げることはないのです」とやはり、言葉を掛けます。
「本当にご苦労されたのは、皆様なのですから」
毎日新聞社記者「栗原俊雄」さんが著されました、「岩波新書、赤1088 戦艦大和 生還者たちの証言から」(2007年8月発行)にはこのようにございます。
「生き残ったことが負い目」(同書114頁)。
この番組にも貴重な証言をされております「竹田明 元水長」がお話しされておられます。
「生き残ってしまった。というのが負い目だったんです。戦争に行って死ぬのは当たり前。本望とは言いませんが、誉だった。親もそう思っていたはずです」
竹田さんも酔漢の名簿にお名前が記載されておりません。
戦没者名簿も多少の誤記、記載漏れは見つかります。ですが、戦後直ぐの「生還者名簿」には、記載漏れが多い。
これはおそらく、本人の申告等がおくれた為ではないのでしょうか。
実際、竹田さんのお名前は、戦没者名簿に見られます。
そこまでして・・・・。
実際はそうだったのだろうか。
この「思い」は、どんなに文献他を拝読しても、想像をしても、おそらく、今の酔漢にでさえ「想像することが難しい思い」なのでしょう。
ですから、こうした意味に於いても、御生還者であります、竹田さん他の証言は貴重なものであるのです。
酔漢はこうした思いも後世に伝えていきたい。
この番組を肯定しておりますのは、ご高齢となられました、「ご生還された皆様の生の映像と肉声が集約された。また、私共と同じく、遺族の言葉も、広く人々に知らしめたこと」。これに尽きるのです。

番組は、進行していきます。
テーマは非常に重く、そして、戦争を身近に感じる事の出来ない人々へ「どうしたら伝える事ができるのか」この底流(本流)にあたる部分でスタッフが苦労していた。
こう考えました。
ドキュメンタリー的な再現映像。
水族館内での朗読。
それぞれを取りましても、効果的にという映像が独り歩きしている。
この番組を「チーパーではないか」と感想を持った酔漢です。
再現、映像は、記念艦三笠の艦上で撮影されておりました。
軍艦の内部の風景としては、想像できなくもないのですが、大和を想像するにはやはり無理があろう。
「いたしかたない」とは思うものの、わざわざ再現の映像は必要であったのか。
文章だけでは、艦の状態を想像できない世代が多くなっている。彼等へのメッセージには必要だったのでしょう。
逆に重みが失われたような気がしてなりません。
父と祖父のとの別れもしかし、同じようであったと。それは祖母にしても同じ事です。

これが最後の家族写真となりました。
昭和18年正月、場所は鎌倉鶴岡八幡宮境内。
祖父はこの時期「東京通信隊」に所属しておりました。(海軍省内勤務)
家族が別れ別れで生活し、再び一緒になることは無かった。
他のご遺族と同じです。
これは何も、大和だけではなく、当時の多くの日本人がそのような境遇にいた。
ですが、語る事は必要です。

大和の沖縄沖敵艦船撃滅の作戦の方向性を探る場面。
水族館のバックには違和感がありました。
これは酔漢の感覚だけなのかもしれません。
この場面で朗読されます「神重徳」の言葉です。
「大和を沖縄へ上陸させ、46サンチを放つ」
先にも、(何度も)語りましたが、これこそが無謀中の無謀。
神は、何故このような発言をしたのか。これには、これ以前にも同様な作戦を立案しGFに却下されております。
三上作夫の手記も合わせて朗読されております。
しかし、三上のこの部分の後の方がより重要なファクターとして「くだまき」では捉えております。
「当時の司令部内の空気などから考えて単なる神参謀の発意だけでは、このような作戦が採りあげられる訳がない」
(戦史叢書 大本営海軍 連合艦隊編 七 戦争最終期より抜粋)
「ある友人君」からのコメントには「何か大きな意志が働き大和を沖縄へ向かわせた」こうありました。
GF作戦参謀三上のこの言葉は重要で、大和以下9隻が沖縄へ向かわなくてはならなかった意図、意志がこの部分から感じられます。
清水元副砲長は数多くいる遺族の前でこう話しておられます。
「大和は沈んでよかったのではないか」
酔漢の頭を撫でてくれた清水さんのこの言葉の持つ意味。
これは今だ消化できないでおります。
これほど、大和が映像化され、多くの方々が語る材料と成り得ている現在。そして事実。
もしかしたら、この事に答えを見つけ出そうとしている自身なのかもしれません。

番組は、やはり「特攻ありき」で語らております。
この部分の私見は最早この記事では語りません。(再三再四語って来た経緯がございます)
ですが、若手俳優に何を持って後世に伝えるのか。
単に、遺族の悲劇として取り上げているのではないか。
深く掘り下げる部分がなく。
「歴史的解釈」「科学的根拠」この二つが欠落していた番組ではなかったか。
三時間ではもったいない。
こうした事に力点を置き、再び番組を構成しなおし、多くの人に知らせる術はなかろうか。
番組では「原勝洋」氏が出てまいります。
同氏の尽力で持って、アメリカ公文書が日本人の知るところとなり、また、基礎的な部分で、時系列に正し、多くの視点から「坊ノ岬沖海戦」を歴史学見地、科学的見地から語られるようになりました。
氏の功績は多大なものがあると考えます。
その原氏が中心になりそうした見地で持っての番組を作る事が出来ないのか。
おそらく、今後終戦70年の年には再び「大和以下、坊ノ岬沖海戦」が(思い出されたように・・)語られる事になろうかと推察しております。
その時には再び。このような「くだまき」にならぬようひたすら希望して止まない。



(略)思ヒ附的作戦或ハ攻略的作戦ニ堕シ貴重ナル作戦部隊ヲ犬死セシメザルコト特ニ肝要ナリ。(略)

軍艦大和戦闘詳報より。
能村副長が入院中で、清水副砲長が認めた報告書の一部です。
「犬死」
清水さんの思いは、公式文書となっております。


最後に。
能村元副長による第一回慰霊祭に読まれました弔辞です。

弔辞

慎みて、
故第二艦隊司令長官伊藤整一氏、故軍艦「大和」艦長有賀幸作氏以下、三千有余柱の英霊に告ぐ。
上空に躍る数百の敵機、海中に綾なす数十の雷跡、火風弾雨、耳為に聾し、眼為に眩む。
思えば昭和二十年四月七日、九年前の今日唯今の時刻、生死の関頭に立ち、自若として己の配置を守り、平素修練の効をいかんなく発揮す。
これ軍艦「大和」覆没寸前、艦上に奮戦する卿等の雄姿なりき。
これより先、四月五日午後三時、艦長、総員を前甲板に集めて、出撃命令を伝達せらる。運命を決せしこの一瞬、満場寂として声なし。解散して直ちに、出撃準備を開始す。かねて期する所、何の混雑もなく、何等、動揺の色もなし。諸装置を改め、兵器を点検し、淡々として作業を終わり、余暇を得て、総員家郷に筆を執る。或いは爪を切り、あるいは髪を摘みて同封す。
翌四月六日は、さらに艦内の整理を行い、準備の完璧を期す。世界注視のこの行動、万が一にも、不用意の失策なからんことを期したるなり。
午後四時、錨を揚げ、護衛部隊を先頭に、粛々として空前絶後の行動を起こす。
世の人、ややもすれば、武人に対して情味なしと云う。乞う、余に少しく当時を語らしめよ。
軍艦「大和」に乗り組みし者、皆これ、万人中より選ばれたる俊秀の士にして、平素は温厚玉のごとく、世の敬愛を一身に集め、職を奉じては忠、家にありては考、克く人の道を弁えたる模範の人々なり。
三田尻沖を進発して間もなく、手すきの総員前甲板に集まりて「君が代」を奉唱す。
夕闇に薄れゆく内地の山々。雲か霞か、遥かに見ゆる爛漫の桜花。山答えず、花語らず。万感胸に迫り、歌い終わるも暫し、動くものさえなし。女々しと云う勿れ、頬を伝うはこれ、懐かしの故国に送る惜別の涙。
同夜は、各々配置に在りて仮眠す。結びし最後の夢、夢に通いしは誰。
明くれば、四月七日の当日なり。
早朝、九州の南端、大隅海峡を西進す。暗雲低く垂れ、ウネリありしも風穏やかなり。午前八時、敵機我を発見す。かれの発する警報、手に取るがごとし。大雨将に到らんとす。嵐の前の静けさ。
悠々、昼食を喫し終わりし午後零時二十分、前方遥か、雲間に現れし艦上機の大編隊。見れば右にも左にも、一団また一団。待つ間もなく数分の後、急降下「大和」に突っ込む敵機を合図に、攻撃の火蓋は切られたり。
爾後、奮戦力闘二時間余、十数本の魚雷と、無慮数十発の爆弾を受け、大爆発を起こし、徳之島の北方二百浬の海上にて、軍艦「大和」轟沈す。
卿等の大部が生を終わりしは、この時なりと認む。
天命なりとは言え、卿等は護国の神となり、われ等のみ現世に留まりて今日の日を迎う。苦衷、何をかもってか慰めん。
然れども昨年六月、映画戦艦「大和」が公開され、この悲壮にして崇高なる事蹟が世に明らかとなるや、江湖の同情翕然として集まり、卿等の遺徳を慕うもの、日夜応接に暇なし。
この行動、時已に大勢われに利なく、固より、生還を期せざる特攻作戦なり、しかも、命令一下、莞爾として勇躍壮途に就く。精錬にして豪胆ならざれば、成し能わざるところなり。
思うに今次大戦中、報告の美談は多々あれど、この右に出ずるもの鮮し。宜なる哉、世人仰ぎて、わが海軍の華なりとす。科学の粋、機械力の極、世界に冠たる七万トンの巨艦に乗りて、壮烈無比の特攻作戦に従い、名を後世に残す。卿等、もって瞑すべきなり。
われ等生存者一同、益々操志を固くし、和衷協力、卿等の志を継いで、平和社会の建設に努力せんとす。
霊よ、永遠に故国を守り給え。
変転九星霜、同じ春、桜花の下、本日ここに姿なき卿等を迎う。感慨転転禁ずる能わず。恨むらくは、卿等、呼べど答えず。この盛儀を語るに由なし。哀悼何ぞ勝えん。
若しそれ、この席に列せらるる遺族の胸中を察せんか、胸逼りて誓う所を知らず。眼を閉ずれば、卿等の温容、今なお髣髴として脳裏に浮かぶ。嗚呼、悲しい哉。
聊か、蕪辞を連ねて幽魂を弔う。
在天の英霊、願わくば来たり饗けよ。


然れども昨年六月、映画戦艦「大和」が公開され、この悲壮にして崇高なる事蹟が世に明らかとなるや、江湖の同情翕然として集まり、卿等の遺徳を慕うもの、日夜応接に暇なし。
この部分。
戦後、映画により多くの人が知るところとなった「軍艦大和」。
映像により知るべき事象の多さは現代では比較にならない。
再度、「坊ノ岬沖開戦」の顛末を再び吾々が目にするとき。
どのような番組に変わっているのか。

われ等生存者一同、益々操志を固くし、和衷協力、卿等の志を継いで、平和社会の建設に努力せんとす。

副長。
第三世代の吾々も同じ気持ちで生きてまいります。

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象徴と事実 (ある友人)
2012-09-10 20:32:15
私は日本人のどれくらいの人が「大和」以外の軍艦を知っているのかと考えてしまいます。
私の叔父は「陸奥」「秋津洲」などに乗っておりましたが、多くの人はその名を知らないし、少し詳しい人でも「陸奥」くらいです。「秋津洲」が撃沈された時には怪我をした二人の兵を抱えて泳ぎ、ようやく助けられた時、ひとりは腰から下がなかったそうですが、そこまで必死に生きていたそうです。
どうあれ一番有名になってしまった「大和」は、そういった知られていない艦船の影から逃れる事はできないわけです。そのために軍船すべての象徴としての大和と、事実としての大和は、どうしても乖離してしまう部分が生まれてしまうように思います。
酔漢さんは遺族の末裔として「事実」にこだわる。しかし人によっては象徴としての大和に目を向けたがる。そこをどう整理するかが難しいのだと思います。
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Unknown (見張り員)
2012-09-10 21:26:09
こんばんは

うーん。なんだかとても深く、重いところに足を突っ込んでしまったような気がしています。
私も栗原俊雄さんの「戦艦大和 生還者たちの証言から」を持っていてよく読みますが「生き残ったことが負い目」にはため息しか出ません。
本当は生きていることは喜ぶべきことなのにそれを口に出せない、出せないどころか自分が生きて帰ったことを恥じるようなところがあるのには絶句です。
この辺の機微に関しては私のような若輩で戦争に行ったこともない人間があれこれ言えないですがただ、生きていることを恥じたり、申し訳ないと思うことはしないでほしいとしか言えません。
生きて帰ったということは、何かこの世ですべきことがあるからだと思う。それは死んでいった戦友たちの無念を語り継ぐことではないかと。

能村副長の「慟哭の海」も持っていますがあの弔辞は胸を打つものがあり、初めて読んだ時思わず涙してしまったことでした。
副長が、その弔辞の中で語られた決意を今こそ日本人は胸に秘め日々研さんすべき時!なんですが・・・。
返信する
ある友人君へ (酔漢です)
2012-09-12 08:13:37
秋津州これを読めない人も多い時代ですね。
(海軍用語というよりは和歌には出てきますしね)
「あきつしま」
同型艦のない水上機母艦でした。
この艦、エンジンがディーゼルです。大淀、大鯨と同じ機関。大和ディーゼル搭載は決定事項でしたが、直前タービンに変わります。ディーゼルの信用性が問題とされた歴史があるのですが、横須賀工廠広畑始め、多くの技術に支えられたエンジンでした。
叔父様は祖父と同じ、横須賀鎮守府所属なのですね。
第一次ソロモン海戦は第八艦隊の夜戦での勝利ばかりが言われますが秋津州が敵潜情報を陰ながら送っていたという功績があります。
フィリピンコロン湾で被雷。もし航海中であったら、沈没するこはなかった。そう思います。
どの艦もまねのできなかった、独特の操艦は、記録にこそなってますが、秋津州にしかできなかったそうです。あの激烈な空襲の最中、戦友を二人も助け、ご自身もご生還されておられる。よくぞご無事で。声をおかけいたしたい気持ちです。
仙台護国神社英霊顕彰館には、秋津州の模型が展示されております。宮城ご出身の方が多かったと聞きました。「水上機母艦」艦隊を支えた功績をもう少し知って頂けるとよいのですが・・。
大和と同じ状況は全ての艦であったことだと。
これが一番言いたいことでもあるのです。
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見張り員さんへ (酔漢です)
2012-09-12 08:20:08
自分でもそう思います。
ですが、遺族として直接聞いたことを後世に伝える。これが自身で出来うる事と思っております。
それは、たぶん多くの僕らの世代が
思って居る事ではないか。こう思っております。
副長のメッセージは強烈です。
その思いは受け止めていこうと思っております。
(日頃の自分は少し棚の上に上がっております・・汗)
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