酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ノグチ そのストーリーはキタサトから始まった

2013-10-04 02:22:56 | もっとくだまきな話
「森君。森君ではないか!ベルリンで会って以来だね!」
キタサトへ近づく馬。そして馬上に見える軍人。
しかし、彼は馬から降りようともせず、ただキタサトを見ているばかりでした。

森と聞いて、皆様お分かり頂いておりますでしょうか。
「森鴎外」その人です。
中学時代の教科書に「舞姫」がありましたが、キタサトとの接点は、そのドイツ、ベルリンでの事です。

「誰も来ないかと思って・・」
キタサトが話し始めると。
森が鋭くこう話しだしました。
「北里さん。あなたの帰るべき場所は、すでに日本には無いのです・・」
「・・・・・」
事情を呑み込めないでいるキタサト。
「帝大にあなたの席はない!こういう事です。自分のしたことをよーく考えればお解り頂けると思うのですが」
それだけ言うと、森は、帰って行きました。
「自分のしでかした事・・・あっ!もしかしてあの論文?しかし、私は科学者だ。間違いは間違いなのだ」
キタサトには、心当たりがあるのでした。しかし、それは自身の信ずることであり、内心「こんなくだらない事を森君は言っていたのか」と逆に腹が立ってきました。
真意はどこなのか。
キタサトは、帝大へ向かいました。

帝大医学部。
初代内科教授「青山胤通(たねみち)」の部屋。

この青山なる教授。くだまきには過去に一度登場しております。
「接点、二人の科学者」を語っていたとき、「鈴木梅太郎」の話しをいたしました。脚気がビタミン不足である事を発見し、その理論から脚気特効薬「理研ビタミン」を開発した人です。
青山は「脚気は伝染病である。百姓のいう事を聞いていたら治る病気も治らない」と痛烈に批判致します。
結果は皆様ご存知ですが、この青山なる先生。当時の帝大の影響の大きさをそのまま、服を着て歩いているような先生なのです。(口が過ぎました・・あくまで酔漢の主観です)。

助手を務める学生が、部屋へ入って来ました。
「先生、先生。北里先生が帰って来ましたぁ!」
「誰?そんな奴いたのかぁ?」
窓の外を眺めながら、ただ上の空で話しを聞いている。そんな様相。
「先生。何を言っているのです。コッホ研究所四天王の一人『プロフェッセル・キタサト』が帰国し、本校に戻って来た・・」
「何の為にだ!あいつの席が帝大にあるとでも思っているのか!どの面下げて帰って来やがった!『師弟の道を解さざる者帝大に用なし!』なのだ!」
「青山君。やはりそういう事だったのかね?」
キタサトは、青山と助手との会話を聞いていたのでした。
部屋へ入るキタサト。
「ふん!だったら話しが早い。北里君。君の席は帝大にない!・・という事なんだよ・・帰りたまえ!」
「青山君。判った・・しかし、ここで言う『判った』は、この大学に自分の席は用意されそうにない。これは、理解した。だがね、一言言っておきたい事がある。いいかね。我々は科学者なのだよ。科学することが仕事なのだ。間違いは立証し、そして正しい方向へ向かうべきなのだ。そこには、師弟という関係も存在し得ない。同じ道を進んでこそ、真実が解る。こうあるべきではないのか」
重い荷物を再び持ちながら、キタサトは教室を後にするのでした。

何があったのか。
振り返ります。キタサトがコッホ研究所にいたころ。やはり、脚気の原因を細菌とする説は、存在しておりました。
明治18年、緒方正規は「脚気菌を発見した」と大々的に発表致しました。その後すぐにオランダのペーケル・ハーリングも脚気は細菌が引き起こす病気であると、論文を発表致します。
これを、コッホ研究所にいた、レフレル(コッホの右腕。発表した緒方の氏でもある)とキタサトを中心とし、検証を始めました。
結果は、「脚気菌は存在しない。発見された菌は雑菌であり脚気の原因ではない」と解ります。
緒方の間違いを正す論文をキタサトは躊躇いたします。「私はこれを論文には書けない」一度はこうも話します。が、レフレルはこう説得いたします。
「科学するという事は、間違いを正すという事。そして、それが新たな道筋を作っていくそういうことだ。この論文はキタサト。君が書くべき内容なのだ」
キタサトはオランダのベーケル並びに緒方の説を否定する論文を発表します。
帝大では、森(鴎外はペンネームで林太郎が本名)がそれを痛烈に批判いたしました。
キタサトもすぐさまこう返します
「森林太郎の説によれば、北里は知識を重んじるあまり人の情を忘れたとの事であるが、私は情を忘れたのではなく私情を抑えたのである。学問に疎い者が学問を人情とすり替えて誤魔化すのは如何かと思う」と。
そして、更に森は感情的とも思える内容でキタサトを更に痛烈に批判致します。

脚気。「くだまき」では実に何度も出てきます。先の「鈴木梅太郎」ばかりではありません。祖父の話しの際にも登場させております。
海軍の食事の話題。
海軍ラッパの意味を節にして覚える。これはジョンベラの伝統です。その中の一曲。
♪お昼は麦飯ライスカレー♪があります。
海軍が伝統的に「麦飯」であるのは、脚気の予防の為であることは良く知られております。
これを提唱した軍医がおります。
高木兼寛です。鹿児島の出身。イギリスで医学を学び、海軍へ戻ります。
彼は、航海中の船の寄港先、並びに船内での食事を分析し、脚気患者の割合を比較しました。そして、外国の地に立ち寄った港で、パンなど麦中心の食事を取ると、脚気患者が急速に減ることに気が付きます。
白米中心だった食事を麦を混ぜる事で脚気患者を少なくさせました。
しかし、これに根拠を見つけるまでには至らず、陸軍軍医である森(鴎外=林太郎)や帝大、大沢謙二等に批判されます。
結果ですが、森が提唱した「白米主義」の陸軍で脚気患者が急増したのは有名な話しです。
高木の論文が陸軍、そして医学会から嘲笑されたのは、高木が帝大出身者ではないのと、当時の日本医学会では「ドイツ主義」が主流であり、「イギリスでの医学」は受け入れない風潮があったのです。海軍は、理屈ではなく、自らの経験から「麦を食べると脚気が治る」とこうした理由で「麦飯」を推奨させております。
(短く解説したつもりですが、途中大きく割愛した内容もございます。海軍でも簡単にはそうは行ってません。紆余曲折がありながら、麦飯に至っております)
因みに、森林太郎は19歳で帝大医学部を卒業。45歳で「陸軍軍医総監」という最高位まで上り詰めております。その影響力は極めて大きいと言えます。
この帝大と他(他と言うには、はなはだ誤解を招くところではありますが、宮城出身、志賀潔が帝大へ戻らなかったのも内一つの理由です)との確執は極めて大きく、数々論議の的となり、また、ノグチを語るうえでも大きく影響するところなのです。

帝国大学医学部へ戻る事の出来なかった北里柴三郎。
内務省衛生局におります。
閑職にあります。
「このままでは・・・やはり、必要なんだ!俺がやる!」
キタサトの不屈な魂が呼び起こされた瞬間でもありました。
明治25年9月の事でありました。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ノグチ | トップ | ノグチ そのストーリーはキ... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは (見張り員)
2013-10-04 21:25:09
うーん!おもしろい!!
科学というもの、間違いは速やかに正さねばその発達はあり得ないわけですからねえ・・・私情の入り込む余地のないのが科学だと私も思います。
>「~学問に疎いものが学問を人情とすり替えて~」のくだりは本当に痛烈ですね。

次回を楽しみに待っています!
返信する

コメントを投稿

もっとくだまきな話」カテゴリの最新記事