酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

史学してみた。 「風雲児」が生きた時代 二

2012-11-16 07:14:03 | もっとくだまきな話
彼は、派手なチェックの柄を好んで身につけ、頭髪をポマードでリージェントに練り上げて、これ見よがしにビュウィックを乗り回していた。会話の合い間に両手を広げて肩をすくめてみせるなど、日系二世風に振る舞っていたが、口をついて出るのは生っ粋の東京弁で、早い話しがよくあるていのアメリカかぶれであった。(本田靖春氏著「不当逮捕」講談社 267頁 抜粋)
冒頭のイラストは、「森田信吾氏」によるものです。
このような出で立ちの新聞記者。
「日活映画」さながらの登場です。
昭和、まだ戦後と言われている時期、このような人物がスクープを出し続け、「事件の読売」を作り上げていた。
当時の社会でも異端児とされます。
1ドルが固定制の時代。と言うよりは、輸入品など一般庶民の手に届くものではございません。
身につけているものが全て、舶来。アンフォーラは今でも、50g700円はする高級たばこ。
「金持ちのボンボン」それ以上の生活です。
少しばかり、彼の生い立ちを見てみます。
話しは岩手に飛びます。昭和二年。時間を大きく遡らせます。

昭和2年の岩手、花巻。
この時空で連想致しますのは、「宮澤賢治」です。
賢治の従叔父→父方祖母の腹違いの弟の息子(らしいです)にあたります「関徳弥氏」。彼は賢治の三歳下です。関は賢治を兄のように慕い、多くの記録を残しております。
その記録の一部「宮澤賢治素描」に、立松和博の母親の記録が残されております。
一部をご紹介いたします。


花束
 昭和二年頃でありましたか、東京から声楽の立松房子夫人が花巻に参りました。夫君の立松判事が職務上の事件から、世間的に問題を捲き起こし、たいへん同情されて居りました。随つて立松夫人の独唱会もそれらの原因もあつてか人気を呼び起し、当日の朝日座に於ける会は、大入でなかなかの盛会でした。その頃賢治は羅須地人協会を開設し、音楽に多大の関心を持つて居られましたので、オルガンやギターを買つて勉強してゐると云ふ話が私達の耳にも這入つて居りました。さて当夜の独唱会には私も参り、立松夫人の奇麗な、しかも精神的なソプラノに感激して耳を傾けて居りましたが、プログラムもだんだん終りに近づいた頃、可愛い尋常一年位の女の子が舞台に出て来て、手にあまる美しい花束を、立松夫人に渡しました。花束は実に水々しく真紅の花、淡紅色の花、それに白や水色など、或ひはほやほやした毛のアスパラガスなど交へたものでした。その少女は町の宮金といふ砂糖問屋の可愛い百合子さんといふ少女でした。立松夫人は夫君を助ける為に一人児を家に置いて、地方廻りの独唱会を開いてゐるといふことなど、大分人々の同情を買つてゐましたが、花束を捧げた少女と、立松夫人のとり合せは大変涙ぐましい情景で、しかも美しい大きな花束は一層、その場面の気分を引立たせたので、満堂は酔へるが如く拍手の嵐を送りました。その時あの花束は一体誰が送ったのだらうと考へてみましたが、少したつてそれは賢治が手作りの花を少女へ頼んで渡したのだといふことがわかりました。それまでは賢治といふ人はそんなことをする人だとは思つて居りませんでしたので、意外な感興を吾々は呼びおこしたものです。
 立松夫人と大きな花束と賢治といふ取合せは今も美しい一つの詩となつて、吾々の脳裡に消ゆることなく残つてゐます。



ここに登場いたします、「立松房子」という声楽家、オペラ歌手は、「くだまき」主人公「立松和博」の母親でございます。
当時、戦時中は国民歌謡等を歌い、その声は、日本声楽界では大きな評価を得ております。
和博は次男でございます。
上記の「宮澤賢治素描」には、父親のことにも触れております。

夫君の立松判事が職務上の事件から、世間的に問題を捲き起こし、たいへん同情されて居りました。

上記部分なのですが、大きな意味がございます。
先日、語りました「大逆事件」です。「夫君」とは「立松懐清判事」。
史実を、今一度整理してみます。

「大逆」とは、これは罪の総称です。一般に言われる「大逆事件」は、いくつかの「天皇陛下暗殺計画」をまとめて言われるものです。
1910年 幸徳事件 1923年 - 虎ノ門事件(虎の門事件) 1925年 - 朴烈事件(「朴烈、文子事件」) 1932年 - 桜田門事件(李奉昌事件)
上記が全て「大逆罪」が適応されております。
うち「朴烈事件」に関わりましたのが、立松懐清判事。和博の父です。
「くだまき」はこの事件の詳細を語るものではございませんが、もう少し触れておきたいと考えます。

この一枚の写真が物議をもたらします。
事件の首謀者とされる、「朴」と愛人「金子文子」の写真。
東京地方裁判所判事「立松」は、当初、「爆発物取締法」での送検を主張致しますが、当時の司法省の思惑(「朝鮮人の独立運動」や「社会主義者の弾圧」)により「大逆罪」の適応を求めてきます。結果、立松はそれを受理致します。しかしながら、予審最中に上記の写真が公開されます。現代史では、写真撮影は「立松自身」と解釈されております。
「立松判事と朴との間の密約」。
自白を得たかった立松と「どうせ死刑になるのであれば朝鮮人として英雄と呼ばれて死んでいきたい」との司法取引と目されております。
松本清張氏のよるこの件は重要な意味を持っております。(昭和史発掘よりです)

立松予審判事は、朴烈と金子文子の取り調べが両人の傲慢な態度で容易にすすまないのをみて、同判事はついに上司(不明)と合議結果、彼ら被告を破格に優遇して、ひたすら懐柔して自白させようと策したことは公知の事実であるが・・・奇怪なのは、一日取調べが終わったのち、立松氏はなぜか予審延に朴烈と文子の二人を残したまま便所にいくと称して退廷し、この重大な両被告になんらの監視も付さず、ただ扉の錠をおろしただけで約三十分間中座した事実だ。捕えられて獄に下り、長い間離れていた両人が、ここにまったくの監視の眼から釈放された三十分間、この人影のない法廷でどんな行動をしたか容易に推測することが出来る。それからは、朴烈と文子は「生理的のある機能が調節されて漸次従順」となり、彼らは立松判事を理解者、同情者とよぶようになった。(松本清張 昭和史発掘一 文春文庫 朴烈大逆事件)

ただし、上記の文章は「怪聞の内容」とされた極右の発した文章であり、事実を確認することは出来ません。(松本氏。同様)
しかし、立松判事の取った行動は、上記に似たりで、引用しております。
「本田靖春氏」によれば、(「不当逮捕」124頁)「私の知る立松和博が懐情の立場にいたとしたら、予審廷にわざと二人を置き去りにして逢瀬を楽しませるくらいのことは、間違いなくやったであろう。そういう話を遺族にぶつけてみたところ、懐清の中座は事実であるという答えが返ってきた」。

写真と怪文書の首謀は「『北一輝』が意図的に流布させた」という説がございます。
政争の道具としても使われます。
本田氏によりますれば「立松懐清自身が最期を覚悟した二人を撮影」と解釈しており、写真がどのような形で公になったかまでは、詳細な記述を避けております。
しかしながら、懐清自身が彼らの罪を「大逆には値しない」とし、その後、司法を恩赦の方向へ向かわせます。
結果、金子は自ら命を絶ちます。
「最後の法廷位は、人並みの恰好で臨みたい」金子の訴えに対して、妻(立松房子)の着物を誂えるようにもいたします。
果たして、それは叶わぬこととなります。
この事件後、立松判事は司法を追われ、昭和13年。肺結核で死亡いたします。
朴は、千葉刑務所で金子の死亡の報を聞いた後、絶食による自殺を試みますが、昭和20年10月にGHQにより釈放されます。
朴が立松家に対して、その恩義を忘れることなく、例えば、朝鮮人の集落へ一家を招き入れるなど、感謝の意を表す行動を取って行きます。
朝鮮戦争時、北朝鮮へ連行され消息を絶ちますが、北朝鮮南北平和統一委員会副委員長等を歴任します。

朴は日本を去るまで、30日(懐清命日)には立松家を訪れ喪に服しております。
朴烈事件は今日に於いても、その真実を大きくは知らせれておりません。
時の政争の中に埋没されてしまった史実なのでした。
本田氏は、朴の死を「昭和49年1月、72年の波乱に富んだ生涯を閉じた」を記されておられます。
が、「田中清玄氏」は、「北朝鮮へ渡った後、平和統一委員会副委員長時に処刑された」と話しておられます。
これは、今では確認する方法がございません。
立松和博は、この後語ります「くだまき」に於いて、司法と政治に翻弄されますが、これは立松家に於ける運命ではなかろうかと、深く考えるところです。
大逆事件から長くなりました。和博へ話しを戻します。

「赤線」「青線」これらの言葉が公のものとなっております時代。
女性議員が国会で大きく取り上げておりますのが「売春防止法」の成立。
しかしながら、当時の国家権力者達は、ここから多くの恩恵を受けていると事実。
それら業者がこぞって、その法律成立の顚覆または「法律施行実施延期」を企てて、政界工作を行って行きます。
彼らのギルドは「全国性病予防自治会」と呼ばれます。

東京新宿二丁目。繁華街のど真ん中。とあるビルの前。
3台の黒塗りの車が乗りつけます。
大きな鞄を携えた男達が数十人。駆け足で階段を駆け上ります。
先頭の男がある看板の前で立ち止まります。「全国性病予防自治会」との文字が。
「ふーーと」息をつきます。その直後。
「東京地検特捜部だ!この事務所の家宅捜索を開始する!」
「なんだてめぇ、令状はあるのかよ!」
「うるせぇぇぇ!すっこんでろ!三下!公務執行妨害で逮捕されたくなかったら、おとなしくしてやがれ!」
全国一斉に事務所の家宅捜査が開始されます。
立松和博は、ようやく病を癒し、復帰致します。

続きます。

追記
二日に渡り「くだまき」を語りました。
この続きは来週となります。今、資料を読み込んでおるところです。
時間が経ちますが、ご容赦下さいませ。

コメント (4)    この記事についてブログを書く
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4 コメント

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見張り員さんへ (酔漢です)
2012-11-23 10:57:36
案外知られていない史実。
立松という読売新聞記者を主人公にしてますが、彼の生い立ちも波瀾万丈。
時間をかけてかたりますね。
御高覧ありがとうございます。
返信する
ひーさんへ (酔漢です)
2012-11-23 10:56:23
史料を後回しにしております。
いつもの悪癖なのですが。
少し時間をかけようかと思っております。
一応4話完結で考えております。
またいらしてください。
返信する
こんばんは (見張り員)
2012-11-21 22:20:29
なんだか歴史のただなかに足を突っ込んだような・・・わくわく感と緊張感が私を支配しています。

続きを待っています~~!
返信する
Unknown (ひー)
2012-11-16 22:12:00
時間がないので後でゆっくり読みます。
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