九時三十分、十時ーー時間が経過する。意外な静寂が続く。
嵐の前の静けさ!
朝から天をおおっていた暗雲も、このころには青空がところどころに見え始めて、対空射撃関係員を喜ばせた。
敵攻撃隊は、次々に母艦を発進して「大和」を攻撃準備中であろう。
第一艦橋では
第二艦隊司令長官伊藤整一中将が、大本営に「ワレ接触ヲ受ク」と打電した後(時間を整理しますと、8時15分戦闘機三機の目視。「朝霜」の機関故障。そして8時45分のマーチン飛行艇二機との接触。交信の傍受、解読。主砲三式焼霰弾の発射の後の事でございます。→この経緯は詳しく語ります)近くの者に、「鹿屋からの直掩機に連絡はつかぬか」と聞かれた。後に控えていた参謀(手記からは不明)が「連絡はとれません」と答えた。
実はこの直掩機は、日の出前に鹿屋航空基地から偵察機十二、三機を出動させると連絡があったものだ。(前回更新分「アメリカ2」をご参照下さい。7日午前三時四十五分に直掩機に関する電文を2Fは受け取っております)無謀なこの特攻の説明に苦しい役を努めた連合艦隊参謀長草鹿竜之介中将(能村手記では全て「竜之介」と記載されております。再度「龍之介」が正しい表記です)のさしずだったかもしれない。この少数機ではどうなるものではないが、ともかく期待はあった。しかし、ついに艦隊乗員の目には触れなかった。
事実は、われわれが知らなかっただけで、八時ごろ第五航空艦隊の零戦二十機が第二艦隊直掩に出撃しており、ニ、三時間後に鹿屋基地に帰着していた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
先に、能村副長手記を見ました。「上空直掩」につきましても、様々な憶測を呼ぶ史実でございます。酔漢は先の「アメリカ2」におきまして、鹿屋基地内での草鹿龍之介参謀長と第五航空艦隊宇垣纏司令長官との会話を語りました。
あの会話ですが、宇垣司令長官が「いやいやながら」「お義理のように」出水から直掩機を出動させる。というものにしております。
この部分ですが、ドラマや映画、多くの書物に書かれている内容が違っていることに気付きます。
七日早朝、「大和」は大隈海峡を通過、西南に進んだ。
このころ、鹿児島の鹿屋航空基地では、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介が、空を見上げて苛立っていた。外はひどい雨だった。パイロットの技量の低下はひどく、天候が悪いと飛べないのだ。
第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将も「大和」を思って暗澹としていた。
伊藤中将の長男を含めて十五機の戦闘機を護衛に出すことにしていたが、この分では駄目かもしれないと思うと気が重かった。
(中略)
なぜこうした馬鹿げた作戦を実施したのかと、荒れ模様の空を見上げながら、宇垣は改めて思った。
幸いなるかな、五時ごろ、一瞬の晴れ間があった。
「いまだ、行けッ!」
宇垣は零戦を発進させて、安堵した。
(星亮一氏著「伊藤整一」208頁より抜粋)
上記(星亮一先生→母校東北福祉大学の講師でおられました)を読みますれば。
直掩機が「鹿屋からの発進」とされておる個所と「伊藤叡中尉の搭乗機が発進」とされている個所。そして「宇垣司令長官が直掩機を出動させることに積極的だった」とされている箇所が見受けられます。そして直掩機が「零戦」であるとなっております。
酔漢は前回「出水」からの出動といたしております。(話の途中だったので宇垣司令長官が「出水からなら出せる」という台詞に致しております)
能村副長手記でも「鹿屋からの直掩機」とされております。しかし、「零戦」ではなく「偵察機」と記されておられます。
1YBへの直掩機に関しては、様々な憶測の中で描かれている事実があるわけです。
七日午前三時四十五分、「大和」は翌朝の艦隊上空直掩の実施に関する電報を受け取った。「大和」以下の特攻隊十隻が沖縄に突入するためには、どうしても上空直掩機を必要とすることは火をみるより明らかだった、しかし当時の第五航空艦隊は、兵力が少なく、主任務の特攻機を出撃させるのに精一杯な状況にあった、一部幕僚にあっては、その少ない兵力で「大和」を守るより敵を攻撃する特攻機の直俺に回すべきとの声が大きかったという。しかし、第五航空艦隊宇垣中将は、伊藤中将が敵機動部隊の跳梁する中を沖縄に突入するのだから、戦闘機の足の届く範囲は護衛すべきであると、直俺機の出動を決意した。
(原勝洋氏著「真相・戦艦大和ノ最期」154頁より抜粋)
上記、原氏は上空直掩機の史実を、この箇所でしか論じておられません。
ここでも、「直掩機は鹿屋からの出動」とされておりますが、「1YBへの直掩に反対する幕僚」と第五航空艦隊内で反対の意見があったことを記しておられます。しかし、宇垣司令長官のジャッジにより「直掩機の出動」と致しております。
どの、書物を参照しましても、詳細が省かれていることは共通です。そして、その内容は(繰り返すようで申し訳ございませんが。)憶測と推察と一部の史実のみからの検証で著されているのです。
実際はどうであったか。酔漢の私見を加えながら以下、語りたいと考えます。
1) 宇垣司令長官の本音。
「天一号作戦」発令の経緯を一度語っております。整理します。
主力は航空兵力。特攻を主とする。それは「第五航空艦隊」が主力である。
そう、主力は「航空兵力」なのです。宇垣司令長官は冷徹までも、実直にその任務を全ういたします。特攻兵器「桜花」を相当数出撃させております。
五航艦の主任務なのです。実働九十機程度の戦力では「到底、直掩は無理」と考えられるのです。燃料も限られております。たった数十機であれば、敵の餌食になることはやはり明確なのです。酔漢は「宇垣は1YBに対する上空直掩は、五航艦ではやりたくなかった」と結論付けます。
2)当時の天候。
宇垣司令長官の心情を考慮する前に4月7日の天候与件がございます
実際、5日から10日にかけての悪天候で特攻も中止となっております。(搭乗員の気持、察するに余りあります)五航艦のパイロットの技量、機の性能を考慮すれば、「飛行機を飛ばす」天候与件ではありませんでした。
当時の天気を見てみます。
雲量10。ゲリラ的な積乱雲がところどころに発生しており、雲低が役900~1000m。当然、雲を低く飛ばざるを得ません。敵機の標的になるような飛び方をしなければならないわけです。このリスク相等なものです。心情とは別に物理的にも「無理」だったことは明らかなわけです。しかし(これは「アメリカ3」で語るところとなりますが)ミッチャーはこの天候を喜びます。「敵に見つかる確率が少なくなる」という理由です。当時、アメリカの艦載機にはレーダーがそなえられ、(ビーコン)方向については、無視界飛行が可能でありました。これを可能にしたのが脾肉にも「八木アンテナ」だったわけです。
3)出撃時刻のとの関係
10時間近く2Fは出撃時刻を前倒ししている事実を語りました。そして、1YBのその後の行動は第五航空艦隊からGFへ打電されております。GFは無線封鎖の関係で2Fとは直接連絡を取れずにおります。大和が沖縄へ向う回頭地点からの行動はGFも疑問を持ち始めます。8日黎明時沖縄突入にしては2Fの行動は早すぎるのです。九州回港へのダミー航路をとったとしても、速度20ノットで到達できる距離にあるのです。(酔漢はこの事実を、伊藤長官の作戦→GFを欺く為のものではなかったかと推察しております。燃料も含めて。これは、重要なファクターとなります故。後程語ります)GF、五航艦からすれば「何でだ!」となるわけです。当初の直掩計画がまったく狂ったことを意味するのだと考えます。しかし、多くの記録、書物を拝読しますと、2Fにはまったくその意志が感じられません。
これも、酔漢の中では大きな疑念になるのです。
4)紫電改部隊への期待
これも、記録されていない箇所でございます。記録と申しましたのは、「三四三部隊への直掩命令が出されていない」という事です。しかしながら、GFでは、これに期待をかけていたことは考えられます。憶測ですが、紫電改50機であれば、充分7日日中沖縄までの到達が最短作戦航路であれば可能なわけです。足の短い紫電改であっても上空直掩が可能で、大和以下が被弾すれど、その損害は少なかったと推察する次第です。
しかしながら、悪天候のため、三四三部隊は八日に鹿屋に到着しております。その後、三四三部隊は特攻機への直掩に活躍いたします。B-29への攻撃も行っております。
パイロットの技量の差は歴然で、正直、中途半端な直掩であるよりはこの三四三部隊の直掩は効果があり、もしかしたら、「だから、直俺は中止にした」と宇垣司令長官が考えていたのかもしれません。これも憶測でははございますが。
5)伊藤叡中尉
2F伊藤司令長官のご子息でございます。映画等大和の上空を飛び、特攻により戦死されたとされている「物語」が多くございます。この史実を整理してみます。
伊藤叡中尉は海兵72期。41期飛行学生でした。優秀なパイロットで筑波エース的存在です。教官をされておられます。筑波の飛行隊は天一号作戦が下令された後、出水から出撃することになります。しかしながら、4月7日。1YBの直掩についたという行動記録がございません。実際、出水からの直俺は間違いないのですが、この機の中に伊藤叡中尉が搭乗していたとされる記録が現在ございません。伊藤叡中尉の記録は4月後半からのものが公開されております。一部ご紹介いたします。
4月21日 B29邀撃 発動機に被弾
4月26日 B29邀撃 敵を見ず
4月27日 B29邀撃 B29に黒煙を吐かせるも油漏れ 目達原に不時着
4月28日 1530 沖縄伊江島付近哨戒中敵F4U約16機と交戦 未帰還
なにわ会のブログ 「日記 5月6日 伊藤叡中尉」より。
上記の戦闘記録を拝見いたしますと、かなり優秀な搭乗員であったことがうかがわれます。
相等な腕前です。映画などで語られております「特攻による戦死」ではないのがわかります。伊藤司令長官の台詞として語れますのは「息子が特攻隊員なので遺書は書かない」と云われております。実際、遺書は「叡中尉宛」はなかったのは確かです。ですが「特攻隊員だ」とは言わなかったのが確かではないのでしょうか。
伊藤叡中尉の戦死された日が28日。伊藤司令長官の公報がご自宅へ届きましたのが28日。同じ日であったことは、偶然の一致なのです。ご家族の皆様のお気持ちをお察しいたします。
六時ころより戦闘機八機が直掩として飛来したが、それも九時をすぎると大きく左右にバンクしながら視野から消えていった・・・・・。
(三笠逸男さん大和一番副砲砲員長手記より抜粋)
○八○○~一一○○、第五航空艦隊の零戦ニ○機、艦隊の上空直営に任ず。
(藤井治美 初霜砲術長手記より抜粋)
豊後水道を出撃、たちまち潜水艦に接触された。夜が明けるをまもなく味方索敵機より情報がはいった。「敵機動部隊群、沖縄東方海面!」予期したとおり、数百の敵機が待ち構えていることが明らかとなった。わが上空警戒の零戦一○機は、いつのまにやら姿を消していた。(原為一 矢矧艦長手記より抜粋)
「実際は、直掩といっても、未熟な腕の搭乗員に「大和を見ておけ」程度の飛行かと思っていました。ですからもとより期待はしなかった。」
(同じく、原為一さん証言。昭和52年遺族会懇親会より)
1YBへの上空直掩にたいしても、作戦面や他の与件が大きく絡み合う史実でした。その絡んだ事実を再び戻すことは最早難しいのが現状なのでしょう。
酔漢なりに検証はしてみました。がやはり人の意志が大きく働き、それを個々ごとに整理いたしますと、とても大きな仕事になると痛感いたします。
潜水艦の報告の後、大和を見失ったミッチャーです。やっきになってその姿を探します。
7日早朝。予備燃料タンクを満載にしたヘルキャット三個隊が夜明けと同時にバンカーヒルを飛び立ちました。
「あいかわらず勲章はつけないんですね」アーリーバークは朝の挨拶の代わりにこう言いました。
「だれが、あんな重々しいものつけるか!俺たちは『空母』に居るんだ!飛行機飛ばすのにあんな重いもんなかいるか!ウイングマークだけで充分だ」
飛行甲板を叩く雨音が大きくなって来ました。
「さぁて、デカイ奴め。必ず見つけだしてやる!」
たばこはもう既に、半箱分は吸ったミッチャーでした。
嵐の前の静けさ!
朝から天をおおっていた暗雲も、このころには青空がところどころに見え始めて、対空射撃関係員を喜ばせた。
敵攻撃隊は、次々に母艦を発進して「大和」を攻撃準備中であろう。
第一艦橋では
第二艦隊司令長官伊藤整一中将が、大本営に「ワレ接触ヲ受ク」と打電した後(時間を整理しますと、8時15分戦闘機三機の目視。「朝霜」の機関故障。そして8時45分のマーチン飛行艇二機との接触。交信の傍受、解読。主砲三式焼霰弾の発射の後の事でございます。→この経緯は詳しく語ります)近くの者に、「鹿屋からの直掩機に連絡はつかぬか」と聞かれた。後に控えていた参謀(手記からは不明)が「連絡はとれません」と答えた。
実はこの直掩機は、日の出前に鹿屋航空基地から偵察機十二、三機を出動させると連絡があったものだ。(前回更新分「アメリカ2」をご参照下さい。7日午前三時四十五分に直掩機に関する電文を2Fは受け取っております)無謀なこの特攻の説明に苦しい役を努めた連合艦隊参謀長草鹿竜之介中将(能村手記では全て「竜之介」と記載されております。再度「龍之介」が正しい表記です)のさしずだったかもしれない。この少数機ではどうなるものではないが、ともかく期待はあった。しかし、ついに艦隊乗員の目には触れなかった。
事実は、われわれが知らなかっただけで、八時ごろ第五航空艦隊の零戦二十機が第二艦隊直掩に出撃しており、ニ、三時間後に鹿屋基地に帰着していた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
先に、能村副長手記を見ました。「上空直掩」につきましても、様々な憶測を呼ぶ史実でございます。酔漢は先の「アメリカ2」におきまして、鹿屋基地内での草鹿龍之介参謀長と第五航空艦隊宇垣纏司令長官との会話を語りました。
あの会話ですが、宇垣司令長官が「いやいやながら」「お義理のように」出水から直掩機を出動させる。というものにしております。
この部分ですが、ドラマや映画、多くの書物に書かれている内容が違っていることに気付きます。
七日早朝、「大和」は大隈海峡を通過、西南に進んだ。
このころ、鹿児島の鹿屋航空基地では、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介が、空を見上げて苛立っていた。外はひどい雨だった。パイロットの技量の低下はひどく、天候が悪いと飛べないのだ。
第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将も「大和」を思って暗澹としていた。
伊藤中将の長男を含めて十五機の戦闘機を護衛に出すことにしていたが、この分では駄目かもしれないと思うと気が重かった。
(中略)
なぜこうした馬鹿げた作戦を実施したのかと、荒れ模様の空を見上げながら、宇垣は改めて思った。
幸いなるかな、五時ごろ、一瞬の晴れ間があった。
「いまだ、行けッ!」
宇垣は零戦を発進させて、安堵した。
(星亮一氏著「伊藤整一」208頁より抜粋)
上記(星亮一先生→母校東北福祉大学の講師でおられました)を読みますれば。
直掩機が「鹿屋からの発進」とされておる個所と「伊藤叡中尉の搭乗機が発進」とされている個所。そして「宇垣司令長官が直掩機を出動させることに積極的だった」とされている箇所が見受けられます。そして直掩機が「零戦」であるとなっております。
酔漢は前回「出水」からの出動といたしております。(話の途中だったので宇垣司令長官が「出水からなら出せる」という台詞に致しております)
能村副長手記でも「鹿屋からの直掩機」とされております。しかし、「零戦」ではなく「偵察機」と記されておられます。
1YBへの直掩機に関しては、様々な憶測の中で描かれている事実があるわけです。
七日午前三時四十五分、「大和」は翌朝の艦隊上空直掩の実施に関する電報を受け取った。「大和」以下の特攻隊十隻が沖縄に突入するためには、どうしても上空直掩機を必要とすることは火をみるより明らかだった、しかし当時の第五航空艦隊は、兵力が少なく、主任務の特攻機を出撃させるのに精一杯な状況にあった、一部幕僚にあっては、その少ない兵力で「大和」を守るより敵を攻撃する特攻機の直俺に回すべきとの声が大きかったという。しかし、第五航空艦隊宇垣中将は、伊藤中将が敵機動部隊の跳梁する中を沖縄に突入するのだから、戦闘機の足の届く範囲は護衛すべきであると、直俺機の出動を決意した。
(原勝洋氏著「真相・戦艦大和ノ最期」154頁より抜粋)
上記、原氏は上空直掩機の史実を、この箇所でしか論じておられません。
ここでも、「直掩機は鹿屋からの出動」とされておりますが、「1YBへの直掩に反対する幕僚」と第五航空艦隊内で反対の意見があったことを記しておられます。しかし、宇垣司令長官のジャッジにより「直掩機の出動」と致しております。
どの、書物を参照しましても、詳細が省かれていることは共通です。そして、その内容は(繰り返すようで申し訳ございませんが。)憶測と推察と一部の史実のみからの検証で著されているのです。
実際はどうであったか。酔漢の私見を加えながら以下、語りたいと考えます。
1) 宇垣司令長官の本音。
「天一号作戦」発令の経緯を一度語っております。整理します。
主力は航空兵力。特攻を主とする。それは「第五航空艦隊」が主力である。
そう、主力は「航空兵力」なのです。宇垣司令長官は冷徹までも、実直にその任務を全ういたします。特攻兵器「桜花」を相当数出撃させております。
五航艦の主任務なのです。実働九十機程度の戦力では「到底、直掩は無理」と考えられるのです。燃料も限られております。たった数十機であれば、敵の餌食になることはやはり明確なのです。酔漢は「宇垣は1YBに対する上空直掩は、五航艦ではやりたくなかった」と結論付けます。
2)当時の天候。
宇垣司令長官の心情を考慮する前に4月7日の天候与件がございます
実際、5日から10日にかけての悪天候で特攻も中止となっております。(搭乗員の気持、察するに余りあります)五航艦のパイロットの技量、機の性能を考慮すれば、「飛行機を飛ばす」天候与件ではありませんでした。
当時の天気を見てみます。
雲量10。ゲリラ的な積乱雲がところどころに発生しており、雲低が役900~1000m。当然、雲を低く飛ばざるを得ません。敵機の標的になるような飛び方をしなければならないわけです。このリスク相等なものです。心情とは別に物理的にも「無理」だったことは明らかなわけです。しかし(これは「アメリカ3」で語るところとなりますが)ミッチャーはこの天候を喜びます。「敵に見つかる確率が少なくなる」という理由です。当時、アメリカの艦載機にはレーダーがそなえられ、(ビーコン)方向については、無視界飛行が可能でありました。これを可能にしたのが脾肉にも「八木アンテナ」だったわけです。
3)出撃時刻のとの関係
10時間近く2Fは出撃時刻を前倒ししている事実を語りました。そして、1YBのその後の行動は第五航空艦隊からGFへ打電されております。GFは無線封鎖の関係で2Fとは直接連絡を取れずにおります。大和が沖縄へ向う回頭地点からの行動はGFも疑問を持ち始めます。8日黎明時沖縄突入にしては2Fの行動は早すぎるのです。九州回港へのダミー航路をとったとしても、速度20ノットで到達できる距離にあるのです。(酔漢はこの事実を、伊藤長官の作戦→GFを欺く為のものではなかったかと推察しております。燃料も含めて。これは、重要なファクターとなります故。後程語ります)GF、五航艦からすれば「何でだ!」となるわけです。当初の直掩計画がまったく狂ったことを意味するのだと考えます。しかし、多くの記録、書物を拝読しますと、2Fにはまったくその意志が感じられません。
これも、酔漢の中では大きな疑念になるのです。
4)紫電改部隊への期待
これも、記録されていない箇所でございます。記録と申しましたのは、「三四三部隊への直掩命令が出されていない」という事です。しかしながら、GFでは、これに期待をかけていたことは考えられます。憶測ですが、紫電改50機であれば、充分7日日中沖縄までの到達が最短作戦航路であれば可能なわけです。足の短い紫電改であっても上空直掩が可能で、大和以下が被弾すれど、その損害は少なかったと推察する次第です。
しかしながら、悪天候のため、三四三部隊は八日に鹿屋に到着しております。その後、三四三部隊は特攻機への直掩に活躍いたします。B-29への攻撃も行っております。
パイロットの技量の差は歴然で、正直、中途半端な直掩であるよりはこの三四三部隊の直掩は効果があり、もしかしたら、「だから、直俺は中止にした」と宇垣司令長官が考えていたのかもしれません。これも憶測でははございますが。
5)伊藤叡中尉
2F伊藤司令長官のご子息でございます。映画等大和の上空を飛び、特攻により戦死されたとされている「物語」が多くございます。この史実を整理してみます。
伊藤叡中尉は海兵72期。41期飛行学生でした。優秀なパイロットで筑波エース的存在です。教官をされておられます。筑波の飛行隊は天一号作戦が下令された後、出水から出撃することになります。しかしながら、4月7日。1YBの直掩についたという行動記録がございません。実際、出水からの直俺は間違いないのですが、この機の中に伊藤叡中尉が搭乗していたとされる記録が現在ございません。伊藤叡中尉の記録は4月後半からのものが公開されております。一部ご紹介いたします。
4月21日 B29邀撃 発動機に被弾
4月26日 B29邀撃 敵を見ず
4月27日 B29邀撃 B29に黒煙を吐かせるも油漏れ 目達原に不時着
4月28日 1530 沖縄伊江島付近哨戒中敵F4U約16機と交戦 未帰還
なにわ会のブログ 「日記 5月6日 伊藤叡中尉」より。
上記の戦闘記録を拝見いたしますと、かなり優秀な搭乗員であったことがうかがわれます。
相等な腕前です。映画などで語られております「特攻による戦死」ではないのがわかります。伊藤司令長官の台詞として語れますのは「息子が特攻隊員なので遺書は書かない」と云われております。実際、遺書は「叡中尉宛」はなかったのは確かです。ですが「特攻隊員だ」とは言わなかったのが確かではないのでしょうか。
伊藤叡中尉の戦死された日が28日。伊藤司令長官の公報がご自宅へ届きましたのが28日。同じ日であったことは、偶然の一致なのです。ご家族の皆様のお気持ちをお察しいたします。
六時ころより戦闘機八機が直掩として飛来したが、それも九時をすぎると大きく左右にバンクしながら視野から消えていった・・・・・。
(三笠逸男さん大和一番副砲砲員長手記より抜粋)
○八○○~一一○○、第五航空艦隊の零戦ニ○機、艦隊の上空直営に任ず。
(藤井治美 初霜砲術長手記より抜粋)
豊後水道を出撃、たちまち潜水艦に接触された。夜が明けるをまもなく味方索敵機より情報がはいった。「敵機動部隊群、沖縄東方海面!」予期したとおり、数百の敵機が待ち構えていることが明らかとなった。わが上空警戒の零戦一○機は、いつのまにやら姿を消していた。(原為一 矢矧艦長手記より抜粋)
「実際は、直掩といっても、未熟な腕の搭乗員に「大和を見ておけ」程度の飛行かと思っていました。ですからもとより期待はしなかった。」
(同じく、原為一さん証言。昭和52年遺族会懇親会より)
1YBへの上空直掩にたいしても、作戦面や他の与件が大きく絡み合う史実でした。その絡んだ事実を再び戻すことは最早難しいのが現状なのでしょう。
酔漢なりに検証はしてみました。がやはり人の意志が大きく働き、それを個々ごとに整理いたしますと、とても大きな仕事になると痛感いたします。
潜水艦の報告の後、大和を見失ったミッチャーです。やっきになってその姿を探します。
7日早朝。予備燃料タンクを満載にしたヘルキャット三個隊が夜明けと同時にバンカーヒルを飛び立ちました。
「あいかわらず勲章はつけないんですね」アーリーバークは朝の挨拶の代わりにこう言いました。
「だれが、あんな重々しいものつけるか!俺たちは『空母』に居るんだ!飛行機飛ばすのにあんな重いもんなかいるか!ウイングマークだけで充分だ」
飛行甲板を叩く雨音が大きくなって来ました。
「さぁて、デカイ奴め。必ず見つけだしてやる!」
たばこはもう既に、半箱分は吸ったミッチャーでした。
それをわかりきっていたために「出せない」し「期待しない」といったところでしょうか。
なんともやりきれない末期症状です・・・
米爆撃機の頑丈な機体に対して直掩機が機銃で打ち抜いてもなかなか撃墜出来なかったため、体当たり攻撃を敢行した逸話がありますよね。
文字通り死に物狂いの行動です。想像するだけで恐ろしくなってしまいます。
・・・ところで「直俺」では「自分から突っ込みぱなし」の掩護になってしまいますよ。
たまには私でも「指摘」してしまいました・・・
今しがた、全て訂正いたしました。気付かないまま、誤変換しておりました。ありがとうございます。
ですが「直俺」でも意味は同じでしょうか?
そんな感じも致しました。
何か違和感があったのは事実でした。ですが、ご指摘を拝読するまで気付きませんでした。
これ以前の記事も確認しましたが「直掩」になっておりました。
意味が全然違いますよね。
さて、ひー様捜索。
この時期鎌倉は「カメラを提げた、夫婦・・」
は大勢おりますものですから、さりげな写真から推定してですね・・・度胸一発声をかけるしか手はないのでしょう・・。
本日、「定期戦」デス!
さて、凱歌を歌うのは・・
「丹治さん」(本人はやはり現場におります)でしょうか。昨年の引き続き「クロさん」でしょうか。野次馬の興味は尽きません。
今年は両校とも共学での定期戦ですね。
結果はもとよりまた「くだまき」にする予定です。
故郷の先輩に甘えぱなっしの後輩です。
読んでから再度・・・
どう見ても、この状況下で戦争を続けている方がおかしいですよね。
しかし、止められ無いのもわかりますが…
アメリカを中心に語っておりますが、その物量の大きさに圧倒されます。食糧、燃料から戦闘員の数まで。日本海軍が三つくらいできるほどの戦力です。(実際はそれ以上ですが)
おっしゃるとおりです。
続けているほうがおかしいと感じます。
ですが、歴史を知っている僕等の感覚なんですよね。自身不思議な感覚を覚えます。