「ひーさんの散歩道」ブロ友さんでございます「ひーさん」が前回、蛸の話を記事にしております。
「味だこ・・・うめがった~」こちらへ参りますと、それはそれはおいしそうな蛸の見事な写真が掲載されております。
酔漢が今回写真にいたしましたのは、「蛸の頭(←この言い方も少し不思議なような気がしないでもないのですが)の部分を刺身」にしたものです。
「たこ焼きにでもすっぺか」だったのですが、「今度いづ食えっかわがんねぇからっしゃ」という事で、刺身にいたしました。
冷凍保存していたものを解凍して捌きました。
「今度・・・いつになったら・・・・」
この蛸。南三陸町は志津川湾で捕れた蛸なのです。
この蛸のお話です。
震災から二週間後。池袋にあります「宮城故郷プラザ」のニュースを放映しておりました。「営業時間の縮小を与儀なくされているものの、宮城の物産品等は通常に販売している」という内容でした。
「催事なんかできないんだろうなぁ」と思っておりましたら。
「なんだや!おおのさんでねぇか!」といつもの馴染のお顔が映っておりました。
写真の蛸はその「おおのさん」から買い求めた(半分頂いた・・ような物・・デス)蛸なのです。
「志津川の家は大丈夫だったのかや?それと、志津川さぁあるはずの商品はなんじょしたんだべ」
と疑問に思いました。
「まんず、本人無事でえがったなやな」
と安堵しました酔漢です。
「おおのさん」との出会いは、かれこれ二十数年前。みなさん御存知かと思いますが、よくスーパーの店頭などで行われております「催事」がありますが、酔漢、この部門を担当しておりました。
「宮城県からすか。物産展。若芽、珍味他・・『志津川物産』」これが、当時の催事名でした。
朝、準備しております。
「担当の酔漢です。よろしくお願いします」
とあいさつをいたしますと。
「んで、こちらこそ」
と懐かしい「宮城語」。
「俺、塩竈さぁ実家あんだおん」
「何っしゃ!あんだ塩竈すか!」
と、途端に、宮城語連発。
ここは横浜の真ん中なんだけどなぁ・・・。
上記のような出会いだったのでした。
事あるたび、仕事を一緒にいたしました。
この蛸を購入したのは、昨年の大晦日。
「酔漢さん、久しぶりだなや」
「元気だったのすか?」
回りはついていけない様子。
「酔漢さん訛ってるぅぅぅ」と、周り。
その後。
「酔漢さん、今日『蛸』あっからっしゃ。持っていかいん」
「何、蛸あんのすか!志津川の蛸だすぺ!正月に食うのに丁度いいっちゃ。だれ、やっぱすぃ『なめた』は高ぇし、こっちでは食ぇねぇんだおん」
「んだなぁ、『なめた』は暫らく食ってねぇなや。正月は忙しくて帰れねぇ(志津川)んだおん。昨日は池袋のデパートさぁ行ってたんだおんなや」
ですから、このお正月料理は豪勢でした。
「志津川のゆで蛸」「珍味多数」「数の子」他。
故郷の味を十分堪能いたしました。
その蛸ですが、「足は昨日全部売れちまって・・頭の方だけんどっしゃ」
「志津川の蛸は半分『幻』みてぇなもんだべ。ありがてぇっちゃ」
写真はその残り。
先週、刺身にした経緯は上記の通りです。
今いる営業所の上司とも付き合いが古くて、お互いプライベートで連絡を取り合う中でございます。
地震から四日後。連絡が取れたと話されました。
「酔漢、志津川の『おおのさん』だけど、やっぱし、家が流されておかあさんが行方不明なんだって・・」
「やっぱし、そうすか・・・」
お母様の安否を心配いたしました。
本人は都内にいるだろうと、思っておりましたら、その「宮城故郷プラザ」でのニュース放送。その直後、やはり上司に電話があったそうです。
その状況を知る事が出来ました。
「おおのさん」一週間後に志津川に戻られたそうです。
その話をされていらしたそうです。
「湾の中は瓦礫で一杯。その中から死体が見えているが、引き上げる事が出来ない。まさに地獄絵そのもの・・・」
酔漢には想像できません。
被災地はこのような状況だったのだろうと、経験された方の心境、如何ばかりでございましょう。
その話の続きです。
「港に近かった倉庫の商品は津波で流された。だけど、山側の倉庫は無事で、そこにあるわずかな『若芽』とかを東京に持っていったんだ」
少しでも、「志津川の復興に役立ちたい」
この思いが、志津川から一昼夜走り続けて池袋にたどりつき、普通に商売を始めたとのことでした。
「少しでも宣伝になれば・・そして、仕事してねぇとな・・」
「おおのさん」が最後に話した言葉だったそうです。
「おおのさん」のお母様は・・。
先だって行われました「日米共同海上捜索」によりまして、見つかった(ご遺体です)そうです。沖合40km。よく見つかったと思います。
「行方不明のままでねぐてや・・・」
この言葉にかける言葉は見当たりません。
今、「くだまき」を語りながら「JーWAVE」を聴いております。「ジョン川平」氏のDJです。「東北の特集」です。たった今(9時47分)話題は志津川。「父の味」という電話インタビューでした。
南三陸の海の幸。
思い出のある方は多かろうと思います。
「夏の海鞘。冬の牡蠣」
懐かしさが込み上げてまいります。
父はわざわざ塩竈から車を飛ばして買い求めた「志津川の蛸」でした。
「お前、『三陸』ってどこを指すのか知ってるか?」
と年下君に話を振りました。
「そういえば・・・宮城とか岩手とか・・・」
「お前な塩竈に行くとき『陸前なんとか』って駅あるだろう」
とシティラピッド君が突っ込みます。
「そうすると・・だ・・『陸前』と・・『陸中』があって・・陸は二つじゃん!」
「青森の太平洋岸は?」
「知らない・・」
「『陸奥』・・まぁ駅名は『むつ』で平仮名だし、市名も『むつ市』だもんな。漢字じゃないから」シティラピッド君の解説。
「そうだよなぁ・・・『陸奥』って聞くと俺は別なものを想像する」
「親父ぃぃ・・軍艦かよ!」
「まぁそんな事だ」
「その『三陸』って言葉が定着したのは、明治時代、『三陸津波』と名前が付けられてからなんだ」
南三陸志津川。
幻の蛸を摘まみながら、あの海の色を思い出した酔漢でした。
震災の「くだまき」はこれにて最終にしたいと考えます。
ですが、先の「内陸地震」の際は丹治さんからその復興の様子をコメントと共に、二年以上続きました。
多くの方々からのコメントを拝読しながら、このカテゴリーは「くだまき」が続く限り残しておきます。
まだまだ、復興とは行かない故郷です。
行方不明の知人がまだおります。
この思いが癒える日が来るのでしょうか。「いつかは・・来る」と頭では分かっているものの、それが「何時になるのか・・」今は想像できません。
五月一日。
帰塩の予定を立てました。
遅くなりました。
「味だこ・・・うめがった~」こちらへ参りますと、それはそれはおいしそうな蛸の見事な写真が掲載されております。
酔漢が今回写真にいたしましたのは、「蛸の頭(←この言い方も少し不思議なような気がしないでもないのですが)の部分を刺身」にしたものです。
「たこ焼きにでもすっぺか」だったのですが、「今度いづ食えっかわがんねぇからっしゃ」という事で、刺身にいたしました。
冷凍保存していたものを解凍して捌きました。
「今度・・・いつになったら・・・・」
この蛸。南三陸町は志津川湾で捕れた蛸なのです。
この蛸のお話です。
震災から二週間後。池袋にあります「宮城故郷プラザ」のニュースを放映しておりました。「営業時間の縮小を与儀なくされているものの、宮城の物産品等は通常に販売している」という内容でした。
「催事なんかできないんだろうなぁ」と思っておりましたら。
「なんだや!おおのさんでねぇか!」といつもの馴染のお顔が映っておりました。
写真の蛸はその「おおのさん」から買い求めた(半分頂いた・・ような物・・デス)蛸なのです。
「志津川の家は大丈夫だったのかや?それと、志津川さぁあるはずの商品はなんじょしたんだべ」
と疑問に思いました。
「まんず、本人無事でえがったなやな」
と安堵しました酔漢です。
「おおのさん」との出会いは、かれこれ二十数年前。みなさん御存知かと思いますが、よくスーパーの店頭などで行われております「催事」がありますが、酔漢、この部門を担当しておりました。
「宮城県からすか。物産展。若芽、珍味他・・『志津川物産』」これが、当時の催事名でした。
朝、準備しております。
「担当の酔漢です。よろしくお願いします」
とあいさつをいたしますと。
「んで、こちらこそ」
と懐かしい「宮城語」。
「俺、塩竈さぁ実家あんだおん」
「何っしゃ!あんだ塩竈すか!」
と、途端に、宮城語連発。
ここは横浜の真ん中なんだけどなぁ・・・。
上記のような出会いだったのでした。
事あるたび、仕事を一緒にいたしました。
この蛸を購入したのは、昨年の大晦日。
「酔漢さん、久しぶりだなや」
「元気だったのすか?」
回りはついていけない様子。
「酔漢さん訛ってるぅぅぅ」と、周り。
その後。
「酔漢さん、今日『蛸』あっからっしゃ。持っていかいん」
「何、蛸あんのすか!志津川の蛸だすぺ!正月に食うのに丁度いいっちゃ。だれ、やっぱすぃ『なめた』は高ぇし、こっちでは食ぇねぇんだおん」
「んだなぁ、『なめた』は暫らく食ってねぇなや。正月は忙しくて帰れねぇ(志津川)んだおん。昨日は池袋のデパートさぁ行ってたんだおんなや」
ですから、このお正月料理は豪勢でした。
「志津川のゆで蛸」「珍味多数」「数の子」他。
故郷の味を十分堪能いたしました。
その蛸ですが、「足は昨日全部売れちまって・・頭の方だけんどっしゃ」
「志津川の蛸は半分『幻』みてぇなもんだべ。ありがてぇっちゃ」
写真はその残り。
先週、刺身にした経緯は上記の通りです。
今いる営業所の上司とも付き合いが古くて、お互いプライベートで連絡を取り合う中でございます。
地震から四日後。連絡が取れたと話されました。
「酔漢、志津川の『おおのさん』だけど、やっぱし、家が流されておかあさんが行方不明なんだって・・」
「やっぱし、そうすか・・・」
お母様の安否を心配いたしました。
本人は都内にいるだろうと、思っておりましたら、その「宮城故郷プラザ」でのニュース放送。その直後、やはり上司に電話があったそうです。
その状況を知る事が出来ました。
「おおのさん」一週間後に志津川に戻られたそうです。
その話をされていらしたそうです。
「湾の中は瓦礫で一杯。その中から死体が見えているが、引き上げる事が出来ない。まさに地獄絵そのもの・・・」
酔漢には想像できません。
被災地はこのような状況だったのだろうと、経験された方の心境、如何ばかりでございましょう。
その話の続きです。
「港に近かった倉庫の商品は津波で流された。だけど、山側の倉庫は無事で、そこにあるわずかな『若芽』とかを東京に持っていったんだ」
少しでも、「志津川の復興に役立ちたい」
この思いが、志津川から一昼夜走り続けて池袋にたどりつき、普通に商売を始めたとのことでした。
「少しでも宣伝になれば・・そして、仕事してねぇとな・・」
「おおのさん」が最後に話した言葉だったそうです。
「おおのさん」のお母様は・・。
先だって行われました「日米共同海上捜索」によりまして、見つかった(ご遺体です)そうです。沖合40km。よく見つかったと思います。
「行方不明のままでねぐてや・・・」
この言葉にかける言葉は見当たりません。
今、「くだまき」を語りながら「JーWAVE」を聴いております。「ジョン川平」氏のDJです。「東北の特集」です。たった今(9時47分)話題は志津川。「父の味」という電話インタビューでした。
南三陸の海の幸。
思い出のある方は多かろうと思います。
「夏の海鞘。冬の牡蠣」
懐かしさが込み上げてまいります。
父はわざわざ塩竈から車を飛ばして買い求めた「志津川の蛸」でした。
「お前、『三陸』ってどこを指すのか知ってるか?」
と年下君に話を振りました。
「そういえば・・・宮城とか岩手とか・・・」
「お前な塩竈に行くとき『陸前なんとか』って駅あるだろう」
とシティラピッド君が突っ込みます。
「そうすると・・だ・・『陸前』と・・『陸中』があって・・陸は二つじゃん!」
「青森の太平洋岸は?」
「知らない・・」
「『陸奥』・・まぁ駅名は『むつ』で平仮名だし、市名も『むつ市』だもんな。漢字じゃないから」シティラピッド君の解説。
「そうだよなぁ・・・『陸奥』って聞くと俺は別なものを想像する」
「親父ぃぃ・・軍艦かよ!」
「まぁそんな事だ」
「その『三陸』って言葉が定着したのは、明治時代、『三陸津波』と名前が付けられてからなんだ」
南三陸志津川。
幻の蛸を摘まみながら、あの海の色を思い出した酔漢でした。
震災の「くだまき」はこれにて最終にしたいと考えます。
ですが、先の「内陸地震」の際は丹治さんからその復興の様子をコメントと共に、二年以上続きました。
多くの方々からのコメントを拝読しながら、このカテゴリーは「くだまき」が続く限り残しておきます。
まだまだ、復興とは行かない故郷です。
行方不明の知人がまだおります。
この思いが癒える日が来るのでしょうか。「いつかは・・来る」と頭では分かっているものの、それが「何時になるのか・・」今は想像できません。
五月一日。
帰塩の予定を立てました。
遅くなりました。
そんな訳あり蛸だったのですね。
頭じゃ無くてもやはり、頭と行った方が通じますね。
瓦礫を一気に機械で撤去できないのは、遺体があるからなんですよね。
時間が掛かりそうですね。
本当は、瓦礫じゃなくて思い出の切れ端と言いたいところです。
テレビで宮城の牡蠣をやってました。
店に出荷した牡蠣を宮城に戻して、種牡蠣にするそうです。
まだまだ足りませんが、広島や福岡を初め日本国内だけでなく世界中に宮城の種が輸出されているそうです。その為宮城だけの問題では無く、世界に広まっているそうです。
GWお気をつけて帰郷してください。
所属会社が災害見舞金を(微々たる額ですが)出してくれることになったので、実家の被害状況の確認と、出来れば親戚と友人関係の様子見を兼ねてのつもりです。
仙台まで足を伸ばせれば良かったのですが、今回は地元を回るので精一杯かと思います…。
話は変わりますが、今年も仙台七夕と石巻の花火大会(川開きですかね?)は開催予定というニュースを見かけ、少なからず安堵しました。
仙台七夕は、是非行きたいところですが、カレンダー通りの仕事ゆえ、残念ながらそうは問屋が卸さない状況ですね。
帰省時は、身の回り、足元、体調などお気をつけて行ってらっしゃいませm(__)m
これまでなぜ三陸というのかと思ってました。
「陸前」と「陸中」と「陸奥」なんですね。
吉村昭の「三陸海岸大津波」には、過去二度、三陸地方を襲った大津波の模様が記されているとのことですが、それだと原発事故の「想定外」は許されませんね。人災です。
「戦艦陸奥」の艦体や乗組員の遺品が展示してある「陸奥記念館」が山口県の周防大島町にあります。陸奥が沈没した柱島近くです。
「なめた」はこちらでは聞いたことがないです。
やはり「しづがわ」の方が耳に馴染んでおります。海の幸の多いところですが、三陸の海の幸がふつうに戻ってくるのには大分時間が掛かるのでしょう。「三陸の幸」は地域経済をも支えています。
早期の復興を願わんばかりです。
ドアからは研究室に入れませんでした。
どうしたでしょう。
ご想像にお任せします。
しかして、彼からの電話です。
「前に進めない。PCまでたどり着けない!」
研究室内で遭難しないよう連絡いたしました。
七夕も花火大会もなければ、それこそ寂しい井夏になるような感じを持ってました。
開催の決定が決まってよかったです。
縁側のところが厚くておいしい魚です。
「陸奥謎の爆発」
原因が不明ですね。
「大和の爆発」の話をされました庭田元呉工廠長は「三式弾は誘爆しない」と話されていたと父から聞きました。
「大和ミュージアム」も「陸奥記念館」も是非訪ねてみたいです。
蛸の足より、頭が好きないーちゃんの母です。
先日、生協の商品カタログに『かすべ』があったんですね。
酔漢さんは、ご存知ですか?
『かすべ』
エイです。
甘じょっぱく煮付けにして食べます。
やはり、ホッとしますね。
故郷の味、今は亡き母の味ですから…。
ソウルフード、大事にしたいですね。
5月の帰省、道中お気をつけて。
以前、電話を頂いた時に、先生がおっしゃっていた言葉です。
なるほど、やはり前に進めないような状況に…。
研究室で遭難では、洒落にもなりませんから、そこは無理をなさらないで頂きたいところですね。
今年は土日に被る良い日取りなのに、七夕に行けないなんて…。6年前の同じ暦の年は、金曜日の夜に、彼氏と仙台大橋の上をゆっくり歩きながら花火を見物いたしました。
当時私は白河に、彼氏は仙台に住んでおりましたので、ちょくちょく来仙する機会があったのですが……"思えば遠くに来たもんだ"とは、このことかと、しみじみ噛み締める次第です。
東北は、これからが春本番ですが、願わくば、心地好く過ごしやすい季節であってほしいものです。
あんがいおいしいものですが、あの姿を見ますと・・・。
人それぞれ譲れない「ソウルフード」はございます。
「誰が何と言おうとも譲れません!」
酔漢は「海鞘」とスコッチです。
相変わらず・・・デス。
ですか!
実は、まだこのブログへは自分のPCでいらしておらない丹治先生です。
予想通り・・・デス。
まず、ドアから中へ入れません。
ですから外からの室内侵入となりました。
あの本の山を復興させるのにはどの位の時間がかかるのでしょう。
四月末。丹治先生とお会いする約束をいたしました。先生のご自宅です。
果たして経過をご報告できるかと・・・
またの機会にいたしましょう。