数々のご指摘を頂戴いたしました。
本当に感謝いたします。改めて御礼申し上げる次第でございます。
「おせっかい焼き様」ありがとうございます。
(写真は昭和52年4月7日、靖国神社で行われました慰霊祭のパンフレットの一部です。
多くの方からお話を聞くことができました。詳細は別として今後語ります。
清水芳人さん 当時 大和副砲長 から頭をなでられました。)
本日、ここで、酔漢がこの時期何故「大和を語る」を「くだまき」にしたかお話いたします。
本来、この件は、最終話でお話するつもりでございました。
父が大病を患いました。数年前心臓のバイパス手術を受け、昨年は癌の摘出手術を行っております。父の元気なうちに父から聞いた話を整理しようと考えましたのが動機でございました。
ですが、遺族とは言え、大和や海軍の様子には詳しくないのが実情です。
通信に携わった方が殆ど戦死された状況では祖父の最期を知る由もございません。
父も祖父(父に取りましては自身の父親)の最期を大変気なっており、事ある事に「第二艦隊海上特攻戦没者慰霊祭」に出席しておりました。そこで多くのご生還された方から、話を聞いております。それを元に史実を整理しようと考えました。
が、昭和も50年前半です。父も当時の内情に詳しい部分はなく。懇親会等で聞いた話を私などに聞かせてくれている、といったものでした。
本来ならば、もっと詳しく文献等などで(数多く著書があるのですが)事の詳細を多くの方の見方を知ればよろしかったのでしょうが、ミリタリーの視点で文献を拝読することに抵抗もありましたので、大和本体をはじめ、海軍の内情などに疎かったのは事実でございます。
本当にその顛末を知りたかくなったのはつい最近の事でございます。
特によく語られる事ではございますが「大和の主要兵装」などは46サンチ主砲が9門あり九一式徹甲弾がある。その程度の知識しかございませんでした。
ですが、「大和がどう建造されそしてどういう顛末を迎えたか、そしてその中にいた祖父はどんな生活をし何を考えていたのか」これを父の生い立ち(これから語るところではありますが)を加味しながら整理しようと致しました。
幸いなことに母校「東北福祉大学」の講師「星亮一先生」が「伊藤整一」という本をお書きなられており、「第二艦隊司令長官が果してどのような人物だったのか」という疑問に答えてくれました。
また「東海大学 鳥飼先生」の研究室HPにより「あの作戦は特攻ではなかった」という、酔漢の仮説に裏づけが取れました。(ですが、この事は、多くの方の反論をまねく事は必至であろうと考えております)
一枚の写真は「呉 大和ミュージアム」の協力も得ることができました。
多くの方からの資料、史料、お話を聞くことはできました。
しかし、内部の状況、時代考証などは果して想像や聞いた話だけで、語ってもよかったかと大いに反省いたしております。
「おせっかい焼様」のご指摘。丹治様からのご指摘。しごく尤もでございます。
真摯に受け止め、今後に生かします。
自身の知識のなさは、その状況に大変詳しい丹治様と連絡を取りながら語ってまいりました。が、本人の負担にもなったかとも思いました。
さて、一部補足をいたします。
多々間違いを指摘されましたが、「能村次郎大和副長の手記」というものは「慟哭の海 戦艦大和死闘の記録 能村次郎著 昭和42年8月25日 第一刷 発行 読売新聞社」からの抜粋でございます。単に「大和副長 能村次郎 手記」といたしましたのは、「慟哭の海」とう題は後に付けられたものであって能村副長(当時)自身が付けられた題ではないと判断したからです。
その十五頁に「最後の上陸は(中略)新婚早々の司令部付き軍医長石塚一貫少佐は(略)」とございます。抜粋ですので、このまま掲載いたしました。
伊藤司令長官の副官は石田恒夫少佐でございます。これは一度語っておりましたが、記憶違いで名前を間違えておりました。事後ではございますが訂正させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
暗号電文ですが、確かに圧縮空気での送付手段はございました。確認いたしました。
その暗号電文ですが、大高勇治さんと父との会話での中で(父の記憶から)「案外、紙切れのようなものに平文にしてそれをそのまま艦長に渡した」というのがありました。ですが、これは祖父が駆逐艦「菊」におりました当時の事であって、大和では違っていて当然でしょう。
これも「慟哭の海 21ページ抜粋」なのですが。
「私は主砲第一砲塔右舷のそばでひと休みしていた(中略)有賀艦長が、平素と少しも変わらぬ温顔で、つかつかと無造作に私の前に歩み寄られ、頬にかすかな笑みを浮かべながら、無言で一枚の紙を私に差し出された。(略)『第二艦隊大和以下は、水上特別攻撃隊として、沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃撃滅すべし』(略)司令部暗号班が受信解読したこの電報命令は、普通文に直して、まず、受信者である艦隊司令長官伊藤整一海軍中将に届けられ、長官から改めて麾下の各隊、艦に通達される」
とございます。どのような形で暗号電文が届けられるのか、私も知りたかった事実なのでした。駆逐艦それも戦前のであれば平常時の事、故、それをそのまま重大事に当てはめてしまいました。しかも大和艦橋のロケーションを考慮しておりませんでした。
くわしいお知らせありがとうございました。
海軍の呼び名呼称については、伊藤司令長官がつねづね軍令部第一部長中沢佑少将との会話で「君つけ」で呼んでいるところからの想像です。しかしてこれも、艦の中また組織の中ではプライベートと区別する必要がございました。
今後、充分考証しながら語ってまいりたいと考えます。
そして、これも本来なら最後にお伝えするはずだったのですが。
酔漢が祖父の顛末から、何をお伝えしたいのかと申しますと。
「一家の主がたとえどんな形、どんな背景にあるにせよ、失うことで家族がどう苦しむのか」ということなのです。
祖母が父が叔父が叔母が戦後どのような生き方をしているのか、やはり祖父の戦死が非常に大きなウェートを占めております。これは何も私どもの家族だけではございません。多くの人々が苦しんだ戦争の影響というものがございます。祖父のような戦死者も数多くおられます。その一人である祖父の死というものを見つめていき、戦争が与えたものを考えていくのが主旨でございます。
その過程を思いをおさえながら淡々と見詰めて行くという事で現在にいたります。
今後も史実、考証が不備な箇所などございますれば、ご意見拝聴いたしたく存じます。
それにより、祖父がどう生きていたか、私共家族がより詳細に知ることもできます。
皆様何卒宜しくお願い申し上げます。
本編ですが、これからも続けます。
合わせて宜しくお願い申し上げます。
追伸、
ひー様。クロンシュタット様。コメント御礼はコメント欄にて返信いたしております。
いつもながら感謝です。
本当に感謝いたします。改めて御礼申し上げる次第でございます。
「おせっかい焼き様」ありがとうございます。
(写真は昭和52年4月7日、靖国神社で行われました慰霊祭のパンフレットの一部です。
多くの方からお話を聞くことができました。詳細は別として今後語ります。
清水芳人さん 当時 大和副砲長 から頭をなでられました。)
本日、ここで、酔漢がこの時期何故「大和を語る」を「くだまき」にしたかお話いたします。
本来、この件は、最終話でお話するつもりでございました。
父が大病を患いました。数年前心臓のバイパス手術を受け、昨年は癌の摘出手術を行っております。父の元気なうちに父から聞いた話を整理しようと考えましたのが動機でございました。
ですが、遺族とは言え、大和や海軍の様子には詳しくないのが実情です。
通信に携わった方が殆ど戦死された状況では祖父の最期を知る由もございません。
父も祖父(父に取りましては自身の父親)の最期を大変気なっており、事ある事に「第二艦隊海上特攻戦没者慰霊祭」に出席しておりました。そこで多くのご生還された方から、話を聞いております。それを元に史実を整理しようと考えました。
が、昭和も50年前半です。父も当時の内情に詳しい部分はなく。懇親会等で聞いた話を私などに聞かせてくれている、といったものでした。
本来ならば、もっと詳しく文献等などで(数多く著書があるのですが)事の詳細を多くの方の見方を知ればよろしかったのでしょうが、ミリタリーの視点で文献を拝読することに抵抗もありましたので、大和本体をはじめ、海軍の内情などに疎かったのは事実でございます。
本当にその顛末を知りたかくなったのはつい最近の事でございます。
特によく語られる事ではございますが「大和の主要兵装」などは46サンチ主砲が9門あり九一式徹甲弾がある。その程度の知識しかございませんでした。
ですが、「大和がどう建造されそしてどういう顛末を迎えたか、そしてその中にいた祖父はどんな生活をし何を考えていたのか」これを父の生い立ち(これから語るところではありますが)を加味しながら整理しようと致しました。
幸いなことに母校「東北福祉大学」の講師「星亮一先生」が「伊藤整一」という本をお書きなられており、「第二艦隊司令長官が果してどのような人物だったのか」という疑問に答えてくれました。
また「東海大学 鳥飼先生」の研究室HPにより「あの作戦は特攻ではなかった」という、酔漢の仮説に裏づけが取れました。(ですが、この事は、多くの方の反論をまねく事は必至であろうと考えております)
一枚の写真は「呉 大和ミュージアム」の協力も得ることができました。
多くの方からの資料、史料、お話を聞くことはできました。
しかし、内部の状況、時代考証などは果して想像や聞いた話だけで、語ってもよかったかと大いに反省いたしております。
「おせっかい焼様」のご指摘。丹治様からのご指摘。しごく尤もでございます。
真摯に受け止め、今後に生かします。
自身の知識のなさは、その状況に大変詳しい丹治様と連絡を取りながら語ってまいりました。が、本人の負担にもなったかとも思いました。
さて、一部補足をいたします。
多々間違いを指摘されましたが、「能村次郎大和副長の手記」というものは「慟哭の海 戦艦大和死闘の記録 能村次郎著 昭和42年8月25日 第一刷 発行 読売新聞社」からの抜粋でございます。単に「大和副長 能村次郎 手記」といたしましたのは、「慟哭の海」とう題は後に付けられたものであって能村副長(当時)自身が付けられた題ではないと判断したからです。
その十五頁に「最後の上陸は(中略)新婚早々の司令部付き軍医長石塚一貫少佐は(略)」とございます。抜粋ですので、このまま掲載いたしました。
伊藤司令長官の副官は石田恒夫少佐でございます。これは一度語っておりましたが、記憶違いで名前を間違えておりました。事後ではございますが訂正させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
暗号電文ですが、確かに圧縮空気での送付手段はございました。確認いたしました。
その暗号電文ですが、大高勇治さんと父との会話での中で(父の記憶から)「案外、紙切れのようなものに平文にしてそれをそのまま艦長に渡した」というのがありました。ですが、これは祖父が駆逐艦「菊」におりました当時の事であって、大和では違っていて当然でしょう。
これも「慟哭の海 21ページ抜粋」なのですが。
「私は主砲第一砲塔右舷のそばでひと休みしていた(中略)有賀艦長が、平素と少しも変わらぬ温顔で、つかつかと無造作に私の前に歩み寄られ、頬にかすかな笑みを浮かべながら、無言で一枚の紙を私に差し出された。(略)『第二艦隊大和以下は、水上特別攻撃隊として、沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃撃滅すべし』(略)司令部暗号班が受信解読したこの電報命令は、普通文に直して、まず、受信者である艦隊司令長官伊藤整一海軍中将に届けられ、長官から改めて麾下の各隊、艦に通達される」
とございます。どのような形で暗号電文が届けられるのか、私も知りたかった事実なのでした。駆逐艦それも戦前のであれば平常時の事、故、それをそのまま重大事に当てはめてしまいました。しかも大和艦橋のロケーションを考慮しておりませんでした。
くわしいお知らせありがとうございました。
海軍の呼び名呼称については、伊藤司令長官がつねづね軍令部第一部長中沢佑少将との会話で「君つけ」で呼んでいるところからの想像です。しかしてこれも、艦の中また組織の中ではプライベートと区別する必要がございました。
今後、充分考証しながら語ってまいりたいと考えます。
そして、これも本来なら最後にお伝えするはずだったのですが。
酔漢が祖父の顛末から、何をお伝えしたいのかと申しますと。
「一家の主がたとえどんな形、どんな背景にあるにせよ、失うことで家族がどう苦しむのか」ということなのです。
祖母が父が叔父が叔母が戦後どのような生き方をしているのか、やはり祖父の戦死が非常に大きなウェートを占めております。これは何も私どもの家族だけではございません。多くの人々が苦しんだ戦争の影響というものがございます。祖父のような戦死者も数多くおられます。その一人である祖父の死というものを見つめていき、戦争が与えたものを考えていくのが主旨でございます。
その過程を思いをおさえながら淡々と見詰めて行くという事で現在にいたります。
今後も史実、考証が不備な箇所などございますれば、ご意見拝聴いたしたく存じます。
それにより、祖父がどう生きていたか、私共家族がより詳細に知ることもできます。
皆様何卒宜しくお願い申し上げます。
本編ですが、これからも続けます。
合わせて宜しくお願い申し上げます。
追伸、
ひー様。クロンシュタット様。コメント御礼はコメント欄にて返信いたしております。
いつもながら感謝です。
わが家でもずいぶん前に父が亡くなり、母も数年前から寝たきりになっているので、酔漢さんの気持ちはよく判ります。
今となっては昔のことを聞こうにも聞きようがありませんからね。
自分の年齢には無頓着でも、子どもが育ち親が老いるのを見ると思うところがありますよね。
ましてや、最後の顛末がよくわからない肉親ともなれば、断片を拾い集めても状況を再構築したいと思うのが人情というものでしょう。
例えば車窓をぼんやり眺めながら地酒をちびりと。
乗換駅での時間があれば途中下車し普段着の街をぶらりと。
私には、そんな楽しみ方が趣味であれ実人生であれ居心地が良いのです。
時代考証にこだわるあまり、酔漢さんの「くだまき」が鈍ったり滞らないように願っております。
専門家ではないのです。「ゆるゆる」であっても私はちっとも気になりませんよ。
実兄が入院しました。兄夫婦は2人とも数年前癌の摘出手術を受けました。
多賀城の両親は病気や衰えで、もうこちらへ来ることができません。
私のちっぽけな会社も業績が急激に悪化してしまいました。首切りの嵐です。
「ゆるゆる」であろうと、もがき続けている私も、さすがに夜中に目が覚めてしまいます。
なお私が使いました軍楽隊員の手記は、ブログで読めます。「ヤマト乗艦手記」で検索すると出てきます。ご参考までに。
さんざん逃げ回っていた指輪物語のアラゴルンも最後はキッチリとシメましたからね…
そーいうわけで少しずつ書き溜めています。酔漢さんにもイロイロと教えてもらいたいことがありますので、いつかまた大好きなお酒を飲みながら、でも…
父の病気でもって、その話を途中で休止いたしました。
ですから、史料の検証が途中のまま、「大和を語る」にしたわけでございます。
通信室の中に御生還された方がおれば何か手がかりもあるのでしょうが。
通信室の最後も推察の域ではありますが語っていきたいと考えております。
「ゆるゆる」ですね。初めて耳にした言葉です。シティラピッド君は自身を「乗り鉄」と言っておりますが。
ありがとうございます。ゆるゆるのエスプリでやっていきます。
覗いてみました。今度じっくり読んでみようと考えております。
大和は一次士官室と二次士官室に分かれております。祖父は叩き上げの二次士官。古参兵がおおかったと聞きました。
どんな会話をしていたのか・・
そこまでは検証できないのが残念です。
「貴殿にしかできない」と思います。
昨年、「ばあさま」の実家跡地を訪ねました。
周りの家が「ばあさま」の姓ばかりでしたので驚きました。
興味、大いにありです。
みなしてやりすか?
知りたいと思うのが当然でしょう。
それに日本の歴史に残る大きな事件でしたからね。
1日経てばたつほど、情報は遠く薄くなっていきます。お父様も大変なご様子でお大事にして下さい。
酔漢さん風に言えば「どいなぐやったら、ほいなぐでぎんのが、わがらない」というところです。
いろいろな方にお会いしないとダメですね。