「ロッテ優勝したべ!」教室でテレビを見てました。放課後掃除をしている最中にエツジ(6年学級担任)が、宮城球場で行なわれている、パリーグプレーオフ ロッテ対阪急戦をかけたのでした。もう、僕らは掃除どころではありません。
「金田監督の身体が中に舞います。一回、2回、3回。最優秀選手賞は有藤選手に決まりました」
地元での優勝でしたので、僕らはことのほかうれしく思いました。小学校にも、ロッテのファンは当時多かったので、教室の帽子掛けには、ロッテのものが、多く掛かっておりましたし、初めてのプロ野球観戦がロッテ戦がらみのがほとんどでしたので、ファンになるのも自然でした。そして、当時のロッテは、かなり強く、阪急、南海、と首位争いを毎年繰り返しておりました。酔漢、初めてのプロ野球観戦は、ロッテが2回目の優勝を飾る前年73年9月のロッテ、阪急戦です。叔父と見に行きました。
ロッテ先発は八木沢荘六 阪急 山田久志 です。この年、山田はエース米田の後継者として成長株でした。首位争いです。後期の。
3回表、森本のヒットを足がかりに、加藤がタイムリーを放ち、阪急が1点をリードしました。山田は、本当に調子よく、7回まで、ロッテ打線をヒット3本に抑えておりました。で、8回裏を向えます。
「さぁ、1点差を追いかけるロッテ。ラッキーエイトに入ります。解説の島田さん(島田源太郎 元大洋優勝時の投手。完全試合記録を持つ。気仙沼高校OB。当時TBC野球解説者)ここまでの山田の調子はいかがですか?」
「山田としては、後半、特に、この回が注意ですね。最近、後半にコントロールが甘くなって、長打を打たれるケースが多くなっています。8回を乗り切れば、9回までは無難にいけるでしょう。」
「しかし、ロッテは2番の得津からの好打順です。山田に抑えられているとはいえ、クリーンナップを迎えるわけですから」
「まったくです。しかし、山田はロッテ打線を後期は完全と言っていいほど抑えているわけです。有藤は完全に、苦手意識を持っているようですし、ラフィーバーも今日は、ゴロを打たされていますからね。山田が注意するのは4番のアルトマンですね」
2番の得津は、打たされて、ショートゴロ。ワンナウトの後、3番有藤です。ここまで、3打数ノーヒット。その有藤の4球目。
「さぁ山田、振りかぶって、第四球目を投げました。あーーっつと、有藤の左肩に当たりました。有藤バッターボックスにうずくまっております。金田監督も、3塁コーチャーズボックスから、有藤のもとに駆け寄ります。 立ち上がりました。そのまま、一塁に向います。島田さん山田どうしたんでしょうか」
「山田は、外で勝負をしようとしたんでしょうね。その前に有藤に内角のきびしいところを攻めたかったわけです。身体を起こしてから外勝負ですね。指にかかり過ぎたんでしょうね。肩にあたりました。有藤も踏み込んできてましたから、避けられませんでした」
「有藤、どうやら大丈夫のようです。さぁ4番アルトマンが打席に入ります。島田さんが最も警戒しなければならないバッターを迎えます。島田さん、ここは勝負ですか?」
「今日はそれでもアルトマンも三振1つですからね。一塁が空いているわけではありませんし、逆転のランナーをわざわざ出す事はないでしょう。ただ、失投は危ないです。アルトマンはローボ-ルヒッターですから、高めを上手く使いたいところです」
「山田セットポジションから第2球目をなげました」
カッキーーーーン
「うったぁー。打球はライトスタンド上段の看板に当たりました。アルトマンの2ランホームランです。有藤ゆっくりホームベースを踏みました。金田監督スキップしながら、アルトマンを迎えています。おや一緒にホームまで走っていきました。
ロッテ逆転です。2対1です」
満員の宮城球場が大きな歓声に包まれました。この試合、9回は押さえに切り札、成田文男が阪急を3人で押さえ勝利。インタビューはアルトマンと恒例の金やん節です「ほんま、ほんまアルトマン様、様やで。よう打ってくれたわ。ラッキーエイトは、この球場のお客さんがいいからでっせ!明日も絶対勝ちますよぉー」
仙台は準フランチャイズという事でしたが、僕らの意識は完全にホームチームでした。仙台ロッテ少年クラブとかありましたし、夏休み「七夕シリーズ」では、ロッテアイスをくれたりしました。選手も、小学生のファンを大事にしてくれました。片平丁小学校にいた友人が、近くの公園を歩いていた金田留広投手と一緒にキャッチボールをしたと言っていました。こういった話はよく聞きました。
あの当時選手が身近におりました。
プレーオフ優勝。「日本シリーズは仙台でやる」僕らはそう信じておりました。
相手は中日ドラゴンズです。しかし。シリーズ日程発表は僕らの期待を裏切るものでした。「後楽園開催」
「なんだや、学校休んでも見さぁいぐぅと思ってたのにっしゃ」何人いたことでしょう。
楽天の試合は時たま見ます。(テレビでね、スポーツ専門チャンネル)フルキャストスタジアムになっても、どこか、宮城球場の面影がありますね。野球場は屋根がないほうがいいと思います。先だって神宮に行ったときそう思いました。そして、僕がスワローズを応援しているワケを次回書きたいと思います。(酔漢自身は野球のファンであって、特定の球団を集中的に応援しているわけではないのです。が、スワローズを応援するのには、理由があります。そのわけをお話したいと思います)
それと、当時の宮城県知事 山本荘一郎さんは、よく仙台での開幕戦の始球式をしましたが、もと二高(旧制)のエースだけあって、プレート少し手前から、完璧なストライクを投げてました。あまりの制球にみんな驚いておりました。
2008年1月10日に更新いたしました当ブログに於きまして、当時のロッテオリオンズ背番号15。「近藤重雄」さんと酔漢との出会いをお話いたしております。オリオンズのファンの方で、もし彼の名前に記憶がございませんでしたら、是非ご覧下さい。
「金田監督の身体が中に舞います。一回、2回、3回。最優秀選手賞は有藤選手に決まりました」
地元での優勝でしたので、僕らはことのほかうれしく思いました。小学校にも、ロッテのファンは当時多かったので、教室の帽子掛けには、ロッテのものが、多く掛かっておりましたし、初めてのプロ野球観戦がロッテ戦がらみのがほとんどでしたので、ファンになるのも自然でした。そして、当時のロッテは、かなり強く、阪急、南海、と首位争いを毎年繰り返しておりました。酔漢、初めてのプロ野球観戦は、ロッテが2回目の優勝を飾る前年73年9月のロッテ、阪急戦です。叔父と見に行きました。
ロッテ先発は八木沢荘六 阪急 山田久志 です。この年、山田はエース米田の後継者として成長株でした。首位争いです。後期の。
3回表、森本のヒットを足がかりに、加藤がタイムリーを放ち、阪急が1点をリードしました。山田は、本当に調子よく、7回まで、ロッテ打線をヒット3本に抑えておりました。で、8回裏を向えます。
「さぁ、1点差を追いかけるロッテ。ラッキーエイトに入ります。解説の島田さん(島田源太郎 元大洋優勝時の投手。完全試合記録を持つ。気仙沼高校OB。当時TBC野球解説者)ここまでの山田の調子はいかがですか?」
「山田としては、後半、特に、この回が注意ですね。最近、後半にコントロールが甘くなって、長打を打たれるケースが多くなっています。8回を乗り切れば、9回までは無難にいけるでしょう。」
「しかし、ロッテは2番の得津からの好打順です。山田に抑えられているとはいえ、クリーンナップを迎えるわけですから」
「まったくです。しかし、山田はロッテ打線を後期は完全と言っていいほど抑えているわけです。有藤は完全に、苦手意識を持っているようですし、ラフィーバーも今日は、ゴロを打たされていますからね。山田が注意するのは4番のアルトマンですね」
2番の得津は、打たされて、ショートゴロ。ワンナウトの後、3番有藤です。ここまで、3打数ノーヒット。その有藤の4球目。
「さぁ山田、振りかぶって、第四球目を投げました。あーーっつと、有藤の左肩に当たりました。有藤バッターボックスにうずくまっております。金田監督も、3塁コーチャーズボックスから、有藤のもとに駆け寄ります。 立ち上がりました。そのまま、一塁に向います。島田さん山田どうしたんでしょうか」
「山田は、外で勝負をしようとしたんでしょうね。その前に有藤に内角のきびしいところを攻めたかったわけです。身体を起こしてから外勝負ですね。指にかかり過ぎたんでしょうね。肩にあたりました。有藤も踏み込んできてましたから、避けられませんでした」
「有藤、どうやら大丈夫のようです。さぁ4番アルトマンが打席に入ります。島田さんが最も警戒しなければならないバッターを迎えます。島田さん、ここは勝負ですか?」
「今日はそれでもアルトマンも三振1つですからね。一塁が空いているわけではありませんし、逆転のランナーをわざわざ出す事はないでしょう。ただ、失投は危ないです。アルトマンはローボ-ルヒッターですから、高めを上手く使いたいところです」
「山田セットポジションから第2球目をなげました」
カッキーーーーン
「うったぁー。打球はライトスタンド上段の看板に当たりました。アルトマンの2ランホームランです。有藤ゆっくりホームベースを踏みました。金田監督スキップしながら、アルトマンを迎えています。おや一緒にホームまで走っていきました。
ロッテ逆転です。2対1です」
満員の宮城球場が大きな歓声に包まれました。この試合、9回は押さえに切り札、成田文男が阪急を3人で押さえ勝利。インタビューはアルトマンと恒例の金やん節です「ほんま、ほんまアルトマン様、様やで。よう打ってくれたわ。ラッキーエイトは、この球場のお客さんがいいからでっせ!明日も絶対勝ちますよぉー」
仙台は準フランチャイズという事でしたが、僕らの意識は完全にホームチームでした。仙台ロッテ少年クラブとかありましたし、夏休み「七夕シリーズ」では、ロッテアイスをくれたりしました。選手も、小学生のファンを大事にしてくれました。片平丁小学校にいた友人が、近くの公園を歩いていた金田留広投手と一緒にキャッチボールをしたと言っていました。こういった話はよく聞きました。
あの当時選手が身近におりました。
プレーオフ優勝。「日本シリーズは仙台でやる」僕らはそう信じておりました。
相手は中日ドラゴンズです。しかし。シリーズ日程発表は僕らの期待を裏切るものでした。「後楽園開催」
「なんだや、学校休んでも見さぁいぐぅと思ってたのにっしゃ」何人いたことでしょう。
楽天の試合は時たま見ます。(テレビでね、スポーツ専門チャンネル)フルキャストスタジアムになっても、どこか、宮城球場の面影がありますね。野球場は屋根がないほうがいいと思います。先だって神宮に行ったときそう思いました。そして、僕がスワローズを応援しているワケを次回書きたいと思います。(酔漢自身は野球のファンであって、特定の球団を集中的に応援しているわけではないのです。が、スワローズを応援するのには、理由があります。そのわけをお話したいと思います)
それと、当時の宮城県知事 山本荘一郎さんは、よく仙台での開幕戦の始球式をしましたが、もと二高(旧制)のエースだけあって、プレート少し手前から、完璧なストライクを投げてました。あまりの制球にみんな驚いておりました。
2008年1月10日に更新いたしました当ブログに於きまして、当時のロッテオリオンズ背番号15。「近藤重雄」さんと酔漢との出会いをお話いたしております。オリオンズのファンの方で、もし彼の名前に記憶がございませんでしたら、是非ご覧下さい。
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