酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 

2011-01-14 08:54:43 | 大和を語る
「大和を語る」本日より再び再開いたします。
これまで「大和を生みし者達」として大和建造の過程とそこに生きた人間を「西島亮二」の視点を中心に語りました。
そして戦闘の様子、状況などは「奮戦スレド徒死スルナカレ」として語ってまいりました。
今回は三章目。私ども家族のこと、そして「ご生還された方が戦後どのように大和とかかわってきたか」を中心に語ります。
本来、酔漢が語らなけらばならない。その本題とも言うべき記録と記憶を整理しておこうかと考えました。
再三、「昭和53年 第二艦隊海上特攻慰霊祭」(場所、九段、靖国神社)に参加したことを語りました。
中学三年生の酔漢は、「おおよその事」は知っておりましたので、当時はご健在でおられました「古村元二水戦司令官」「原元矢矧艦長」「清水元大和副砲長」「倉橋元涼月先任将校」など、多くの人と会話が出来ました。
また、父と「石田元少佐」(伊藤整一司令長官副官)との交わされました書簡をご紹介いたします。
先に結論的に申し上げます。
数多くのご批判等を頂戴することになろうかもしれませんが、酔漢は坊ノ岬沖海戦を「特攻」とは考えておりません。
以前も箇所箇所にてお話させていただきましたが、今一度その理由を検証していこうかとも考えております。
東海大学鳥飼教授が論じておられますが、酔漢もそれに即した意見を以前から持っておりました。
「なぜ、特攻ではなかったのか」は酔漢の私見、史観ではございますが、それを元に語る事となります。
しかしながら、逆の見方も確かにあるのです。毎日新聞社栗原記者がお書きになられました「戦艦大和 生還者たちの証言から」(岩波新書 1088)は「なぜ特攻としっかり認識されていないのか」という視点から論じておられます。
この章では両者の論じておられる視点の比較は避けて通れないこととなります。
酔漢なりに噛み砕いて整理し語ろうと考えております。
上記は、歴史を紐解く上で必要な見方です。
これを勉強することは遺族である私にも必要なことだと思うのです。
ですが、残された家族の思いはそれだけでは片づけられない部分は多々あるのです。
祖母が叔父が叔母がそして父が辿って来た足取りを思うと複雑な思いに至ります。

歴史を整理し、論文を整理し、家族の足取りをたどり、それを目撃、聞いた酔漢がそれを表現する。
父から与えられた宿題でもあるこの命題に自分なりの解答をすることが酔漢の使命と考えました。

遺族、第三世代がそろそろ大和を語っても。
そして、次の世代につなげる意味でもあろうかと・・・。

ですが、基本は「くだまき」です。自身のリズムで語ります。

次回、昭和20年夏。終戦間近の宮城県七ヶ浜村。父疎開先であります、祖父実家から始まります。
その夏、父は友人と今は貝塚公園となっております「大木囲貝塚遺跡」近くにございました高射砲陣地近くで遊んでおりました。
一機のカーチスが七ヶ浜へ飛来しております。

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2 コメント

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自らも証言者だった (酔漢です )
2011-01-30 10:03:37
自身も証言者だったのかと、思いました。
原さん、古村さん、石田さん、清水さん、三笠さん。ご生還された方と話が出来た最後の世代であると思えました。
この章で整理しようと思います。
ご指導の程よろしくお願い申し上げます。
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分けて考える必要があるのでは? (丹治)
2011-01-14 12:32:29
難しい問題だと思います。
命令を下した連合艦隊司令部がどう考えていたか、
二艦隊司令部以下の将兵たちがどう考えていたか、
のこされたご遺族の皆さんがどう考えていたか、
分けて考える必要があるのではないでしょうか。

私のような単なる歴史好きがあれこれ言うのとは、
酔漢さんはまったく違います。
お爺様をこの作戦で亡くされていますし、
慰霊祭その他で
生存者の皆さんの証言も聴いています。
我々の世代で生存者の証言を聞いているのは
恐らく酔漢さんぐらいではないでしょうか。
こう申し上げては礼を失しますが、
酔漢さんは天一号作戦を語る資格は十分に持っています。
健筆を期待しております。
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