「空襲警報がなったかなんねぇがったか。そいずは忘れた。んでも、確かにカーチスが浜(七ヶ浜)さ来たのは覚えてっぺ。すごい低空で飛んできてや、機銃ばぶっ放して、すぐまたけぇって行った。誰、パイロットの顔見えたんだおん。たまげたなや。正直、零戦よりかっこえがった(笑)」
父との会話です。これが町史と残されているのか定かではございません。ですが、貴重な証言だと考えました。カーチスは艦載機ではなかったと記憶しておりますが(これははっきりと疎い→どこぞやの首相と同じフレーズですが→酔漢です)七ヶ浜村へのカーチス飛来はあったのでした。
終戦間近。まだ、祖父の公報は届いておりません。不定期とはいえ、時たま届いておりました呉よりの葉書も来なくなってきました。
「親父がどうなったかなんて、聞きたくても、聞けねぇしな。そいずはおふくろも一緒でねがったんでねぇか。兄貴は横須賀の軍需工場さぁ行ってたしな。俺も、こっちで中学受験すっかって。横須賀さぁいたら『逗子開成中学』さぁ希望してたんだけんど、こっちゃ来てから『県高』さぁ行ぎてかったのっしゃ」
学費の問題が発生します。疎開の身ですから、自身の希望が通る時勢ではなかったのでした。
大和の作戦自体、秘匿中の秘匿。それどころか、その存在すら乗組員である家族にも知らされておりません。
父に再び聞いてみます。
「大和って戦艦があることは知ってたのすか?」
「だれ、知るわけねぇっちゃ。ただ兄貴からは長門よりでかい戦艦が日本海軍にはあるって言ってたのは覚えてんだけんど。大和なんて名前知ったのは大分後だど。戦後もかなり経ってからだったっちゃ」
終戦近い6月。横須賀から酔漢叔父が疎開してきます。
昭和二十年の長い夏が始まりました。
仙台も空襲にあい、塩竈市も空襲を受けます。
八月の終戦。
父は亦楽小学校で玉音を聞かされます。
「正直、戦争が終わってほっとした。ってのうが本音だべな。負けただのはあんまし思わねかったっちゃ。これで親父が帰ぇって来るってそう思ったっちゃ」
戦争が終わった日。大部分の人はそう思ったのではないでしょうか。
祖母は、この時期あることにやっきになってます。
「塩竈の『おがみや』さ行って来たのっしゃ。来週には帰ってくると言ってったっちゃ」
街中まで出かけては「おがみや」と称するある意味「占い師」を手当たり次第にたずねているのでした。
それだけ祖父の帰りをまっていたことを物語る行為だと思います。
戦争が終わって、祖父の事が分かったのは11月。戦死公報が届きます。
これはかなり遅い事実です。
「戦死公報がきたのはいつなのっしゃ?」
「いつだったかや。覚えてねェなや」
これは父もそして叔父(父弟)も同じ答えなのです。
記録を調べますれば昭和二十年十一月となりますが、ここでふと思うことがございます。
伊藤整一第二艦隊司令長官の戦死公報です。
昭和二十年四月二十八日とご遺族が記録されておられます。
伊藤整一司令長官ご遺族にとりましては、忘れもしない日となっております。
伊藤司令長官ご令嬢、今津純子さん手記を見てみます。
昭和二十年四月、四日市の海軍燃料厳の官舎には、らんまんと桜が咲き乱れていた。桜の枝をかざして若者達は次々と散っていった。この年の春ほどに美しくもかなしい花を私は憶えない。そしてまた生涯みることもないだろう。父戦死のしらせを受けたのは二十八日のことであった。そして、その日はまた、兄の戦死の当日であった。
(なにわ会ニュース39号 38頁 昭和53年9月より抜粋)
ここで今津さんの言います兄とは、「伊藤叡」さんです。以前ご紹介いたしましたが、(「奮戦スレド徒死スルナカレ 直掩機」)伊藤叡さんの戦死されました日と戦死公報着日が同日とお話されていらっしゃいます。
四月とそして十一月。時間差が大きいことを知ります。
一度に四○○○人近くが死んで、正確に把握できなかったんでしょう。海軍の幹部は終戦を意識していましたから、その工作にいそがしいこともあった。時間的、物理的に手が回らなかったんだと思います。
上記は元海軍人事局局員 福地誠夫元大佐へ取材という毎日新聞社記者栗原俊夫氏の記事でございます。
戦死公報を見てから祖母は冷静にそれを受け止めていたらしい事は父から聞きました。
取り乱すこともなく、清々粛々と日を過ごしていた。と。
本心はですが、失意ではなかったかと。そう思います。
七ヶ浜町へ向かう偵山橋のたもと。空の遺骨箱を受け取りました。叔父(父兄)。位牌を持つ祖母です。
七ヶ浜花渕同性寺までその行列が続きます。
現在その祖父墓碑。
ご紹介いたします。
君は本村花淵浜の素封家初代(酔漢)好右エ門翁の三男資生剛穀闊達小学校卒業後修養に努め家業に精励し夙に盡忠国の念厚く志を立て大正十四年海軍を志望し学業身体優秀にて合格し海軍四等水兵となる爾来累進し昭和十年海軍一等兵曹に進む 君は信号の特技に長じ成績常に抜群
昭和四年同浜相澤亀松翁の妹(名 割愛) と蕐燭(華燭)の典をあげて一家を興し琴憖相和し三男一女あり家庭藹々たり 昭和十五年支那事変に出征 上海方面陸戦隊に参加して功あり 勲功叡間に達し勲七等の叙し青色桐葉章を下賜せらる 翌年海軍兵曹長に任じ横須賀鎮守府付拝命 同十九年任海軍少尉第二艦隊司令部附となり艦の枢機に参画す 次いで戦艦大和に転乗 帝國艦隊の主力として西部太平洋方面活躍 屡々敵の強力なる艦隊と交戦し或は敵潜の駆逐に又敵機の邀撃に悪戦苦闘をつづけたるも物量を恃み精鋭を誇る猛攻には我国の堅船艦隊も忠国無比の帝國軍人も遂に詮術べなく昭和二十年四月七日の早暁全員三千余人は艦と運命を共にし水漬屍なりしこそ悲しき極みなり
時に四十一才 君が赫々の武功を嘉せられ即日海軍中尉に昇叙し戦功青史に燦なり 武人の本懐家の栄誉郷党の誇り何ものか之に若かんや茲に君が偉勲に録し永く後世に傳う。
七ヶ浜村長 渡辺今助 撰文
「じいちゃんは一階級の特進だったんすか?」
「特攻でねがったからな」
墓参りをした際、父との会話です。
酔漢はこれが史実であり、これが世の常識であったと考えておりました。
ですが、そうではなかったのです。
三千名もの戦死者がいれば、それ以上の遺族がいる。
これは、そのとき、そう思い知らされました。
父との会話です。これが町史と残されているのか定かではございません。ですが、貴重な証言だと考えました。カーチスは艦載機ではなかったと記憶しておりますが(これははっきりと疎い→どこぞやの首相と同じフレーズですが→酔漢です)七ヶ浜村へのカーチス飛来はあったのでした。
終戦間近。まだ、祖父の公報は届いておりません。不定期とはいえ、時たま届いておりました呉よりの葉書も来なくなってきました。
「親父がどうなったかなんて、聞きたくても、聞けねぇしな。そいずはおふくろも一緒でねがったんでねぇか。兄貴は横須賀の軍需工場さぁ行ってたしな。俺も、こっちで中学受験すっかって。横須賀さぁいたら『逗子開成中学』さぁ希望してたんだけんど、こっちゃ来てから『県高』さぁ行ぎてかったのっしゃ」
学費の問題が発生します。疎開の身ですから、自身の希望が通る時勢ではなかったのでした。
大和の作戦自体、秘匿中の秘匿。それどころか、その存在すら乗組員である家族にも知らされておりません。
父に再び聞いてみます。
「大和って戦艦があることは知ってたのすか?」
「だれ、知るわけねぇっちゃ。ただ兄貴からは長門よりでかい戦艦が日本海軍にはあるって言ってたのは覚えてんだけんど。大和なんて名前知ったのは大分後だど。戦後もかなり経ってからだったっちゃ」
終戦近い6月。横須賀から酔漢叔父が疎開してきます。
昭和二十年の長い夏が始まりました。
仙台も空襲にあい、塩竈市も空襲を受けます。
八月の終戦。
父は亦楽小学校で玉音を聞かされます。
「正直、戦争が終わってほっとした。ってのうが本音だべな。負けただのはあんまし思わねかったっちゃ。これで親父が帰ぇって来るってそう思ったっちゃ」
戦争が終わった日。大部分の人はそう思ったのではないでしょうか。
祖母は、この時期あることにやっきになってます。
「塩竈の『おがみや』さ行って来たのっしゃ。来週には帰ってくると言ってったっちゃ」
街中まで出かけては「おがみや」と称するある意味「占い師」を手当たり次第にたずねているのでした。
それだけ祖父の帰りをまっていたことを物語る行為だと思います。
戦争が終わって、祖父の事が分かったのは11月。戦死公報が届きます。
これはかなり遅い事実です。
「戦死公報がきたのはいつなのっしゃ?」
「いつだったかや。覚えてねェなや」
これは父もそして叔父(父弟)も同じ答えなのです。
記録を調べますれば昭和二十年十一月となりますが、ここでふと思うことがございます。
伊藤整一第二艦隊司令長官の戦死公報です。
昭和二十年四月二十八日とご遺族が記録されておられます。
伊藤整一司令長官ご遺族にとりましては、忘れもしない日となっております。
伊藤司令長官ご令嬢、今津純子さん手記を見てみます。
昭和二十年四月、四日市の海軍燃料厳の官舎には、らんまんと桜が咲き乱れていた。桜の枝をかざして若者達は次々と散っていった。この年の春ほどに美しくもかなしい花を私は憶えない。そしてまた生涯みることもないだろう。父戦死のしらせを受けたのは二十八日のことであった。そして、その日はまた、兄の戦死の当日であった。
(なにわ会ニュース39号 38頁 昭和53年9月より抜粋)
ここで今津さんの言います兄とは、「伊藤叡」さんです。以前ご紹介いたしましたが、(「奮戦スレド徒死スルナカレ 直掩機」)伊藤叡さんの戦死されました日と戦死公報着日が同日とお話されていらっしゃいます。
四月とそして十一月。時間差が大きいことを知ります。
一度に四○○○人近くが死んで、正確に把握できなかったんでしょう。海軍の幹部は終戦を意識していましたから、その工作にいそがしいこともあった。時間的、物理的に手が回らなかったんだと思います。
上記は元海軍人事局局員 福地誠夫元大佐へ取材という毎日新聞社記者栗原俊夫氏の記事でございます。
戦死公報を見てから祖母は冷静にそれを受け止めていたらしい事は父から聞きました。
取り乱すこともなく、清々粛々と日を過ごしていた。と。
本心はですが、失意ではなかったかと。そう思います。
七ヶ浜町へ向かう偵山橋のたもと。空の遺骨箱を受け取りました。叔父(父兄)。位牌を持つ祖母です。
七ヶ浜花渕同性寺までその行列が続きます。
現在その祖父墓碑。
ご紹介いたします。
君は本村花淵浜の素封家初代(酔漢)好右エ門翁の三男資生剛穀闊達小学校卒業後修養に努め家業に精励し夙に盡忠国の念厚く志を立て大正十四年海軍を志望し学業身体優秀にて合格し海軍四等水兵となる爾来累進し昭和十年海軍一等兵曹に進む 君は信号の特技に長じ成績常に抜群
昭和四年同浜相澤亀松翁の妹(名 割愛) と蕐燭(華燭)の典をあげて一家を興し琴憖相和し三男一女あり家庭藹々たり 昭和十五年支那事変に出征 上海方面陸戦隊に参加して功あり 勲功叡間に達し勲七等の叙し青色桐葉章を下賜せらる 翌年海軍兵曹長に任じ横須賀鎮守府付拝命 同十九年任海軍少尉第二艦隊司令部附となり艦の枢機に参画す 次いで戦艦大和に転乗 帝國艦隊の主力として西部太平洋方面活躍 屡々敵の強力なる艦隊と交戦し或は敵潜の駆逐に又敵機の邀撃に悪戦苦闘をつづけたるも物量を恃み精鋭を誇る猛攻には我国の堅船艦隊も忠国無比の帝國軍人も遂に詮術べなく昭和二十年四月七日の早暁全員三千余人は艦と運命を共にし水漬屍なりしこそ悲しき極みなり
時に四十一才 君が赫々の武功を嘉せられ即日海軍中尉に昇叙し戦功青史に燦なり 武人の本懐家の栄誉郷党の誇り何ものか之に若かんや茲に君が偉勲に録し永く後世に傳う。
七ヶ浜村長 渡辺今助 撰文
「じいちゃんは一階級の特進だったんすか?」
「特攻でねがったからな」
墓参りをした際、父との会話です。
酔漢はこれが史実であり、これが世の常識であったと考えておりました。
ですが、そうではなかったのです。
三千名もの戦死者がいれば、それ以上の遺族がいる。
これは、そのとき、そう思い知らされました。
裏山に登って造船所の船がやられるのを見ておったそうです。
塩竈を空襲したのは艦載機だったそうです。
B29は仙台空襲の際に何を間違ったのか一機だけ焼夷弾を落していったとか。
カーチスというとP40でしょうか。
酔漢さんの言われる通り、陸軍機ですね。
ガルウィングだったとすればF4Uではありませんか。
あれは海兵隊の戦闘機ですから、母艦に積んでいてもおかしくはありません。
でも東京空襲はホーネットにB25を載せて敢行されました。
だとすればカーチスを母艦に積んできても・・・
いや、単に「母艦から陸軍機を飛ばす」という壮挙を繰返すためだけに
アメリカさんがカーチスをのっけてくるとは考えられません。
「合理性」が売り物のお国柄ですからね。
マクラはここまで。
酔漢さんのお爺様の遺骨箱にも「英霊」と書かれた紙しか入っていなかったのですね。
陸上での戦闘であれば、
戦友が小指の先の骨とか髪の毛とか持ってきてくれるということもあり得ましたが。
海上での戦闘や玉砕した部隊の場合、
遺骨は家族のところには戻ってきません。
陸軍で言う全滅とは、
戦死者と負傷者が何割だかを超えた場合だそうです(数値失念)。
それに引換え海軍の場合は
文字通りの全滅(つまり生存者なし)となることが多い・・・
阿川弘之さんの著書(確か『軍艦長門の生涯』)で読んだことを
今回の酔漢さんのお話を見て思い出しました。
酔漢さんの家のお墓には、一度お参りしたことがあります。
確か墓石の裏に、今回の碑文が彫ってありましたね。
あの時、お爺様あっての酔漢家であることがよく分りました。
四十一歳・・・今の私よりもお若くて戦士されたのですね。
改めてご冥福をお祈りします。
身はたとへおほわだつみに沈むとも魂はかへりけむなが故郷へ