酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 よこちん名物

2009-09-07 10:15:29 | 大和を語る
ぐずら様、ばるえ様のブログを拝見しておりまして、今年は、夏の海の話題が少ないことに気づきました。梅雨明けをしておらないまま、もうすぐ彼岸。
ギンギンに照りつけた太陽、耳を覆いたくなるような蝉の声。火傷しそうな砂浜。
「まずくても旨い!海の家のラーメン」etc・・・。
菖蒲田浜、外人浜。海水浴をした思い出は忘れられません。
桂島海水浴場は仁王島が目の当たりに出来ます。これもまた絶景の中で泳ぐわけですから、気持ちのいいものです。
幸い金槌ではありませんでした。泳ぎを覚えるのもそんなに苦労した覚えがありませんでした。
シティラピッド君、年下君とも泳げるので、これもまた「DNA」のなせる業かと思ってしまいます。
年下君は「泳ぎっぱなし」です。競泳を少し離れてからは江ノ島のライフセーバーのクラブへ入会しました。もう真っ黒くろすけのまま、宿題もせず夏休みを過ごしました。
「親父(年下君もシティラピッド君もこう呼びます)!離岸流って知ってるか?」
「あれは・・・・恐いぞ!俺も正直、あそこまでとは思わなかった」
「親父は流された?」
「ああ一度だけな」
「どこで?」
「お前、『外人浜』知ってるだろ。『菖蒲田浜』も。その間に『小豆浜』ってあってや。そこで流された」
「当然遊泳禁止だよな」
「ロープは張られてた。んだけんど、その瞬間、湖のようにそこの場所だけ波がなかったんだ。だまされた」
「そうなんだよ。離岸流が激しいとこって見た目、凄い穏やかなんだ。そこにだまされる」
「お前よく知ってるなぁぁ」
「境川の河口から江ノ島西海岸のあたりはよく発生するんだ。去年も中学生が流されて死んでる。俺この前、離岸流が発生してるとこ見た」
「流されたら?」
「流されたら?俺だったらそのまんま流されるヨ。逆らったって無駄だもん。どうせ流されたってたかが200mくらいだろ。おさまったら帰れる!じゃなかったら海岸と平行に泳ぐ・・・これが技だな。親父はその時どうした?」
「幸い、外人浜のテトラポットにひっかっかった。そこから、潮が落ち着いてから泳いで帰った」
「じいちゃんは慌てなかった?」
「ああ、あいつのこったから帰ってこれっぺ!って言ってたらしい」
「そうだよな、助けようたって疲れるだけだよな」
そんな会話です。
泳げるという余裕。これが一番。そして海を知っていること。遭難しないためには必要なことなのでした。

祖父は子供の頃、周りは海ですから、夏の間は海で泳いでばかりいたんだと考えます。父の頃までは今の「花渕浜港」の中で泳げたそうです。
「あちこち泳ぎ回っていた」ことは想像にかたくございません。
祖父は横泳ぎだったそうです。
昭和初期、横須賀は衣笠の海岸。現在でも「京浜急行衣笠駅」は海水浴客で賑わいますが、その風景は当時も同じです。
家族での海水浴です。
昼を過ぎると、祖父が
「んで、おら、あっちゃ泳いでいぐからっしゃ」と一人で泳ぎに行きます。
尋常小学校低学年だった父は、その姿を目で追いかけていたそうですが、瞬く間にその姿が見えなくなりました。
どの位時間が経ったでしょうか。
豆粒位に小さくなった祖父の姿が見えたそうです。
海岸へ手を振る祖父の姿が・・・。
「あんな遠くまで泳ぐ人なんていねかったっちゃ」とは父の言葉。
横泳ぎが速かったらしく、波の間を潜って沖まで行ったようです。
周りの心配をよそに帰ってきた酔漢祖父。
「だれ気持ちえがったっちゃ」と悠々と申しておったとか。
「練習しねぐてなんなえぇおんなや」
「何の練習?」
「遠泳のっしゃ。三笠から猿島までの遠泳大会だっちゃ」
これ、海軍横須賀鎮守府名物、毎年恒例の遠泳大会。
「泳げる者もそうでない者も『問答無用』の強制参加」の行事なのでした。
そう考えるとですよ、このブログで登場しております、「技術士官の人達はどうだったんだろう」と考えます酔漢です。「西島のふんどし姿」は想像できません。おそらく兵達の行事だったんだろうなぁ。
約3kmちょっとの遠泳。(地図で検索しました。直線ですが、もう少し距離がありそうな気もします)途中に何箇所か救護用と休息用の船が定点配置されております。そうそう飲み食いは海で泳ぎながら。先に紹介しましたが「ふんどし」です。
大会の詳細記録は残っているのかいないのか定かではありませんが、部隊事の団体戦なのか個人参加なのか、知りえませんでした。
聞くところによりますと、「海軍さん」だから「泳ぎが達者」という方程式は成り立たなかったようでございます。
「泳ぎの苦手な海軍さん」に取りましては、まったく迷惑な行事だったに違いありません。
ですが酔漢祖父です。余裕をこいております。
「片道だっちゃ。どうせなら往復でもいいんでねべか!」です。
さて、大会当日。「白褌」を身に着けた「海軍さん」達が勢ぞろいです。
一斉に海に入り大会開始。
「猿島では、旨い酒がまってるぞぉぉぉ」との合言葉。
(どっかの高校の競歩大会と雰囲気は似てるよなぁ)
途中、腹が減ると泳ぎながら「握り飯」を喰います。これ泳法の技術が無ければ出来ません。
当然、途中棄権者も多発。ところどころも儲けられたブイに掴まって息絶え絶えも者もおったそうです。
そんな中、酔漢祖父は相変らずの完泳。
「往復すっか?」(おいおい、東京オリンピックのときのアベベじゃないんだから、じいちゃん!)でした。

家族で帰省の際、父との晩酌。
「こいづらも泳げんだからっしゃ、いいっちゃな」
「俺も子供の頃っしゃ親父(酔漢父)が遠くまで泳ぐっちゃ。見えねぐなっとや、やっぱすぃしんぺぇしたもんだっちゃ」
「だれ、俺なんてまだちけぇ方だ。親父(酔漢祖父)なんか、もっと遠くまで泳げたっちゃ」
「泳ぎは『よこちん』でも指折り?」
「まちげぇねべぇな。んだからっしゃ・・・・・んだから。。。大和沈むときに、海さぁ投げ出されていたとすっぺ。たすがったんでねぇかって思うのっしゃ。あいずのこったからや、九州さぁまで泳げんでねぇかって・・まぁ、そいずは無理なんだけんどっしゃ。あながち、海さぁいたら助かってたんでねぇべか」
それも、どうか・・・海に投げ出されて助からなかった方々も大勢いるはずです。
が、父の思いを否定する気にはなれませんでした。
「通信室の生存者は皆無。これは事実だべさ」
「んだからっしゃ。爆弾でやられたんだべ!そう信ずることにしてんのっしゃ」
昭和20年(1945年)4月7日、13時25分。一発の250ポンドが第一艦橋をかすめて、第二艦橋の真下、ちょうど「通信筒」の防御板を突き破っております。戦闘記録です。第三次攻撃の後半。この20分後に総員退艦。この事実をみました時、「生存するもしないも本当の紙一重」なんだと知りえます。(事の詳細は、これから先に語ります)

夜釣りです。夏の夕方。横須賀港は凪ぎ。海風が気持ちのいい時間。
「今日は大物釣っとぉ」と気合を入れて仕掛けを投げます。
狙うは「黒鯛」浮の動きに注意します。
ふと、目を上げると、護衛艦の停泊している間から猿島が見えます。
「じいちゃんはあそこまで泳いだのすかや!なんとも遠くまで泳いだもんだっちゃなや。俺には無理だっちゃ」
「酔漢、浮、引いてるぞ!」
汝に帰り竿を上げます。
見事、空振りでした。
「逃がした、鯛は大きい」そう思うことに決めました。


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海軍と水泳 (丹治)
2009-09-07 15:42:14
酔漢さん、御無沙汰してました。
後期試験の後始末やら研究会やらがやっと終りました。
これ以前のお話にも、すれぞれコメントを投稿します。

海軍の水泳といえば、遠泳。
「いかに速く泳ぐか」でなくて「いかに長く泳ぐか」でしたね(今の海上自衛隊もそうでしょうか)。
豊田穣さんの『海軍四号生徒』あるいは松永市郎さんの『思い出のネイビーブルー』を読むと、その辺りのことが詳しく書いてあります(どちらも海兵六十八期です)。

「海軍=河童」ではないということですが、
戦争末期で訓練期間が短くなると、水泳訓練も十分ではなくなったようですね。
艦(ふね)が沈没する際の泳げない兵士の描写には、胸が痛みます。

海軍の水泳といえば、こんな話を読んだことがあります。
主人公は元仙台逓信病院副院長で、依託学生から海軍の軍医になった方です(太平洋開戦に伴う繰上げ卒業の学年とか)。

この方、盛岡育ちですが水泳は大得意でした。夏というと北上川や中津川で泳ぎまくり。
泳いでいる魚を銛で仕留めることもお手の物だったそうです。
武山海兵団(横須賀第二)当時は、兵学校出をさしおいて新兵の水泳指導官を務めておりました。

カッターで沖に出て潜ってみると、ウナギがいるわいるわ・・・
しかも軍港のウナギだけに礼儀正しく、直立不動なのだそうです。
さっそく工作兵に銛を作らせて、ウナギ捕り。
ガンルームで連日、ウナギの蒲焼を振舞っていました。

ところが海兵団の副長が大のウナギ好き。
従兵に「ウナギはどうした」。
従「今日はウナギではありません」。
副「ガンルームじゃウナギを食ってるじゃないか」。
従「あれは×口中尉の私物だそうです」。
副「何いぃぃぃっ」

×口中尉は副長に呼び出されて大目玉。
翌日から水泳訓練のカッターを出す時は、副長がお出ましになり・・・

困ったのはガンルームの中尉少尉連中です。
鳩首協議で考え出した副長対策は・・・

   銛:前の日からカッターの底に入れておく。
水中眼鏡:フンドシの中に隠す。
 ウナギ:水を入れておいた薬缶に入れて持帰る。

監視のために副長のお出まし。
「×口中尉以下○○名、水泳訓練に出発します」。

かくしてめでたく、ガンルームでは再びウナギにありつけるようになりました。
このカラクリ、副長には最後まで分らずじまいだったそうです。
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外人浜 (ひー)
2009-09-07 16:37:51
あそこのテトラポットまで泳いで、また戻ろうとしたら泳いでも泳いでも進ます。
必死こいて戻った記憶があります。死ぬかと思いましたよ。それからは、やはり横に泳ぐことにしました。それ程得意ではありませんでしたからね。立ち上がる時は、足が着くか確認する為に立ち泳ぎのよいにし、足が着くがどうか確認してから泳ぎを止めることにしてます。一度足が付かずペロンと潜ってしまって、菖蒲田の海水をたんまり飲みましたから。

カナヅチに海軍の召集が来たらビビりますね。
当時は溺れそうになりながら、大会に出たのでしょうね。
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丹治様へ (酔漢です)
2009-09-07 16:45:41
「海軍よもやま話」さすがにお詳しいですね!
海兵団の水泳指南ですから、この大会では主役クラスだったのかもしれませんネ。
それにしても「うなぎ」ですか。
いつぞやの・・・
「爆雷演習」みたいです!
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ひー様へ (酔漢です)
2009-09-07 16:49:26
あのテトラポットまでは、泳ぎたくなりますよね!まったく同じ経験をしております。
おそらく、祖父の最初の頃は丹治様のコメントにありますように「遠泳」は訓練されていたのだと思います。
水雷屋なので、尚更かと。
泳げない海軍さんは、やはりいやだったろうなぁ。
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あらら・・・ (ぐずら)
2009-09-07 20:01:02
冒頭でうちのブログにふれていただくとは、恐縮です (^_^;
確かに今年の夏は梅雨も明けずにどこへ行ったやら、行方不明です…

目の前に海があったら子どもはとうぜん海獣類になりますよね
ぐずらが成人した頃までの七ヶ浜でも町内の港はどこも学校指定の遊泳場になっていました。
松ヶ浜に釣りに行くと、港の真ん中に舫った漁船を飛び込み台にして、子どもたちが泳ぎ回っていたものです。

時代は遡りますが、オイラの親父が塩竈二小高等科の頃には
塩竈でも小学生の湾内遠泳大会が行われており、最長3キロほどのコースだったとか…
あんまり運動が得意じゃなかった親父でも、さすが浜育ちで
遠泳では最長コースに参加していたそうですよ。
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小艦の乗組員ほど泳ぎが上手かったのでは? (クロンシュタット)
2009-09-08 06:08:25
夏場の片瀬海岸沖にはヘリコプター搭載の巡視船が常に停泊していますね。
あれはやはり「救助用」の措置なのでしょうか?

「海」ではなく「川」のお話ですが、北朝鮮のダム無警告放流事故。中州でキャンプしていた人などが流され死者が出ました。
あの川は「イムジンガン」なのですね。
フォーククルセイダースの「イムジンガン」を聞くと棟が締め付けられてしまいます。

関連性のない話題ついでに、池袋の高校の1年生は今日から学年閉鎖です。
新型インフルは完全に身近に迫っております。

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北大予科 寮歌祭 (中野嘉弘)
2009-09-08 11:09:15
2009.9.8.11:11 
札幌市(北大予科、86歳)
旧制高等学校札幌寮歌祭の写真送ります。
アドレスなど御教示下さい。
e-mail = yoshihiro@river.ocn.ne.jp
又は
FAX (専) 011-588-3354

貴殿のドイツ語リートは圧巻でしたね!
次回もまたどうぞ!
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ぐずら様へ (酔漢です)
2009-09-09 08:58:12
お父様は二小のOBでいらっしゃいましたか。
当時はプールでの授業ではなかったのですね。
3kmはきつい。
次男の話が出ておりますが、もともと競泳派ですので、「海で泳ぐと緊張するし疲れる」と申しております。海とプールでは泳ぎ方が違っているとか。
「バタ足を使わない事」が大事なんだそうです。
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クロンシュタット様へ (酔漢です)
2009-09-09 09:00:55
シティラピッド君が今日から学年閉鎖です。
文化祭の日程もどうなることやらですね。

片瀬の沖に見える巡視船。いつもいるので「なして?」って思いませんでした。
そう言えば「なんでだべ」yはり海難救助の為なのでしょうか。
返信する
中野嘉弘様へ (酔漢です)
2009-09-09 09:08:33
「丹治道彦」(先輩)と御検索されましたでしょうか。本人の名前で検索を致しますと、当ブログへ行き当たります。
初めまして「酔漢」でございます。
丹治さんとは30数年来の付き合いをしております。そうですか、丹治寿太郎先生は「北大」へもおられました。丹治さんも「北大寮歌」「山形大校歌」等、元合唱部の実力で迫力ある歌声を響かせております。
さて、本人との連絡が取りにくい状態でしたら、当ブログをお使いくださって結構でございます。丹治さんから昨日メールがありました。

皆様へ
丹治さんは「旧制高校寮歌祭」にはよく出演しているのでした。
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