酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 三笠逸男上曹

2011-02-25 11:04:13 | 大和を語る
東京上野動物園に「パンダ」が帰って来ました。
(今日のお話がパンダから始まるにはそれなりに訳があるんです。しばしお付き合いの程を・・・・)
やはり、そこはブーム世代ですから、パンダなる生き物は実際目で確かめてみたい。そんな衝動に駆られてはおりました。
「来週、東京さぁいぐど」と父。
「いきなりなにっしゃ?」
「『大和』の慰霊祭さぁでがけっぺ!去年、徳之島さぁ行ったときに三笠さんから『来年は東京、靖国ですからご家族で是非』って言われたのっしゃ」
「日帰りってことすか?」
「飛行機使うべ!」
となりまして、僕ら家族(父、妹、酔漢)と叔父家族、そして叔母家族と、大勢で東京で行われました「昭和53年合同慰霊祭」(略称)に参加したのです。
酔漢は中学三年生ですが、妹他従弟二名は小学生でしたので、「慰霊祭」と言われても、ピンとはこなかったのかと思います。正直言って「つまらない」のは目に見えております。
「いいこにしてたら、上野さぁパンダ見さぁ連れていぐど!」
この一言で全員納得。
しかしながら、酔漢自身は「パンダ」(そりゃ、やはり見たいという気持ちはありましたが・・)よりは、往復の飛行機が第一の楽しみ。ですが、「やはり本で読んで登場していた人達に実際に合える」という興味の方が強かったのです。
「清水副砲長」「原矢矧艦長」他・・。
「どんなおじいちゃん達なんだろう」という思いでした。
仙台空港から始発の「ボーイング727」に乗って羽田へ。そしていろんな電車を乗り継いで(記憶がぁぁ・・)「九段下」で降車。靖国神社へ向かいました。
父、叔母、叔父等と受付に向かって歩いておりました・・ら。
「酔漢さん!いやぁ遠いところからわざわざお越し下さいまして・・さ、さこちらが受付です。名札を受け取って下さい」
と、やたら元気のいい「おじさん」が声をかけて来ました。
「去年は徳之島で大変お世話になりまして」
どうやら父の知っている人?大和の関係者?
「だれっしゃ?」
「三笠さんだ。大和から還ってきた人だべ」
「あの人が」
酔漢の印象は、「明るくて、世話好きなおじさん」だったのです。
「元、海軍軍人」はこれまで「大高勇次さん」しか知りませんでした。
大高さんもどちらかと言うと髭を蓄えているような印象でしたので、「海軍軍人」=「威厳のある人」とインプットされておりましたものですから、三笠さんのどちらかと言うとサラリーマン的な様相に少々驚きました。
「酔漢さんは・・っと。そうだ、僕(酔漢)は玉串奉奠を行うんでしたよね。この年の最年少。慰霊祭でも最年少の玉串奉奠ですね。孫の世代だと初めてかもしれませんね」
僕ら家族だけ、受付が長いのでした。「どうしてだろう」と思っていましたら。
「遺族代表として靖国神社本殿での玉串奉奠」を行うことになっていたのでした。
「練習がありますので、早めに会場へ行って下さいね」と三笠さん。
酔漢は初めて聞く言葉と何かやたら大事な事を任されたという緊張感で頭がいっぱいになっておりましたら、もう一人のおじいちゃんが近寄って来て。
「玉串奉奠をするっていう酔漢中尉のお孫とは・・この子なの」と聞いてきました。
「そうです、酔漢中尉ご遺族の方々です」と三笠さんはその方に紹介をしているようでした。
「酔漢です」と父が挨拶すると。
「清水です。宜しくお願いいたします」との返事。
「清水さんも、大和にいた人なのすか?」と父に尋ねたところ。再び三笠さんが。
「大和の副砲って知ってるかな?私は副砲にいましたが、私の上官にあたる人です」と丁寧に教えて下さいました。
酔漢「清水副砲長」のお名前は、物の本で知っておりましたので。
「あの!清水さんすか!」と声を上げてしまいました。
「知ってるの?俺も有名人なんだなぁ」と清水さんが笑ってくれました。
そして「今日は、大事な仕事をするんだから、頑張ってね」と再び。
「何っしゃ!そげな大事な行事なのすか!」と心の叫び。
その「頑張ってね」の言葉と同時に清水さんは酔漢の頭を撫でてくれました。
靖国神社本殿へ向かい、そこでしばし待ちました。
ご生還され、この慰霊祭の委員を務めている多くのおじいちゃん達のお顔をお一人お一人眺めることが出来ました。
古村さん、(元二水戦司令官)板谷さん(元二水戦参謀)土肥さん(元2F司令部)
前川さん(元浜風艦長)倉橋さん(元涼月先任将校、砲術長)そして三笠さん、清水さんなどなど。
皆さん、同窓会よろしく楽しそうに談笑しておりました。
楽しんでおりましたのはこの場と会が終わってからです。皆様、会本番では、時として涙し、厳しい表情になられておられました。
酔漢は無事に役目を果たし。(緊張したなや!)記念撮影(次回、公開予定です)
会は無事に済みました。
「来年は洋上で行うかもしれません」とは委員長古村さんのお言葉。
「是非、また」とは三笠さんのお言葉でした。
ですが、酔漢家族にとりまして、慰霊祭の参加はこれが最後となりました。
小学生の従弟二人と妹は会の後の「上野パンダ」が目的でしたので、「もう早く会場から上野へ向かいたい」といった感じでした。
こうして、酔漢の「慰霊祭」は終わりました。
この、お話を語る切っ掛けの中に、「実際にお会いすることができた」のは大きな部分を占めております。
何度もお話をしておりますが、みなさん「海軍軍人」という雰囲気ではなく「やさしいおじいちゃん達」だったのです。
帰りの挨拶を三笠さんにしている父です。
三笠さんから、酔漢に、「君たちのような孫達の時代になっても会が続けられたら」とお話されておいででした。

辺見じゅん氏が著されました「男たちの大和」からです。
三笠さんの一節をご紹介いたします。

三笠は慰霊祭と聞くと、どこへでも飛んで行く。ときどき商売のほうを忘れてしまうが、妻は、あなたの生き甲斐なんだからと笑っている。
「生き残った者はどうでもいいの。だけど、死んだものは生き還らない。彼らはね、何のために死んでったか、どう思って死んでったかと思うとね、何かしなければとウロウロするの。生き残った者は、やはり重い荷をしょって生きなきゃと思うとる」(中略)
最近は、大和会に入ってくる人が多うなった。一人でおることが淋しゅうなるのでしょう。年をとるというのはおかしなもので、若いときはできるだけ逃げたいと思った四月七日に遠回りして回帰していく。やはり、わしにとっては、大和は青春だものね」
三笠は軍歌をうたったことがない。とくに「海ゆかば」は、葬式の歌なので、聞くのさえつらいと思っている。

また、手記ではこうも申しておられます。

あの日から三十年がたった。いまでも私の胸に去来するものは、四月七日、ともに征ってついに帰らなかった、戦友たちのことのみである。
(昭和四十九年 雑誌『丸』九月号より抜粋)

「三笠さんと徳之島で逢って、おらいのわだかまりもねぐなったんだ」
「わだかまり?」
「やっぱすぃ、あんだ達だけ帰ぇって来て、親父は帰ぇってこねがった。徳之島さぁいぐまでこう思ってたのは正直なとこだべ。んでも、帰ぇって来た人皆して、『申し訳げねぇって』こういうのっしゃ。この姿見たらなや。『んでねぇ。あんだらよく帰ぇってきたなや』いつの間にかこう思ってしまうのっしゃ」
父の本音だと思うのです。
酔漢も、「おらいのじいちゃん生きてたら(大和から戻っていたなら)この会でやはり、他のご遺族のお世話をしていたのではないだろうか」こう思うのでした。

写真です。本文の前年に徳之島で行われました「第二艦隊海上特攻戦没者合同慰霊祭」の集合写真です。
ここに、ご遺族を含めまして、ご参列されました方をご紹介いたします。
(個人を特定するものはないと判断いたしました)
ご遺族に対しましては、戦没戦士者名、階級(特進後)と掲載いたしました。

戦没戦士者 中谷邦夫 中尉、三嶋正造 中尉、末次信義 大佐、森江整六 上曹、岩田峰男 上曹、吉田郁男 機兵長、助田庄司 中尉、菱木金次郎 兵曹長、橋本佐内 一曹、大川泰弥 二機曹、丹羽英介 機兵長、水野安雄 一曹、的場太久美 一曹、島崎護 上曹、月本元一 一曹、筒井徳松 一曹、田路宗 一曹、七里秀男 一曹、福井英夫 水長、津守正彦 機兵長、高岡勇 上水、黒田秀隆 医大佐、山本条太郎 主少佐、河田博 中尉、河田三十 中尉、市川壽 上曹、徳田朝芳 少尉、月岡悟 上機、須田節三 中尉、中本一総 二曹、小山秀夫 二曹、松本虎一 二曹、高田泰三 水長、田中光行 機兵長、太田忠男 一機曹、高田忠利 上主、南光春 兵曹長、浅井善次 上曹、松本功 水長、西村壽一 上水、平野義彦 二曹、田中元蔵 一曹、寺川友次 一曹。
上記、2F、大和。
藤田政五郎、土方十一、大平高男、谷崎威男、小和田政男、関口四朗 水長
上記、朝霜 階級不明がほとんどでした。ご容赦下さいませ。
平野義彦 二曹、
上記、矢矧

ご生還者名所属は後書としております。
庭田尚三(技術中将 呉海軍工廠工廠長)葛西只夫(矢矧)池田キ一(浜風 漢字がなく申し訳ございません。)石田恒夫(2F副官)小坂勝男(大和運用科)山下久男(大和機関科)坂本一郎(測距儀測距手)細川秋司(大和五分隊高角砲)山下一之(大和高角砲砲員長)中山春明(大和主機)田中増次(大和一整曹)三笠逸男(大和副砲員長)後藤虎義(大和八分隊最後部25班長)加藤勲(大和、所属不明)木村五郎(大和副砲発令所長)井村六雄(大和20番25ミリ機銃長)寺戸富雄(大和一番主砲砲員)浜田直二(大和所属不明)
菅原昭二郎(大和兵期←これのみ表記です)。以下、鳴川敏夫(大和兵期)上野師郎(大和兵期)太田清人(大和主士官)岩田善矩(最後部25ミリ機銃群指揮官)増田武雄(大和所属不明)木村謙蔵(大和高角砲)浜浦久七(大和所属不明)後藤市衛(大和12分隊運用科)奥村昭二(大和8分隊)寺島進(大和副砲指揮所)石原和夫(大和所属不明)
松岡洋仁(涼月操舵長)

会役員といたしまして
委員長 古村啓蔵(二水戦司令官)副委員長 板谷隆一(二水戦参謀)土肥一夫
清水芳人(大和副砲長)原為一(矢矧艦長)鈴木貞夫(磯風機関長)前川万衛(浜風艦長)寺内正道(雪風艦長)小滝国雄(朝霜世話人)酒匂雄三(初霜艦長)三浦節(霞砲術長)山名寛雄(冬月艦長)倉橋友次郎(涼月砲術長)

同時期懇親会出席者名簿を紐解きます。
大和関係者
土肥一夫(GF司令部)堀井正(主計長)渡辺光男(2F通信)吉田満(電測士)市川通雄(砲術士)舟木力(機銃分隊士)木村五郎(副砲発令所所長)山本淳(飛行士)橋本一宏(工作科)小阪勝男(運用科)井高芳雄(運用科)田村道征(主計科)小林昌信(機銃分隊)小野内健三(副砲員)細谷太郎(所属不明)藤田善一(所属不明)内木義高(所属不明)西組安蔵(所属不明)横江茂幸(高角砲)高田静男(兵74 候補生)阿部一孝(兵74候補生)安藤謙介(兵74候補生)岡 義雄(兵74候補生)都竹卓郎(通信士)羽根田正美(所属不明)
矢矧関係者
吉村真武(艦長)板谷隆一(二水戦司令部 参謀)大迫吉二(二水戦司令部 参謀)星野清三郎(二水戦司令部 参謀)川添亮一(航海長)島田智治(機銃分隊士)
朝霜関係者
出口勝巳(通信士)栗本正(所属不明)
霞関係者
大谷友之(航海長)
初霜関係者
松田清(航海長)
磯風関係者
鈴木貞夫(機関長)
浜風関係者
桐谷礼太郎(通信士)川井秀夫(兵予3期)西村五郎(所属不明)
雪風関係者
東日出夫(艦長)田口康生(砲術長)高橋悦郎(主計長)中垣義幸(航海長)高橋栄(所属不明)中川隆義(所属不明)久保木尚(所属不明)島田正市(所属不明)
冬月関係者
山名寛雄(艦長)番井章(砲術長)前田武雄(所属不明)柳川清誠(所属不明)篠原義雄(所属不明)木内清治郎(所属不明)田島信教(所属不明)

三十三回忌で執り行われました徳之島での慰霊祭に参加されましたご遺族、ご生還者、会を取り仕切りました役員の方々を解り得る限り掲載いたしました。(懇親会にご参加されましたご遺族のお名前は解りませんでした。おそらく父も参加したと思います)
なぜ、このような形で名簿を掲載したかと申しますと、理由は一つでございます。
現在のこのネット社会では、例えば、自身の祖父の名前を検索しまして、その材料が多ければ、その手がかりが増えるという事です。僕らより若い世代は先ずネットとなります。
良きにつけ悪しきにつけ、これが現実です。
ですから、自身の身内等を調べる手段としての狙いです。
実際くだまきへはこの手のアクセスが多いのが現実です。これを機に、知る。
これはそうであってほしいのです。

名簿から話がそれました。
三笠さんが話しておられました。
「君達のような若い世代が来てくれるのが一番うれしい」
本当ならば「伝えたい事」が沢山あったのかとこう思いました。


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