酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

コメント御礼 ありがとうございました

2010-05-01 09:39:22 | 大和を語る
ここのところ、皆様からの多くのコメントに対しまして返事が出来ずにおりましたこと。この場ではございますが御礼ならびにお詫び申し上げる次第でございます。
「海ゆかば」ではトム様、丹治様より多くのご解説を頂戴いたしました。改めてこの歌の本当の意味またはその歴史を知る機会になりました。
能村副長の手記によりますと、「海ゆかば」はもとより大和艦上ではその時多くの歌が歌われたと記されております。記録にはございませんが「故郷を思う歌」もあったのかと推察したところでございます。
クロンシュタット様からもご感想を頂戴いたしました。
軍歌への感想は日本人には難しい。様々な思いがあるのですね。僕等の世代までは、その意識がまだ生生しい現実として記憶にあるのですね。正直、僕等の子の世代では意識することはないのでしょう。
「雪の進軍」が戦争当時「軍歌」から除かれた時期があったと聞きました。(本当でしょうか?)ですが、良く歌われた歌だったそうです。歌の意味にこめられた心情がそのまま正直だったからなのでしょうね。
大和出撃の経緯、三一戦隊の転進。これは歴史の中で結論がでないのでしょう。
酔漢の仮説「燃料の残と出撃時刻の前倒し」は、これは今後多く議論される問題なのでしょうね。みなさまからのご意見も参考にしながら今後進めていこうと考えます。
ひー様からは「おもしろかった」とコメントを頂戴しております。
案外、米軍がどう判断し、個々がどう行動したか。あまり語られることは少ないのでした。
映画でも多くの敵機が来襲しますが、戦闘機一機のパイロットがどんな思いで空襲をおこなっていたのか、少しでも語れればと思います。
これは次回以降、「くだまき」とするところです。

いつもの事ですが「内容の間違い」等、お気づきの点がございましたら、是非お知らせ下さい。

一昨日まで帰省しておりました。父の見舞いなど、短い時間でやるべき事を少し片付けてまいりました。
ぐずら様ご一家とはほんの数時間のニアミスですね。酔漢が訪れた「君ケ岡公園」は早朝。霧が深く、桜を堪能するまでは至りませんでした。これはすこし残念だったのですが、「雨男」ですので「酔漢らしいか」と納得している自身です。

個別のコメントが滞りましたこと。重々お詫び申し上げます。
これを持って本篇と致しました。
ご容赦下さい。

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6 コメント

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『雪の進軍』は知らねども・・・ (丹治)
2010-05-01 14:24:38
『雪の進軍』が軍歌から除かれたという話は、残念ながら聞いたことがありません。

しかし陸軍の軍歌では『戦友』が歌うことを忌避されたという話は聞いたことがあります。
『戦友』とは、日露戦争の際に「我」なる人物が自分と並んで突撃して敵弾に倒れた戦友の死を弔う軍歌。
「赤い夕日の満州に友の塚穴掘ろうとは」で終るしみじみとしたバラードです。
この詩の中の

軍律厳しき中なれど
これを見捨てておかりょうか

という部分が問題にされたのだそうです。

海軍の軍歌では『上村将軍』が同じ目に遭いました。
日露戦争当時、第二艦隊を率いる上村中将はウラジヴォストークのロシア太平洋艦隊を捕捉出来ずに「露探」(ロシアのスパイ)とまで世間から罵られました。
その上村中将の苦悩、敵艦隊の捕捉と撃破、敗残の敵に示した武士の情を詠んだ長詩です。
この詩で問題にされたのは次の箇所です。

蔚山沖の戦ひに勝ち誇りたる追撃に
艦隊勇み帰る時
身を沈めゆくリューリック
恨みは深き敵なれど
捨てなば死せん彼等なり
英雄のはらわたちぎれけむ
「救助」と君は叫びけり

阿川弘之氏の『暗い波濤』にも
呼び学生たちが夕別科の軍歌演習でこ『上村将軍』を歌ったところ、
指導官が「決戦下の今日にふさわしい歌ではない」と注意したというエピソードが出てきます。
『暗い波濤』は小説ですが、阿川氏など予備学生の周辺で実際にあったであろうことは想像に難くありません。

『雪の進軍』で問題にされる可能性ありとせば、次のような点でしょうか。
「頼み少なや煙草が二本」
「焼かぬ干物に半煮え飯に
なまじ命のあるそのうちは」
「こらえきれない寒さの焚き火
煙いはずだよ生木がいぶる」
「死ぬる覚悟で吶喊すれど
武運拙く討ち死にせねば」

この歌は戦場の悲惨さをむしろ明るく笑い飛ばした
兵隊のしたたかさを語る歌のような気がします。
しかしそれすらもんだいにされるようでは末期的症状ですね。

『戦友』にせよ『上村将軍』にせよ、
満州事変勃発の後、
さらに言えば太平洋開戦前後、
それよりももっと後のような気がします。



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お疲れ様でした (トムくん)
2010-05-02 22:50:06
仕事がお忙しい中、本当に毎回お疲れ様です。いつも感心しております。

さて、『雪の進軍』は、軍歌から除かれたというのではなく、歌唱禁止になったとのことです。四番の歌詞で、「武運拙く討死せねば」のところから最後の部分が、士気を衰えさせるという理由からです。

明治時代の軍歌ですから、昭和の「愛国行進曲」などとは違って、軍隊生活での厭世観を歌ったもので、「いやじゃありませんか軍隊は・・」(軍隊小唄)、「人のいやがる軍隊に・・」(可愛いスーちゃん)とかと同列の歌ではないでしょうか。
都合の悪いことを削除したり代えたりというのは、日本だけでなく、どこの国でも行われていたことです。一番悪いのは、よその国の古文書や書籍類を焼かせる行為。焚書です。GHQは何万冊という日本の文書を焼却処分させたそうですね。列強諸国につごうの悪いものを。

日本人が日本人をいたずらに卑下するのは問題があると思います。こういう風潮が生まれたのは、戦後、洗脳されたせいです。

戦争に負けて、軍部にすべて責任を押しつけて、あたかも国民はみな戦争に反対だった、無理矢理戦争をやらされたかのようなことを書く人たちがいますが、実際にはそうではなかった。後になってこういうことを言う人こそ、卑怯者というべきでしょう。
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私も帰省したいのですが・・・ (クロンシュタット)
2010-05-03 07:10:27
「麦と兵隊」も上層部からは疎まれていたように記憶しています。
厭戦的といえば「リリーマルレーン」という曲もありました。こちらは丹治さんがより詳しいでしょうね。
「雪の進軍」。確か八甲田山の例の映画の中で歌うシーンがありましたね。彼らの運命を知っているがゆえに鬼気迫る思いで画面に見入ってしまいました。

親戚でもある太田元沖縄県知事の沖縄戦に関する著作を読み返しております。
彼が現職であったならば昨今の普天間基地問題はより明快に結論付けられていたように思います。
沖縄の軍隊は住民にとっては集団自決用の手榴弾を配るだけしか能のない存在でした。
本土決戦のための時間稼ぎ=捨石となった沖縄。
沖縄こそは100%基地のない平和な島にするべきでした。沖縄にこそその権利があるのでした。


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軍歌でありながら (丹治様へ)
2010-05-06 19:00:48
多くの意味が隠されているのですね。
勉強になりました。
そういえば、軍歌集を先輩のお部屋で聞いたことがありましたね。
思い出しました。
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八甲田山で (酔漢です)
2010-05-06 19:04:35
本日の宮城河北新報の記事です。
八甲田より生還された宮城出身の後藤伍長の手紙が見つかったとのことです。
遭難の様子などは書かれてないとのことでした。「雪の進軍」にはそういった意味があったのですね。お知らせありがとうございます。
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徳之島 (酔漢です )
2010-05-06 19:06:09
大和以下海上特攻の碑がございます。
慰霊祭も毎年行われます。
政治の話題は避けるのですが、複雑な思いも致します。
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