酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

テロと名人とリボンの騎士とさとう君 その1 アーカイブス

2009-05-09 10:20:09 | くだまきアーカイブス
「くだまきアーカイブス」というカテゴリーを設けました。
過去語りました事ではございます。が、今一度語りたいと思います。

この話を書くのに、題名をどのようにしようか、悩みました。一つの教室が僕等と3つのキーワードを結びつけていましたので。で、いろいろ考えた末、そのままタイトルといたしました。今日はそのはじめ、ものすごい事件(社会的な)が起きたその日が始まりです。

 1974年、僕等は小学校6年生でした。最初の話にも書きましたが、当時塩竃市立第二小学校は児童数が多く、宮城県では岩沼第二小学校に次ぐ人数だったと記憶しております。僕等は6年7組。さとう君と夕べのラジオの話題で盛り上がっておりました。そうそう 9月の半ばのことでした。
「酔漢、昨日のキンドン聞いたか?」
「聞いた聞いた。なんとかしてくれ 最後だったべや」
「あのジャンプ賞 本当におもせかったなや」
「 なんとかしてくれ・・・なんとかしてくれ・・・なんとかしてくれ・・・
・・・・・・・・・・・(かなり繰り返す) おとうさん家の九官鳥 なんとかしてくれーぇ」
「俺、布団かぶって笑い転げてしまったなや」
「酔漢、これ見れや」 さとう君はノートに書いた得意の漫画を見せてくれました。
「さすが、さとう君だなや。昨日のキンドン もう漫画にしたのか」
「んだ。わりかしおもせぇべ!」
さとう君は本当に漫画の勉強をしていたのでした。とりいひさよしの「トイレット博士」のマタンキ団のバッチを作って酔漢にくれたこともありました。
「エツジ きたどぉ。(エツジは先生の名前)はやぐぅ席さぁ着け」教室の外で見張りをしていた、しょうじ君が教室に入って来ました。
「いつもよりおそぃんでぇねぇか」「何かあったのかやぁ」教室はあわただしく、そして、エツジが扉を開く頃には、教室は水を打ったように静かになるのでした。そして、その日のエツジはいつもより険しい表情で教室に入って来たのでした。そして、口を開くなりこう言いました。
「今日、講堂から先、梅の宮、文化の方さ帰ぇる時、集団登校で帰ぇるようになるからっしゃ。5時間目すぎたら、各子供会ごとに集まるように。詳しいことは後で放送すっから、ちゃんと聞いとくんだぞ」
「先生、なにかあったのすかぁ?」誰からともなく質問の手が上がりました。
「校長先生(木下先生)からは、あまり話すなとは言われていたんだけどや。おめぇら、あんますぃ大きい声で話すんでねぇど」
「もったいぶんねぇで話してけさいん!」
「オランダって知ってか?その国に連合赤軍が行って、大使館ばおそったんだと。ほして(そして)その犯人の家が・・・こいづは俺もしゃねかったんだけんど・・プールの方から梅の宮神社さ歩いていぐと橋あっぺ。そっから見える家なのっしゃ。曲がり角の正面の家なのっしゃ。んで、今日、新聞社の車だのいっぺい通っから注意しねぐてねぇどぉ」
「んで、先生、そいづはこの小学校さぁいたのすが?」
「そうらしいどぉ」
「わたすぃ知ってる、家の三つ前の家!」
「まきこは特に気ぃつけて帰ぇんだど、表から行けねかったら、裏道通れ」

先生の話したとおりになりました。小学校の脇の細い坂道は、にわかに新聞社
マスコミ関係の車でいっぱいになりました。
放課後、僕等は先生(エツジ)の言う事も聞かずに、学校の裏門から社会的に(国際的に)大きな事件を起こした、犯人の実家を見に行きました。家の前は黒塗りに各新聞社の旗をフロントに取り付けた車でいっぱいでした。さすがにあの時代、テレビのリポーターはおりませんでしたが。それと警察のパトカーが数台止まっていました。家は雨戸で締め切られ、当然中の様子は見えません。近所のおばちゃん達など野次馬が遠めで眺めている様子でした。
「何あったんだべか」としんどう君が言いました。
「お父さんに聞いたら、赤軍の起こした事件だって」隣にいたよしみちゃんが答えてました。
「赤軍ってあの浅間山荘とおなしかや」
「んでねぇか」
僕等は、その事件の真相を知らないまま、事の成り行きを見ていました。
そこに、巡回で来ていた、エツジが後ろから声をかけてきました。
「おまえら何してんだ。さっさと家に帰らなくてダメでねぇか」
「先生も見に来たのすか?」
「ばか、お前らのこったから野次馬さなってねぇか心配してきたのっしゃ」
「ほんとかや」
エツジも実は見たかったのかと僕等は思いました。先生はそれ以上は何も言わず黙って見ていました。
数十分くらい経ってエツジが口を開きました。
「教頭先生がまだ新人先生くらいの頃、5年生のクラスさ、犯人だった子供がいたんらしくて、かなり頭よかったんだと。んだって大学は慶応だもんな。高校はたしか三高だったんだと」
「今その教室はあんのすか」
「木造校舎の一番端っこだって言ってたな。ほれ今の四年1組の教室だと」
「んで、あれだっちゃ、ほれ何てったけか、将棋の名人」
「中原 誠名人の事かや」
「んだ、去年学校さ来た時、そんな話してたべ」
「おれもいた。んだ、んだ」

夜、家に帰ると夕飯の時はその話題で持ちきりでした。母は、犯人のお父様が東北造船にいたこととか、中学校でも、成績はかなり良かった事など、話しておりました。ニュースでも連合赤軍がオランダで起こした大使館襲撃事件(ハーグ事件)を連日報道しておりました。

今その犯人の実家だった場所には、別な住宅が建ち、事件を語る人もいなくなりました。

コメント (8)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仙台与太郎物語なのに・・・... | トップ | テロと名人とリボンの騎士と... »
最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
有名人の実家 (トム君)
2009-05-10 06:31:21
あの事件のときは高校生でしたからよく覚えてます。
酔漢さんの近くに連合赤軍のメンバーの実家があったというのは驚きですね。Wという人ですか。
テレビのレポーターがいなかったというのが時代を感じさせますね。
あの中原名人も同窓でしたか。(不倫騒動がなければ棋界の太陽のままでしたが)

今では語る人もいなくなったということですが、事件が風化するには、30年くらいかかるということですね。
返信する
トム様へ、続きがございまして (酔漢です)
2009-05-10 11:24:55
前振りが長くなりますが、このお話の主人公は、さとうただし君です。彼の話を語ろうと考えました。
そうです、Wさんです。
最終話で皆様のご意見を拝聴するようになろうかと思います。何卒よろしくお願い申し上げます。
返信する
その話は覚えています (丹治)
2009-05-10 13:11:42
あの御仁が塩竈の出身で、三高の卒業生だということは知っていました。

酔漢さんの御実家の近くに実家があったということを教えてくれたのは、酔漢さんでしたね。
ある時、実家がどこへともなく引越して行ったことも・・・
戦後昭和史の暗い一面です。
返信する
へぇ~ (ひー)
2009-05-10 20:58:16
わがんねがった~

事件すら記憶にございません。
赤軍はあちこちで暴れてましたからね。まさか塩竈に犯人がいたとは驚きです。
新しいカテゴリー…記事を楽しみにしてます。
ついつい落語の感じで読んでしまいます。www
返信する
Unknown (クロンシュタット)
2009-05-11 05:41:02
「連合赤軍」は国内組でした。海外組のWとは別組織です。

そもそも百人に満たない組織で武力革命が成就するわけがないのです。
武装闘争路線はやがて内部ゲバルト闘争と化しました。
志ある人間は80年代以降消滅してしまいました。

返信する
丹治様へ (酔漢です )
2009-05-11 08:49:28
丁度、実家から宮崎先生へ向う途中近くでございました。
あの頃の記憶をたどって記事にしてますが、いろんな人があの教室にいたんだな。と感慨深いものがございます。
返信する
ひー様へ (酔漢です )
2009-05-11 08:53:13
過去に一度語っておりますが、最後に皆様のご意見を拝聴したい部分がございます。
まだブログを始めたばかりの記事でしたので、訪問される方も大変少なく、コメントを頂くことも無かったのでした。
塩竈の当時の様子をまた振り返って語っております。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です )
2009-05-11 08:57:08
お知らせありがとうございます。
別組織だったんですか。知りませんでした。
一緒だと思っておりました。
小学生の頃、近所での出来事でしたが、かなり印象深い事件でありました。
返信する

コメントを投稿

くだまきアーカイブス」カテゴリの最新記事