酔漢が塩竈へ帰りましたのが昨年5月の事。新緑がまぶしい、そしてまだ山には雪が残っておりました。栗原市から県境を通って山形へ入り少しばかりドライブをいたしました。
蕎麦好きな父でございます。山形、宮城の蕎麦を食べ歩くのが趣味となっております。
以前はかなり呑んでおりました。晩酌は欠かせません。ウィスキー派です。
帰省中は親父と晩酌しております。
不思議に思われるかもしれませんが、父と酒を呑むことが楽しみでもあるのです。
多くの話を聞きだすのがまた楽しい。
これがですね「抱腹絶倒!」不思議なエピソード満載の「酔漢父ワールド」なのでした。
では前回の続きです。
酔漢祖父の電報が七ヶ浜村花渕へ届きます。
父は弟と共に疎開中です。
「んで、いぐべか」
用意をし、4人で東京。そして横須賀へ向います。酔漢祖母は、叔母がまだ小さい為に一緒には行っておりません。
ここから先のお話は父との晩酌での会話です。
「遺族の証言」を聞きだした(酔漢父から)「遺族」(酔漢)でございます。
「んで、親父、そいずさぁ(電報)何て書いてあったのすか?」
「なんだべなぁ・・見てねぇからやわかんねぇっちゃ。んでも、『東京さぁ急いで来い』ってあったんでねぇべかな・・兄貴は横須賀の工廠さぁ動員されてからっしゃ」
「東京ですぐ落ち合った(酔漢祖父と)んでねぇの?」
「まんず、横須賀まで行ったっちゃ。不入斗(いりやまず→横須賀市)の家さぁまず行ったっちゃ。したっけ、最初に思ったのはあれだど・・『ずいぶん狭めぇ家さぁいたなやなぁ』って」
JR横須賀駅舎は、当時のままです。不入斗までは結構距離がございます。今で言いますと、駅正面右に「横須賀プリンスホテル」があって、左に「ダイエー横須賀」があります。その間の道を真っ直ぐ行きますと(ちょうどドブ板と平行に)大きな交差点があります。この交差点左にアメリカのヤード第七艦隊司令部等の建物へと続く坂道があります。この坂の門が旧海軍横須賀鎮守府入り口なのです。反対側に横須賀の商店街が続きます。
「さいかや」(百貨店)は父の頃から。「SEIYU」があったところは映画館だったとか。その商店街を突っ切りますと京急横須賀の駅が右手に見られます。ここの交差点からはまっすぐ坂道。坂を丁度登りきったあたりに寺(西来寺)があってそこからもう上り坂。
塩竈でいいますと、丁度北浜から小松崎へ上がる急な階段、坂道がございますが、まったくあれと一緒です。
小松崎の実家ですが、横須賀とまったくロケーションが一緒ということに気付きます。
「親父、死んだ叔父貴は横須賀を意識してここに土地買ったのすか?」
一度聞いたことがございます。
「なぁーに偶然でねぇかな。そこまで兄貴も意識してねぇべさ」
急な坂道、階段を登りきると海と港が見える。そんな風景です。
横須賀駅から歩きますと約40分はかかるのではないのでしょうか。酔漢祖父は毎日歩いていたそうです。
昭和20年3月26日(おそらく)です。
歴史をお話いたしますと、この日海軍は「天一号作戦」を発動しております。
まだ第二艦隊はこの作戦でどのような使われ方をするのか全く決まっておりません。
そんな中の上陸だったのでした。
不入斗の家は、家財道具を全て片付けられた後でした。
「横須賀の家さぁ親父いっぺって思ってたのっしゃ。んでも、親父いねくてやぁ。何でも、近所さぁ顔を出す(挨拶する)為と、預けたものがあるとかで横須賀さぁ、先に連れていかれたのっしゃ」
「預けた物?何っしゃ?」
「しゃねぇ。兄貴が持ってたって聞いたけんど、何かわがんねぇ」
「横須賀から東京まで・・」
「結局、親父は呉から海軍省さぁ来てたみてぇだど。いろいろ挨拶すっとこさぁあったんでねぇか。多分、親父一人ではねぐて、2Fの誰かと一緒だったんでねぇか。まずは東京駅で待ち合わせは間違いねかったのっしゃ」
「駅さぁいた?」
「んだ。横須賀線のホームさぁいたのっしゃ」
「まず、会えてえがったっちゃ。会えねぇ家族いっぺぇいたって聞いたからっしゃ」
「東北出身者って横須賀鎮守府が殆どだべ。したら、2F関係者だっちゃ。でもなや、ほれ、俺達は東京は馴染みがあっから迷わねぇべけんど、だれ、初めて来てや、時間もねぇべ。駅で待ち合わせって難しいど」
能村副長手記を思い出しました。
「郷里が遠い者の一人、郷里と呉との中間駅で家族と落ち合う計画を立てたのよかった。しかし、両方の汽車の都合で対面時間はわずか十五分しかないのに、家族が待ち合わせ場所を間違えたため、ついに会えずに帰る不運の人もあった」
「いつものように軍服を着た親父がいてっしゃ。いつもと何ら変わらない様子に安心したのは確かだべ」
「呉で大和にいるってのは知ってたのすか」
「だれ!おめぇ、極秘だべ。何してのかわかんねぇっちゃ。教えてもけねぇおん。んだども、最初は呉の鎮守府さぁいんだべって思ってたのっしゃ」
そうです。以前ご紹介いたしましたが手紙すら「呉局 ウ556司令部」としかないわけですから。
「東京駅で待ち合わせてっしゃ。まっすぐ明治神宮さぁ行ったっちゃ。そこでみんなしてお参りしたべ」
「どんな会話したのすか?」
「『叔父さん、叔母さんの言うこと聞いてっか』とか、『勉強しねぐて駄目だど』とか、ありきたりな話さぁしてたような気がすんべ」
「出撃命令・・・命令だから家族さぁ教えるなんてねぇんだけんど、そんな話はあったのすか?」
「何もねぇ。前線さぁいぐなんて一言もねぇかったっちゃ。んだから、なしてわざわざおら達ば東京さぁ呼んだのか最後までわかんねぇかったおん。解ったのは親父が死んでからだべ。それもっしゃ、物の本で知ったんだからっしゃ。今思えば、少しは話してけてもえがったんでねぇかって・・そう思うのっしゃ」
「それから後は?」
「靖国神社さお参りだべ。神社の梯子っしゃ。んでも、よく前線さぁいぐ兵隊さんはそうしているって話ば聞いてたからっしゃ。『もしかしたら、親父も前線さぁいぐのかや』って、その時ふと思ったのっしゃ。んだども聞くに聞けねぇべ」
「最後に会ったのは・・それだけすか?」
「途中、飛行機だの大砲だの展示している博物館みてぇなとこさ行ったんだけんど。どこだべか?覚えてねぇっちゃ」
推測です。靖国神社境内にございます。展示室(呼び方が他にあったような気がするのですが)ではなかったかと考えます。
「そこから、確か都内で昼飯皆して喰って・・後は東京駅で別れたっちゃ」
「本当に他に何もなかったのすか?」
「んだな。あったとすれば・・・あったなや・・・」
歯切れが悪くなった親父です。
「何っしゃ?」
「『今いる艦(ふね)は、ぜってい沈まねぇ艦だからっしゃ。何もしんぺぇすこっとねぇんだど』最後にそう言ったのは確かだべ」
「『大和』って・・・知った・・・・?」
「その頃は『大和』って軍艦があるって噂だけだべ。写真なんてねぇんだおん。横須賀さぁいたからっしゃ。長門、扶桑、山城は何度も見たっちゃ。観艦式さぁ連れていかれたおん。んだども『大和』なんて、本当に知ってる人なんてまだほんの一部だったんでねぇか。大和よりB-29やグラマンの方が有名なご時勢だべ」
大和が極秘、秘匿であることが解ります。
「驚いたのはその話さぁ聞いたときだべ、親父は『軍艦であっても沈まねぇ艦なんてねぇ』って前に言ってたのを覚えてたからっしゃ。『まんずそげな艦があんのか?』って思ったのっしゃ」
「明治神宮、靖国だべ。やっぱり武運長久さぁ祈って・・」
「いつもの、親父だったっら・・それもあんだけんど・・皆元気でって・・それは必ず最後のお参りの言葉だったっちゃ」
「じいちゃんには、それが最後すか。一日あっただけすか?」
「んだな。半日かや。んでも、会えなかった家族も大勢いたからっしゃ。遺族会さぁ行っても、『手紙だけ』って人が大勢いっからっしゃ。いいんでねぇか、まだ会えたしなや」
「ばあちゃんは・・何時・・」
「親父が呉さぁいたころ、もしかしたら呉さぁ行ってかもしゃねぇし、はっきりしたことはわかんねぇな・・」
父は、話を続けました。
「本当に特別な話はなかったのっしゃ。んだから『なしてわざわざ東京さぁ呼んだのか』って思ったのっしゃ。親父と最後の別れなんて、本当に思わなかったのっしゃ。知ってたらなや・・・話してもよかったんだなや・・」
親父の涙腺は決してゆるくはございません。でも、確かに目をぬぐう親父を見ました。
この最後の上陸の場面を「男たちの大和」は描いております。それぞれの思いを背負った方々の家族と再開の場面です。酔漢祖父は当時42歳。(今の酔漢より若い年齢)ですが、多くは20代、そして二十歳未満の少年兵もおられます。
その方々のお気持ちを思いますれば、お話の仕様がございません。
覚悟を決めた方々。そうではなかった方々。揚々でございます。
酔漢祖父は最後まで「最後」とは考えておらなかったように考えました。
ですが「覚悟」はあったように思えます。
多くの文書、そして会話の中に「特攻」という文字、言葉が出てまいります。ですが、最後まで酔漢祖父からそのような言葉は出てきてまいりません。
「後をよろしく」とも言っておりません。
「身内がある者は、別れをしてこい。それとなくな。借金がある者は、きれいにしてこい」
応急班員福本一広さん(生存された方です)の証言です。こう班長から言われたとお話されております。
「それとなく」とは、まさしく祖父の取った行動だったのでしょうか。
「筆不精で口数の少ないずうずう弁」
本当ならば、もっと息子達に伝えたかったことがあったかもしれません。
「だれ、笑ってんだおん」
欠き忘れた酔漢父の証言です。
酔漢祖父が留守中の2F暗号班。3月27日にGFから入電があります。
「佐世保回航」です。要約すればこうです。
「(二水戦を含む)第一遊撃部隊は敵機動部隊を九州沖へ誘導する目的で佐世保へ向え」
と言うものです。
「冗談ではない」長官室の机上を拳で叩く伊藤整一司令長官です。
「長官これは・・」森下参謀長が伊藤司令長官の次なる言葉を待っておりました。
「大和に囮をやれと言って来ているのだ。GFは」
「囮・・・ですか・・」
3月28日、午前、大和に戻った酔漢祖父は事態が急変していることに気付くのでした。
「本日、出港」
通信室は急に慌しさを増すのでした。
大和。呉を出港いたします。
蕎麦好きな父でございます。山形、宮城の蕎麦を食べ歩くのが趣味となっております。
以前はかなり呑んでおりました。晩酌は欠かせません。ウィスキー派です。
帰省中は親父と晩酌しております。
不思議に思われるかもしれませんが、父と酒を呑むことが楽しみでもあるのです。
多くの話を聞きだすのがまた楽しい。
これがですね「抱腹絶倒!」不思議なエピソード満載の「酔漢父ワールド」なのでした。
では前回の続きです。
酔漢祖父の電報が七ヶ浜村花渕へ届きます。
父は弟と共に疎開中です。
「んで、いぐべか」
用意をし、4人で東京。そして横須賀へ向います。酔漢祖母は、叔母がまだ小さい為に一緒には行っておりません。
ここから先のお話は父との晩酌での会話です。
「遺族の証言」を聞きだした(酔漢父から)「遺族」(酔漢)でございます。
「んで、親父、そいずさぁ(電報)何て書いてあったのすか?」
「なんだべなぁ・・見てねぇからやわかんねぇっちゃ。んでも、『東京さぁ急いで来い』ってあったんでねぇべかな・・兄貴は横須賀の工廠さぁ動員されてからっしゃ」
「東京ですぐ落ち合った(酔漢祖父と)んでねぇの?」
「まんず、横須賀まで行ったっちゃ。不入斗(いりやまず→横須賀市)の家さぁまず行ったっちゃ。したっけ、最初に思ったのはあれだど・・『ずいぶん狭めぇ家さぁいたなやなぁ』って」
JR横須賀駅舎は、当時のままです。不入斗までは結構距離がございます。今で言いますと、駅正面右に「横須賀プリンスホテル」があって、左に「ダイエー横須賀」があります。その間の道を真っ直ぐ行きますと(ちょうどドブ板と平行に)大きな交差点があります。この交差点左にアメリカのヤード第七艦隊司令部等の建物へと続く坂道があります。この坂の門が旧海軍横須賀鎮守府入り口なのです。反対側に横須賀の商店街が続きます。
「さいかや」(百貨店)は父の頃から。「SEIYU」があったところは映画館だったとか。その商店街を突っ切りますと京急横須賀の駅が右手に見られます。ここの交差点からはまっすぐ坂道。坂を丁度登りきったあたりに寺(西来寺)があってそこからもう上り坂。
塩竈でいいますと、丁度北浜から小松崎へ上がる急な階段、坂道がございますが、まったくあれと一緒です。
小松崎の実家ですが、横須賀とまったくロケーションが一緒ということに気付きます。
「親父、死んだ叔父貴は横須賀を意識してここに土地買ったのすか?」
一度聞いたことがございます。
「なぁーに偶然でねぇかな。そこまで兄貴も意識してねぇべさ」
急な坂道、階段を登りきると海と港が見える。そんな風景です。
横須賀駅から歩きますと約40分はかかるのではないのでしょうか。酔漢祖父は毎日歩いていたそうです。
昭和20年3月26日(おそらく)です。
歴史をお話いたしますと、この日海軍は「天一号作戦」を発動しております。
まだ第二艦隊はこの作戦でどのような使われ方をするのか全く決まっておりません。
そんな中の上陸だったのでした。
不入斗の家は、家財道具を全て片付けられた後でした。
「横須賀の家さぁ親父いっぺって思ってたのっしゃ。んでも、親父いねくてやぁ。何でも、近所さぁ顔を出す(挨拶する)為と、預けたものがあるとかで横須賀さぁ、先に連れていかれたのっしゃ」
「預けた物?何っしゃ?」
「しゃねぇ。兄貴が持ってたって聞いたけんど、何かわがんねぇ」
「横須賀から東京まで・・」
「結局、親父は呉から海軍省さぁ来てたみてぇだど。いろいろ挨拶すっとこさぁあったんでねぇか。多分、親父一人ではねぐて、2Fの誰かと一緒だったんでねぇか。まずは東京駅で待ち合わせは間違いねかったのっしゃ」
「駅さぁいた?」
「んだ。横須賀線のホームさぁいたのっしゃ」
「まず、会えてえがったっちゃ。会えねぇ家族いっぺぇいたって聞いたからっしゃ」
「東北出身者って横須賀鎮守府が殆どだべ。したら、2F関係者だっちゃ。でもなや、ほれ、俺達は東京は馴染みがあっから迷わねぇべけんど、だれ、初めて来てや、時間もねぇべ。駅で待ち合わせって難しいど」
能村副長手記を思い出しました。
「郷里が遠い者の一人、郷里と呉との中間駅で家族と落ち合う計画を立てたのよかった。しかし、両方の汽車の都合で対面時間はわずか十五分しかないのに、家族が待ち合わせ場所を間違えたため、ついに会えずに帰る不運の人もあった」
「いつものように軍服を着た親父がいてっしゃ。いつもと何ら変わらない様子に安心したのは確かだべ」
「呉で大和にいるってのは知ってたのすか」
「だれ!おめぇ、極秘だべ。何してのかわかんねぇっちゃ。教えてもけねぇおん。んだども、最初は呉の鎮守府さぁいんだべって思ってたのっしゃ」
そうです。以前ご紹介いたしましたが手紙すら「呉局 ウ556司令部」としかないわけですから。
「東京駅で待ち合わせてっしゃ。まっすぐ明治神宮さぁ行ったっちゃ。そこでみんなしてお参りしたべ」
「どんな会話したのすか?」
「『叔父さん、叔母さんの言うこと聞いてっか』とか、『勉強しねぐて駄目だど』とか、ありきたりな話さぁしてたような気がすんべ」
「出撃命令・・・命令だから家族さぁ教えるなんてねぇんだけんど、そんな話はあったのすか?」
「何もねぇ。前線さぁいぐなんて一言もねぇかったっちゃ。んだから、なしてわざわざおら達ば東京さぁ呼んだのか最後までわかんねぇかったおん。解ったのは親父が死んでからだべ。それもっしゃ、物の本で知ったんだからっしゃ。今思えば、少しは話してけてもえがったんでねぇかって・・そう思うのっしゃ」
「それから後は?」
「靖国神社さお参りだべ。神社の梯子っしゃ。んでも、よく前線さぁいぐ兵隊さんはそうしているって話ば聞いてたからっしゃ。『もしかしたら、親父も前線さぁいぐのかや』って、その時ふと思ったのっしゃ。んだども聞くに聞けねぇべ」
「最後に会ったのは・・それだけすか?」
「途中、飛行機だの大砲だの展示している博物館みてぇなとこさ行ったんだけんど。どこだべか?覚えてねぇっちゃ」
推測です。靖国神社境内にございます。展示室(呼び方が他にあったような気がするのですが)ではなかったかと考えます。
「そこから、確か都内で昼飯皆して喰って・・後は東京駅で別れたっちゃ」
「本当に他に何もなかったのすか?」
「んだな。あったとすれば・・・あったなや・・・」
歯切れが悪くなった親父です。
「何っしゃ?」
「『今いる艦(ふね)は、ぜってい沈まねぇ艦だからっしゃ。何もしんぺぇすこっとねぇんだど』最後にそう言ったのは確かだべ」
「『大和』って・・・知った・・・・?」
「その頃は『大和』って軍艦があるって噂だけだべ。写真なんてねぇんだおん。横須賀さぁいたからっしゃ。長門、扶桑、山城は何度も見たっちゃ。観艦式さぁ連れていかれたおん。んだども『大和』なんて、本当に知ってる人なんてまだほんの一部だったんでねぇか。大和よりB-29やグラマンの方が有名なご時勢だべ」
大和が極秘、秘匿であることが解ります。
「驚いたのはその話さぁ聞いたときだべ、親父は『軍艦であっても沈まねぇ艦なんてねぇ』って前に言ってたのを覚えてたからっしゃ。『まんずそげな艦があんのか?』って思ったのっしゃ」
「明治神宮、靖国だべ。やっぱり武運長久さぁ祈って・・」
「いつもの、親父だったっら・・それもあんだけんど・・皆元気でって・・それは必ず最後のお参りの言葉だったっちゃ」
「じいちゃんには、それが最後すか。一日あっただけすか?」
「んだな。半日かや。んでも、会えなかった家族も大勢いたからっしゃ。遺族会さぁ行っても、『手紙だけ』って人が大勢いっからっしゃ。いいんでねぇか、まだ会えたしなや」
「ばあちゃんは・・何時・・」
「親父が呉さぁいたころ、もしかしたら呉さぁ行ってかもしゃねぇし、はっきりしたことはわかんねぇな・・」
父は、話を続けました。
「本当に特別な話はなかったのっしゃ。んだから『なしてわざわざ東京さぁ呼んだのか』って思ったのっしゃ。親父と最後の別れなんて、本当に思わなかったのっしゃ。知ってたらなや・・・話してもよかったんだなや・・」
親父の涙腺は決してゆるくはございません。でも、確かに目をぬぐう親父を見ました。
この最後の上陸の場面を「男たちの大和」は描いております。それぞれの思いを背負った方々の家族と再開の場面です。酔漢祖父は当時42歳。(今の酔漢より若い年齢)ですが、多くは20代、そして二十歳未満の少年兵もおられます。
その方々のお気持ちを思いますれば、お話の仕様がございません。
覚悟を決めた方々。そうではなかった方々。揚々でございます。
酔漢祖父は最後まで「最後」とは考えておらなかったように考えました。
ですが「覚悟」はあったように思えます。
多くの文書、そして会話の中に「特攻」という文字、言葉が出てまいります。ですが、最後まで酔漢祖父からそのような言葉は出てきてまいりません。
「後をよろしく」とも言っておりません。
「身内がある者は、別れをしてこい。それとなくな。借金がある者は、きれいにしてこい」
応急班員福本一広さん(生存された方です)の証言です。こう班長から言われたとお話されております。
「それとなく」とは、まさしく祖父の取った行動だったのでしょうか。
「筆不精で口数の少ないずうずう弁」
本当ならば、もっと息子達に伝えたかったことがあったかもしれません。
「だれ、笑ってんだおん」
欠き忘れた酔漢父の証言です。
酔漢祖父が留守中の2F暗号班。3月27日にGFから入電があります。
「佐世保回航」です。要約すればこうです。
「(二水戦を含む)第一遊撃部隊は敵機動部隊を九州沖へ誘導する目的で佐世保へ向え」
と言うものです。
「冗談ではない」長官室の机上を拳で叩く伊藤整一司令長官です。
「長官これは・・」森下参謀長が伊藤司令長官の次なる言葉を待っておりました。
「大和に囮をやれと言って来ているのだ。GFは」
「囮・・・ですか・・」
3月28日、午前、大和に戻った酔漢祖父は事態が急変していることに気付くのでした。
「本日、出港」
通信室は急に慌しさを増すのでした。
大和。呉を出港いたします。
「死にたくない」と思うのは人間誰しも同じでしょう。
軍人でも民間人でも変る所はないと思います。
しかし軍人である以上、そして戦争中である以上「死ぬかもしれない」という覚悟はあったのではないでしょうか。
以前の話で酔漢さんが紹介された有賀艦長の遺書も、「戦死の知らせがあったら封を開け」として開戦に際して認められたものです(当時は駆逐隊司令)。
酔漢さんのお爺様も万一の場合の覚悟はしていたのではないかと思う次第です。
それだけに「会える機会があれば家族と会っておこう」という気持ちは強かったのではありませんか。
とはいえ家族と会った時に「今度は死ぬかもしれない」とは言えぬものですね。
真珠湾攻撃に参加した或る下士官搭乗員が(戦死されました)、許婚(だったと思う)の女性に「○○日に××に来てくれ」と言いました。
もちろん「乗っている母艦が出撃する」などとは言いません(一般の乗員が出航の目的を聞かされたのは、内地の母校を後にしてからです)。
ミッドウェーに出撃する際、二航戦司令官の山口少将は、
「それでは行ってくる」と、
まるで普通に出勤するように家を出たとか。
昭和二十年四月、大和はじめ二艦隊が沖縄に出撃すれば生還は期しがたいことは誰にでも分っていました。
だからこそ、伊藤長官も有賀艦長も上陸可能な乗組員には上陸、家族との面会を許したのだと思います。
生還は期しがたいということから「これは特攻だ」と思っていた乗員も少なくはなかったことでしょう。
しかも駆逐艦四隻を残して二艦隊の艦は撃沈されます(「霞」と「磯風」は味方の魚雷で処分)。
そのようなところからでしょうか。
天一号作戦が「沖縄特攻」と言われることも少なくありません。
しかし「生還は期しがたい」が直ちに「特攻」に結びつくとは限りません。
二艦隊の沖縄出撃が特攻作戦だったのか通常作戦だったのか・・・
酔漢さんの御話に俟ちたいと思います。
なんとも言い表しがたい施設ではあります。
「頂上」時代。夏休みの親子工場見学ツアーの担当部署でした。
大村益次郎の周辺に大型バスがずらりと並びます。
宮司さんとも面識があったのでした。
今年の「がんちょうまいり」も明治神宮でした。
お賽銭プールも隅のほうに行けば並ばずに参拝できました。
息子たちは「臨時ホーム」だけが目的でしたが。
平和な時代はありがたいです。
でも「先人の犠牲の上に成り立っている」という表現は責任放棄です。
息子たちのためにも、微力であれ平和を希求する努力を続けたいと思います。
また今年もよろしくお願いします。
「大和を語る」ではお父様のお体のことを知り…お大事になさってください。
お祖父様の足跡を読みながら、やはり私も親や伯父伯母から戦争体験の話を書き留めておかなくてはならないときなんだと改めて思うのです…
ですよね。
自身の結論は「特攻ではない」のですが、多くのご遺族の方の中には「そうではない」と考えている方も大勢いらっしゃいます。
両方の見方を重ねながら今後語ろうと思います。いつもながらフォロー願います。
「先人の犠牲・・・」
犠牲とは・・・やはり責任放棄なのでしょう。
そうおっしゃる方には「何の犠牲なのか」そう問いたくなります。
今だしっかり継続している事なのです。
太古の歴史を語るようなわけには行かないのです。と、考えております。
しかしながら第二世代(父の世代)も高齢。
第三世代の我々も聞いておきたい話が多くあります。よくよく考えれば生まれ年「昭和37年」ですが、「終戦からまだ17年しか経っていない」事実なのです。まだ、戦争の跡が多く残されていた日本だったと思うのです。
昭和85年。この年号で現代を計ることに抵抗がないことに自身驚きました。