昨日、通勤途中の藤沢駅。
恒例の藤沢市民祭りの準備中でした。
ふと、各ブースのテントを見ておりましたら、「女川町」の表示がありました。
「女川から来んのすか?何があんだすぺ?」
他のブースが準備真っ最中なのですが、このブースはまだ主不在のまま。
休みだったら、顔をだせるのに・・・。
そう思って駅へ向かう途中のブース。
「亘理町」の案内がありました。
「今年は宮城のコーナーが多いし・・・東北復興プラザは昨年の通り。双葉町の看板も見える・・」
考えれば、昨年もこのような被災地からのブースはあったのですが、三陸沿いの市町村の数は限られておりました。
「少しづつ、増えては来たんだ」こう思い会社へ向かいました。
帰り。藤沢着。午後7時少し過ぎ。
「まだ店開いているところがあっぺ」と、「女川町」のテントに向かいました。
テントは、すでに閉じられておりましたが・・・、何名かが後片付けの最中。
「少し遅かったすか?」(と、しっかり宮城語・・)
「あれ、宮城の人すか?」
「今は藤沢さぁ住ん出っけど。ここさぁ何来てたのすか?」
「女川の蒲鉾。『高政』だっちゃ」
「なんだや!久しぶりだなや」
「知ってんのすか?」
「だれ!旨ぇっちゃねぇ」
と、言うか言わない内に、その(高政のTシャツを着てた)人が、テントを開け始めました。
「店閉めたんだけんど、何か持っていくすか?」
「だれぇ。申し訳ねぇっちゃ」
と、買い求めましたのが。
以下、3点。
袋は高政のそれ。
「ところで、あんだ宮城どこすか?」
「塩竃だっちゃ」
「津波は何じょだったのすか?」
「おらいの家は高台にあったから大丈夫だったんだけんど・・身内はやっぱすぃ流されたっちゃ」
「んだべな。宮城さぁいだら、そいずはしゃぁねなや・・・」
「あんだは?」
「まだ、仮設さぁいんだおん。お袋が・・そのままだったっちゃ・・」
女川町の被害は甚大。
嘗ての同僚の実家は全て流されておりました。
そんな事を思い出しました。
「藤沢は初めてすか?」
「いい街だっちゃねぇ・・・・・海風入るんだおんねぇ・・・」
「街中まで海風が来る。そこはおらいも好きなとこだっちゃ」
「明日は来れんおすか?」
「申し訳ねぇけど。明日は仕事だべ」
酔漢は蒲鉾3つを入れた袋と共に、帰宅致しました。
家族と一緒に蒲鉾を堪能。
少しばかり、故郷の味を思い出しました。
「女川・亘理・・・・双葉・・・」
多くの町々の様子はどんなであろうか。
今は、復興の話題も風化しつつあるような気がしてなりません。まだ一年半であるのに。
「何がどうして、どうなっているのか・・・」
ですが、その状況でも人が生活していることも。
「だれ、もうしぁねぇもんは、しゃねぇんだおん」
高政Tシャツのその人が、別れ際に話していた言葉の重さ。
宮城の街は人達は、今どんな気持ちでいるのだろうか。
FM仙台でDJをしている高校時代の友人が、番組で流している曲。
この歌を知らなかった。
「復興ソング」とあるけれども、これは、酔漢のいた風景が歌詞となって居る事に気づく。
自転車で見た風景。電車で出会った友人。旅した場所。
暑中見舞いが帰って来たのは秋だった。
岩手釜石から。
「コミュニティーの維持が一番難しい(中略)もう『好きにやらせてくれ』という気持ち」
彼の言葉がどこまで届くのだろうか。
うちは八百屋ですので当前東北の品も入ってきます。今年でしたか宮城からの品に、かの地の新聞が品物の押さえに入っていました。
何気なく広げたら、あの震災ひと月前の新聞でそこには「我が家の天使」みたいな感じでお子さんたちの写真がたくさん出ていました(投稿写真ですね)。
それぞれのかわいい、一歳前後のお子さんの写真の横には住所が・・・南三陸、亘理町、ゆりあげ(変換できん!!)
・・まさに津波の大被害をこうむったところがほとんどでした。
この子たちは生きていてくれただろうか。この子たちの親や兄弟は無事なのだろうか。
しばらく眺めていました。
二度と戻ってくることのなくなってしまったふるさと
そしていつ終わるのかもわからない先の見えない避難生活。
被災地のみなさんの焦燥感いかばかりか。
私たちにできることはせめてその地の産品を買うことくらいなのでしょうか???
>「コミュニティーの維持が一番難しい(中略)もう『好きにやらせてくれ』という気持
やっぱり生まれた土地に帰りたいという年配の方あり、安全で便利な土地へ移りたい子育て世代あり、しがらみから解放されたい人あり、繋がりにすがりたい人あり、千差万別の思惑が被災地にはあります。
それでも女川町は、どこよりも早く復興住宅の予定が進んでいます。同じく東松島も・・・震災前からそもそも”地域力のある”(原発と自衛隊の基地がある)ところです。お店や漁港なども、大きい所は修理や新築が進んでいますが、それ以外は手つかずのところもずいぶんあります。
被災地の中で復興に差がつきつつあるのを「しゃねぇさぁ」と受け入れて、黙々と日々生きているのが現状です。
「虹をかけよう」聞いてくださるといいですね。
現実は毎日が大変な生活をしている人が
いるんだろうな、と最近よく考えてしまいます。
震災当日の話をするたび、自分と家族の命が
あったことが一番、
仕事もあってかなり幸せ。
そう心から思います。
そんな幸せすぎる私ができることは
『絶対忘れないこと』
なんじゃないかなぁと思っています。
昨年は「浦霞」、今年は「すず音」で献杯、食材もすべて宮城産を使ったメニューでした。
また、レセプションでは、「びっきの会」の代表理事を務めるさとう宗幸さんが歌と共に、支援活動の様子を語って下さいました。
今、わが故郷はどういう状況なんだろう。知りたい。遠く離れている我々はいつもそういう思いを胸にしていると思います。
ただ思うのみの歯がゆさを感じながら、近所の西友ストアに出かけ、「東北」、「宮城」の文字をみつけては、手に取り、買い物カゴに入れる。
また、家からほど近い池袋宮城ふるさとプラザで買い物をする。
さらに、町内での支援バザーに出かける。
豊島区立駒込中学校(息子の出身校)では、志津川中学校と交流を深めています。
被災して、修学旅行には来られないかもしれないという声を校長先生が聞き、生徒と父兄が修学旅行に行くためのお手伝いとして、バザーを行い、義捐金を募ったことが発端です。今もその資金支援活動は続いています。
(春には生徒たちが元気な姿で東京に来て、学校へ寄ってくれたそうです)
虹を掛けるための、本当にささやかなメッセージですが、これからもずっと送り続けたいと思っています。
山寺宏一さんは落語の師匠。
やはり、美声。
この歌10月4日にKスタで披露です。
仙台でも放映されたのですね。
細かい問題を拾い上げる、そう言った為の「復興省」でしょ。
少し、腹立ってます。
浜へいく度、考えてしまいます。
そうですよね。その為には、誰かが言い続けないと。
仙台や宮城はもっと主張していいのかと思います。
「親父、おれは知っていた!」と主張した長男です。
Kスタで毎回かかるのだとか。
気になっていたようです。
全国区になればいいと思います。
全て宮城の食材ですか。
懐かしいし、そしておいしいですよね。
利府から梨をいただきました。
その中に、ニ十世紀があったんですよ。
「盗んだ梨の味」(問わないでくださいまし・・・)
を思い出しました。
志津川の友人は、若芽作りが今年は出来る。
そう言っておりました。
楽しみです。
そんな風に復興どころか復旧以前の所もあれば、復興の道筋が見えはじめたところもあり、やむを得ない部分もあるとはいえ、被災地とそれ以外の地域はもちろん、同じ被災地間でも色々な格差が見え隠れします。
NHKの報道をきっかけに復興財源の四分の一は、被災地と直接の関係はない事業に当てられているのが分かりました。また櫻井よしこ氏によれば福島では再開した企業がかつての就労者に連絡しても、就業しているよりも東電などからの見舞金等を合わせた収入の方が多く、就労するとうち切られるものもあるので、あえて働かないという人も出てきているとか。
そのような断片的な情報だけで事の善し悪しを判断する気はありませんが、ただひとつ言えるのは、必然的に月日の経過は必ず新たな問題を生み出すのだなという事です。
だからといって個人にはどうする事も出来ませんが、震災を風化させないという事ならば各々の力で可能かもしれません。
マスコミのせいもあるのですが、巷では「絆」という言葉が氾濫しています。絆とは「結びつける」という意味です。いったい震災の後、何と何を結んだのでしょう?本気で結んだのならば、ちょっとたぐり寄せるだけで色々な事を思い出せる筈です。せめて時々はそうやって糸をたぐり寄せ、結んだものに目を向けてもらいたいものですよね。
災害や大事故が起こって記憶が風化したとき、どうしても記録から物事をみることしかできなくなります。
ですから、記憶は今の内に。と思うわけです。
たった200kmちょっとの距離にありながら、その遥か向こうを感じてしまう。
この距離感が自分の宿題なのかもしれませんね。
聴いていると、鳥を追いかけ、望遠鏡を担いで歩いた懐かしい場所がよみがえってきます。かけがえのない美しい風景。そこに息づいていた多くの営み...
皆様がおっしゃるとおり、まだまだ復興の入り口にさえ辿り着いていない地区も多いというのに、関東ではすっかり忘れ去られたかのような状態なのがやりきれませんね。それでも、このコメント欄で、同郷の皆様の思いに触れてちょっとホッとしました。
一個人の私には、せめて、毎日の食卓に、東北産の食材を乗せること位しかできませんが、コツコツと続けていこうと思っています。
まだ覚えております。
貴重な自然もなた大きく変貌いたしました。
身近であって当然だとばかり思っていた風景がこんなに遠いものになろとは考えもしませんでした。
「東北のうまいもの」
最初に来る記事にも紹介されておりますね。
近所の「復興プラザ」の営業延長が決まりました。