酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として NHKの放映 一

2012-08-24 10:31:44 | 大和を語る
「・・・全海軍の為、是非見て頂きたいと思います」 石田 恒夫 拝

これは、大和引き海底調査、当時大和会会長「石田恒夫」元第二艦隊副官から父宛に届きました葉書です。
石田さんは、「大和海底調査」そして「海の墓標委員会」との連携を、逐一私たち遺族へお知らせくださいました。
各紙、切り抜きのコピー。角川とのやり取り。放映案内など。
海に眠る「大和」を多くの方々にしっていただきたい。こうした思いが、石田さんを動かしていたのだと思います。

果たして、もし、石田さんがご存命であれば、やはり今回NHKBSプレミアムで放映した「巨大戦艦大和」を、「是非ご覧ください」という書を認めましたでしょうか。
尤も、石田さんが生きておられたならば、NHKの取材陣は真っ先に石田さんの証言を取ろうと思うのですが。

酔漢、やはり、拝見いたしました。

「くだまき」では、言葉が足りなかったのかと、深く反省しておるところです。
「言葉が足りなかった」と今、ここで語っておりますのは、何も、「酔漢はじめ遺族、そしてご生還されました方々のお言葉を、くだまきに出来なかった。」
こういう類のものでは無くて、あまりにも、自身の語って来た「戦艦大和をはじめとする第二艦隊、第二水雷戦隊による沖縄敵船団撃滅の為の作戦」の私見とは、かけ離れたところでもって、映像があった。
こういうものです。
あまりにも、その温度差が大きくて、自身では正直「またあ、あの『坊ノ沖海戦』の史実が別な方向を向いてしまった」というのが感想です。
誤解なさらないで下さい。
ご遺族の皆様の御証言。ご生還されました方々の御証言を否定するものではありません。
この部分に関しましては、酔漢も涙なくしては正視できませんでした。
しかし、全体の流れを構成する際に使われました「宇垣纏中将によります戦藻録」。そして若手俳優の登用。以前(この番組は一部評価しておりますが)NHK過去の番組のCGを駆使した大和の威容。これらは、あまりにも、番組をチーパーにさせていた要因ではないか。
こう考えてしまいました。

巨大戦艦 大和

〜乗組員たちが見つめた生と死〜
元乗組員の証言や貴重なデータから
戦艦大和の悲劇を描き出す
  昭和20年4月6日夕刻、戦艦大和は、山口県徳山湾沖から出撃。乗組員に命じられていたのは、再び生きて帰ることが望めない「特攻」でした。しかし大和は、目的地に達する前に米航空機の集中攻撃を受け、持てる能力を充分に発揮できないまま沈められ、3000人を越えるおびただしい死者を出しました。彼らは息子であり、夫であり、父親でした。なぜ大和は、「死」を前提とした「特攻」を命じられねばならなかったのでしょうか。
 戦艦大和の誕生から最期までを、ごく少数となった元乗組員の貴重な証言を軸に記録するとともに、「特攻」へと突き進んでいった海軍上層部の議論を掘り起こし、朗読ドキュメントとして伝えます。また、大和に4人の乗組員を出し、3人の死者を出した小さな村を訪ね、そこで起きた悲劇を、証言と再現ドラマを交え詳細に描きます。
 さらに、他に例を見ない巨大な主砲のメカニズムをCGで表現するなど、巨大戦艦・大和をあらゆる角度から描き、多くの人を巻き込んだ悲劇の全体像に迫ります。
 なお番組では、若手の人気俳優、瀬戸康史さん(24歳)をナビゲーターとして起用。若き乗組員たちと同世代の瀬戸さんが、大和に関連した土地を訪ね、その先々で当時の乗組員たちから話を聞き、亡くなった乗組員たちの手記や遺書を朗読するなど、乗組員たちの心の軌跡をたどり、今を生きる若い人々に、その葛藤や苦悩などを伝えます。


上記はNHKの番組案内をそのまま抜粋いたしました。
この案内に「戦艦大和をはじめとする第二艦隊、第二水雷戦隊による沖縄敵船団撃滅の為の作戦」と定義しました「くだまき」と大きな格差があるのです。

「くだまき」での結論を再度確認させていただきます。
「坊ノ岬沖海戦は、特攻作戦としては、成立し得ない」
まずは、この部分です。
再三再四申し上げます。「特攻作戦」には違いないのです。ですが、「特攻作戦」としては成立し得ない顛末を迎えております。
結論とします。




当時GF司令長官、小沢治三郎の書です。
ここにははっきり「海上特攻隊として」と明記されております。
この文面だけでは、「特攻」と解釈して間違いありません。昭和20年7月に全海軍へ公布された告示です。
よく、伊藤司令長官の「一億総特攻の先駆け」がこの出撃の直接の動機とされておりますが、これにも無理がございます。
「大和」自体が国民に広く知れ渡っている艦ではなかった事で、この意味が無くなってまいります。
当時、日本国民が広く知るところの巨大戦艦(超ド級戦艦→イギリス海軍「ドレットノート」より大きな戦艦)は「長門」であります。
「長門」こそが水上部隊の主力であり、日本国民のよりどころであるわけです。
例えば、「大和」進水が、新聞一面を飾り、世界一の戦艦を日本が保有している事を国民誰もが知るところであれば、それが沈んだ事実もまた知るところとなります。
「あの大和が」と誰しもが思い、(当時の世相のみで語っております。本意ではありません)特攻の先駆となって行く。
これが大前提であり、「まったく国民の知るところではない戦艦が特攻の先駆けとは成り得ません」。
詳細は過去の「くだまき」を御高覧下さればお分かりいただけるかと存じます。
祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 準特攻
祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 準特攻 弐
祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 準特攻 参
第二艦隊戦死者は「特攻戦没者平和祈念協会」戦死者名簿において「準特攻」としてあります。
上記の中で酔漢は「特攻に正規、準を定義つけることはおかしい」と指摘致しました。
飛行機で単身敵艦へ体当たりを行う。
この作戦には「途中中止」はございません。
しかし、「坊ノ沖海戦」では「総員最上甲板」が下令され、時間がかなり遅れましたが「GFより作戦中止命令」も出ております。
「この事実は、特攻作戦とは別物」
こうお話しになられる方も大勢いらっしゃいます。
ですが、この事実だけでも、「特攻」とひとくくりにいたしましたら「カミカゼ搭乗員の方の崇高なる志」には申し開きが出来ない。
酔漢はこう考えております。
これが二つ目の理由です。
三つ目が「第二艦隊の不可解な行動」です。
確かに、「天一号作戦」は航空部隊による特攻が主力であり、これに水上部隊が乗じる(かの恐れ多き方からのご質問による。→史実ではこうなりますが)形の総合的作戦です。
GF命令書は下記の通りです。(一部略)
GF電令作第六〇七号(GF機密電第〇五一五〇〇番電)
一、 帝国海軍部隊及六航軍ハX日(六日以降)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス
二、 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス
第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始 敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス
三、 海上特攻隊ハY-1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ
Y日ヲ八日トス

そして、もう一つの命令書
(略)海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘントスルニ外ナラズ(略)

草鹿参謀長が大和を訪問し、伊藤司令長官を説得させた。これも事実と考えます。
その後、古村第二水雷戦隊司令官をはじめ、各司令、艦長達が大和へ呼ばれます。
各自がこの無謀な作戦に異を唱えます。
本来あるべき姿ではありません。
命令絶対服従の海軍の中にあり、海軍史上初めて、上級将校が反論いたします。
伊藤司令長官は、「我々は死に場所を与えられた」この言葉で全員が納得し作戦が慣行される。
これが一般的な見方です。
しかし、この後の言葉です。
「作戦が最早続行不可能となった場合は」
「長官の胸の内にお任せいたします」
「あい分かった」
ここがポイントとなって来ます。
「くだまき」では、第二艦隊の出港時間が、当初より早まった事に注視致します。
予定より4時間早い出港。
これもGFへ反旗を翻している。こう見ます。
敵航空部隊の猛烈な空襲は、想定内。直掩機も期待出来ない。
艦が沈まない内に佐世保へ帰港。
その距離は?
これを逆算しての、行動時間と推察します。
伊藤司令長官は「戦艦には戦艦の戦い方があり決して無駄に兵器を消耗してはならない」これ自論であり、また座右に於いては「奮戦スレド徒死スルナカレ」と軍令部次長の頃からそう申しておりました。これは司令長官の哲学であり、大和座乗となっても変わり得ないものであると考えております。
シブヤン海での武蔵は、世界に類を見ない「超難沈艦」振りを見せつけます。
あの状況の手前であれば、早期の作戦中止。佐世保寄港。これが、2Fのシナリオではなかったのか。こう推察(否)、くだまきに於いての結論とします。
神重徳は「このままでは大和がかわいそうです」と力説し、沖縄へ向かわせております。
「大和を沈めたい」(歴史的価値を高める為?この動機はいささか無理かもしれない)ベクトルが働いている中で、先にも話した通り2Fは反旗を翻します。
伊藤司令長官の誤算は、敵の空襲が雷爆混合であり、レイテの時より激しいものであった。それにより、大和の艦としての機能消滅が早く、しかも大爆発を起こす。
この二点ではないか。
この二点があれば、(他、天候与件、多々・・)佐世保へ行きつけていたのではないか。
これが、作戦シナリオの全容なのかと。これも、くだまきの結論です。

番組の中で出演されました、ご生還された方々のお言葉を改めて拝聴致します。
正直、涙が出てまいりました。
「あんだら、よくけえって(帰って)きなや!」
33回忌が徳之島で執り行われました。(昭和52年4月7日)
父がある方に声をかけております。
「申し訳ございません」と答えが帰って来たそうです。
その人の手を握り返して、「自分はただただ頭を垂れるだけだった。」こう父から聞きました。
「あの戦闘から無事に帰って来た。そういう人たちがいる。これはとてもありがたかった」父の本音だと思うのです。
そして、「どんな形でも、生きてさえいたなら・・・」これもそうなのです。
茂木様ご遺族。(大和航海長)野津兵曹長ご遺族。三島兵曹長ご遺族。
「くだまき」で知り合いました。
酔漢は、第三世代として、この「海戦」を後世に伝えていく。
改めて、こう思いました。

番組の中身。かなり無理がありました。
次回以降、再び語ります。




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6 コメント

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BSプレミアム (ひー)
2012-08-24 12:14:16
たまに拝見します。
興味深いものも多くやっていますね。
泊まりが多いのでそう見れませんが、大和のは見たかったですね。
CGは、気をつけて作らないと事実から逸脱してしまいますね。
関係者が少なくなっていくと番組制作も難しくなってきますね。記録は大事ですね。
返信する
長文ですが・・・ (ある友人、と呼ばれる男)
2012-08-24 19:33:47
そもそも過去は(歴史は)歪曲されやすく、誤解されやすいものです。
昨今の日韓における歴史認識問題もそうですし、坂本龍馬は司馬遼太郎の小説から生まれた史観が土台となり、織田信長に至ってはゲームの影響さえ加わっているようです。歴史も結局は後の時代の解釈だから、恣意的に変えられたり、変わっていったりもする。
だかこそ記憶や記録は様々な視点から語り継がれるのが望ましい。

酔漢さんのご指摘は、そういった事を踏まえた上で、番組の焦点を単純に大和にだけ集中させるのではなく、また個々人の証言を必要以上に重視しすぎず(同時に軽視しすぎず)に、その時の作戦全体、僚船の動向、更には戦局や政局などをもっと見渡した視点が欲しいという事なのでしょうね。それは同感です。

番組としての意見や主張を持つのは結構ですが、あたかもそれだけがゆるぎない「真実」であるかのような表現はよくない。たとえば昔は1192年に鎌倉幕府のはじまりと習ったけど、今はそう教えてはいないし、和同開珎が日本で一番古い貨幣でもなくなった。日本の中世なんてこれからまだ劇的に通説が変わっていく情報が山ほど有る。それもこれも様々な人が記録を残したからです。
ですから酔漢さんが大和について、その乗員に連なる子孫としての視点で、こだわりをもって論じる事は意味があるし、価値のある事だと思います。

知識不足を承知で、少しですが私見を述べます。
特攻であって特攻でないというのは賛成です。立案された作戦は明らかに特攻に感じます。しかし同型艦の武蔵が猛攻の中で約5時間も沈まなかった事実もあり、そもそもの目的は沖縄死守(現実的にはすでに名目であっても)ですから、その時の戦闘結果により(大勝は無理でも小競り合い程度で終わる可能性もゼロではない)、燃料さえ足りれば帰港の可能性は考えられていたでしょう。また練度未熟を理由に第二艦隊から第三十一船隊を先に離脱させていますが、いわゆる神風特攻隊や回天、震洋などの特攻では、習熟度の低い少年兵や学徒動員による兵もいたわけですから、特攻が総意ならばわざわざ離脱させる必要はありません。
しかし一方では深刻な物資不足があり、海軍の象徴である長門すら、戦局の終盤では物資不足のために警備艦とされ、攻撃をうけても修復さえされませんでした。したがって大和についても深刻な被弾を受けて戻ったところで、その後は戦力にならない事は誰もが分かっていた事です。それは乗員も感じていただろうし、それもあり命令とは関係なく、ここに至っては特攻やむなしという雰囲気があらかじめ乗員にも広がっていたのではないでしょうか?
その後を語るのは常に生存者です。生存者の心理を考えると東日本大震災でも同じですが、生き残ってしまったというある種の罪悪感を伴います。それが人により、懺悔の心になったり、怒りのエネルギーになったりして、後の証言にも影響している筈です。どうあれ聞く側はその心情を推し量るべきだろうと思います。
そして海軍上層部の一部には、本土決戦に向け、陸海軍全体に対しても、天皇に対しても、不退転である事を示すために、大和さえ犠牲にせざるを得ないと考える者がおり、はからずもそれが乗員の切羽詰まった意識と結びつけられため、後になってあの作戦は特攻であったと歴史的に解釈されるようになったのではないかと思います。
更にうがった憶測を加えるならば、天皇同様に本土決戦を望まない者たちは、真逆の解釈として日本最大の巨艦が特攻して沈んだとなれば、陸軍など徹底抗戦派に対して、もはや敗戦受け入れやむなしという雰囲気を作るのに役立つと考え、特攻という名目を受け入れたのかも知れません。
かくして「大和を沈めたい」という方向が決まったように思います。
少なくとも当時は天皇周辺、政治家、陸軍、海軍、官僚、民間人それぞれの周囲でさまざまな思惑が入り乱れていたのは間違いありませんね。それらを総合的に読み解く必要がありそうです。
返信する
こんばんは (見張り員)
2012-08-24 22:08:34
私もあのNHKの番組を見ました・・・

あの「第二艦隊」の出撃は特攻だと言われますが、よく文献を読み解くと特攻というのではない、と思うようになりました。
後付けのようにして「特攻」と呼ばれたのなら、それが果たして出撃して行ったみなさんの本意だったのかしらとも思うし、「特攻」に準じた出撃という位置づけで出撃されたのかしらとも・・・。

時間がかかる解析になりそうですね。

それからこの場をお借りしてごめんなさい、今日の記事に私の別ブログからの以前の記事(二年前のもの)からの転機を掲載しました。
「涼月」のことです。ですが酔漢さんの記事のように緻密なものではないのでお恥ずかしい・・・
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ひーさんへ (酔漢です)
2012-08-26 07:32:42
ご生還された方が15名を切りました。
話しのできる方はまだ少ないかと。
今、お話しをお伺いすることの意味は大きいと思います。そういう視点ですと、貴重な番組になります。
ですが、番組構成とそのシナリオに不満です。
これを今後語ってまいります。
返信する
ある友人君へ (酔漢です)
2012-08-26 07:38:41
生き残ってしまったというある種の罪悪感を伴います。

番組を拝見し、そう言った方が、複数おられました。
父とご生還された方の会話は、本編にいたしましたが、
「総員最上甲板」と下令されたわけですから。と思って頂きたいです。
これは自身の大きな宿題だと思っております。
時間をかけて整理していこうかと思っております。
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見張り員さんへ (酔漢です)
2012-08-26 07:41:13
「涼月」を拝読いたしました。
また、くだまき、涼月編の御高覧ありがとうございます。

多くの方々のお話しを直接聞くことができた、最後の世代だと思うのです。
少しでも伝えることができれば。と思いながら語っております。
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