起工から半年です。昭和13年(1938年)春。麗かな瀬戸内。春風が潮の香を運んできます。呉の街中。
今、一號艦はその姿を山のように見せております。
「おい、今日は晴れだよな」
「ここに来ると、おてんとう様が見えないからな」
艦底で作業中の工員達はもう空を眺めることは出来ないのでした。無数の区画が入り組み、それはあたかも舞台のような格好をしています。細かい作業が続きます。
西島は、事務所内に辻を呼びました。
少し、「辻影雄」をお話します。東大卒の若き技術者です。専門は熔接。以前語りました電気熔接の研究者です。この辻の技術と理論が無ければ艦橋建造する際のブロック工法と電気熔接は不可能だったのでした。ですが、今この時は、西島と共に工数管理を行っております。
「熔接の研究がゆっくりできない」と本人はよくボヤイテ?おったそうです。
「主任、そろそろ・・・・」
「君が主役になるにはもう少し後だな、しばらく待ってくれないか」
そこでもう半年でした。
「西島主任、工数の消化は思った以上に進捗率が高いですね」
「辻君、そう思うかね?確かにグラフ(西島流、作業能率曲線)のブレはなくなっているが、そこにだまされてはいけないよ。どこかに細かいミスはあるものなんだ。それをミクロ的にひとつ、ひとつつぶしていかなければならないんだ」
「『残工事』ですか?」
「その通りだよ。これも、本格化する艤装の前にやらなければならないんだ」
もう一度整理します。一號艦建造は西島が発案した「早期艤装」「平行艤装」と呼ばれる工法を用いています。
船殻(船本体、胴体部分)を先に建造し、進水後艤装(各種兵器の取り付け。艦橋なども含む)工事を行うのが、これまでの通例でした。ですが、一號艦はそれをある程度同時進行で進めております。
西島は本格化する艤装工事の前に船殻工事の残工事を徹底的につぶすことを実行するのでした。
「今、ありさんをやっておけば、キリギリスさんにならなくてもいいんんだ」
「・・・・・・・」
西島が冗談?
周り唖然!
「しゅ・しゅ・にん!」
笑いが事務所内に響きました。
「たとえ、人と検査に掛ける時間を使ってもだよ。後から残工事が発覚してからの工事では、逆にロスが増えるだけなんだ」
その通りでした。嘗ての艦では、「公試運転中に工事」なんてザラだったのです。
検査工は真っ暗な区画の中を懐中電灯一個を頼りに潜り込みます。
そうだ、「海軍蝋燭」も登場です。これが、もし今あれば、災害時には非常に役立つ「優れもの」です。長時間(6時間)点灯。専用台座と合わせれば持ち運びに便利。これも使われております。(通販で紹介したら、もしかしたら防災グッズで売れるかも・・・⇒邪心?)
配管各種、部品の取り付け不備等等。一番のネックは鋲の打ち忘れです。
鋲打ちのずれ、または仮止めのまま、本打ちがされてないまま、そこに衝撃があった場合。漏水どころか、鋼板そのものが剥がれてしまい、艦の破断に繫がりかねません。一つ一つハンマーで叩いて検査いたします。
鋲打ちは造船の中で重要な作業ですが、最も劣悪な環境と危険を伴う作業なのです。
一般的に当時は三人一組で作業いたします。
重油を焚いたホドと呼ばれる略式高炉に鋲を入れ、熱く熱します。真っ赤に焼けた鋲をヤットコで挟み、鋲打ち係へ投げつけます。鋼板には穴が開けられており、仮り止されているボルトを抜いて、その穴へ鋲を差込み、金物で頭を叩きます。反対側には機械式ハンマーを身体事押し付けて鋲頭を潰して鋼板を固定します。
この機械式ハンマー。60Kg近くあります。腕力もさることながら細かい技術が必要です。
一號艦で実際に使われた鋲の数量は609万3030本でした。その1つ1つが上記のような作業工程をたどったわけでした。
しかも、嘗てないほど分厚い鋼板です。鋲一個の大きさも規格外でした。直径40mm
重要個所では五人一組で作業をしました。
検査工は容赦もなく「疑わしき鋲」にはチョークで白く囲みました。
「この鋲のどこが問題なんだ!言ってみろ!」
鋲打ち工達は喰ってかかります。
「問答無用!やり直せ!」
西島は検査工達には「容赦するな」と厳しい指示を出しております。
普通の艦ではないのです。一度打った鋲を外し、また打ち直すには他の艦の数倍はかかるのです。
1つの鋲を打ち直すのに丸一日かかったこともあった程です。
昭和35年「丸」四月号で西島は語っております。
「もしも『大和』が残工事を残しながら進行していったら、取り返しのつかないことになるので、初期より残工事がないよう徹底させねばならぬ」
一號艦は、防水区画が1147もありました。当然漏水があってはなりません。
その検査には完成する直前、区画事に水を入れてその気密性を検査いたします。
これも1つ1つ潰していかなければならない作業です。先に1147箇所と記載しましたが、検査対象区画は1682だったと記録されております。
能村次郎(大和 坊の岬沖海戦時副長)著「慟哭の海」の中に「毒瓦斯防御」について書かれております。一號艦はそうした気密性がこれまでの戦艦以上に問われた艦だったのです。(空調設備もその延長にありました)
昭和14年(1939年)横須賀海軍工廠内。桑田艦政本部第四部長が広幡を呼びました。
「広幡君、明日から呉へ行ってくれないか」
「呉ですか・・噂のA-140・・」
「そう、極秘建造中の一號艦だがな。その艤装を受け持ってもらいたい」
「噂の一號艦は本当に建造されていたんですか!しかも私ごときが務まるかと。名誉ではありますが、呉には知った顔もおりませんし・・」
「何を言ってるんだ。あちらには西島君がいるではないか。君の事はもう呉には伝えてある。彼を頼って仕事をすればよろし」
「はい、ありがとうございます」
広幡はことのほか名誉に感じ、呉へと向います。
呉での仕事は「一號艦気密性の検査」でした。
毎日毎日、区画事の気密検査が続きます。じみですが重要な作業が続きます。完結するまで一年以上かかりました。
彼の地道なしかも丁寧な作業ぶりに、呉海軍工廠庭田造船部長は後にこう語っております。
「かような試験は手を抜こうと思えば出来ないことではありませんが、当事者として見れば責任上良心的にどうしてもそのような無責任な気持ちにはなれないもので、難儀しながら完全な気密を見届けなければ安心できないもので、担当部員であった広幡造船少佐は痩せていたようでした」
身を削った結果の一號艦の気密性でした。
横須賀ドック。大和型三號艦は空母に変更されます「信濃」です。
工期を繰り上げた末、突貫工事の連続。しかも熟練工達は招集され未熟な者がその工事を請け負っております。
残工事多数。しかもその内容さえ把握出来ておりません。
呉に、艦政本部から打診がありました。
「『信濃』の残工事を呉で出来ないか」
西島は即答しました。
「お引き受けいたします」
かくして信濃の呉回航が決まりました。
横須賀から呉へ向う途中も「工事中」のまま。
三隻の駆逐艦と共に横須賀を出向します。(二水戦です)
途中「アーチャーフィッシュ」の発射した魚雷4発を左舷に喰らいます。
4発であれば、大和型防水区画では通常沈没には至りません。
が、浸水が収まらず、潮岬沖で沈没します。
「あきらかな、水防工事の不備と言わざるをえない」牧野茂はこう語っております。そして「復原の為にある注排水装置にも異常があったかと考えられる」とも。
「呉へ信濃と自身が言ってなければ・・」
西島の後悔です。
果して「大和」はどうであったか。
昭和18年(1943年)12月25日未明。陸軍兵を乗せた大和が潜水艦の攻撃に合います
米潜水艦「スケ-ト」です。一発の魚雷が第三砲塔付近、右舷に命中しました。
弾薬庫内に浸水。その水量3000トン。流石410mm特殊甲板です。甲板そのものに殆ど損傷はございませんでした。が、その内側の縦壁に穴が開きます。
何喰わぬ顔で呉ドックへ寄港した大和。
新納与一技師が「しまった!申し訳ない!うかつだった」と叫びました。
鋼板を支える部分、継手や構造材の方に甲板を支えるだけの強さを持ち合わせていなかったのでした。構造材を厚く強度の高いものにすれば艦の重量が増します。
大和ではこれが限界だったのでした。ですが技術者達はこの事は想定外だったのか。否想定内だったとも言えます。このバランスが艦の特徴であり、当時では考えられる術は持ってなかったと考えます。
一號艦も弱点はあるのでした。
ですが、この残工事に対する西島の執念が無ければ、広幡の執念が無ければ、身体を張って鋲を打った120余名のの工員一人一人の技術が無ければ、もっと被害が大きかったのだとも考えます。
「信濃」の運命を考えるとき、どうしてもこの事を思い浮かべてしまいます。
いよいよです、次回「一號艦」進水です。
今、一號艦はその姿を山のように見せております。
「おい、今日は晴れだよな」
「ここに来ると、おてんとう様が見えないからな」
艦底で作業中の工員達はもう空を眺めることは出来ないのでした。無数の区画が入り組み、それはあたかも舞台のような格好をしています。細かい作業が続きます。
西島は、事務所内に辻を呼びました。
少し、「辻影雄」をお話します。東大卒の若き技術者です。専門は熔接。以前語りました電気熔接の研究者です。この辻の技術と理論が無ければ艦橋建造する際のブロック工法と電気熔接は不可能だったのでした。ですが、今この時は、西島と共に工数管理を行っております。
「熔接の研究がゆっくりできない」と本人はよくボヤイテ?おったそうです。
「主任、そろそろ・・・・」
「君が主役になるにはもう少し後だな、しばらく待ってくれないか」
そこでもう半年でした。
「西島主任、工数の消化は思った以上に進捗率が高いですね」
「辻君、そう思うかね?確かにグラフ(西島流、作業能率曲線)のブレはなくなっているが、そこにだまされてはいけないよ。どこかに細かいミスはあるものなんだ。それをミクロ的にひとつ、ひとつつぶしていかなければならないんだ」
「『残工事』ですか?」
「その通りだよ。これも、本格化する艤装の前にやらなければならないんだ」
もう一度整理します。一號艦建造は西島が発案した「早期艤装」「平行艤装」と呼ばれる工法を用いています。
船殻(船本体、胴体部分)を先に建造し、進水後艤装(各種兵器の取り付け。艦橋なども含む)工事を行うのが、これまでの通例でした。ですが、一號艦はそれをある程度同時進行で進めております。
西島は本格化する艤装工事の前に船殻工事の残工事を徹底的につぶすことを実行するのでした。
「今、ありさんをやっておけば、キリギリスさんにならなくてもいいんんだ」
「・・・・・・・」
西島が冗談?
周り唖然!
「しゅ・しゅ・にん!」
笑いが事務所内に響きました。
「たとえ、人と検査に掛ける時間を使ってもだよ。後から残工事が発覚してからの工事では、逆にロスが増えるだけなんだ」
その通りでした。嘗ての艦では、「公試運転中に工事」なんてザラだったのです。
検査工は真っ暗な区画の中を懐中電灯一個を頼りに潜り込みます。
そうだ、「海軍蝋燭」も登場です。これが、もし今あれば、災害時には非常に役立つ「優れもの」です。長時間(6時間)点灯。専用台座と合わせれば持ち運びに便利。これも使われております。(通販で紹介したら、もしかしたら防災グッズで売れるかも・・・⇒邪心?)
配管各種、部品の取り付け不備等等。一番のネックは鋲の打ち忘れです。
鋲打ちのずれ、または仮止めのまま、本打ちがされてないまま、そこに衝撃があった場合。漏水どころか、鋼板そのものが剥がれてしまい、艦の破断に繫がりかねません。一つ一つハンマーで叩いて検査いたします。
鋲打ちは造船の中で重要な作業ですが、最も劣悪な環境と危険を伴う作業なのです。
一般的に当時は三人一組で作業いたします。
重油を焚いたホドと呼ばれる略式高炉に鋲を入れ、熱く熱します。真っ赤に焼けた鋲をヤットコで挟み、鋲打ち係へ投げつけます。鋼板には穴が開けられており、仮り止されているボルトを抜いて、その穴へ鋲を差込み、金物で頭を叩きます。反対側には機械式ハンマーを身体事押し付けて鋲頭を潰して鋼板を固定します。
この機械式ハンマー。60Kg近くあります。腕力もさることながら細かい技術が必要です。
一號艦で実際に使われた鋲の数量は609万3030本でした。その1つ1つが上記のような作業工程をたどったわけでした。
しかも、嘗てないほど分厚い鋼板です。鋲一個の大きさも規格外でした。直径40mm
重要個所では五人一組で作業をしました。
検査工は容赦もなく「疑わしき鋲」にはチョークで白く囲みました。
「この鋲のどこが問題なんだ!言ってみろ!」
鋲打ち工達は喰ってかかります。
「問答無用!やり直せ!」
西島は検査工達には「容赦するな」と厳しい指示を出しております。
普通の艦ではないのです。一度打った鋲を外し、また打ち直すには他の艦の数倍はかかるのです。
1つの鋲を打ち直すのに丸一日かかったこともあった程です。
昭和35年「丸」四月号で西島は語っております。
「もしも『大和』が残工事を残しながら進行していったら、取り返しのつかないことになるので、初期より残工事がないよう徹底させねばならぬ」
一號艦は、防水区画が1147もありました。当然漏水があってはなりません。
その検査には完成する直前、区画事に水を入れてその気密性を検査いたします。
これも1つ1つ潰していかなければならない作業です。先に1147箇所と記載しましたが、検査対象区画は1682だったと記録されております。
能村次郎(大和 坊の岬沖海戦時副長)著「慟哭の海」の中に「毒瓦斯防御」について書かれております。一號艦はそうした気密性がこれまでの戦艦以上に問われた艦だったのです。(空調設備もその延長にありました)
昭和14年(1939年)横須賀海軍工廠内。桑田艦政本部第四部長が広幡を呼びました。
「広幡君、明日から呉へ行ってくれないか」
「呉ですか・・噂のA-140・・」
「そう、極秘建造中の一號艦だがな。その艤装を受け持ってもらいたい」
「噂の一號艦は本当に建造されていたんですか!しかも私ごときが務まるかと。名誉ではありますが、呉には知った顔もおりませんし・・」
「何を言ってるんだ。あちらには西島君がいるではないか。君の事はもう呉には伝えてある。彼を頼って仕事をすればよろし」
「はい、ありがとうございます」
広幡はことのほか名誉に感じ、呉へと向います。
呉での仕事は「一號艦気密性の検査」でした。
毎日毎日、区画事の気密検査が続きます。じみですが重要な作業が続きます。完結するまで一年以上かかりました。
彼の地道なしかも丁寧な作業ぶりに、呉海軍工廠庭田造船部長は後にこう語っております。
「かような試験は手を抜こうと思えば出来ないことではありませんが、当事者として見れば責任上良心的にどうしてもそのような無責任な気持ちにはなれないもので、難儀しながら完全な気密を見届けなければ安心できないもので、担当部員であった広幡造船少佐は痩せていたようでした」
身を削った結果の一號艦の気密性でした。
横須賀ドック。大和型三號艦は空母に変更されます「信濃」です。
工期を繰り上げた末、突貫工事の連続。しかも熟練工達は招集され未熟な者がその工事を請け負っております。
残工事多数。しかもその内容さえ把握出来ておりません。
呉に、艦政本部から打診がありました。
「『信濃』の残工事を呉で出来ないか」
西島は即答しました。
「お引き受けいたします」
かくして信濃の呉回航が決まりました。
横須賀から呉へ向う途中も「工事中」のまま。
三隻の駆逐艦と共に横須賀を出向します。(二水戦です)
途中「アーチャーフィッシュ」の発射した魚雷4発を左舷に喰らいます。
4発であれば、大和型防水区画では通常沈没には至りません。
が、浸水が収まらず、潮岬沖で沈没します。
「あきらかな、水防工事の不備と言わざるをえない」牧野茂はこう語っております。そして「復原の為にある注排水装置にも異常があったかと考えられる」とも。
「呉へ信濃と自身が言ってなければ・・」
西島の後悔です。
果して「大和」はどうであったか。
昭和18年(1943年)12月25日未明。陸軍兵を乗せた大和が潜水艦の攻撃に合います
米潜水艦「スケ-ト」です。一発の魚雷が第三砲塔付近、右舷に命中しました。
弾薬庫内に浸水。その水量3000トン。流石410mm特殊甲板です。甲板そのものに殆ど損傷はございませんでした。が、その内側の縦壁に穴が開きます。
何喰わぬ顔で呉ドックへ寄港した大和。
新納与一技師が「しまった!申し訳ない!うかつだった」と叫びました。
鋼板を支える部分、継手や構造材の方に甲板を支えるだけの強さを持ち合わせていなかったのでした。構造材を厚く強度の高いものにすれば艦の重量が増します。
大和ではこれが限界だったのでした。ですが技術者達はこの事は想定外だったのか。否想定内だったとも言えます。このバランスが艦の特徴であり、当時では考えられる術は持ってなかったと考えます。
一號艦も弱点はあるのでした。
ですが、この残工事に対する西島の執念が無ければ、広幡の執念が無ければ、身体を張って鋲を打った120余名のの工員一人一人の技術が無ければ、もっと被害が大きかったのだとも考えます。
「信濃」の運命を考えるとき、どうしてもこの事を思い浮かべてしまいます。
いよいよです、次回「一號艦」進水です。
設計をはじめ、数々の障害を乗り越え緻密な計算の元に工程を進めて行きますがそれでも強度に問題がでたり。
予想外の事故が起きたり試練はつづきますね。
やっと進水ですが、まだしばらくかかりそうですね。
ところで、ずっと気になってたんでだけど、410mm厚の特殊甲板を鋲止めするのって
接合部は重ね接ぎなのすか?それとも、ホゾ接ぎなんだべか?
それともうひとつ、40cm超えの鉄板って、もはや板の域を越えてると思うけど・・・
これって、延圧鋼鈑なんだべか?それとも、鋳造なんだべか?
ここまで語るとは自分でも考えておりませんでしたので、「やっと」という思いはございます。技術的な視点から素人なりに大和撃沈の要因を検証しようと考えました。
基本はヴィッカース製です。その技術を独自に進化させ所謂「刀鍛治」と同様の方法で甲鉄を強化させる技術の開発に成功します。笹々川清です。このおかげで甲板の強度が更に強いものとなってます。
重ね接ぎが基本です。
甲鉄継ぎ目の遊びのためのパッキングウッドを大和は使用してません。ですから継ぎ目の精度が命のとなります。基本的に100mm以下を鋲打ちで、それ以上は直径76mmのアーマーボルトで接続しています。410mm甲板もアーマーボルトで接続されておりました。当然人力では不可能で、油圧のネジ締めが必要だったと聞きました。
それにしても、グズラ様はお詳しい。
内容の中で補足すべきでした。お詫び申し上げます。
410mmは鋲接ではなく、ボルトでした。
大艦巨砲主義の最終形は帝国海軍が完成させたのですが、それを滅ぼしたのは帝国海軍が編み出した航空兵力の集中攻撃でした。
本来の国家戦略である、来襲する米国海軍をフィリピン沖で迎撃する大戦略を貫徹していたら・・・昔から語られている夢想です。
その大戦略のための大和型の建造でしたからね。
いろんな歴史上のイフがありますよね。
後程最後にご紹介いたしますが、クロンシュタット様のおっしゃる通りです。
武蔵も集中防御の甲板の位置が運命を分けております。牧野はそれを戦後語っております。