年下君が無事この春高校生になりました。
「英語の教科書見せてくれないか」
「いいよ」
となりまして、ページを開きました。
「今の教科書は写真が多いなぁ」と、しばらく読んでおりますと。
「ジャッキー・ロビンソン」の話。
「おい、この野球選手。知ってるか?」
「誰?」
「ジャッキー・ロビンソンだよ。『メジャーのカラーの壁』を最初に破った男さ」
「『カラーの壁』?なんだそれ?」
「それまで、メジャーは肌の色で入団できない人もいたんだ。黒人(表現上、使用しました。意図はございません。ご容赦下さい。また、以下の語りでも出てまいりますが、同様でございます)選手は、独立リーグ(二グロリーグ→先、同様です)でしか野球ができなかったんだ」
「なるほどね、人種の壁を越えたというところから、教科書に載っているわけだ」
「そうだな。功績はこれだけではないけど、メジャー全ての球団で背番号42は永久欠番になっていて、彼がメジャーデビューを飾った日、4月15日は『ジャッキー・ロビンソンデー』としてメジャーリーグ出場選手が全員背番号42をつけてプレーするんだ」
「じゃぁ誰が誰だかわからないじゃん!」
「イチローも松井もそうなんだ。それだけ、人々の敬意を集めた証拠でもあると思う」
ふーんと話を聞きながら、彼は教科書をめくっております。
酔漢、ふと、ある選手の名前を思い出しました。
「ジャッキー・ロビンソンが所属した『黒人リーグ』には、人類史上、最強の投手がいたんだ」
「最強?どういう意味?」
「文字通り!『最強』さ!」
「名前は?」
「サチェル・ペイジ」
「聞いたことない・・」
という会話の後、息子への「くだまき」を語りました「酔漢」でございました。
「ハンク・アーロン」の名前を知らない方は少ないかと存じます。
王貞治が記録を塗り替えるまでのホームラン世界記録保持者。来日した際のホームラン競争は、酔漢も見ておりました。
メジャ-リーグがまだ身近な存在ではない時代です。
新聞でしかしらない選手を目の当たりに見ることは、とてもエキサイトに思えました。
そのアーロン選手の逸話です。
「子供の頃、よく二グロリーグを見ていた。それはすごい選手ばかりで。実はメジャーより上手い選手はたくさんいたと思う。ジャッキー・ロビンソンはよく覚えているよ。彼の話を近くで聞いたことがある。だけど、どの投手も球が速かった。『あの球は打てっこない』でも大人になったら打てるようになるかもしれない。そう思いながら練習したんだ。
特に『サチェル・ペイジ』は、どう考えたって打てっこない。そう思えたんだ。メジャーデビューしたとき監督から『あいつの玉はめっぽう速い。バットはコンパクトに振り抜くんだ』だけど、バッターボックスに入ってストレートを見るとさして速くないことに気づいたんだ。サチェルの方がもっと、もっと速かったって」
ジャッキー・ロビンソンにメジャーへの道を開いたのは当時の「ブルックリン・ドジャース」これは、サチェルにとって相当ショックな出来事でした。
「待っても待っても、そんな日は永久にやって来ないんだと思っていた、その日は突然訪れた。だが、それは私にではなかった」
彼は当時42歳。全盛期をすでに過ぎたロートルと契約するよりは、若い将来性のあるジャッキーとの契約を選んだ「ドジャ-ス」でした。
彼は、自分のピッチングはまだメジャーで通用することを知っているのでした。
しかして、二グロリーグでの彼の実績はどのようなものか。
驚愕の記録しか残っていません。
登板試合数 約2480。2000勝以上の勝ち星。350近くの完封勝利。
ノーヒットノーラン55試合。
桁があまりにも違いすぎます。
「おーいサチェル。いつものやつをたのむぜぇ」と客席から声がかかります。
サチェル、客席の方を向いてニヤリと笑いました。
回は9回。ツーアウト。ここまで完全試合。奪三振22個。
キャッチャーが立ち上がります。
客席は大勢の拍手。
三者連続敬遠。
そして、三者連続三振。ゲームセット。
ですから、完全試合は記録に残っておりません。
人間業ではないのです。
野手全員を座らせて全打者三振アウト。
27連続三振の後、28人目が降り逃げ。29人目が三振アウト。
伝説には事欠きません。
球が早かったのか。コントロールが良かったのか。
サチェルの場合はその両方。
メジャーとの交流戦。
相手の投手は「火の玉」と恐れられた「ボブ・フェラー」
「俺、この試合投げるのが嫌になった」
「どうしたんだ?」
「奴(サチェル)の投げる球がファストボールなら、俺の投げているのは全部チェンジアップに見える」と言わしめております。
ブルペンでの練習。ホームベースに置かれたタバコの箱。
「この箱をかすめて倒す投球ができた。それも全球だ」
との証言もございます。
メジャーでの映像が残されております。
どちらかといいますと、サイドスロー的な横手投げ。さすがに、往年の急速はございません。打たせて取るというような軟投派の投手のようです。
ですが、肩をあれだけ酷使した後の映像です。
メジャー通算成績は28勝31敗、防御率3.29。
1952年には46歳で12勝10敗。
最後の登板が1965年。
御年59歳。
ですが、「年齢を偽って」との説もあり「実際は60を超えていたんじゃないか」との説もあります。
「俺がメジャーでやっていけたのは『サチェル』がいたからなんだ」
晩年、ジャッキー・ロビンソンはこう語っております。
「ノーランの球が速いって!じょうだんじゃない。サチェルの方が速いに決まってる」
ハンク・アーロンがこう証言しております。
「メジャーの投手の球が全てチェンジアップに見える」
繰り返すようですが、ボブ・フェラーが言っていることは本当だと信じます。
推定急速約180km。
実在した史上最強の投手なのでした。
メジャーでの成績は上記です。
ですが、成績では測れない記録の持ち主。
メジャーは彼の功績をたたえ「殿堂入り」をさせております。
1971年のことでした。
1965年。彼最後のマウンド。
「メジャー最高齢登板」の試合。
ベンチの正面にはロッキングチェアが用意されておりました。
彼が仕事を終えてベンチに向かう途中、観客は総立ち、そして全員であの歌を歌います。
Take Me Out To The Ball Game
1934年二グロリーグの公式記録。
105試合登板104勝。
球春は来ぬ。
後書。酔漢拝。
暗い「くだまき」が多くなっております。
ここで、野球の話を語りました。
「サチェル・ペイジ」の名はあまり知られていないのが事実です。
少し、ご紹介したくなりました。
カテゴリーも「宮城」ではありましたが、これは酔漢のこだわりでございまして、意味はございません。
この「くだまき」で少し、頭をリフレッシュしたくなったのが本音でございます。
次回より「大和」の総括へと向かいます。
故郷の事を考え、また日々飛込んでくるニュースを拝見いたしますと、気持ちの切り替えが難しい。ですが、すこしでも、日常にと考えております。
参考文献
佐山和夫著 『史上最高の投手はだれか』(潮出版社,1984年)
上記佐山氏によって日本でも少しだけ知られるようになりました。
「英語の教科書見せてくれないか」
「いいよ」
となりまして、ページを開きました。
「今の教科書は写真が多いなぁ」と、しばらく読んでおりますと。
「ジャッキー・ロビンソン」の話。
「おい、この野球選手。知ってるか?」
「誰?」
「ジャッキー・ロビンソンだよ。『メジャーのカラーの壁』を最初に破った男さ」
「『カラーの壁』?なんだそれ?」
「それまで、メジャーは肌の色で入団できない人もいたんだ。黒人(表現上、使用しました。意図はございません。ご容赦下さい。また、以下の語りでも出てまいりますが、同様でございます)選手は、独立リーグ(二グロリーグ→先、同様です)でしか野球ができなかったんだ」
「なるほどね、人種の壁を越えたというところから、教科書に載っているわけだ」
「そうだな。功績はこれだけではないけど、メジャー全ての球団で背番号42は永久欠番になっていて、彼がメジャーデビューを飾った日、4月15日は『ジャッキー・ロビンソンデー』としてメジャーリーグ出場選手が全員背番号42をつけてプレーするんだ」
「じゃぁ誰が誰だかわからないじゃん!」
「イチローも松井もそうなんだ。それだけ、人々の敬意を集めた証拠でもあると思う」
ふーんと話を聞きながら、彼は教科書をめくっております。
酔漢、ふと、ある選手の名前を思い出しました。
「ジャッキー・ロビンソンが所属した『黒人リーグ』には、人類史上、最強の投手がいたんだ」
「最強?どういう意味?」
「文字通り!『最強』さ!」
「名前は?」
「サチェル・ペイジ」
「聞いたことない・・」
という会話の後、息子への「くだまき」を語りました「酔漢」でございました。
「ハンク・アーロン」の名前を知らない方は少ないかと存じます。
王貞治が記録を塗り替えるまでのホームラン世界記録保持者。来日した際のホームラン競争は、酔漢も見ておりました。
メジャ-リーグがまだ身近な存在ではない時代です。
新聞でしかしらない選手を目の当たりに見ることは、とてもエキサイトに思えました。
そのアーロン選手の逸話です。
「子供の頃、よく二グロリーグを見ていた。それはすごい選手ばかりで。実はメジャーより上手い選手はたくさんいたと思う。ジャッキー・ロビンソンはよく覚えているよ。彼の話を近くで聞いたことがある。だけど、どの投手も球が速かった。『あの球は打てっこない』でも大人になったら打てるようになるかもしれない。そう思いながら練習したんだ。
特に『サチェル・ペイジ』は、どう考えたって打てっこない。そう思えたんだ。メジャーデビューしたとき監督から『あいつの玉はめっぽう速い。バットはコンパクトに振り抜くんだ』だけど、バッターボックスに入ってストレートを見るとさして速くないことに気づいたんだ。サチェルの方がもっと、もっと速かったって」
ジャッキー・ロビンソンにメジャーへの道を開いたのは当時の「ブルックリン・ドジャース」これは、サチェルにとって相当ショックな出来事でした。
「待っても待っても、そんな日は永久にやって来ないんだと思っていた、その日は突然訪れた。だが、それは私にではなかった」
彼は当時42歳。全盛期をすでに過ぎたロートルと契約するよりは、若い将来性のあるジャッキーとの契約を選んだ「ドジャ-ス」でした。
彼は、自分のピッチングはまだメジャーで通用することを知っているのでした。
しかして、二グロリーグでの彼の実績はどのようなものか。
驚愕の記録しか残っていません。
登板試合数 約2480。2000勝以上の勝ち星。350近くの完封勝利。
ノーヒットノーラン55試合。
桁があまりにも違いすぎます。
「おーいサチェル。いつものやつをたのむぜぇ」と客席から声がかかります。
サチェル、客席の方を向いてニヤリと笑いました。
回は9回。ツーアウト。ここまで完全試合。奪三振22個。
キャッチャーが立ち上がります。
客席は大勢の拍手。
三者連続敬遠。
そして、三者連続三振。ゲームセット。
ですから、完全試合は記録に残っておりません。
人間業ではないのです。
野手全員を座らせて全打者三振アウト。
27連続三振の後、28人目が降り逃げ。29人目が三振アウト。
伝説には事欠きません。
球が早かったのか。コントロールが良かったのか。
サチェルの場合はその両方。
メジャーとの交流戦。
相手の投手は「火の玉」と恐れられた「ボブ・フェラー」
「俺、この試合投げるのが嫌になった」
「どうしたんだ?」
「奴(サチェル)の投げる球がファストボールなら、俺の投げているのは全部チェンジアップに見える」と言わしめております。
ブルペンでの練習。ホームベースに置かれたタバコの箱。
「この箱をかすめて倒す投球ができた。それも全球だ」
との証言もございます。
メジャーでの映像が残されております。
どちらかといいますと、サイドスロー的な横手投げ。さすがに、往年の急速はございません。打たせて取るというような軟投派の投手のようです。
ですが、肩をあれだけ酷使した後の映像です。
メジャー通算成績は28勝31敗、防御率3.29。
1952年には46歳で12勝10敗。
最後の登板が1965年。
御年59歳。
ですが、「年齢を偽って」との説もあり「実際は60を超えていたんじゃないか」との説もあります。
「俺がメジャーでやっていけたのは『サチェル』がいたからなんだ」
晩年、ジャッキー・ロビンソンはこう語っております。
「ノーランの球が速いって!じょうだんじゃない。サチェルの方が速いに決まってる」
ハンク・アーロンがこう証言しております。
「メジャーの投手の球が全てチェンジアップに見える」
繰り返すようですが、ボブ・フェラーが言っていることは本当だと信じます。
推定急速約180km。
実在した史上最強の投手なのでした。
メジャーでの成績は上記です。
ですが、成績では測れない記録の持ち主。
メジャーは彼の功績をたたえ「殿堂入り」をさせております。
1971年のことでした。
1965年。彼最後のマウンド。
「メジャー最高齢登板」の試合。
ベンチの正面にはロッキングチェアが用意されておりました。
彼が仕事を終えてベンチに向かう途中、観客は総立ち、そして全員であの歌を歌います。
Take Me Out To The Ball Game
1934年二グロリーグの公式記録。
105試合登板104勝。
球春は来ぬ。
後書。酔漢拝。
暗い「くだまき」が多くなっております。
ここで、野球の話を語りました。
「サチェル・ペイジ」の名はあまり知られていないのが事実です。
少し、ご紹介したくなりました。
カテゴリーも「宮城」ではありましたが、これは酔漢のこだわりでございまして、意味はございません。
この「くだまき」で少し、頭をリフレッシュしたくなったのが本音でございます。
次回より「大和」の総括へと向かいます。
故郷の事を考え、また日々飛込んでくるニュースを拝見いたしますと、気持ちの切り替えが難しい。ですが、すこしでも、日常にと考えております。
参考文献
佐山和夫著 『史上最高の投手はだれか』(潮出版社,1984年)
上記佐山氏によって日本でも少しだけ知られるようになりました。
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