6月12日。仙台におられました皆様は忘れる事の出来ない日だろうと思います。
昭和53年、6月12日。あの「宮城県沖地震」があった日です。
酔漢、丁度仙台向山高校1年生。中間考査一週間前。授業が早く終了しておりましたが、酔漢一味は、まだあの木造校舎におりました。2階は1年6組です。
そうそう、現在あります体育館が建設中でした。
「中間考査の対策ってやってか?」と同級生のくりやま君です。
彼を少し紹介します。フルートの天才。ピアノの天才「かんのようこ」ちゃんと双璧です。(彼女のCM「なにしよぉぉかなぁぁーー。ビタミンウォォォタぁぁ」さりげなく彼女らしくて好きだなぁ)
「んなこと言ったってっしゃ、何も勉強してねぇっちゃ」としだ君。
彼も少し紹介します。彼も吹奏楽部。パンカッションとシンセサイザーの使い手でございました。
「しばらく、自転車も封印だべ」と酔漢。
「ようこちゃんは帰ったのすか?」
「だいぶ前に帰ったっちゃ」
彼女も結構放課後残って、よくアニメの話なぞしていたのでした。ちなみにくりやま君は「OUT読者」でした。「超人ロック」にはまっております。
と、その時。
「地震だすぺ!!!」
と、おおもり君の声。
「んだ地震だっちゃ」
と、とたん!グラ・グラ・グラ(この書き込みをしてまして「グリとグラ」を思い出した酔漢です。⇒ぼくらぁの名前はグリとグラ。この世で一番すきなのはぁぁ⇒話もどします)と来まして・・・。
「何だ今の地震。変な揺れ方だったっちゃ」
「んでも、俺今や、体育館の工事しているおんちゃん見てたらっしゃ。鉄骨担ぎながら、片手で鉄柱さぁ掴まってたおんなや」
「あぶねぇっちゃ。んでもあれも技だっちゃな」
僕らのいた教室から廊下を隔てて、窓越しに工事現場が見えるのでした。
この地震があの前触れだとは誰も気づいていなかったのでした。
「どうせならもっとデカイの来ればおもせぇのになや」
と!冗談のつもりで話たのは酔漢でございます。⇒まったくあきれた話です。
「小学校の頃、夕方っしゃ。震度4の地震があってっしゃ。松島の材木島が崩れたんだおん。あれも結構揺れたっちゃ」
などと話をしておりまして。
「んでそろそろ帰ぇるすべ」
「んだ。いくらなんでも試験の対策しねぐてなんねぇっちゃ」
僕らはそれぞれの鞄を持って椅子から立ち上がろうとしたその時!
ごぉぉぉーーーーという音が遠くで聞こえました。
「何っしゃ?」そのとたん。
がぁぁぁぁーーーー。ごぉぉぉぉぉーーーー。と物凄い音と一緒にゆっさゆっさと教室が揺れだしました。
「なにっしゃぁぁぁぁぁぁ」
「はやぐ机さぁもぐれぇぇぇーー」
酔漢も机の下へ。
ところが、まるで船の底にでもいるような揺れ方でした。
左手が持ち上がったかと思うと、右手が床にめり込むように沈んで行く。
そんな揺れです。
「早ぐ終わってけさいん!」こう叫びたくなっております。
あちこちでパーンと蛍光灯が破裂する音。
ガラガラと何かが崩れる音。
(校舎崩れんでねぇべか!)本気で思いました。
何せ、昭和初期の建物です。木造です。
相当、長く感じました。揺れがゆっくり収まるのを感じました。
終わりました。
僕らはゆっくりと机から這い出しました。
くりやま君が青ざめてこう言いました。
「何があったのっしゃ?」
「こんな地震。初めてだっちゃ」しだ君。
「校舎、よくもったっちゃ」
その時、「だれかぁ校舎さぁいんのかぁ」と声。
阿部先生の声。担任です。
「先生残っていたのすか?おーーい」とおおもり君が叫びました。
先生の足音が聞こえてきます。
「おめぇら何さぁ教室さぁ残ってたんだ!」
「試験対策で勉強すっかと・・・」
「誰も怪我さぁしてねぇか?」
「みんな無事だすぺ」
「用務員室さぁラジオあっっちゃ。持ってくっからっしゃ」
その時、電気が止まっていることに初めて気づきました。
この時点でようやく只ならぬ天災が起きたのだと実感いたしました。
地震発生からもうすでに30分はかかっております。
「こちらはNHK仙台放送局です。先ほど、仙台市ならびにその周辺で相当強い揺れを観測いたしました。沿岸部の方は津波に警戒して下さい。むやみに外へ出ないで下さい。警察、消防の発表では怪我をされた方が大勢いるようです。被害の状況がわかり次第お伝えいたします。直仙台市内は交通機関が全てまひしております。市内は信号も消えております。ドライバーの皆様、警察の誘導に従うようお願いいたします」
具体的な被害状況はわかりません。
「酔漢、おめぇ塩竈だべ。どうして帰ぇんのすか?」
「まずは市内さぁ降りねぇ事さぁ話になんねぇさ」
「いいか、一人で帰ぇんなよ!みんなして帰れ」
僕らは校舎を出ました。
あちこちガラスが割れています。が幸い壁が崩れることはありませんでした。
向山からバス通りを下り、愛宕橋へと向う途中。僕らは愕然とするのでした。
ブロックの塀があちこち崩れております。また、ちょうど仙台放送の下の山が地肌が見えておりました。
だんだん事の大きさが判ってまいりました。
「酔漢、おめぇ本当に塩竈までなんじょして帰るのすか?一旦おらいさぁ寄ったらいいっちゃ」としだ君が声をかけてくれました。
「宮城野原だすぺ。いいのすか?」
「家(酔漢の)さぁ連絡もこれじゃぁ取れねぇべ。家さぁいたら自転車ば貸すど」
しだ君のお兄様は仙台じゃぁ有名な自転車のコレクターでした。
なんでも、トーエイのフルオーダーデモンタブルのオーナーでもあったのです。
「俺のユーラシア(ブリヂストン)貸すからっしゃ」
しだ君も1・1/2タイヤのユーラシアランドナーのオーナーでもあったのです。
「そこまで気がつかなかったっちゃ。自転車なら塩竈まで行けるおんな」
七郷のおおもり君と南小泉のくりやま君とは仙台駅東口で別れました。
仙台駅周辺は物凄い人。今でいう「帰宅難民」です。溢れかえっておりました。
そして電話ボックスは長蛇の列。
「電話すんのは諦めっぺ」
携帯のない時代です。電話ボックスが頼りでした。市内のあちこちからサイレンの音。ところどころ道端にはガラスの破片。
国道45号線を通り、小田原から宮城球場方面へ向いました。宮城野原テニスコートから育英学園方面途中。しだ君の倉庫兼自宅が見えました。
その傍にある駄菓子やの店先。電話が偶然空いております。
「電話してみっぺ」
とダイヤルを回したら。繫がった!
母がすぐ電話口へ。
「どこさぁいんのすか?」
宮城野原のしだ君宅を教えて、手短に電話を切りました。
母からはそこから動かないことと父に連絡を取り、車で向かえに行くという旨。
道路は込んでいるものの、何とか動ける状態ではありました。
しだ君の家は敷地内で焚き火をしています。
少しばかり、暖かい物を馳走になりました。
ラジオを聴きながら、死者も出たとの報に触れ、話す言葉もありません。
卸町のマルハのビルの倒壊。ガスタンクの傾斜。信号の回復が未だ。電気、ガス、水道の復旧もめどが立っていません。それに緑ヶ丘住宅のがけ崩れ。
友人が多く住んでいる地域。
「みんな何してんだべ」
午後7時を回りました。車のクラクションが、父の車です。
「助かった」本気でそう思いました。
「道はわりかし空いてた」
僕はしだ君ご家族へお礼をし、父の車で塩竈へ。
途中、救急車、消防者と多くすれ違いました。
「家はなんじょなのっしゃ?」
「ちゃわんが割れただけだっちゃ」
「えがったなや」
「少し、外壁にひびが入ったけどな」
ちなみに、地震データブックを見ますと、塩竈小松崎あたりは地盤が強固な色分けになっております。
家に着き、しかし、蝋燭の明かり。
水はなんとか確保しておりました。
不安と緊張で眠れません。徹夜でラジオを聴いておりました。
後程、聞きましたが、中学校同窓生さうら君とさとう君は一高から仙石線の鉄路を歩いて塩竈まで帰ったそうです。
仙石線は歩く人で一杯だったとか。
先日、宮城のニュースをみておりましたら「帰宅難民」の訓練が行われたとか。
これから30年の内に宮城県沖を震源とする地震の発生確率が90%であるとか。
宮城がこれほど地震の巣窟だったとは、知りませんでした。
6月12日。最初の話題はやはり「あの地震」からでした。
この日。その三年前。やはり人生で大きなウエートを占めております(現在も)あの出来事があったのでした。
次回はその事を語ります。ですがこれは、笑える?話です。
昭和53年、6月12日。あの「宮城県沖地震」があった日です。
酔漢、丁度仙台向山高校1年生。中間考査一週間前。授業が早く終了しておりましたが、酔漢一味は、まだあの木造校舎におりました。2階は1年6組です。
そうそう、現在あります体育館が建設中でした。
「中間考査の対策ってやってか?」と同級生のくりやま君です。
彼を少し紹介します。フルートの天才。ピアノの天才「かんのようこ」ちゃんと双璧です。(彼女のCM「なにしよぉぉかなぁぁーー。ビタミンウォォォタぁぁ」さりげなく彼女らしくて好きだなぁ)
「んなこと言ったってっしゃ、何も勉強してねぇっちゃ」としだ君。
彼も少し紹介します。彼も吹奏楽部。パンカッションとシンセサイザーの使い手でございました。
「しばらく、自転車も封印だべ」と酔漢。
「ようこちゃんは帰ったのすか?」
「だいぶ前に帰ったっちゃ」
彼女も結構放課後残って、よくアニメの話なぞしていたのでした。ちなみにくりやま君は「OUT読者」でした。「超人ロック」にはまっております。
と、その時。
「地震だすぺ!!!」
と、おおもり君の声。
「んだ地震だっちゃ」
と、とたん!グラ・グラ・グラ(この書き込みをしてまして「グリとグラ」を思い出した酔漢です。⇒ぼくらぁの名前はグリとグラ。この世で一番すきなのはぁぁ⇒話もどします)と来まして・・・。
「何だ今の地震。変な揺れ方だったっちゃ」
「んでも、俺今や、体育館の工事しているおんちゃん見てたらっしゃ。鉄骨担ぎながら、片手で鉄柱さぁ掴まってたおんなや」
「あぶねぇっちゃ。んでもあれも技だっちゃな」
僕らのいた教室から廊下を隔てて、窓越しに工事現場が見えるのでした。
この地震があの前触れだとは誰も気づいていなかったのでした。
「どうせならもっとデカイの来ればおもせぇのになや」
と!冗談のつもりで話たのは酔漢でございます。⇒まったくあきれた話です。
「小学校の頃、夕方っしゃ。震度4の地震があってっしゃ。松島の材木島が崩れたんだおん。あれも結構揺れたっちゃ」
などと話をしておりまして。
「んでそろそろ帰ぇるすべ」
「んだ。いくらなんでも試験の対策しねぐてなんねぇっちゃ」
僕らはそれぞれの鞄を持って椅子から立ち上がろうとしたその時!
ごぉぉぉーーーーという音が遠くで聞こえました。
「何っしゃ?」そのとたん。
がぁぁぁぁーーーー。ごぉぉぉぉぉーーーー。と物凄い音と一緒にゆっさゆっさと教室が揺れだしました。
「なにっしゃぁぁぁぁぁぁ」
「はやぐ机さぁもぐれぇぇぇーー」
酔漢も机の下へ。
ところが、まるで船の底にでもいるような揺れ方でした。
左手が持ち上がったかと思うと、右手が床にめり込むように沈んで行く。
そんな揺れです。
「早ぐ終わってけさいん!」こう叫びたくなっております。
あちこちでパーンと蛍光灯が破裂する音。
ガラガラと何かが崩れる音。
(校舎崩れんでねぇべか!)本気で思いました。
何せ、昭和初期の建物です。木造です。
相当、長く感じました。揺れがゆっくり収まるのを感じました。
終わりました。
僕らはゆっくりと机から這い出しました。
くりやま君が青ざめてこう言いました。
「何があったのっしゃ?」
「こんな地震。初めてだっちゃ」しだ君。
「校舎、よくもったっちゃ」
その時、「だれかぁ校舎さぁいんのかぁ」と声。
阿部先生の声。担任です。
「先生残っていたのすか?おーーい」とおおもり君が叫びました。
先生の足音が聞こえてきます。
「おめぇら何さぁ教室さぁ残ってたんだ!」
「試験対策で勉強すっかと・・・」
「誰も怪我さぁしてねぇか?」
「みんな無事だすぺ」
「用務員室さぁラジオあっっちゃ。持ってくっからっしゃ」
その時、電気が止まっていることに初めて気づきました。
この時点でようやく只ならぬ天災が起きたのだと実感いたしました。
地震発生からもうすでに30分はかかっております。
「こちらはNHK仙台放送局です。先ほど、仙台市ならびにその周辺で相当強い揺れを観測いたしました。沿岸部の方は津波に警戒して下さい。むやみに外へ出ないで下さい。警察、消防の発表では怪我をされた方が大勢いるようです。被害の状況がわかり次第お伝えいたします。直仙台市内は交通機関が全てまひしております。市内は信号も消えております。ドライバーの皆様、警察の誘導に従うようお願いいたします」
具体的な被害状況はわかりません。
「酔漢、おめぇ塩竈だべ。どうして帰ぇんのすか?」
「まずは市内さぁ降りねぇ事さぁ話になんねぇさ」
「いいか、一人で帰ぇんなよ!みんなして帰れ」
僕らは校舎を出ました。
あちこちガラスが割れています。が幸い壁が崩れることはありませんでした。
向山からバス通りを下り、愛宕橋へと向う途中。僕らは愕然とするのでした。
ブロックの塀があちこち崩れております。また、ちょうど仙台放送の下の山が地肌が見えておりました。
だんだん事の大きさが判ってまいりました。
「酔漢、おめぇ本当に塩竈までなんじょして帰るのすか?一旦おらいさぁ寄ったらいいっちゃ」としだ君が声をかけてくれました。
「宮城野原だすぺ。いいのすか?」
「家(酔漢の)さぁ連絡もこれじゃぁ取れねぇべ。家さぁいたら自転車ば貸すど」
しだ君のお兄様は仙台じゃぁ有名な自転車のコレクターでした。
なんでも、トーエイのフルオーダーデモンタブルのオーナーでもあったのです。
「俺のユーラシア(ブリヂストン)貸すからっしゃ」
しだ君も1・1/2タイヤのユーラシアランドナーのオーナーでもあったのです。
「そこまで気がつかなかったっちゃ。自転車なら塩竈まで行けるおんな」
七郷のおおもり君と南小泉のくりやま君とは仙台駅東口で別れました。
仙台駅周辺は物凄い人。今でいう「帰宅難民」です。溢れかえっておりました。
そして電話ボックスは長蛇の列。
「電話すんのは諦めっぺ」
携帯のない時代です。電話ボックスが頼りでした。市内のあちこちからサイレンの音。ところどころ道端にはガラスの破片。
国道45号線を通り、小田原から宮城球場方面へ向いました。宮城野原テニスコートから育英学園方面途中。しだ君の倉庫兼自宅が見えました。
その傍にある駄菓子やの店先。電話が偶然空いております。
「電話してみっぺ」
とダイヤルを回したら。繫がった!
母がすぐ電話口へ。
「どこさぁいんのすか?」
宮城野原のしだ君宅を教えて、手短に電話を切りました。
母からはそこから動かないことと父に連絡を取り、車で向かえに行くという旨。
道路は込んでいるものの、何とか動ける状態ではありました。
しだ君の家は敷地内で焚き火をしています。
少しばかり、暖かい物を馳走になりました。
ラジオを聴きながら、死者も出たとの報に触れ、話す言葉もありません。
卸町のマルハのビルの倒壊。ガスタンクの傾斜。信号の回復が未だ。電気、ガス、水道の復旧もめどが立っていません。それに緑ヶ丘住宅のがけ崩れ。
友人が多く住んでいる地域。
「みんな何してんだべ」
午後7時を回りました。車のクラクションが、父の車です。
「助かった」本気でそう思いました。
「道はわりかし空いてた」
僕はしだ君ご家族へお礼をし、父の車で塩竈へ。
途中、救急車、消防者と多くすれ違いました。
「家はなんじょなのっしゃ?」
「ちゃわんが割れただけだっちゃ」
「えがったなや」
「少し、外壁にひびが入ったけどな」
ちなみに、地震データブックを見ますと、塩竈小松崎あたりは地盤が強固な色分けになっております。
家に着き、しかし、蝋燭の明かり。
水はなんとか確保しておりました。
不安と緊張で眠れません。徹夜でラジオを聴いておりました。
後程、聞きましたが、中学校同窓生さうら君とさとう君は一高から仙石線の鉄路を歩いて塩竈まで帰ったそうです。
仙石線は歩く人で一杯だったとか。
先日、宮城のニュースをみておりましたら「帰宅難民」の訓練が行われたとか。
これから30年の内に宮城県沖を震源とする地震の発生確率が90%であるとか。
宮城がこれほど地震の巣窟だったとは、知りませんでした。
6月12日。最初の話題はやはり「あの地震」からでした。
この日。その三年前。やはり人生で大きなウエートを占めております(現在も)あの出来事があったのでした。
次回はその事を語ります。ですがこれは、笑える?話です。
ニュースで見た記憶があるような無いような・・・・
酔漢さんの実況中継風の文章が生々しく感じられます。
今後90パーセント以上の確率で仙台に地震が起こるそうです。
が、水の買い置き以外に何の対策もしていない我が家です。
当時オイラは小学一年生・・・お昼過ぎごろに突然強烈な横揺れが!!!
そのとき在宅していたオイラの親父は、柱にしがみつく家族を顧みもせず
裸足で外に飛び出して砂利道を突っ切り向いの空地に一目散・・・
つぎには小5の初夏、昭和43年5月の十勝沖地震
ちょうど2時間目の授業が始まったころに校舎がグラグラ!!!あわてて机の下にもぐりこみました。
夏休明けに北海道から転校してきた女の子の話によると
地震が収まって外に避難すると、校庭は地割れだらけで、つまづいて地割れに腰まではまったとか・・・
昨日6月14日は昨年起きた岩手宮城内陸地震から丸一年目・・・
用事で出かけた古川方面では、いたるところで防災訓練が行われていましたよ。
安アパートと公衆電話との間を何度往復したことでしょう。
やっと電話が繋がったのは日付が変わる直前でした。
「おー大丈夫だーコップが1ゴこわれちまっがなー」親父の声でした。心配かけやがって・・・
三小での放課後、あれは予防接種の日でした。
放課後の注射の順番待ちは、私を含めてあと2人で終了という時刻でした。
グゥゴゴゴゴー!!地面の底の奥深くから突き上げてくる衝撃は、今でも体に残っています。
新潟沖地震でした。2人で教室から逃げ出そうにも、なんと扉が開きません!
あまりの衝撃に机の下にも潜れず、教室の壁にしがみついて耐え抜きました。
歩くことにだけは地震じゃないや自信があります。帰宅難民にはなりたくありません。
そうそう酔漢さん。大地震の際には我が家までなんとかたどり着いてください。食い物だけはいっくらでもあります。井戸もありますしね。
まあ、牛君と鶏君には、運命だと諦めてもらいますがね・・・
ハンドルをとられ蛇行したのです。路肩に止まり様子を見てると誰かがイタズラしたかのように車体が揺れ…電線は縄跳びのように揺れていました。
塩竈の本町に行くと……
私もつづく…
人生で唯一『夕飯を食べられなかった日』でした。
びっくりしてのどを通らなかったことを記憶しています。
実家は小さなお店でしたので、乾電池や缶詰を買いに来るお客さんが大勢(赤字ローカル店なのに)来ていました。
サラリーマンの父は仕事で帰宅せず。
母にはなぜかランドセルと教科書をいつでも持ち出せるようにと準備させられました。
よく考えるともっと大切なものあったんじゃないかなー。
当時小学6年生、不安な一夜でした。
昨年の地震では、大好きな山の崩落を目の当たりにいたしました。
御駒山の遊歩道と登山道は無事だったようです。その御駒山から少し北。小さな太白山のような形をした「大土が森」の斜面はまだ抉られたままです。人知れず野草の宝庫だったのでした。
「だれおらいばりでっけぇ地震さぁあうんだおん」と常に話しております。
塩竈も相当揺れたらしいですね。
二歳になったばかりの酔漢は、祖母に抱かれて泣いていたそうです。
その際には・・・・宜しくお願いします。
岩壁を作っているコンクリートの継ぎ目が開いたり、閉じたりしてガーンという音が響き渡っていたそうです。瞬時に津波を警戒したそうですが、なかったのは幸いでした。
「多賀城スターレーン」ですね。オープン初日ゲストがスターレーン(全国)所属の大竹プロでした。一緒に写真を撮りました。
ご実家がお店屋さんならば、また大変がご苦労もあったのかと思います。
あの夕餉は忘れられません。