酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 大和を生みし者達(番外編)  船殻の猛者 古川忠 技手

2011-08-26 07:55:18 | 大和を語る
昭和15年春。大和は呉工廠でその姿を見せ始めておりました頃。
ロンドンから一隻の客船が、アメリカ大陸を通過中でございました。
その客船の中に一人の技術者が乗っておりました。
昭和14年から15年までの一年間をロンドンで過ごした彼。
造船技術の優れているイギリスで、その技術の習得に励んでいたのでした。

嘗て、大和設計に携わりました「牧野茂」は、それより以前、フランスに留学しております。
阿川弘之氏によれば、「これは、海軍としていたしかたなかった」こう話されておられます。

海軍は大和魂一筋の陸軍と違い、西欧の近代科学と技術とを無視しては立っていくことは出来なかったし、海軍工廠を底辺で支えている者が、ほんとの山出しのわらじばきばかりでは、先進国の戦艦と対決出来る戦艦の建造など、不可能なことであった。
(阿川弘之氏著「軍艦長門の生涯」第一章より抜粋)

「おい古川!お前、ずっとデッキにいるが、何してるんだ?」
「わしか?わしはのう・・・外をみてるんじゃ!」
「そ・・と・・・?わぁ!お前・・目が真っ赤じゃないか!」
「まばたきするのも惜しくてのぅ・・目を凝らしておったら、目がいとうなってしもうた」
「お前・・飯は?」
「パナマ運河を観察することが、わしの仕事じゃ。飯など食っている暇があるかい」
船はパナマ運河を通過中でした。
日米開戦がそぞろに顔をだしていた当時。
太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河の軍備を目の当たりに出来る、チャンスでもあった訳です。
ですが、その意図は当時の技手(「ぎて」と読みます)には説明されてはおりませんが・・。
「ストップさんからのぅ。ニューヨークでこういわれたんじゃ『お前、パナマ運河を通るときにな、運河の様子をよぉぉぉく見ておいてくれ!』って」
(当時のニューヨーク海軍監督長「中村止 大佐」の渾名。お名前が「止」なものですので・・)
「だがな・・・何か見えたか?」
「今のところ・・・何も・・・ないんじゃ」
現在でも一般的な船舶が通過するのには約9時間を要します。
水門を開閉しながら通過するわけですが、基本的には今現在ともその方法は変わっておりません。
古川さんは、晩年こう話しておられます。

パナマ運河を通過するときには、めしも食わず、眼を皿のようにして外を見ていたけれども、別に何もなかったのよのう
(阿川弘之「軍艦長門の生涯」第一章より)

そうして、広島呉へ戻った古川。
呉海軍工廠では既に「一號艦」の概要が出来つつあります。最上甲板が全て張り終えるのが昭和十五年、六月です。その間際の帰国でした。
古川は西島亮二、「一號艦船殻主任」から出迎えられました。
「古川君、君の持っている技術の全てをこの一號艦に全てを注ぎこんでほしい」
呉工廠では既に、古川の腕の良さはお墨付き。
「呉工廠、船殻のフルカワ」は、その世界では一流の腕としてならしているのでした。

「見習い工からの叩き上げ」
「呉工廠の全てを知っている」とも言われております。

「長門のときより何もかも桁違いであった」古川の本音でございました。

昭和14年(1939年)呉海軍工廠船殻工場。西島を筆頭に一号艦は作られております。西島の部下には「蔵田雅彦」「馬場清一郎」「中島富士夫」「矢野鎮雄」
電気熔接の達人「辻影雄」部品調達内外担当として「苗加孝一」「古川忠」
「山本茂」等の腕に自信のある猛者ばかりが揃っていたのでした。
祖父・海軍そして大和 大和を生みし者達 九 2009-08-28 12:01:20 | 大和を語る
嘗て、「くだまき」では、上記のように語りました。
しかしながら、今思いますれば、大和建造には、古川さんのような「叩き上げの一流の技術者」が多く存在しておりました。
呉工廠一筋の猛者達。
大和開発の物語では、決して表に出てくることはない人たちですが、彼らの技術がなければ、大和は生まれなかった。これは過言ではないのでした。

「文中の古川忠の孫です。インターネットで祖父の足跡を調査していたところ酔漢さんのホームページを見つけました。私が中学1年の時に亡くなった祖父の名前を実際に見ると凄く懐かしいくメールさせて頂きました。」

ドラえもん様は、古川忠さんのお孫さんでいらっしゃいます。
彼からのコメントでもって、「古川忠 技手」を、思い出した酔漢でございました。
「丹治さん、古川忠さんのお身内からコメントが来まして・・」
「『古川忠』?どこかで聞いたような・・気がするんだ・・少し調べてみよう」
上記のような会話でした。
果たして、丹治さんから詳細なレポートが手元に届きました。
そのまま掲載いたします。


古川忠さんのこと

丹治道彦

 酔漢さんのブログで呉工廠の「古川忠」という名前を見て、「はて、どこかで聞いたことがあるぞ」と思いました。これは酔漢さんが書かれた通りです。思い当って読み返したのが、阿川弘之の『軍艦長門の生涯』です。長門の建造に関わる箇所で呉海軍工廠のことが書いてあるのを思い出したからです。

 古川忠の名前は『軍艦長門の生涯』のごくごく最初の辺り、第一章の終り近くに山崎宗一、森照雄とともに出てきます。この三人は、阿川さんがこの本のための取材をしていた当時、呉に健在でした。『軍艦長門の生涯』の初版が出たのは昭和五十年ですから(古書のサイトで確認した限りでは)、取材は昭和四十年代でしょう。

 阿川さんの著書によって古川さんの経歴を辿れば、高等小学校を卒業して見習工として呉の工廠に入ったのが大正六年。これは長門が呉で起工された年です。実際に長門の工事に関わったかどうかは別として、古川さんは長門が建造されている当時も呉の工廠で働いていたことになります。

 就職当初の報酬は二十銭の日給ですが、成績がよいと一年間に八銭から十二銭昇給したとか。映画館の入場料が五銭、米一升が二十五銭から三十銭の時代ですから、芸者を揚げて朝まで遊んでも五円あれば足りたそうです。ベテランの職工は士官よりも収入がよかったらしく、「士官のおかみさん、職工の奥様」という言葉があったとか。

 職工のうち優秀な者は、銓衡と推薦を経て海軍技手養成所に入れられます(「技手」を「ギテ」と読ませるのは「技師」との混同を避けるためでしょう)。
ここでは当時の民間の高等工業学校とほぼ同じ程度の教育を施していたそうですから、古川さんは現代にたとえれば工学部の四年生を卒業したぐらいの(あるいはそれ以上の)教育を受けていたと言うことができます。

 もちろん外国語もそれなりにできるわけで、簡単な新聞記事のチェックぐらいなら可能です。工場見学に行けば、「この工作機械はここが欠点」などということはたちどころに見抜きます。海外駐在の海軍監督官は、職工出身の技手を部下に持つことで大いに能率を上げました。『軍艦長門の生涯』に名前が出てくる古川さん、森さん、山崎さんの三人は、いずれも海外勤務を経験しています。
大和の建造当時古川さんは「船殻の古川」で名前が通っていましたが、見習工から叩き上げて技師にまで昇進した、すこぶるつきの優秀な技術者だったのです。

 ではなぜ海軍は、優秀な職工を選抜して技術者としての教育を施したのでしょうか。私は根が文学屋ですから、残念なことに工廠内部の制度は分りません。それでも考える手懸りはあります。

 日本の海軍には、兵隊から叩き上げて特務士官に昇進できる制度がありました。軍隊指揮権の有無、士官と特務士官の違いなど面倒な問題がありますが、ここでは触れません。

 海兵団の基礎教程を終えて艦船や部隊に配属された兵は、選抜試験を受けて、各科の普通科練習生になります。この課程を終えることが、平時においては下士官に昇進する必要条件でした。再び現場に配属されれば専門術科の決った一人前の兵隊です(マーク持ちと呼ばれました)。下士官から准士官に昇進するためには、高等科練習生の課程を修了している必要がありました(それも優秀な成績で)。准士官(各科の兵曹長)を経て特務士官になるためには、特修科練習生や兵学校の専修学生の課程を出ていると非常に有利だったということです。

 海軍には、兵隊叩き上げの准士官または特務士官でなければ就けない配置が幾つもありました。たとえば戦艦や重巡洋艦の主砲方位盤射手(主砲の統一射撃をする際の射手)、戦艦の主砲砲塔長がそうです。これは長年鍛えこんだ腕と勘が物を言う配置ですから、いくら学識があるからといって、兵学校出の士官に任せられるものではありません。また通信科で実際に電鍵を握って無線の送受信をするのは、下士官兵でした(民間船舶では通信長または通信士がやる仕事です)。航海科の操舵装置や羅針儀など各科兵器の保守管理は、兵隊から叩き上げた准士官または特務士官の担当する仕事でした。

 海軍制度史家の雨倉孝之さんが『海軍ジョンベラ軍制物語』の中で書いていますが、「偉くなりたかったら勉強しろ」という社会が海軍だったのです。日本海軍が手本にしたイギリス海軍では下士官兵から士官に昇進できる制度はありませんでした(貴族制度の名残でしょう)。また第二次世界大戦当時のアメリカの飛行気乗りで操縦士になれるのは士官だけでした。一方の日本では、真珠湾攻撃に参加した機動部隊の操縦士には、下士官どころか兵もいました。
兵曹長や特務士官に昇進できたのは、もちろん大勢いる下士官兵のほんの一握りです。しかし優秀な下士官兵に昇進の道を開いていたということは、評価されて然るべきだと思います。

 ある意味で海軍は技術者の集団です。その組織を十全に機能させるためには、現場で叩き上げた優秀な中堅幹部がどうしても必要だったのでしょう。これは艦船や部隊だけでなく、工廠でも同様だったのではないでしょうか。旧制の高知高校から京大の理学部を出て化学プラントに勤務していた技術者の話を聞いたことがありますが、最初の工場ではやはり現場叩き上げの人とペアを組まされたそうです。

 海軍工廠も、高等工業や大学の工学部を出た技術士官や技師だけでは立ちゆかなかったと考えることに無理はないと思います。現場のことなら隅から隅まで何でも知っている叩き上げの技術者が必要だったのですね。

古川さんたちは海外勤務を経験しました。また工廠は呉だけのものではありません。横須賀にも佐世保にも舞鶴にもありました。呉以外の工廠にも技手養成所を出て海外勤務を経験した叩き上げの技術者がいたと考えるのは、不自然なことではありません。

 高等教育を受けることができるのが、同世代のほぼ一パーセント。海外生活を経験できるのは、さらに少数。海軍はそういった時代に優秀な職工に教育を施し、必要上のこととはいえ海外勤務も経験させる道を制度的に確立していました。軍隊や軍関係の組織というと、とかく厳しい上下関係や理不尽な差別が話題になります。とはいえ「努力すればそれなりに報われる」「優秀な人材をそれなりに大切にする」‥‥‥特務士官への昇進制度や技手養成所のことを考えれば、海軍はそういった組織だと言えると思うのです。

※語学教師の立場から一言。旧制出身者の「語学に苦しめられた」「語学は苦手」を真に受けてはいけません。旧制の高等専門学校といえば、現在の大学四年卒とほぼ同等(あるいはそれ以上)。簡単とはいえ海外の新聞記事をチェックできるというのは、相当な語学力の持ち主です。

参考文献

阿川弘之:軍艦長門の生涯。
     単行本(上下二分冊)東京(新潮社)昭和五十年。
     文庫本(上中下三分冊)東京(新潮社)昭和五十七年。
     ※単行本も文庫も現在は版元品切れ。
※古書で購入するか、図書館で閲覧するか。

雨倉孝之:海軍ジョンベラ軍制物語、東京(光人社)平成元年。
     『帝国海軍下士官兵入門』と改題し、光人社NF文庫所収、平成十九年。

古川さんが長門建造に携わったのは十代の頃、そして、大和の建造にも関わっておられます。
日本が誇る、軍艦二隻にその腕を存分に揮った古川さん。
晩年、何を語られておられましたのでしょうか。
そして、一つのコメントから、大和と自身が繋がった。
この偶然を一番大事にしたい。
こう思った酔漢でございました。



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7 コメント

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ご無沙汰しました。 (ひー)
2011-08-28 22:30:42
酔漢さんと同じような方がいらっしゃるのですね。

同じような境遇であれば、私も同じようにしていたことでしょう。

酔漢さんもお忙しいようですね。
大和は語っても語っても語りきれないことでしょう。
返信する
ひー様へ (酔漢です)
2011-08-29 09:45:06
こちらこそ、ご無沙汰いたしておりました。
この「大和を語る」では、砂川中将のひ孫さん。そして、この古川さんのお孫さんとコメント、連絡を受けました。
また、名簿にしかないお名前で検索されていらっしゃる方もおられます。
少しでも、繋がっていけたらと思っております。
順番に夏休みを取得している職場です、先週からその関係で仕事が忙しくなってます。
酔漢が、一番最後でした。
返信する
突然失礼いたします。 (野津)
2011-09-22 21:23:03
酔漢様
はじめまして。私の叔父(父の兄にあたります)も大和の搭乗員で、坊ヶ岬で艦と運命を共にいたしました。写真は残っていませんが、名前は「野津 実(實)」といいます。なぜか先日より「實叔父のことをちゃんと記録しておかねば」と思いたち、大和関連の本など読み、ネット検索などしているうちにこちらのサイトにたどり着きました。『大和を語る』、一気に読ませていただきました。驚きました。子供の時から父より「實叔父は大和の通信兵だった」と聞かされていたからです。暗号を取り扱っていたかどうかは定かではありませんが、もしかしたら、酔漢祖父様とご一緒の事がやったやも知れません。自分も酔漢様と年齢がかなり近いと思われますが、酔漢様の用に中学生位の時からもっとしっかり記録しておけば良かった、と悔やまれます。「中国にいた」「レイテ戦に参加した」「砲兵志望だった」という、断片的な話しか覚えておりませんので・・・間違いもありましょうし、明日にでも父より年長の叔母に話を聞いてこようと思っていたところです。そして今日、辺見じゅん氏の訃報を聞きました。語るべき人はどんどん少なくなっていきます。私は叔父のことを分かる範囲でいいから系統だって残しておきたい。突然でぶしつけとは存じますが、今後お力を貸していただけませんでしょうか。なお、實叔父の階級は戦死時二等兵曹だったと思います(明日確認します)。
返信する
野津様へ (酔漢です)
2011-09-23 12:05:02
コメントありがとうございます。
本編にて、ご紹介いたしました。
最新の「くだまき」をご覧ください。
野津実 兵曹長(一階級特進されておられます)島根県のご出身でいらっしゃいますね。
通信であれば、大和生え抜きの優秀な方と拝察いたします。しかも、レイテ以前からの乗員であればなおさらでございます。
十二分隊所属。中谷中尉(日系二世)と同じ部署ではなかったかとも思います。
通信、暗号は、機関と同様、生還者の少ない部署でございました。
私の知っている範囲でよろしければ、資料その他公開いたします。
また、何かございましたら、是非ともご連絡下さい。
厚生省、援護局戦没者名簿では「兵曹長」と特進階級で掲載されております。
重ねて、お知らせ申し上げます。
返信する
野津様へ (酔漢です)
2011-09-23 12:07:58
補足いたします。
祖父は、横須賀鎮守府、海軍省勤務以前、上海にございます、海軍戦隊通信に所属しておりました。中国では広東へも。
中国での所属が分かりましたら、ぜひお知らせください。
返信する
古川忠氏 (たく)
2011-12-08 11:59:02
先日のコメント以来ですが、古川氏は特務士官ですが、技術大尉にも任官されたようです。ただし、予備役での任官ですので、武官としての勤務はなく、技師として過ごされたようですが。
返信する
たく様へ (酔漢です)
2011-12-13 18:04:13
お知らせ誠に感謝いたします。
また、たく様HPへおじゃまをし、その膨大なる資料に驚きました。
私自身もそこまでの知識もなく、今後、たく様のHPにはお世話になろうかと思います。
今後とも何卒宜しくお願いいたします。
お返事遅れましたことお詫び申し上げます。
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