時たま、親父と仙台に買い物に行ったりいたします。
案外、二人きりというのは少なくて、大概は家族ともどもなのですが、めったにない事はあるわけです。
親父は、味噌ラーメンとかは、あまり好きではなくて、さっぱりとした醤油系のラーメンか、中華料理系のラーメンばかり選択いたします。
一番町丸善脇を歩いていて、親父殿いつもの台詞です。
「おい、酔漢、さむいなや。ラーメンでも食うか?」
昼少し前、一番町。上記のような親父の台詞。
「んで、いつものとこだすぺ」
「んだっちゃ」
と言って入りますのが、「祥發順」(しょうはつじゅん)親父は「しょうはっちゅん」と発音していたような記憶があるのですが。
ラーメン屋というよりは、本格中華料理の店です。
文化横丁にありました。
文横と言えば、酔漢の写真となっております徳利「唯梨庵」という居酒屋があった場所。
その雑多な横丁の中に、赤い看板がございます。
文横の中では、本格的なテーブルと中華料理のメニュー。
塩味ベースの中華スープは、具材も豪華で食べごたえがありました。
「戦後すぐだおんなや、中華料理がうめぐて、呑んだ帰りによく寄ったっちゃ」
「寿司ではなかったのすか?」
「だれ、あんときは『橘』もちゃっけくて、寿司喰うんだったら塩竈さぁ戻って『亀喜』さぁいぐっちゃ」
旨そうにラーメンをすすっておりました。
親父は、この中華系ラーメンに、こだわりがありまして、つい最近(と言いましても、亡くなってもう二年も経とうとしておりますが)笠神「みしまや」にはよく出かけておりました。
(もしかしたら・・名前にひかれていたのかも・・)
「お前はどこ行ってたんだ?」
と、かみさんにこの話題を振ったところ。
「ラーメンかぁ、あまり食べなかったなぁ」との回答。
「印象に残ったとことか・・ない?」
と突っ込んで、答えを引き出しましたら。
「うーーん『大雅』(たいが)かな」と、帰ってまいりました。
「あったよなぁぁ」と、久しぶりに聞いた名前でございました。
大内屋さんから確か近かったような記憶がありまして、(おおうち君、元気かなぁ)
本格中華のわりには、支那そばのようなラーメンはおいしかった。
「チャーハンセット」で食べました。
ボリュームもあって、麺もなかなか。
「あっそうだ。うちのお母さんは『支那そば家』が好きだったよ」
思い出しました。
あっさりと思いきや、スープに独特の濃くがありました。
藤沢に住んでおりまして、よくグルメ番組に登場します同じ名前のラーメン店がありますが、まったく別です。
ここも、夜遅くまで営業しているので、呑んだ後に入りました。
駅の近くというのも、良かったなぁ。
前回、この「くだまき」を語ってから、やはり丹治さんから連絡がありまして。
「酔漢、この話題、これでおしまいじゃないんだろ?」
「なしてすか?急に思いついたラーメンのくだまきなんで、あんまし考えてもいなかったんで・・・」
「おまぇ、じゃあ、あれとこれと、それはどうした!」
「あっ!忘れてたっちゃ!」
と、なりました。そして今、くだまきにいたしております。
「五右衛門」です。
「仙台辛味噌ラーメン」は、「味よし」かなと思っておりました。
ですが、よくよく思い出しますれば、五右衛門の味噌ラーメンが一番こってりしていたように思えます。
ひき肉の塊がトッピングだったかなぁ。(遠い記憶の中で語っておりますので・・・)
丹治さんは、この濃さが好きだったのでした。
前回語りました「悟空」の濃さとはまた違った風味でした。
胃の中にずっしり来る。
そんな感じのラーメン。
カラオケの声が店内に聞こえていたのは・・・ここだったようなぁぁ。
大学の帰り、少し午後を過ぎております。
「まんみ」「味よし」などなど。一人で入るラーメン屋は限られますが、(といいますか、ほとんど一人です)
忘れておりましたのが「番丁ラーメン」
「名掛丁さぁあったのに番丁って、昔は一番丁さぁあったのすか?」
と思いましたら、やはりそうでした。
見た目は、あっさりの醤油ベースですが、こってりもしていて(と言いいますか、独特の風味)それが味です。
「味噌のあんかけ」のようなものがもやしと一緒に入っております。
これを箸でかき回して食べました。
「もやしがじゃま」と言った後輩がおりましたが、「何を言うか!これが味だぞよ!」と反論した酔漢です。
聞けば、名掛丁から富沢へ移転したとか。
富沢の番丁ではありますが、あの味は「番丁ラーメン」のままでしょうね。
懐かしい味です。
塩竈「来々軒」がまだ古い建物の時代。
この話は何度もしてきました。
引き戸を開けて、店内に入って、ラーメンの香がしてまいります。
ストーブが真ん中にあって、テーブルが数脚。
あの当時、並んでいるお客はいなかったように思います。(混んでるときに行かなかったのかもしれませんが)
歩道橋を渡ってすぐ右側に郵便局があって、河の側に数件のお店屋さんが所狭しと並んでおりました。
夕方になりますと、河から魚の匂いが辺りに立ち込めております。
「マキ時計店」はよく覚えております。
来々軒もそうですが、店のすぐ裏は海抜0mのどぶ川状態。
そんな環境でしたが、本当においしい中華そばでした。
熱いラーメンが食べられなくて、必ず小さなどんぶりに移していただきましたが、大好きな味でした。
変わらない味は、故郷の思い出と共に蘇ってまいります。
「どれ!腹へったな!ラーメン喰いさいがねぇか?」
昼時、親父の誘い文句。
もちろん。
「一緒にいぐぅっちゃ!」
いつもの答え。
案外、二人きりというのは少なくて、大概は家族ともどもなのですが、めったにない事はあるわけです。
親父は、味噌ラーメンとかは、あまり好きではなくて、さっぱりとした醤油系のラーメンか、中華料理系のラーメンばかり選択いたします。
一番町丸善脇を歩いていて、親父殿いつもの台詞です。
「おい、酔漢、さむいなや。ラーメンでも食うか?」
昼少し前、一番町。上記のような親父の台詞。
「んで、いつものとこだすぺ」
「んだっちゃ」
と言って入りますのが、「祥發順」(しょうはつじゅん)親父は「しょうはっちゅん」と発音していたような記憶があるのですが。
ラーメン屋というよりは、本格中華料理の店です。
文化横丁にありました。
文横と言えば、酔漢の写真となっております徳利「唯梨庵」という居酒屋があった場所。
その雑多な横丁の中に、赤い看板がございます。
文横の中では、本格的なテーブルと中華料理のメニュー。
塩味ベースの中華スープは、具材も豪華で食べごたえがありました。
「戦後すぐだおんなや、中華料理がうめぐて、呑んだ帰りによく寄ったっちゃ」
「寿司ではなかったのすか?」
「だれ、あんときは『橘』もちゃっけくて、寿司喰うんだったら塩竈さぁ戻って『亀喜』さぁいぐっちゃ」
旨そうにラーメンをすすっておりました。
親父は、この中華系ラーメンに、こだわりがありまして、つい最近(と言いましても、亡くなってもう二年も経とうとしておりますが)笠神「みしまや」にはよく出かけておりました。
(もしかしたら・・名前にひかれていたのかも・・)
「お前はどこ行ってたんだ?」
と、かみさんにこの話題を振ったところ。
「ラーメンかぁ、あまり食べなかったなぁ」との回答。
「印象に残ったとことか・・ない?」
と突っ込んで、答えを引き出しましたら。
「うーーん『大雅』(たいが)かな」と、帰ってまいりました。
「あったよなぁぁ」と、久しぶりに聞いた名前でございました。
大内屋さんから確か近かったような記憶がありまして、(おおうち君、元気かなぁ)
本格中華のわりには、支那そばのようなラーメンはおいしかった。
「チャーハンセット」で食べました。
ボリュームもあって、麺もなかなか。
「あっそうだ。うちのお母さんは『支那そば家』が好きだったよ」
思い出しました。
あっさりと思いきや、スープに独特の濃くがありました。
藤沢に住んでおりまして、よくグルメ番組に登場します同じ名前のラーメン店がありますが、まったく別です。
ここも、夜遅くまで営業しているので、呑んだ後に入りました。
駅の近くというのも、良かったなぁ。
前回、この「くだまき」を語ってから、やはり丹治さんから連絡がありまして。
「酔漢、この話題、これでおしまいじゃないんだろ?」
「なしてすか?急に思いついたラーメンのくだまきなんで、あんまし考えてもいなかったんで・・・」
「おまぇ、じゃあ、あれとこれと、それはどうした!」
「あっ!忘れてたっちゃ!」
と、なりました。そして今、くだまきにいたしております。
「五右衛門」です。
「仙台辛味噌ラーメン」は、「味よし」かなと思っておりました。
ですが、よくよく思い出しますれば、五右衛門の味噌ラーメンが一番こってりしていたように思えます。
ひき肉の塊がトッピングだったかなぁ。(遠い記憶の中で語っておりますので・・・)
丹治さんは、この濃さが好きだったのでした。
前回語りました「悟空」の濃さとはまた違った風味でした。
胃の中にずっしり来る。
そんな感じのラーメン。
カラオケの声が店内に聞こえていたのは・・・ここだったようなぁぁ。
大学の帰り、少し午後を過ぎております。
「まんみ」「味よし」などなど。一人で入るラーメン屋は限られますが、(といいますか、ほとんど一人です)
忘れておりましたのが「番丁ラーメン」
「名掛丁さぁあったのに番丁って、昔は一番丁さぁあったのすか?」
と思いましたら、やはりそうでした。
見た目は、あっさりの醤油ベースですが、こってりもしていて(と言いいますか、独特の風味)それが味です。
「味噌のあんかけ」のようなものがもやしと一緒に入っております。
これを箸でかき回して食べました。
「もやしがじゃま」と言った後輩がおりましたが、「何を言うか!これが味だぞよ!」と反論した酔漢です。
聞けば、名掛丁から富沢へ移転したとか。
富沢の番丁ではありますが、あの味は「番丁ラーメン」のままでしょうね。
懐かしい味です。
塩竈「来々軒」がまだ古い建物の時代。
この話は何度もしてきました。
引き戸を開けて、店内に入って、ラーメンの香がしてまいります。
ストーブが真ん中にあって、テーブルが数脚。
あの当時、並んでいるお客はいなかったように思います。(混んでるときに行かなかったのかもしれませんが)
歩道橋を渡ってすぐ右側に郵便局があって、河の側に数件のお店屋さんが所狭しと並んでおりました。
夕方になりますと、河から魚の匂いが辺りに立ち込めております。
「マキ時計店」はよく覚えております。
来々軒もそうですが、店のすぐ裏は海抜0mのどぶ川状態。
そんな環境でしたが、本当においしい中華そばでした。
熱いラーメンが食べられなくて、必ず小さなどんぶりに移していただきましたが、大好きな味でした。
変わらない味は、故郷の思い出と共に蘇ってまいります。
「どれ!腹へったな!ラーメン喰いさいがねぇか?」
昼時、親父の誘い文句。
もちろん。
「一緒にいぐぅっちゃ!」
いつもの答え。
なかなか休めないので強制的に有給を取りました。
懐かしい店名が並びますね。
ラーメンは庶民の味ですからね。
よく田舎の叔父のところに行くと「そば食うが?」って出前のそば(ラーメン)を食べたものです。
出前のラーメンはおもてなしの一つでもありました。
そうそう、先日の叔父の葬儀で菖蒲田の親戚に合い鼻節神社の話しになりました。
すると酔漢さんが仰っていた大蛇の話になりました。
親戚の話では、鼻節神社のところから大根の間を大きな蛇が渡ると言ってます。
また、あの辺でも見かけたものがいると聞かされてきたと言ってました。
あの辺の人々は皆聞かされて育ったようです。
その謎は解けるかどうか?
わかったら記事にします。
記事のアップよろしくお願いいたします。
ひーさんはどこに行きますか?
今度是非お知らせくださいね。