酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 彷徨

2010-01-25 09:08:01 | 大和を語る
1945年3月27日:米艦艇の沖縄本島南部への艦砲射撃。艦載機が沖縄本島500機、奄美300機来襲。九州には昼夜B-29約200機が来襲,関門海峡に機雷投下。
(東海大学 鳥飼研究室史料 抜粋)
大和通信室には、沖縄からの戦況とGFからの入電など情報が錯綜しております。
事態は急変。艦内の慌しさが最高潮となっています。(ですが、それも序章です)
3月28日 GFより入電。出港命令です。
「酔漢祖父少尉。出港命令です」
「もう、そろそろでねぇかって・・・思ってたなや」
「やはり、大和は、沖縄へ」
「んだども、どの電文さも沖縄とは書いてねぇっぺ」
果して、大和は何のために呉を出なくてはならないのでしょうか。

朝から騒然とした艦内。スピーカーから全艦に
「出港準備」が告げられていた。
大和の巨大な煙突から煙が上がったのでした。

「煙突から黒い煙が出ているのを見たとき、いよいよなんだという気持ちになったのを覚えております。ですが一体どこへ向うのか何も知らされてないものでしたから、それはそれで不安でした。『沖縄』とは、思っていても誰も口には出しませんでした」
(寺戸富夫さん大和一番主砲 砲員 証言 →遺族会から)

伊藤整一司令長官は有賀幸作艦長と共に、第一艦橋におります。艦内から出港準備完了の報告を受けている能村副長はあちらこちらと連絡を取りながら、最終点検に入っておりました。
「副長、上陸許可最終日には全員帰艦が確認されたのかね」
「時間通り、全員帰艦完了しております。総員乗艦いたしました」
「上陸できなかった者もおるそうだが・・・副長も・・だったな」
有賀の顔からは申し訳ないという気持ちが現れていたのを、能村は見たのでした。
「私は、これが任務、仕事ですから」
そう言って、艦内各所から入る報告をくまなく点検しているのでした。

大和のこの佐世保回航は軍令部富岡部長、三上参謀の発案とされております。「佐世保は比較的対空砲火を強化させた軍港でした。一度そこへ進出させ、敵上陸地点へタイムリーな行動を起こすことにより敵を牽制させ、敵機動部隊を殲滅させる」というものでした。しかしながら、敵空母を強襲するのは南九州に基地を持つ航空部隊であって、大和は敵部隊をひきつけるために使うというものなのでした。
考えれば、呉から佐世保へ行くというのは、本土内しかも領海沿岸部です。その航海自体が最早敵の真っ只中へ突っ込むという行為なのです。

同日一七三○。大和は第二水雷戦隊旗艦「矢矧」と駆逐艦八隻と共に、呉を出港します。
呉からはその軍港から手を振る人がまばらに見えました。
「大和はここで生まれたんだな」
伊藤は赤煉瓦倉庫、海軍の施設、そして工廠のドックを艦橋から眺めておりました。
「再び、ここへ・・・」
全員がそうした思いを持っておりました。

「長官、GFより入電。敵来襲。九州南部方面。敵機による空襲です」
艦橋に緊張が走ります。

1945年3月28日:沖縄本島へ艦載機約550機来襲。艦砲射撃。九州航空基地に,艦載機200機来襲。
 米任務部隊は,日本が九州,本州方面に温存している航空機を沖縄攻略軍への脅威と考え,早急に撃滅したかった。米軍が警戒したのは,航空兵力であり,水上艦艇は運用できる空母がなく,無力化された。
(東海大学 鳥飼研究室 史料より 抜粋)

そして再び
「長官GFより入電。佐世保回航中止命令です」
「艦長、佐世保行きは中止になった」
「では、長官、大和はどちらへ・・」
「それがまだ命令が来ていない」森下参謀長がやはり命令書を見ながらこう話しております結果、大和は28日夜。兜島へ仮停泊いたします。
伊藤は少しだけ安堵したのでした。

当時、連合艦隊でも第二艦隊でも「大和」の行く末についていろいろ論議がかわされていた。一つは、貧弱ながらまだ艦隊として編成ができるうちに、敵を求めて、太平洋に出撃させ、敵艦隊にひとあわふかせるというもの。もう一つは、直掩の飛行機も少ない現状で出撃すれば、いたずらに敵艦上機の猛攻をうけ、敵艦隊と渡り合う前に大被害を受けるに過ぎない。それよりは、いったん日本海に避退して時機を待つ、生死はもとより問題ではない、しかし、絶対戦果を期待し得ない自殺作戦には反対するというものだった。
(能村次郎 大和副長 手記より 抜粋)

日が明けて29日未明。午前3時半、山口県三田尻沖へと向います。速力に増す「第二水雷戦隊」は先行しております。その航海途中であっても訓練を続けております。
三田尻沖には先着した「矢矧」をはじめ、第二水雷戦隊が控えておりました。

「GFからはまだ何も」有賀艦長は少々気をもんでいる様子でした。
どう行動するのかまだ何も指令のない艦隊。
それはあたかも、命令とはいえ海をただ彷徨している姿に見えるのでした。
その間にも大和通信室へは沖縄の状況が刻々と入電してくるのでした。

3月26日,米軍は慶良間諸島に上陸,3月29日に占領。3月30日,米軍の沖縄本島上陸が必至となった。米軍に使用させない目的で,日本軍守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら爆破。しかし,爆薬不足のため,米軍はすぐに復旧。

飛行場のある読谷村の住民の一部は,北部の国頭村へ避難したが,数千人が村に残っていた。米軍は、1945年3月23日から沖縄を艦砲射撃。艦砲射撃と空襲を避けるために、住民は溶岩洞窟「ガマ」や亀甲墓などに避難。
米軍は,沖縄本島に上陸した4月1日以前に5インチ以上の大口径砲弾を 4万1,543発消費し,そのうち14インチ(36センチ)上の砲弾だけでも4800発を発射。
(東海大学 鳥飼研究室史料より抜粋)

だれにも、さとられぬように、三々五々呉を出港し、近道を狭水道を通って先着していた第二艦隊所属の巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「雪風」、「磯風」、「浜風」、「冬月」、「涼月」、「初霜」、「響」、「霞」、「朝霜」の十隻と合同した。各艦とも空襲あるいは、潜入してくる敵潜水艦の攻撃に備えて、つねに機関の運転準備を完成して漂白。各種砲の射撃準備を整え、直ちに戦闘動作がとれるように一部の兵器に配員してあったことはもちろんである。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)

大和では士官は一次士官と二次士官とに分けられております。これは2Fとも一緒でした。一次士官というのは「海軍兵学校卒」の士官であり二次士官はいわゆる「叩き上げの士官 (特務士官など)」達でした。大和、武蔵の図面を見ますと「一次室」「二次室」と描かれております。祖父は二次士官。ですから詰め所は「二次室(二次士官室)」となります。
部屋は大和ミュージアム新谷さん(学芸員)からの情報によりますと「個室を与えられていた士官ではないか」とありました。
祖父は個室にいるのでした。
(だったらもっと手紙さぁよこしたらえがったっちゃ)と酔漢は思うのでした。→「じいちゃん、頼むぜ!」デス。
まだ、通信室は臨戦態勢とはいえ、ルーチンで事を運ばせております。

「沖縄の状況は」
伊藤長官は副官の石田恒夫少佐に尋ねます。
「戦況は思わしくありません。飛行場を爆破いたしたそうです。敵が上陸しても使わせない作戦だと考えられます」
「持久戦であるか・・牛島中将の第三十二軍は精鋭ではあるが・・」
伊藤は牛島に同情を感じるのでした。

彷徨する第二艦隊。
先にもお話いたしましたが、運命を決定される日が刻々と迫っているとはいえ、(これは後世に生きて顛末を知る自分の感覚です)今だその運命は決定されていないのでした。
大和をはじめ第二艦隊の運命を決定されるべき史実は彼らの希望や思いとは別のところで決まってしまうのでした。
連合艦隊主席参謀「神 重徳」(かみ しげのり)大佐を語らなければなりません。
そして連合艦隊、海軍がどのような意志で持って第二艦隊の沖縄出撃を決定させていったのか、その過程を次回整理しようと考えております。
ですが、この主席参謀の名前「嫌い!」です。単純な理由ですが。
そして、「二水戦」を語ろうかとも思います。
「古村啓蔵」さん(第二水雷戦隊司令長官)「原為一」さん(矢矧艦長)お二人とも、酔漢は、お姿を拝見いたしております。「とても紳士なおじいちゃん達」だったのを覚えております。

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7 コメント

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Unknown (ひー)
2010-01-25 14:27:52
読んでいて、兜島での停泊でホッとする船員の気持ちがわかるような気がします。
最後の嫌いな名前は何と読みますか?
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次室士官 (Unknown)
2010-01-25 15:06:18
一次と二次に分れているのは、いわゆる「次室士官」ですね。
巡洋艦以上の士官室は、普通は四つに分れています。
士官室、第一士官次室、第二士官次室、准士官室です。

士官室には副長を筆頭に各科の科長、大尉以上の士官が入ります
第一士官次室は普通にはガンルームと呼ばれ、兵学校始め学校出の中尉と少尉が入ります(室長は最先任の兵科の中尉です)。
第二士官次室は下士官兵から叩き上げた特務中尉と特務少尉が入ります。
准士官室には、各科の兵曹長が入ります。

ですから、酔漢さんのお爺様は確かに二次室所属になりますね。
叩き上げの特務士官でも大尉以上になれば士官室に所属します。
ですから大和の方位盤射手だった村田大尉や沖縄出撃直前まで第二砲塔長(確か第二分隊長)だった奥田少佐(特務大尉から特選で少佐に任用)は士官室に所属していたと思われます。

なお太平洋開戦ほ直前から、中尉でも分隊長の職にあれば士官室の所属になりました。
逆に必要とあらば、大尉を一次室の室長にすることもありました(たとえば最先任の中尉が兵科でない場合など)(大和が沖縄に出撃した当時の臼淵大尉の例あり)。

駆逐艦のような小型艦艇では、士官室と次室の区別はありませんでした。
但し駆逐艦の場合は士官室が前部と後部に一つずつあり、
前部を駆逐艦長以下学校出の士官が、後部を特務仕官と准士官が使用しておったようです。
潜水艦の場合は、前部と後部の区別もなかったのではないでしょうか。

士官次室ですが、或る時期までは第一と第二の区別はなかったようです。
しかし学校出の中尉少尉は若くて血気盛んな年頃。
一方の特務中尉特務少尉は家庭を持って子供にもお金がかかる年齢。
気質から何から違います。
それで学校出の中少尉と叩き上げの中少尉の居室を分けたとか。

種本は雨倉孝之さんの『海軍オフィサー軍制物語』です(『帝国海軍士官入門』の題で文庫化、出版社は共に光人社)。

学校出の若手士官の血気盛んな様子は(稚気か)、阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』の上巻に詳しいです(そこに紹介された人物の「そんなことしてない」という半裸音もあるやに聴いてますが)。
『軍艦長門生涯』・・・新潮文庫に入っておりますが、残念なことに現在は版元品切れ。しかし古書でなら入手可能です。







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追伸 (丹治)
2010-01-25 15:09:35
最後の段落にある意味不明の単語(漢字三文字)ですが、
勿論のこと正しくは「反論」です。
とんでもない誤変換(キイのミスタッチ)・・・
いつもの事ながら汗顔の至りです。
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ひー様へ (酔漢です)
2010-01-25 18:33:15
先ほど、名前の箇所へ()内ですが、ひらがなを補足いたしました。
神 重徳(かみ しげのり)と読みます。
大変過激な方で(発言が)有名だったと聞きました。
「しげのり」というのがどうも、気になる酔漢です。
これ以上は申し上げられないのですが・・・。
      
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丹治様へ (酔漢です )
2010-01-25 18:37:44
「能村次郎 大和副長 手記」には、4月5日の「酒保開け」の様子が書かれております。
丹治様の言う通りの様子ですね。
一次士官室では、若い士官が死生観を論議しております。一方、二次士官室では「もくもくと酒を呑んでいる古参兵?」の様子だったようです。気質が全く違うのでしょうね。
ですが、祖父が例えばその一次士官室にいたとしたら「まんず、騒いでねぇで、酒っこ呑んだらいいんでねぇか」と言いかねません。と、勝手に想像しております。
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気温の変化についていけず風邪を・・・ (クロンシュタット)
2010-01-26 06:00:14
GFや軍令部や海軍省は「大和」が歴史的な存在になることまでは意識していなかったのでしょうね。
半ば、場当たり的な作戦立案から、伺えます。日本人には「歴史から見られている」状態での行動が不得手です。
ハンニバルやアレキサンダーやナポレオンはもちろん、欧米の軍事指導者は「歴史」を意識した言動が得意です。
大和の運用に関し、後世の国民の納得を得られるようには考慮されなかったのでしょうか。

ついつい土曜に「遊就館」に行って来ました。も次男を連れてでは、無料1階フロアだけの見学でした。
沖縄から回収されたカノン砲や榴弾砲、そして零戦52型をじっくり眺めてきました。
息子は泰緬鉄道のC56に萌えてました・・・
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クロンシュタット様へ (酔漢です )
2010-01-28 18:28:29
少々風邪をひきました。
鼻水が・・・・久々でした。
「世界がこの一戦の一挙手一動に注目するであろう・・・」4月5日。能村副長の訓示です。
ですが、思うのです。秘匿中の秘匿の「大和」をどうしてその戦闘を知るのでしょう。
後々の事ではあるのですが、クロンシュタット様のおっしゃいますように、歴史というものの見識が狭いような気がします。軍そのものも。
そうですね「亜細亜号」を見たいです。
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