酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ノグチ そのストーリーはキタサトから始まった Ⅱ

2013-10-17 03:43:17 | もっとくだまきな話
内務省衛生局。明治25年。
「北里君。やはり謝っちまった方が・・・」
「あ・や・ま・る!誰にだ!何か悪い事でも俺はしたのか!」
「このままじゃ何も出来んだろう?環境は変える必要があるだろう」
「冗談じゃない!ない!ないんだぁぁ!俺達は科学者だろ!当たり前の事を当たり前にしたのに、何故謝るんだ!」
その局員もキタサトの、その気迫に押されております。
そして、次のキタサトの話しに驚きます。
「こうなったら!喧嘩だ!本気になって喧嘩してやる。このままじゃ日本の医学は前に進めない」
「おい、喧嘩って、帝大に殴り込みにでも・・・」
「ははは!そんな手段は取らないよ。でもなぁ、向こうがそうしたら・・・そのときはやるよなぁ」
「はぁ?意味が判らんが・・・」
「コッホ研究所。これを日本でも作ろうと思っているんだ」
「研究所を?君が?」
「ああ。そうだ。そこで存分に研究できる。そんな研究所を作るんだ!」

キタサトの発想自体は間違えておりません。
しかし、これは皆様もそうでしょうが、資金をどうしたのか。ここがお知りになりたいはずです。
キタサトは、政財界を自身で回ります。
本来ならば研究に打ち込みたい時間です。
こうした事を惜しんで、キタサトは自ら資金集めに奔走いたしました。
当然、現在自分がおかれている立場を説明する必要は出てきます。
賛同者達は、キタサトの立場を理解する態度を示します。
キタサトの実績を見れば、それは、当たり前なのですが。そして最大の賛同者を得られます。

明治25年。9月。福沢諭吉邸内。
「伝染病研究所を作る?」
「はい、伝染病は今だ無くなりません。これを徹底的に研究することが、日本の医学が世界に並ぶ事になる」
「なるほど・・・」
こうして「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」が出来ました。
住所は「東京市芝区芝公園第5号3番地」、現在の御成門交差点付近だったようです。
木造二階建ての研究所が出来上がります。
明治25年11月の事です。管轄は内務省、これはキタサトが内務省の官費留学生だったことにも起因しております。
ここで重要なのは、福沢諭吉と北里柴三郎との関係です。
私有地を提供し、資金を調達。そして歴史の表には、めったに出てはこないある人物を北里の側近として送り込みます。
田端重晟(たばたしげあき)がその人です。
福沢は、事業家「森村市左衛門」より捻出した資金を経理に明るい田端へ預けます。
「北里君。何があるか、解らない世の中であるから、独立経営を目指すような組織にしていくべきなのだ」という福沢の理論をそれから後実践していくことになります。
正しく、田端はその実行者として伝染病研究所発展へ大きく貢献して行くこととなります。

上記のこの福沢の言葉ですが・・明治のこの時期、政界へ積極的に参加する大隈重信と違って福沢は在野にあり、決して表舞台へは顔を出しません。
ですが、歴史のポイントには必ず顔を出してきます。
そこが福沢の凄さだと思うのです。
当時の政界の裏を知り、官僚の身勝手さも視野に入れている。そんな感想を酔漢は持っております。
研究には4G(ドイツ語ですから4ゲーとなりますが・・)が必要と言われております。
「金・運・忍耐・熟練」キタサト自身が持ち得ることのできない「金」の部分を田端は見事に解決させていきます。

帝大医学部内。
「青山先生。北里がですね!大それた物を作りましてぇ・・」
「はぁ?大それた物だと?」
「何でも・・伝染病研究所なのだそうで・・」
「何だとぉぉ!伝染病研究所?小生意気な奴め。内務省も内務省だ。そんなわけも判らない研究施設に金をつぎ込んで。ここ(帝大)だけで十分なんだ!」

その青山胤通大先生でございます。(写真、東京大学医学部より拝借)
青山は、執拗に北里伝染病研究所へプレッシャーをかけ続けます。あらやる手段を用いてこれを潰しにかかります。
そんな中、ある大きな出来事が発生致しました。

1894年香港。当時の香港ではペストの大流行が問題になっておりました。
内務省は、相当の危機感を抱いておりました。日本での大流行を懸念しておりました。
香港へ北里をはじめとする調査団を派遣致します。
それに対抗して、文部省は、学術的研究と称して、青山を隊長とする使節団を派遣します。
「ペスト調査」。目的は一緒なのですが、両者が別々の方法を取ります。
結果。北里柴三郎は、香港到着二日後に「ペスト菌発見」として、イギリスの雑誌に掲載させます。
そして、青山は自らがペストに罹り、九死に一生を得ます。
この史実です。
「伝研騒動」を語る世の書物では、必ずこの事件を引き合いに出してこう結びつけます。
「勝者北里。敗者青山」と。
果たして本当にそうなのか。「くだまき」では少しこの事件を掘り下げて見ます。

「ペスト菌」の名前を学名で拾うと「Yersinia pestis」(エルシニア・ペスティス)となります。
フランス「パストゥール研究所」の研究者「アレクダンドル・イェルサン」が発見したされ、その名前が学名として残されております。
何故「キタサト」ではないのか。これは疑問です。
別な見方では「アジア人だから、ヨーロッパの偏見ではないのか」こう論ずる方もおられますが、そうではありません。
キタサトの論文とキタサト自らの解釈によるものなのです。
キタサトは、香港で発見した菌を「ペスト菌予報」として、イギリスの医学雑誌「ランセット」に発表し、同時にコッホ研究所では、「キタサトの菌とイェルサンの菌は同一」と発表もします。時系列で観ますれば「キタサト」が第一発見者となりますが、そうではありません。
キタサトがコッホ研究所へ送った標本は、正真正銘のペスト菌と現在でも確認されております。
しかし、キタサトはその論文の中での記述が曖昧であり(らしくない表現とする方もおられます)、その内容を掻い摘んでお話しさせていただければ、「陽性か陰性か判定する事が出来なかった」という事なのです。(医学用語に疎い酔漢なので、ここまでの記述とさせて頂きたいのですが、調べますと「グラム陽性」「グラム陰性」という用語が出てまいりまして、どうやら、コッホの三原則に則った菌の確定方法なのだそうです)キタサトは自らが発見したペスト菌を確定するには、「100%の自身が無かった」と見るべきなのでしょう。
キタサト自身が後の論文で「イェルサンの菌とは違った菌である」こう認めております。この調査に5年を費やしてます。
ペスト菌発見。これは間違いでないのです。
確定し得なかった。これなのです。
「潔い!」こう言ってよいでしょう。
「間違いを正し、それを検証しなければ科学者とは言えない」
実戦してみせた「キタサト」。
その凄さを実感致します。

そして、もう一人。青山です。
ここでも「くだまき」は言わせて下さい。
北里と青山の対立を軸に語る時、どうしても青山の帝大権威主義が先に語られ、北里との対比を鮮明にさせます。
青山がどうして自らがペスト菌に犯され、部下一名(帝大の研究生)をペストで亡くしているのか。ここに注目です。
香港で青山は徹底的に解剖実験を繰り返します。
その、解剖の結果はこれまでにない(世界的に)レポートを作成させます。
青山の視点でもってペスト菌と対峙していた。
これは、青山の医学者としての業績の一つと言えましょう。

多くの見方が出来る。
酔漢も、最初は「勝者キタサト、敗者青山」と考えておりました。
史実を紐解きますと、こうした事が解ります。

ただ、この事に大きく口を挿む輩が一人おります。
森鴎外です。
正直、呆れます。
「くだまき」本題から少し、離れますが、ご紹介いたします。
こう論じます。
北里の香港から捕へて帰つた菌が贋物で、仏蘭西のエルザンが見出した菌が本ものであつたといふ事は、欧羅巴ではとつくに知れて居る。それがこつちでまだ問題となつて居たのは、衛生局や何かが政府の威光を以て北里を掩護して居たのである。」
 「内務省は北里を派し、大学は青山を派して、彼は細菌学上、此は臨床上の調査をした。公平な目から二人の功績を見るときは、縦ひ北里の捕へた菌が真物でも、或いは青山の功績と高下は無いかも知れぬ。然るに北里は菌を見出したといふので、彼の自らペストに罹って、九死に一生を得た青山よりも、高等な勲位を博した。今其菌が贋物であつたといふことを自ら承認せねばならぬ場合に立ち至つて見れば、北里たるものは少しく自ら省みざることを得ない筈ではあるまいか。」(「北里と中浜と」)

「くだらない」。
別な雑誌のコラムでは、「内務省の謀略」とまで言及しております。
読者に医学知識が無い事を前提にした、これら森鴎外の発言は、北里や青山の対立より遥かに下等なレベルだと判断せざるを得ません。
(この件、これ以上は語りません)
もし、キタサトが、発見した菌の特定に至っていたならば(たられば・・ですが・・)ペスト菌に「Kitasto」の文字がついていたのは間違いないのです。

「くだまき」戻ります。

講演会を終えたキタサトと共に、人力車の車中にもう一人。
「先生、盛会でしたね」
「ああ、このところ、医者だけではない、一般の人達も伝染病への関心が高くなっているのが解るようになった・・そう感じるよ、志賀君」
「次は何の研究を始めるのですか?」
「あはは・・・僕のかい?僕のより・・そうそう、君の研究の方が気になるなぁ?どう?結果出そう?」
「出ますかねぇ・・・・出れば・・良いですねぇ」
「志賀君。君のような帝大出身者が、伝研へ来ているのが不思議な感じがするよ」
「ここの方が、研究に没頭できるのですよ」
明治29年冬。小雪がちらつきそうな空模様。
志賀潔は、ふと、故郷の空を思い出すのでした。

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