昭和49年、酔漢は塩竃市立第二小学校6年7組に在籍しておりました。この年の秋から冬にかけては、酔漢と同じ世代の人達はかなり大きな変動と社会的にも大きな影響を受けた年ではなかったでしょうか。このブログでも、連合赤軍による国際的事件を扱いました。で、プロ野球でも10連覇をめざした読売巨人軍がセリーグで中日ドラゴンズにリーグ制覇をされるのではないかという熾烈なペナントレースを争っていましたし、なんと言いましても、長島茂男が引退するのではないかという事が決定的になっておりました。そして、仙台をフランチャイズとしていたロッテオリオンズがパリーグ制覇へ向けた戦いを続けておりました。
その頃、酔漢はラジオの深夜放送に興味を持ち始めました。マンガ家志望の同級生、さとう君がいたからでした。彼がラジオのキンドン(欽ちゃんのどーんと行ってみよう)を教えてくれたからでした。月曜日~金曜日まで東北放送で放送しておりましたが、ニッポン放送からの番組でしたが、僕等は完全にはまりました。
朝学校でさとう君と会うと、夕べの欽ドンの話題から挨拶が始まりました。
「昨日のドジ聞いたか」(帰って来たドジとなったのはこれ以降で、一時休止となりましたが、半年後に復活して帰って来たが付きました)
「聞いた聞いた」
「まる顔のドジな馬。笑えたなや」
「んだ。俺は、初めて女性の腕にはめられて、文字盤が真っ赤になったドジな男性用の時計。 これおもせぇかったなや」
てな具合でした。
さとう君は、ノートを取り出すと、昨日のネタをマンガにして僕等に見せてくれるのでした。
彼は、とりいかずよし氏の「トイレット博士」の大ファンで、クラスの仲よし組みには自身が作った「マタンキ団バッヂ」をくれたのでした。
授業です。
「おめぇらなぁ、この前の漢字テストみんなして成績悪かったでねぇか。今日はこの前の漢字の復習すっから。問題さぁでた漢字ば残りの時間で書き取っておけよ」
「やっぱし、すぐテストさぁすんのかや」
「あたりめだ!おめぇら気ぃぬぐと、すぐ遊ぶからや」
エツジが本気だと僕らは思いました。エツジが本気だとこれは相当まずい事になるわけでした。
みんなが静かに漢字の書き取りをしている教室を、エツジが巡回しています。
その時、エツジの足音が教室から消えました。
「なんだべ?」気づいた奴はエツジの方を向きます。
たった一人全く気づかない奴がおりまして・・・・
エツジは、しばらくさとう君の脇に立ったまんまです。彼が一生懸命やっている何かをじーっと見ているのでした。教室は緊張の沸点!ですが彼はいっこうに気づかない様子でした。
「さとう何やってんだおめぇ。ちと見せててみろ!」
エツジが大声をあげました。エツジは彼のノートを取上げると、パラパラめくり始めました。
「先生何すのっしゃ。やめてけらいん」
エツジはそんなさとう君の言葉も無視したままノートをめくっていました。
僕等は彼がマンガを書いていたと気づいていました。エツジが怒ると「バツ当番」が待っています。それだ!と酔漢は思いました。しばらくしてからエツジが口を開きました。
「なかなかうめぇんでんぇか」
「えっ?」
「ちゃんとパラパラマンガになってんでねぇか」
「あたりめだっちゃ!。先生だれ、それ俺書いてんだぉん」
「そんなの自慢してなんじょすんだ。授業ちゅうだど。さとうの班バツ当番!」
やはり来ました。
「さとうの奴、みつかんねぇようにすればいかったのっしゃ」
「んだっちゃ」
みんなそう思っていました。でも次のエツジの言葉は以外でした。
「ただし。おめぇが(さとう君)マンガ家になりてぇのはよく分かった。でもや練習すんなら、授業中はダメだべ。遊び時間だけにすんだど」
「でも先生、休み時間だけだったら練習すんのに、たんねぇちゃ」
クラスは大爆笑でした。
実際彼のノートに書いてあったマンガは見事でした。
「正義のみかたピーマン参上」⇒顔も身体もピーマンなヒーローが繰り広げる物語。大学ノートに直筆で書いてあるおそらく彼最初の長編漫画。もちろん未公開。
佐藤 正君は昭和38年の元旦生まれ。よく、「クリスマスもお年玉も誕生日プレゼントもいっぺんにくんのっしゃ」と言っていました。
卒業文集にはしっかり「マンガ家になる」と書いておりました。
そして、転校する酔漢に、酔漢の顔を漫画してくれたのでした。
その頃、酔漢はラジオの深夜放送に興味を持ち始めました。マンガ家志望の同級生、さとう君がいたからでした。彼がラジオのキンドン(欽ちゃんのどーんと行ってみよう)を教えてくれたからでした。月曜日~金曜日まで東北放送で放送しておりましたが、ニッポン放送からの番組でしたが、僕等は完全にはまりました。
朝学校でさとう君と会うと、夕べの欽ドンの話題から挨拶が始まりました。
「昨日のドジ聞いたか」(帰って来たドジとなったのはこれ以降で、一時休止となりましたが、半年後に復活して帰って来たが付きました)
「聞いた聞いた」
「まる顔のドジな馬。笑えたなや」
「んだ。俺は、初めて女性の腕にはめられて、文字盤が真っ赤になったドジな男性用の時計。 これおもせぇかったなや」
てな具合でした。
さとう君は、ノートを取り出すと、昨日のネタをマンガにして僕等に見せてくれるのでした。
彼は、とりいかずよし氏の「トイレット博士」の大ファンで、クラスの仲よし組みには自身が作った「マタンキ団バッヂ」をくれたのでした。
授業です。
「おめぇらなぁ、この前の漢字テストみんなして成績悪かったでねぇか。今日はこの前の漢字の復習すっから。問題さぁでた漢字ば残りの時間で書き取っておけよ」
「やっぱし、すぐテストさぁすんのかや」
「あたりめだ!おめぇら気ぃぬぐと、すぐ遊ぶからや」
エツジが本気だと僕らは思いました。エツジが本気だとこれは相当まずい事になるわけでした。
みんなが静かに漢字の書き取りをしている教室を、エツジが巡回しています。
その時、エツジの足音が教室から消えました。
「なんだべ?」気づいた奴はエツジの方を向きます。
たった一人全く気づかない奴がおりまして・・・・
エツジは、しばらくさとう君の脇に立ったまんまです。彼が一生懸命やっている何かをじーっと見ているのでした。教室は緊張の沸点!ですが彼はいっこうに気づかない様子でした。
「さとう何やってんだおめぇ。ちと見せててみろ!」
エツジが大声をあげました。エツジは彼のノートを取上げると、パラパラめくり始めました。
「先生何すのっしゃ。やめてけらいん」
エツジはそんなさとう君の言葉も無視したままノートをめくっていました。
僕等は彼がマンガを書いていたと気づいていました。エツジが怒ると「バツ当番」が待っています。それだ!と酔漢は思いました。しばらくしてからエツジが口を開きました。
「なかなかうめぇんでんぇか」
「えっ?」
「ちゃんとパラパラマンガになってんでねぇか」
「あたりめだっちゃ!。先生だれ、それ俺書いてんだぉん」
「そんなの自慢してなんじょすんだ。授業ちゅうだど。さとうの班バツ当番!」
やはり来ました。
「さとうの奴、みつかんねぇようにすればいかったのっしゃ」
「んだっちゃ」
みんなそう思っていました。でも次のエツジの言葉は以外でした。
「ただし。おめぇが(さとう君)マンガ家になりてぇのはよく分かった。でもや練習すんなら、授業中はダメだべ。遊び時間だけにすんだど」
「でも先生、休み時間だけだったら練習すんのに、たんねぇちゃ」
クラスは大爆笑でした。
実際彼のノートに書いてあったマンガは見事でした。
「正義のみかたピーマン参上」⇒顔も身体もピーマンなヒーローが繰り広げる物語。大学ノートに直筆で書いてあるおそらく彼最初の長編漫画。もちろん未公開。
佐藤 正君は昭和38年の元旦生まれ。よく、「クリスマスもお年玉も誕生日プレゼントもいっぺんにくんのっしゃ」と言っていました。
卒業文集にはしっかり「マンガ家になる」と書いておりました。
そして、転校する酔漢に、酔漢の顔を漫画してくれたのでした。
中学から高校生時分は「りぼん」にはまっておりました。陸奥A子の大ファンでして、読者プレゼントの応募券を集めてました。
川内高校では、私の「りぼん」の回し読みが授業中の日常風景でした。
ラジオ番組といえば、高校時代に東北放送の某番組で最強?の投稿者でした。
やまがたすみこさんがDJをしておりました。
私の投稿が100%採用されるという、そんな番組ではありました。
私も2回転校、幼稚園入れると3回変わってます。
トイレット博士ファンは多いですね。品はなかったですけど。学生時代、チャンピオンのがきデカとあわせて読んでました。人気は二分してましたね。
やはり、小さい頃から目標を持っているとなれるものですね。
娘も言ってました。夢は叶うものだね…と
オリジナルを6年性が作るとは凄いですね。
関東へ飛び火してくるのは時間の問題と思われます。
仙台も全国規模での人の行き来が盛んですから危険と思われます。
感染力が尋常ではありません。せきやくしゃみだけではなく、呼気程度でも感染してしまうのかもしれません。
症状は今は軽くとも、いつ、より悪性に変異するかは予測不可能です。
数人単位ならともかく、今後かなりの感染者が発生した場合、保健所や発熱センターは機能停止とならざるを得ないと思います。
「樫の木陰でおひるねすれば」ですよね。
はたして、ただし君は「つるひめじゃぁ」土田よしこ先生作品のファンだったのでした。
と勝手なチャートを作ってみました。
ただし君はこの影響で「中日ファン」になって、「燃えよ中日ドラゴンズ」(歌 坂東英二)のレコードを教室でかけておりました。
教室ではにわかに「さとうただし漫画教室」が開かれました。
彼のギャグはこの頃から大人の感覚でした。