「大和の使い方」
着任してからの伊藤の命題でした。正直、大和を生かす方法がないのでした。
「大和には大和の使い方がある。無駄な使い方を考えてくれるな」と海軍本部へ意見してみたものの、伊藤自身、その方法が解らないでいるのでした。
大局的にみれば、燃料が不足している以上、それを航空機へ回さなければならず、大飯喰らいの大和では、どの道作戦の立案がないのでした。
艦隊を裸で敵へ向うということも護衛戦闘機がないとなっては、考えられない作戦なのでした。
「天一号作戦」その概要を参謀達幹部へ伝達させなければなりませんが、具体的に2F(第二艦隊)がどのように動くのかはまだ伝わっておりませんでした。
「司令、大和はまだ・・」
有賀がこのところ同じ質問をぶつけてきます。
「具体的には何もないがな・・」
「いつでも、出港出来るように、準備は整っております」
「森下君(森下筆頭参謀)から言われているんだね」
「ハイッ!」
昭和20年3月24日
「酔漢祖父殿、GF司令部より暗号入電」
「どれ、見せてけらいん」
祖父は緊張の面持ちで入電した内容を平文にしております。
平文に解読している祖父は、だまったまま小沢信彦通信参謀へその電文を渡すのでした。小沢参謀は、電文の原紙を胸ポケットに入れ、通信室から艦橋へ上がっていきました。大和通信分隊長山口も通信筒を後にしました。
「酔漢祖父殿、いよいよでしょうか」
祖父の周りには2Fそして大和分通信分隊の面々が輪を作るように集まってきました。
「なんだべ、みんなして、驚くからっしゃ、やめてけらいん」
「やはり、沖縄ですか」
一人の若い兵がその答えを待っているかのように、祖父へ詰め寄ります。
「それがっしゃ・・・・出撃とはあったけんど・・どこさぁいぐかぁはなかったのっしゃ」
「では、大和は・・」
「そいずはわかんねぇ。そのうちわかっぺな」
「『わかっぺな』って・・・」
祖父の真似をした兵がそう言ったのが余りにも祖父に似ていたものでしたから、薄暗い通信室から大笑いの声が響きました。
「通信室は緊張の連続でしたが、大和、2Fとも当直制でやりくりしてました。思われている以上に海軍の組織にしては穏やかな組織だったと思います」
(吉田さん証言→精神注入棒とかはなかったと聞きました)
「司令長官。GFより入電」
艦橋へ入った山口2F通信参謀が伊藤司令長官へ電文を渡します。
電文は伊藤整一2F司令長官、森下信衛参謀長、有賀幸作大和艦長、能村次郎大和副長などそれぞれ艦橋にいる首脳に最初に渡されました。
全員緊張しながらその文面を読んでおります。
「出撃とはあるが」
「これには、具体的に何処とはありませんな」
「近々あるだろう」
「森下君、準備を急がせるように・・・それと、兵達だが・・・艦長」
「・・・上陸させますか・・・ですか・・・」
予め、答えを出していたかのように、有賀が返事を返してきました。
隣にいる能村副長と目を合わせているのでした。
「上陸許可を行います」
能村は艦橋を出ました。
「森下君、佐々木君、長官室へ。艦長は・・」
「私はここにおります。長官自室へいらしてください」
伊藤は有賀のこの献身的とも言える態度をいつも「頼もしい」と思っておるのでした。
「では、少しばかり・・長官室へ行ってくるよ」
「長官、行き先不明な命令とは不可解ですが」
森下が部屋に入るなりこう切り出しました。
「兵達も『沖縄』と腹を括っております」
佐々木(伊藤付き、2F副官)もこう話しております。
「大和はな・・俺自身、最早作戦で使うより、このまま浮き砲台として使う方がよいと考えていた。その方が燃料を使わずに済む。また本土決戦ともなれば、兵を有効に使う方がよい。新たな陸戦隊を組織するのも一考だろう。そうなれば連合艦隊は、というより連合艦隊なんて無いのではあるがな。2Fはそのまま解散するのが良いと思っている。古村君は最初からそう言ってはいるがな」
古村啓蔵少将は,第二艦隊司令部参謀長森下信衛少将、先任参謀山本祐二大佐に「戦艦大和と二水戦は軍港に繋留して浮砲台とし、兵器・弾薬・人員は陸揚げして陸上の防衛にまわし、本土決戦にそなえるべきだ。第二艦隊は解散もやむをえない」と告げた。参謀から話を聞いた第二艦隊司令長官伊藤整一中将も第二艦隊の解散に賛成。
「東海大学 鳥飼研究室資料より抜粋」
補足→上記は出撃直前の2F会議でのこと4月3日です。先にご紹介いたしました。
「ですが、天号作戦は航空戦主力な作戦では、2Fをどう使えとGFは考えているのでしょうか」森下の質問は尤もでした。
「ともに、どうあれ、沖縄を見捨てる訳には行かない。これは自明である。しかして・・二水戦の駆逐艦だが、GFには使える駆逐艦を二隻増やして総計10隻にしていただく。そして、雪風だが改装は首尾よく行っているかね」
「改装は3月中に終えております。『あ号作戦時』副砲を取り外して機銃連座を設置しております」
「弾薬庫は・・そのままかね」
「長官の言った通りの内部改装です。表向きは対航空機迎撃の為なのですが」
「それはよかった。矢矧の原君にも伝えてくれないか」
三月二十四日、連合艦隊司令部から「出撃命令」が来た。
出撃方面にはふれてないが、たぶん沖縄だろうと思われた。艦長有賀幸作海軍大佐の発意で、二十五日から四日間にわたり、全乗組員を交代で短時間の自由上陸を許可することになった。
総勢三千三百余名、過半は二十代の青年、二十歳以下の少年兵も百名近くいた。ここは三千三百余の「人生」があった。
皆、最後の上陸と覚悟していたので、家庭の始末はもちろん、かねてから厄介になっていた先へのあいさつ回りから借金の始末まで、互いに注意し合って片づけた。
久しぶりの、そしてわずかな時間の上陸であるうえ、夜は二十一時上陸桟橋発の定期便での帰艦なので、遅れる者があることを心配して、毎夜、私自身桟橋まで迎えに出た。(中略)
「では、行ってまいります」「あとはよろしくお願いいます」
若い元気な声がくらやみにこだまする。
ありきたりの、聞きなれた言葉のやりとりではあるが、時が時だけに千万無量の思いがみなぎっていた。苛烈な戦局下、軍人として当然のことであるとはいえ、その心の内を察すると頭の下がる思いがする。
(能村次郎 大和副長 手記より 抜粋)
多くの兵士が最後の上陸と覚悟していた「身内がある者は、別れをしてこい。それとなくな。借金のある者は、きれいにしてこい」。戦闘中、損傷箇所を修理する応急班員だった福本一広は、士官からそう言われた。福本は呉の実家に帰った。家族に何を話したか覚えていない。ただ、夜訪れた親戚の家で「今度は帰ってこれないかもしれない(家族を)よろしくお願いします」と話したことだけは、はっきり記憶している。
北川茂も上官から言われた。「身辺を整理しろ」。そして「恩賜の煙草」をもらった。父親にあげようと、とっておいた煙草は、今も北川の家に残っている。
塚本は「(故郷の愛知県豊根村に)帰る時間はない。呉の集会所(下士官や兵向けの保養所)で仲間と酒を飲んで、それで終わりでした。ふだんの上陸と変わりなかった」
(栗原俊雄著 「戦艦大和 生還者たちの証言から」59頁 より抜粋)
最後の上陸は、数々の話題を生んだ。
新婚早々の司令部付き軍医長石塚一貫軍医少佐は、自分の上陸時間に折りあしく盲腸炎患者が発生、急遽その手術を行ったため、許可された時間内に上陸することができず、遠路はるばる呉までかけつけ、旅館で待つ十八歳の新妻に最後の別れを告げることができなかった、代わってもらうつもりなら代わってくれる人は何人もあったはずなのに、旺盛な責任観念がそれを許さない。
郷里が遠い者の一人、郷里と呉との中間駅で家族と落ち合う計画を立てたのよかった。しかし、両方の汽車の都合で対面時間はわずか十五分しかないのに、家族が待ち合わせ場所を間違えたため、ついに会えずに帰る不運の人もあった。
(能村次郎 大和副長 手記より 抜粋)
宮城県七ヶ浜村、亦楽尋常小学校。酔漢父は中学入学準備の為、補修授業を受けております。真っ最中です。
授業中、他の学級の先生が教室の戸を静かに開けました。担任の先生がすぐさま、廊下に出て、静かな声でその先生と話をしております。数分近く経ったでしょうか。その先生が教壇に戻ると。
「酔漢父、おめぇ、家さぁもどれ!すぐだべ」
「何ですか?」(まだ父が宮城語を話してない時期でございます)
「いいから家さぁけぇれ。けぇればわかからっしゃ」
酔漢父はすぐさまランドセル(学級で一人だけ使っていた)に教科書をしまうと。亦楽小学校から花渕へ疎開先である酔漢祖父実家まで(同性寺途中、田んぼの前の家です)急いで戻りました。叔父が一人、出かける用意をして待ってました。
「これで皆してそろったっちゃ」(酔漢叔父二人も一緒)
「どこに行くんですか」酔漢父が聞きます。
「まずは横須賀さぁすぐ行ぐぅ。早ぐぅしねぇと汽車さぁ間に合わねぇべ」
言われていることが解らず、すぐ出かける用意をします。
叔父さんが一通の電報をポケットにしまうのを酔漢父は見ておりました。
「久々の横須賀だ」とは思ったものの「何か予感」もしておりました。
仙台から汽車が出ました。
上野までかなり遠い時間に感じました。
着任してからの伊藤の命題でした。正直、大和を生かす方法がないのでした。
「大和には大和の使い方がある。無駄な使い方を考えてくれるな」と海軍本部へ意見してみたものの、伊藤自身、その方法が解らないでいるのでした。
大局的にみれば、燃料が不足している以上、それを航空機へ回さなければならず、大飯喰らいの大和では、どの道作戦の立案がないのでした。
艦隊を裸で敵へ向うということも護衛戦闘機がないとなっては、考えられない作戦なのでした。
「天一号作戦」その概要を参謀達幹部へ伝達させなければなりませんが、具体的に2F(第二艦隊)がどのように動くのかはまだ伝わっておりませんでした。
「司令、大和はまだ・・」
有賀がこのところ同じ質問をぶつけてきます。
「具体的には何もないがな・・」
「いつでも、出港出来るように、準備は整っております」
「森下君(森下筆頭参謀)から言われているんだね」
「ハイッ!」
昭和20年3月24日
「酔漢祖父殿、GF司令部より暗号入電」
「どれ、見せてけらいん」
祖父は緊張の面持ちで入電した内容を平文にしております。
平文に解読している祖父は、だまったまま小沢信彦通信参謀へその電文を渡すのでした。小沢参謀は、電文の原紙を胸ポケットに入れ、通信室から艦橋へ上がっていきました。大和通信分隊長山口も通信筒を後にしました。
「酔漢祖父殿、いよいよでしょうか」
祖父の周りには2Fそして大和分通信分隊の面々が輪を作るように集まってきました。
「なんだべ、みんなして、驚くからっしゃ、やめてけらいん」
「やはり、沖縄ですか」
一人の若い兵がその答えを待っているかのように、祖父へ詰め寄ります。
「それがっしゃ・・・・出撃とはあったけんど・・どこさぁいぐかぁはなかったのっしゃ」
「では、大和は・・」
「そいずはわかんねぇ。そのうちわかっぺな」
「『わかっぺな』って・・・」
祖父の真似をした兵がそう言ったのが余りにも祖父に似ていたものでしたから、薄暗い通信室から大笑いの声が響きました。
「通信室は緊張の連続でしたが、大和、2Fとも当直制でやりくりしてました。思われている以上に海軍の組織にしては穏やかな組織だったと思います」
(吉田さん証言→精神注入棒とかはなかったと聞きました)
「司令長官。GFより入電」
艦橋へ入った山口2F通信参謀が伊藤司令長官へ電文を渡します。
電文は伊藤整一2F司令長官、森下信衛参謀長、有賀幸作大和艦長、能村次郎大和副長などそれぞれ艦橋にいる首脳に最初に渡されました。
全員緊張しながらその文面を読んでおります。
「出撃とはあるが」
「これには、具体的に何処とはありませんな」
「近々あるだろう」
「森下君、準備を急がせるように・・・それと、兵達だが・・・艦長」
「・・・上陸させますか・・・ですか・・・」
予め、答えを出していたかのように、有賀が返事を返してきました。
隣にいる能村副長と目を合わせているのでした。
「上陸許可を行います」
能村は艦橋を出ました。
「森下君、佐々木君、長官室へ。艦長は・・」
「私はここにおります。長官自室へいらしてください」
伊藤は有賀のこの献身的とも言える態度をいつも「頼もしい」と思っておるのでした。
「では、少しばかり・・長官室へ行ってくるよ」
「長官、行き先不明な命令とは不可解ですが」
森下が部屋に入るなりこう切り出しました。
「兵達も『沖縄』と腹を括っております」
佐々木(伊藤付き、2F副官)もこう話しております。
「大和はな・・俺自身、最早作戦で使うより、このまま浮き砲台として使う方がよいと考えていた。その方が燃料を使わずに済む。また本土決戦ともなれば、兵を有効に使う方がよい。新たな陸戦隊を組織するのも一考だろう。そうなれば連合艦隊は、というより連合艦隊なんて無いのではあるがな。2Fはそのまま解散するのが良いと思っている。古村君は最初からそう言ってはいるがな」
古村啓蔵少将は,第二艦隊司令部参謀長森下信衛少将、先任参謀山本祐二大佐に「戦艦大和と二水戦は軍港に繋留して浮砲台とし、兵器・弾薬・人員は陸揚げして陸上の防衛にまわし、本土決戦にそなえるべきだ。第二艦隊は解散もやむをえない」と告げた。参謀から話を聞いた第二艦隊司令長官伊藤整一中将も第二艦隊の解散に賛成。
「東海大学 鳥飼研究室資料より抜粋」
補足→上記は出撃直前の2F会議でのこと4月3日です。先にご紹介いたしました。
「ですが、天号作戦は航空戦主力な作戦では、2Fをどう使えとGFは考えているのでしょうか」森下の質問は尤もでした。
「ともに、どうあれ、沖縄を見捨てる訳には行かない。これは自明である。しかして・・二水戦の駆逐艦だが、GFには使える駆逐艦を二隻増やして総計10隻にしていただく。そして、雪風だが改装は首尾よく行っているかね」
「改装は3月中に終えております。『あ号作戦時』副砲を取り外して機銃連座を設置しております」
「弾薬庫は・・そのままかね」
「長官の言った通りの内部改装です。表向きは対航空機迎撃の為なのですが」
「それはよかった。矢矧の原君にも伝えてくれないか」
三月二十四日、連合艦隊司令部から「出撃命令」が来た。
出撃方面にはふれてないが、たぶん沖縄だろうと思われた。艦長有賀幸作海軍大佐の発意で、二十五日から四日間にわたり、全乗組員を交代で短時間の自由上陸を許可することになった。
総勢三千三百余名、過半は二十代の青年、二十歳以下の少年兵も百名近くいた。ここは三千三百余の「人生」があった。
皆、最後の上陸と覚悟していたので、家庭の始末はもちろん、かねてから厄介になっていた先へのあいさつ回りから借金の始末まで、互いに注意し合って片づけた。
久しぶりの、そしてわずかな時間の上陸であるうえ、夜は二十一時上陸桟橋発の定期便での帰艦なので、遅れる者があることを心配して、毎夜、私自身桟橋まで迎えに出た。(中略)
「では、行ってまいります」「あとはよろしくお願いいます」
若い元気な声がくらやみにこだまする。
ありきたりの、聞きなれた言葉のやりとりではあるが、時が時だけに千万無量の思いがみなぎっていた。苛烈な戦局下、軍人として当然のことであるとはいえ、その心の内を察すると頭の下がる思いがする。
(能村次郎 大和副長 手記より 抜粋)
多くの兵士が最後の上陸と覚悟していた「身内がある者は、別れをしてこい。それとなくな。借金のある者は、きれいにしてこい」。戦闘中、損傷箇所を修理する応急班員だった福本一広は、士官からそう言われた。福本は呉の実家に帰った。家族に何を話したか覚えていない。ただ、夜訪れた親戚の家で「今度は帰ってこれないかもしれない(家族を)よろしくお願いします」と話したことだけは、はっきり記憶している。
北川茂も上官から言われた。「身辺を整理しろ」。そして「恩賜の煙草」をもらった。父親にあげようと、とっておいた煙草は、今も北川の家に残っている。
塚本は「(故郷の愛知県豊根村に)帰る時間はない。呉の集会所(下士官や兵向けの保養所)で仲間と酒を飲んで、それで終わりでした。ふだんの上陸と変わりなかった」
(栗原俊雄著 「戦艦大和 生還者たちの証言から」59頁 より抜粋)
最後の上陸は、数々の話題を生んだ。
新婚早々の司令部付き軍医長石塚一貫軍医少佐は、自分の上陸時間に折りあしく盲腸炎患者が発生、急遽その手術を行ったため、許可された時間内に上陸することができず、遠路はるばる呉までかけつけ、旅館で待つ十八歳の新妻に最後の別れを告げることができなかった、代わってもらうつもりなら代わってくれる人は何人もあったはずなのに、旺盛な責任観念がそれを許さない。
郷里が遠い者の一人、郷里と呉との中間駅で家族と落ち合う計画を立てたのよかった。しかし、両方の汽車の都合で対面時間はわずか十五分しかないのに、家族が待ち合わせ場所を間違えたため、ついに会えずに帰る不運の人もあった。
(能村次郎 大和副長 手記より 抜粋)
宮城県七ヶ浜村、亦楽尋常小学校。酔漢父は中学入学準備の為、補修授業を受けております。真っ最中です。
授業中、他の学級の先生が教室の戸を静かに開けました。担任の先生がすぐさま、廊下に出て、静かな声でその先生と話をしております。数分近く経ったでしょうか。その先生が教壇に戻ると。
「酔漢父、おめぇ、家さぁもどれ!すぐだべ」
「何ですか?」(まだ父が宮城語を話してない時期でございます)
「いいから家さぁけぇれ。けぇればわかからっしゃ」
酔漢父はすぐさまランドセル(学級で一人だけ使っていた)に教科書をしまうと。亦楽小学校から花渕へ疎開先である酔漢祖父実家まで(同性寺途中、田んぼの前の家です)急いで戻りました。叔父が一人、出かける用意をして待ってました。
「これで皆してそろったっちゃ」(酔漢叔父二人も一緒)
「どこに行くんですか」酔漢父が聞きます。
「まずは横須賀さぁすぐ行ぐぅ。早ぐぅしねぇと汽車さぁ間に合わねぇべ」
言われていることが解らず、すぐ出かける用意をします。
叔父さんが一通の電報をポケットにしまうのを酔漢父は見ておりました。
「久々の横須賀だ」とは思ったものの「何か予感」もしておりました。
仙台から汽車が出ました。
上野までかなり遠い時間に感じました。
ある生還者の方が「通信筒」(筒だと思いました。図面詳細はいかがでしょうか)
と話されていたところからそんな件になりました。ロケーションが難しい。
詳細がわからず、果して、士官室はどんな部屋だったのか。とか。再現するのは無理でしょうね。二次士官でも個室だったとは大和ミュージアム新谷さんからのお知らせでした。
今後もご指摘などございましたら、何卒お願いいたします。
ご子息はいかがでしょう。
彼の学年は進路に非常に苦労した学年だったと聞きました。
いつもながら、コメントありがとうございます。クロンシュタット様もお気づきの点がございましたら、お知らせ下さい。
何時か、お会いできる時間を作りましょう。
(掲示板にしてしまいました)
ご指摘、感謝いたします。
ここでは字数の制限もございますので、本編にて御礼ならびに補足を記事に致しました。
詳しいお話など知っていらっしゃる事がございましたら、またコメントの投稿をお願いいたします。また、不備等もお知らせ下さい。
ありがとうございました。
今回の本編はご指摘のございましたコメントへの返礼と致しました。
なかなコメントできずにおりましたが、常々興味深く拝読しております。
また「おせっかい焼き」さんのコメントも拝見しました。
「大和通信分隊長」は確かに誤りです。
それぞれの艦の艦内編成や艦の規模によっても違いますが、
航海科や通信科は科長が分隊長を兼ねる場合が多く(つまり一科が一分隊)、大和の場合は通信長が通信科の分隊長を兼ねておりました。
「筆頭参謀」ですが、森下さんは参謀長。
「筆頭参謀」というと「参謀長」なのか「先任参謀」なのか曖昧になります。
二艦隊の先任参謀は確か山本祐二大佐でしたね。
この先任参謀はときおり「首席参謀」とする例も見られますが、当時の用語としては先任参謀だったような気がします(状況証拠ですが)。
石塚軍医少佐ですが、「第二艦隊司令部付」だったと思います。
つまり「艦隊軍医長」とは別の職。
「司令部付軍医長」とした所から生じた誤りかと思います。
小生が気づいたのは、有賀艦長に伊藤長官を「司令」と呼ばせている点です。
司令長官の通称は「長官」(信号文では確か「シチ」)。
「司令」とは航空隊や駆逐隊など「隊」の指揮官。
制度上の「軍艦」の艦長と同格(いわゆる所轄長)です。
最近コミックどころかそれなりの戦記でも、登場人物に司令官や司令長官を「司令」と呼ばせている例が目立ちます。
また著者は伏せておきますが、副砲の指揮官を「副砲術長」としている例も見られます。
副砲の指揮官は「副砲長」。
「副砲術長」といえば砲術科の次席指揮官ということになりますが、
日本の戦艦の艦内配置には「副砲術長」というのはなかったと思います。
強いて「次席は誰か」といえば、砲術長を除く砲術科の士官の中の最先任者ということになるでしょうね。
このような事実関係の考証が不正確になっているのは、戦後六十年を経た今日ではある程度仕方のないことなのかもしれません。
しかし気になることです。
海軍では階級がどんなに上であっても上官に「殿」はつけません。
もっともこれは部下が酔漢さんのお爺様(上官)に対して「酔漢祖父!」では、恰好がつきません。
やむを得ぬことかと思います。
職名が分らぬ場合、中尉、少尉、兵曹長には、下士官兵は「分隊士」と呼びかけるのが習慣だったようです。
御参考まで。
「森下君」ですが、公の場では確かに「森下君」はあり得ないと思います(やはり参謀長でしょう)。
しかし今回の酔漢さんのお話を読む限りはプライベートな場面(つまり有賀艦長と伊藤長官二人だけの場面)と考えることができますね。
森下参謀長と有賀艦長は海兵の同期です。
伊藤長官もそのことは当然ながら知っています。
だとすれば二人きりの場面なら「森下君」もありだったかな・・・と思う次第です。
手記や証言は必ずしも事実を忠実になぞってはいない場合があります。
一つにはまず手記の作者がフィクション仕立てで書いた場合(程度の差はあります)。
もう一つは、手記著者や証言者の記憶が曖昧な場合ですね。
特に手記の場合ですが、資料から何から揃えて正確さを期したとは言えない場合があります(手記作者に完璧な正確さを求めるのは酷なような気もします)。
確か『戦艦大和の最期』について、吉田満さんが
「あれは一気に書上げたのだ。あれを事実そのままと思ってもらっては困る」
という趣旨のことを言っていたと思います。
証言や手記などを考証して事実を正確に(或いは限りなく正確に近いものに)再構成するのは、
歴史家やノンフィクションライターの役目です。
限られた資料(或いは史料)の中で可能な限り正確さを期すしかないのだと思います。
ところで武蔵の図面を見たのですが、「通信塔」「通報塔」は確かにあります。
前者は艦橋のトップから、後者は司令塔から中甲板(つまりはバイタルパートのすぐ上)まで通っております。
人が通れるものだったかどうかは、確かめる術がありませんでした。
場合によっては圧搾空気による伝送管や測距儀や主砲方位盤関係の電路のある所かもしれません。
家族との最後の面会と大好物のおはぎのシーン。
あの頃の漫画には価値ある作品が多かったのでした。
七ヶ浜から横須賀への道程は部外者には言い表すことがはばかれます。
さらに呉まで向かわれたのだとしたら、どんなに気をもんだことでしょうね。
そういえば私の父親は横須賀で敗戦を迎えました。
鉄道・鉄道模型の世界でも「知識」「正確性」をひたすら追求する傾向が多々認められます。
私の場合は、それはそれで得意な方に「お任せ」して、自分自身が満足できれば良しとしています。
ですので私の模型の線路上では、英国の機関車が日本型の貨車を引っ張ったりしています。
要は酔漢さんの「思い」が伝われば、それでいいのですよね。
気が付いた点を指摘しておきます。
「森下君(森下筆頭参謀)」→「筆頭参謀」は「参謀長」の間違い。森下君と言うかどうか、職名で言うような気がします。
「平文に解読している祖父は、だまったまま小沢信彦通信参謀へその電文を渡すのでした。小沢参謀は、電文の原紙を胸ポケットに入れ、通信室から艦橋へ上がっていきました。」→この記述は何か根拠があってのことでしょうか。軍楽隊員として長門、大和のGF司令部で勤務した関係者の手記によれば、作戦室と暗号室間には圧搾空気による伝送管があり、皮製の筒に電報を入れ送ることになっている。また暗号室で翻訳された電報は、艦隊暗号長がサインし、それを暗号取次員が作戦室に届けることになっているとあります(これについては、別の箇所で〔大和の〕暗号室と作戦室はビルなら六,七階位の高さで、急ぎの電報を一枚一枚届けることはないとある。作戦以外の電報は暗号取次員が届けるという意味なのか)。
「小沢参謀は、電文の原紙を胸ポケットに入れ、」というのは、いくらなんでもあり得ないでしょう。
「大和通信分隊長山口も通信筒を後にしました。」→「大和通信分隊長」という職名はない。大和通信長の間違いでしょう。「通信筒」というのは何でしょう。ただこの記述も根拠があるのでしょうか。
「山口2F通信参謀が伊藤司令長官へ電文を渡します。」→小沢通信参謀の間違い
「佐々木(伊藤付き、2F副官)」→2F副官は石田恒夫主計少佐のはずですが。
「機銃連座を設置しております」→「機銃連座」という言い方はしない
「司令部付き軍医長石塚一貫軍医少佐」→2F軍医長は寺門正文大佐。それに「司令部付き軍医長」という言い方はしない。
乗組員の決死の思いが伝わります。
想像を絶する心境だったことでしょう。
家族も同じですね。