「長髪はダメ。学生運動経験者はもってのほか。理科系限定。もちろん男子」
父親の出した条件でした。
酔漢、小学校4年生時の事です。特に、「どこそこの高校に行け」とか、特に言われた事はありませんでしたが、酔漢が、塩竈市立第二小学校卒業間近(卒業式まで約32日前)に仙台市立東二番町小学校に転校したことを考えると、親もそれなりに教育熱心だったのでしょう。当の本人は、他の越境通学者とは違ってあまりプレッシャーは感じておりませんでしたし、親からも絶対「仙台一高に合格しろ!」とは言われた記憶はありませんでした。(このあたりの話も後程)で、家庭教師の先生のお話に戻ります。
先に書いた条件ですから、東北大学の斡旋もなかなか決まらず、ようやく一人我が家にやってきました。
「こがわです。出身は北海道岩見沢。東北大学理学部化学科2年生です」
やせ細った感じ、でもずけずけもの言う人で、かなり変?な人でした。
いわゆる「苦学生」で、東北大学も確か奨学金で通っておりましたし、お父様を早くから亡くされておりました。酔漢、最初は「兄貴が出来た」くらいの感じでおりました。
大学生が小学生相手に何を教えるかと言いますと、勉強にはかなり厳しいものがありました。
週2日、2時間の授業です。その頃、酔漢は月・木がこのこがわさんの家庭教師。火・水が叔母によるピアノのレッスン。土・日が書道教室(この教室には、以前お話をいたしました、前仙台商業野球部監督、水沼君も通っておりました)と結構いそがしい一週間を過ごしておりました。(あのーでも、結構楽しんでおりました故、まったく苦にはしておりませんでした。根が能天気なのです。普通なら嫌だよね。)
で、その授業の内容ですが、計算の基礎をみっちり、最初に行います。こがわさんがレポート用紙にびっしり計算問題を作ってくれてます。それを時間を計りながら解くわけです。その後は小学校の数学から中学校の方程式、そして、理科の話などをするわけですが。何せ、本人、理学部ですから、イオン化傾向など話をし、しかも問題まで作るのですから。元素周期律表はこの頃覚えました。(まったく、もう)
で、ここまででしたら、ただの「熱血家庭教師」で話は終わるのですが。ある日
「よーし、酔漢、鉛筆もかなり削れるようになったから、何か作ろう」(鉛筆削り機は取上げられ、小刀で鉛筆を削るようにされたのでした。これは後程かなり役立ちました)
「何作るのっしゃ?」
「模型飛行機さ」
と、買ってきた競技用の模型飛行機を出してきたのでした。模型屋さんでよく長細い紙袋に入ってぶらさがって売ってる奴です。
ニューム管を加工し、竹ひごをろうそくで設計図通りに加工し、(水をつけながら少しづつまげていくのがコツだね)パーツ事作り上げていく。工作は嫌いではないけど、かなりテクニックがいる作業でした。
「ダメそこ削りすぎ!もう少し、接着面を考えて紙張らないと!」
など、など。なんとかこうとか、で、完成しました。
初飛行は、これはかなり飛びました。ゴムを限界まで巻き、(ゴムはなぜか水につけておいたものを使用)まっすぐ空に向けて手を離す。急上昇したかと思ったら、上空で先回しながらきれいに着地。我ながら感動しました。
普通の授業。とは言っても、小学生に電磁石を手作りし、オームの法則を勉強したり、食塩水の電気分解をし、水素の溜まった試験管に火をつけてみたり(試験管が破裂した)空気砲を作ってみたりなどなど。
身体を張った?授業でした。
つるかめ算を連立方程式で解いて、「おめぇやりすぎだっちゃ」とエツジ(学級担任)に怒られた事もありますが、こがわさんからの悪知恵でした。だってそのほうが楽だもんね。
こがわさんは酔漢が6年生まで、家庭教師をしておりましたから、足掛け3年のお付き合いになりました。計算問題でつまずくと、ボールペンで手の甲をはたかれたりもしましたが、不思議と嫌いにはなりませんでしたし、勉強を強要されていると言った意識も持ちませんでした。本当に年の離れた兄貴の感じでした。
本人は本当は大学院に残りたかったと言っておりましたが、それも経済的に叶わず
何故か「大蔵省税関」に就職したのでした。そうそう、大学3年次、塩竈女子高で教育実習をしたのでした。
「夏休み、理科の自由研究、何しようか」と小学生の息子。
「手作りでモーターでも作ったら?」
「とうちゃん作れるの?」
「以外に得意分野さ」
「教えてくれる?」
「もちろんさ」
家庭教師が「受験勉強に役立たなかった?」ではないのです。酔漢あまり勉強熱心ではありませんでした。(大学もね、成績の悪さは 『ヤクルトスワローズの話 2』を参照して下さい)
でも、あの時の経験がこんな処で生きているのでした。
古川俊呼(こがわとしよぶ)さんは、今どうしているのでしょうか。この年になって気になるのでした。
父親の出した条件でした。
酔漢、小学校4年生時の事です。特に、「どこそこの高校に行け」とか、特に言われた事はありませんでしたが、酔漢が、塩竈市立第二小学校卒業間近(卒業式まで約32日前)に仙台市立東二番町小学校に転校したことを考えると、親もそれなりに教育熱心だったのでしょう。当の本人は、他の越境通学者とは違ってあまりプレッシャーは感じておりませんでしたし、親からも絶対「仙台一高に合格しろ!」とは言われた記憶はありませんでした。(このあたりの話も後程)で、家庭教師の先生のお話に戻ります。
先に書いた条件ですから、東北大学の斡旋もなかなか決まらず、ようやく一人我が家にやってきました。
「こがわです。出身は北海道岩見沢。東北大学理学部化学科2年生です」
やせ細った感じ、でもずけずけもの言う人で、かなり変?な人でした。
いわゆる「苦学生」で、東北大学も確か奨学金で通っておりましたし、お父様を早くから亡くされておりました。酔漢、最初は「兄貴が出来た」くらいの感じでおりました。
大学生が小学生相手に何を教えるかと言いますと、勉強にはかなり厳しいものがありました。
週2日、2時間の授業です。その頃、酔漢は月・木がこのこがわさんの家庭教師。火・水が叔母によるピアノのレッスン。土・日が書道教室(この教室には、以前お話をいたしました、前仙台商業野球部監督、水沼君も通っておりました)と結構いそがしい一週間を過ごしておりました。(あのーでも、結構楽しんでおりました故、まったく苦にはしておりませんでした。根が能天気なのです。普通なら嫌だよね。)
で、その授業の内容ですが、計算の基礎をみっちり、最初に行います。こがわさんがレポート用紙にびっしり計算問題を作ってくれてます。それを時間を計りながら解くわけです。その後は小学校の数学から中学校の方程式、そして、理科の話などをするわけですが。何せ、本人、理学部ですから、イオン化傾向など話をし、しかも問題まで作るのですから。元素周期律表はこの頃覚えました。(まったく、もう)
で、ここまででしたら、ただの「熱血家庭教師」で話は終わるのですが。ある日
「よーし、酔漢、鉛筆もかなり削れるようになったから、何か作ろう」(鉛筆削り機は取上げられ、小刀で鉛筆を削るようにされたのでした。これは後程かなり役立ちました)
「何作るのっしゃ?」
「模型飛行機さ」
と、買ってきた競技用の模型飛行機を出してきたのでした。模型屋さんでよく長細い紙袋に入ってぶらさがって売ってる奴です。
ニューム管を加工し、竹ひごをろうそくで設計図通りに加工し、(水をつけながら少しづつまげていくのがコツだね)パーツ事作り上げていく。工作は嫌いではないけど、かなりテクニックがいる作業でした。
「ダメそこ削りすぎ!もう少し、接着面を考えて紙張らないと!」
など、など。なんとかこうとか、で、完成しました。
初飛行は、これはかなり飛びました。ゴムを限界まで巻き、(ゴムはなぜか水につけておいたものを使用)まっすぐ空に向けて手を離す。急上昇したかと思ったら、上空で先回しながらきれいに着地。我ながら感動しました。
普通の授業。とは言っても、小学生に電磁石を手作りし、オームの法則を勉強したり、食塩水の電気分解をし、水素の溜まった試験管に火をつけてみたり(試験管が破裂した)空気砲を作ってみたりなどなど。
身体を張った?授業でした。
つるかめ算を連立方程式で解いて、「おめぇやりすぎだっちゃ」とエツジ(学級担任)に怒られた事もありますが、こがわさんからの悪知恵でした。だってそのほうが楽だもんね。
こがわさんは酔漢が6年生まで、家庭教師をしておりましたから、足掛け3年のお付き合いになりました。計算問題でつまずくと、ボールペンで手の甲をはたかれたりもしましたが、不思議と嫌いにはなりませんでしたし、勉強を強要されていると言った意識も持ちませんでした。本当に年の離れた兄貴の感じでした。
本人は本当は大学院に残りたかったと言っておりましたが、それも経済的に叶わず
何故か「大蔵省税関」に就職したのでした。そうそう、大学3年次、塩竈女子高で教育実習をしたのでした。
「夏休み、理科の自由研究、何しようか」と小学生の息子。
「手作りでモーターでも作ったら?」
「とうちゃん作れるの?」
「以外に得意分野さ」
「教えてくれる?」
「もちろんさ」
家庭教師が「受験勉強に役立たなかった?」ではないのです。酔漢あまり勉強熱心ではありませんでした。(大学もね、成績の悪さは 『ヤクルトスワローズの話 2』を参照して下さい)
でも、あの時の経験がこんな処で生きているのでした。
古川俊呼(こがわとしよぶ)さんは、今どうしているのでしょうか。この年になって気になるのでした。
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