大和の対空火器。これまで、酔漢は大和建造時を語りました際にも、その火器兵力の詳細については触れませんでした。これは、大和が語られます折、その兵装が中心になり多くの書に著されているからであることと、兵器の他の部分、例えば船殻であるなど、こういった「あまり語られる機会の少ない箇所を中心に話しを進めてみたかった」という自身の興味からでした。
戦闘が開始されております。原勝洋氏からの解説でもって少しばかり「大和対空戦闘状況」をご紹介いたします。
艦長は、来襲機の攻撃方法を瞬時に判断する。(有賀艦長は第一艦橋上部、防空指揮所にて対空戦闘の指揮をとります。露天です)高射長は、高角砲(一分間に十六発)が急降下爆撃に即応できるよう、あらかじめ適当なる方向、高角に備え、状況により射撃緒元を予調する。
機銃(フランスのホッチキス社の特許、一発を装填すれば一連五十発の鋼帯につながる弾薬包、一分間の連続発射数は最大二百三十発)は高角砲に準じ、機銃群ごとにあらかじめ受け持ち区画の中央適当なる高角に備え、一般の照尺を予調する。(中略)機銃は六から九門をもって一群とし、一目標に対しニから三群を指向するのを理想とする。艦首尾に機銃十八銃、各舷五十四銃を装備する。
射撃装置を使用しない場合、命中率は極めて貧弱である。そこで敵機に向け射線をもってある程度薙ぐ方法、すなわち薙射方式を採用した、このため機銃の装備は多連装機銃を必要とするとしているが、三連装以上は装備されなかった。
(原勝洋氏著「真相・戦艦大和ノ最期 168~169頁 参照 抜粋)
遠くで射ちはじめたなとおもうと、ラッパと同時に砲戦ブザーは「射ち方はじめ」と令してきた。装填する、右、中、左、と砲身は一斉に仰角をむけて全艦砲はいっときに射ちはじめた。
全艦をつつむ撃音と爆風のなかで、人間性というものをうしなった私たちは、惰性と自棄と恐怖のために、不知不識のうちに動物的な自護本能によって機械的に操作しているにすぎない。ただ全身をたぎる敵愾心だけが、「これでもか、これでもか」と心のなかでさけばすのであった。九門の主砲、六門の副砲、ニ四門の高角砲、一五○門の機銃(証言そのまま記載いたしております)は全速力をあげて射つ。(三笠逸男 大和副砲員 手記より抜粋)
私はまだ食べかけの最後の一口をほおばりながら、ラッタルを一気に駆け上がり、右ニ五番機銃の戦闘配置についた。
その一瞬ののち、敵の第一波は前日らいの雨上がりの厚い雲間より、大和めがけて襲いかかってきた。まさに時刻は一ニ三ニであった。敵の機種はアベンジャ-艦上雷撃機、F4Uコルセアのニ機種と記憶している。五機、一○機・・・五○機と敵機はしだいに数をましつつ、おそらく一○○機以上の敵機がいちどに大和の上空に殺到して攻撃をくわえてきたようにみえた。(中略)わが一ニ・七センチ高角砲、ニ五ミリ三連装機銃、一三ミリニ連装機銃の全砲火がいっせいに攻撃の火ぶたを切ったのである。(小林昌信さん 手記証言 より抜粋)
「おいなんだ、この対空砲は!どうしたらデカイ奴に近づけるんだ!」
「ジャップの艦が、こんな対空砲を持ってたなんて聞いたことないぜ!」
ベニントンのヒュー・ウッド少佐はヘルダイバーを操作しております。さっきから雲間を行ったりきたりしております。(第八ニ爆撃機中隊十一機)
「花火が俺達を歓迎していやがる」
「あの花火に掴まるなよ。見とれているうちにあの世行きだ」
「よし!後方から周り込め」
高度3000フィートから降下に入り、大和の後方へ回り込みます。大和は不意を喰らったのでした。最大船速で逃げに入ります。
ヒューウッドは曳痕弾に気をつけながら機を操縦しております。が、被弾したことに気付きます。燃料パイプが一本損傷しました。降下用のフラップもやられます。
「おい、当たっちまった!だが、飛行には問題ない」
彼は僚機に報告します。
「よし、煙突を狙ってやれ!」
奇跡的に被弾するものの、致命傷には至っておりません。
「投下!」
彼は、千ポンド半徹甲爆弾二発を一斉投下しました。
「ビンゴォォォ!」
彼はそう叫ぶなり、スロットルを引き上げました。後続の三機もこれに続き爆弾を投下したことが確認できました。
機体を上方へむけながら艦首尾線上に飛行し艦橋すれすれでかすめ、対空砲を避けながらその射程外へ飛行しました。
「デカイ奴の後方から煙が上がったゼ!」
ヒューウッドは、自身に与えられたミッションが成功した事を確認するのでした。
「チッ!燃料が漏れちまってる。そっちはどうだ?」
「尾翼をやられた!」
「危なかったゼ。主翼が被弾した」
満足な機はなかったのでした。
ところが戦闘開始まもなく、後部艦橋の軍艦旗を掲げているところと副砲との間に、敵のニ五○キロ爆弾がつづけざまに二発命中し、硝煙や血のついた鉄の破片などが雨のごとく降りかかってきた。(小林昌信さん証言手記より抜粋)
能村副長は戦闘開始となる直前から第一艦橋を離れ、司令塔の配置におります。窓はありません。大和の状況が全て把握できる各種計器類を監視し、艦の防御を総指揮するのです。
副長は船体区画図、船体傾斜復原方法書、など各種防御に関するマニュアル書を持参し、その計器の前に海軍ケンバスに腰かけておりました。
十二時三七分。そのケンバスに腰をかけていた能村副長は衝撃を感じました。
「どこだ!」
被弾箇所を確認する為、ケンバスから腰を浮かせたとたん。火薬庫内温度表示盤に赤ランプが一斉に点灯します。電話のブザーがけたたましくなります。
「後部、副砲弾庫、小火災」
最初の命中爆弾。推定二百五十キロ二発、後部電探室付近に落ち、電探室はあとかたもなく破壊され、総員戦死、後部副砲弾庫に小火災発生、これはひどく懸念されたが、油布が燃えた程度とわかりホッとする。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
ですが、この最初の命中が大きく大和の運命を決定すべき被弾となるのでした。
映画「男たちの大和」をご覧になられた方はいらっしゃると存知ます。俳優長嶋一茂さんが演じられました「臼淵磐大尉」ですが、この一撃で戦死されておられます。
米軍報告にある後穡マスト下を直撃した爆弾は、対空捜索用一号電波探信儀三型の電探室鋼鉄鈑を真っ二つに裂いて送受信機、同期制御機、指示機、監視機の内部計器を跡形もなく破壊し、勤務員十二名を一瞬にして散華させた。
またその弾片が、後部穡にある後部主砲指揮所の方位盤測鏡についていた第三主砲砲台長村重進大尉の後頭部をえぐりとった。
そして同時に、後部副砲指揮所で射撃指揮中の分隊長臼淵磐大尉以下六名をも戦死させた。
(原勝洋氏著「真相・戦艦大和ノ最期」173頁より抜粋)
大和の顛末を語る際、「臼淵大尉」は、かかすことの出来ない人物です。これは「吉田満少尉」が戦後著されました「戦艦大和ノ最期」で良く知られます。
戦闘中ですが、酔漢の史観を交えてここで語ろうかと思います。
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」
彼、臼淵大尉ノ持論ニシテ、マタ連日「ガンルーム」ニ沸騰セル死生談義ノ一應の結論ナリ敢ヘテコレニ反駁ヲ加ヘ得ル者ナシ
(吉田満氏著「戦艦大和ノ最期」北洋社 1974年10月25日第一刷発行 43頁より抜粋)
大和を語っておりますが、「吉田満氏」からの証言、手記抜粋を酔漢はあまり使用しておりません。この「戦艦大和ノ最期」ですが、酔漢の中では「フィクション」としての比重が高い書として位置付けております。
臼淵大尉の上記の発言が「独り歩き」しているのではないか。そう考えております。
酔漢の史観としては、上記の発言はどうしても「戦後民主主義的な発言」に思えてまいります。そして、その発言に皆が賛同したとも考えることが出来ないのです。ですが、これは「美談」です。これを小説として否定するつもりは毛頭ございません。
三笠逸男さんと父との会話を覚えておりますが、「臼淵大尉は確かに若い士官達には(彼は彼で二十一才の若さだったのですが)大変人望が厚かった」のは事実のようです。ガンルームケブガンとして、上官からも信頼されておいでのようでございました。ですが、三笠さんは「あの日、あんな事があったとは信じられないし、ああいった話をする士官がいたとは思えない」とお話されておりました。
ですが、このフィクション(いろいろご意見もおありかと存じますが「フィクション」といたします)が生まれました背景にはやはり「臼淵大尉」の人望があったからこそとも、思うのです。
慰霊際にご出席された大和の御生還された方々の多くが、「臼淵大尉がおられたら・・」と、さかんにお話されておりました。先の「朝霜」でも語りましたが、御生還され、その最期の事をご自身の話として語っていただきたかった。そう思わざるを得ません。吉田さんと致しましては「臼淵大尉ならこう記述してもそれに相応しく、また、草葉の陰から黙って許してもらえるのではないか」と考えていたのではないか。これは、全くの想像であり、「くだまき」でございます。
前宮正一工兵長は「副砲揚弾機脇隙間よりアーマーに爆撃、爆弾は飛び込んで来た」との報告を受け、直ちに現場へ急行いたしました。
主計科鶴見直一上主(原勝洋氏著によりますと「鶴見直市」さんとお名前が記載されておりますが、生還者名簿によりますと「鶴見直一」さんと記載されております。「慟哭の海」巻末におきましても「鶴見直一」さんと記載されており、左記に従いました。)は「居住区まで爆弾がスポッと入ってきました。貫通したと思いましたので、とっさに防毒面を着けました」と証言しておられます。
大和建造中より副砲の防御については「欠陥」に近い認識が設計陣のなかにもあったのでした。その大和の弱点をつく一撃が戦闘開始直後に起こったのです。
この後部の火災は、ついに消えることはなかったのでした。
第一波攻撃。まだ半ばなのでした。
戦闘が開始されております。原勝洋氏からの解説でもって少しばかり「大和対空戦闘状況」をご紹介いたします。
艦長は、来襲機の攻撃方法を瞬時に判断する。(有賀艦長は第一艦橋上部、防空指揮所にて対空戦闘の指揮をとります。露天です)高射長は、高角砲(一分間に十六発)が急降下爆撃に即応できるよう、あらかじめ適当なる方向、高角に備え、状況により射撃緒元を予調する。
機銃(フランスのホッチキス社の特許、一発を装填すれば一連五十発の鋼帯につながる弾薬包、一分間の連続発射数は最大二百三十発)は高角砲に準じ、機銃群ごとにあらかじめ受け持ち区画の中央適当なる高角に備え、一般の照尺を予調する。(中略)機銃は六から九門をもって一群とし、一目標に対しニから三群を指向するのを理想とする。艦首尾に機銃十八銃、各舷五十四銃を装備する。
射撃装置を使用しない場合、命中率は極めて貧弱である。そこで敵機に向け射線をもってある程度薙ぐ方法、すなわち薙射方式を採用した、このため機銃の装備は多連装機銃を必要とするとしているが、三連装以上は装備されなかった。
(原勝洋氏著「真相・戦艦大和ノ最期 168~169頁 参照 抜粋)
遠くで射ちはじめたなとおもうと、ラッパと同時に砲戦ブザーは「射ち方はじめ」と令してきた。装填する、右、中、左、と砲身は一斉に仰角をむけて全艦砲はいっときに射ちはじめた。
全艦をつつむ撃音と爆風のなかで、人間性というものをうしなった私たちは、惰性と自棄と恐怖のために、不知不識のうちに動物的な自護本能によって機械的に操作しているにすぎない。ただ全身をたぎる敵愾心だけが、「これでもか、これでもか」と心のなかでさけばすのであった。九門の主砲、六門の副砲、ニ四門の高角砲、一五○門の機銃(証言そのまま記載いたしております)は全速力をあげて射つ。(三笠逸男 大和副砲員 手記より抜粋)
私はまだ食べかけの最後の一口をほおばりながら、ラッタルを一気に駆け上がり、右ニ五番機銃の戦闘配置についた。
その一瞬ののち、敵の第一波は前日らいの雨上がりの厚い雲間より、大和めがけて襲いかかってきた。まさに時刻は一ニ三ニであった。敵の機種はアベンジャ-艦上雷撃機、F4Uコルセアのニ機種と記憶している。五機、一○機・・・五○機と敵機はしだいに数をましつつ、おそらく一○○機以上の敵機がいちどに大和の上空に殺到して攻撃をくわえてきたようにみえた。(中略)わが一ニ・七センチ高角砲、ニ五ミリ三連装機銃、一三ミリニ連装機銃の全砲火がいっせいに攻撃の火ぶたを切ったのである。(小林昌信さん 手記証言 より抜粋)
「おいなんだ、この対空砲は!どうしたらデカイ奴に近づけるんだ!」
「ジャップの艦が、こんな対空砲を持ってたなんて聞いたことないぜ!」
ベニントンのヒュー・ウッド少佐はヘルダイバーを操作しております。さっきから雲間を行ったりきたりしております。(第八ニ爆撃機中隊十一機)
「花火が俺達を歓迎していやがる」
「あの花火に掴まるなよ。見とれているうちにあの世行きだ」
「よし!後方から周り込め」
高度3000フィートから降下に入り、大和の後方へ回り込みます。大和は不意を喰らったのでした。最大船速で逃げに入ります。
ヒューウッドは曳痕弾に気をつけながら機を操縦しております。が、被弾したことに気付きます。燃料パイプが一本損傷しました。降下用のフラップもやられます。
「おい、当たっちまった!だが、飛行には問題ない」
彼は僚機に報告します。
「よし、煙突を狙ってやれ!」
奇跡的に被弾するものの、致命傷には至っておりません。
「投下!」
彼は、千ポンド半徹甲爆弾二発を一斉投下しました。
「ビンゴォォォ!」
彼はそう叫ぶなり、スロットルを引き上げました。後続の三機もこれに続き爆弾を投下したことが確認できました。
機体を上方へむけながら艦首尾線上に飛行し艦橋すれすれでかすめ、対空砲を避けながらその射程外へ飛行しました。
「デカイ奴の後方から煙が上がったゼ!」
ヒューウッドは、自身に与えられたミッションが成功した事を確認するのでした。
「チッ!燃料が漏れちまってる。そっちはどうだ?」
「尾翼をやられた!」
「危なかったゼ。主翼が被弾した」
満足な機はなかったのでした。
ところが戦闘開始まもなく、後部艦橋の軍艦旗を掲げているところと副砲との間に、敵のニ五○キロ爆弾がつづけざまに二発命中し、硝煙や血のついた鉄の破片などが雨のごとく降りかかってきた。(小林昌信さん証言手記より抜粋)
能村副長は戦闘開始となる直前から第一艦橋を離れ、司令塔の配置におります。窓はありません。大和の状況が全て把握できる各種計器類を監視し、艦の防御を総指揮するのです。
副長は船体区画図、船体傾斜復原方法書、など各種防御に関するマニュアル書を持参し、その計器の前に海軍ケンバスに腰かけておりました。
十二時三七分。そのケンバスに腰をかけていた能村副長は衝撃を感じました。
「どこだ!」
被弾箇所を確認する為、ケンバスから腰を浮かせたとたん。火薬庫内温度表示盤に赤ランプが一斉に点灯します。電話のブザーがけたたましくなります。
「後部、副砲弾庫、小火災」
最初の命中爆弾。推定二百五十キロ二発、後部電探室付近に落ち、電探室はあとかたもなく破壊され、総員戦死、後部副砲弾庫に小火災発生、これはひどく懸念されたが、油布が燃えた程度とわかりホッとする。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
ですが、この最初の命中が大きく大和の運命を決定すべき被弾となるのでした。
映画「男たちの大和」をご覧になられた方はいらっしゃると存知ます。俳優長嶋一茂さんが演じられました「臼淵磐大尉」ですが、この一撃で戦死されておられます。
米軍報告にある後穡マスト下を直撃した爆弾は、対空捜索用一号電波探信儀三型の電探室鋼鉄鈑を真っ二つに裂いて送受信機、同期制御機、指示機、監視機の内部計器を跡形もなく破壊し、勤務員十二名を一瞬にして散華させた。
またその弾片が、後部穡にある後部主砲指揮所の方位盤測鏡についていた第三主砲砲台長村重進大尉の後頭部をえぐりとった。
そして同時に、後部副砲指揮所で射撃指揮中の分隊長臼淵磐大尉以下六名をも戦死させた。
(原勝洋氏著「真相・戦艦大和ノ最期」173頁より抜粋)
大和の顛末を語る際、「臼淵大尉」は、かかすことの出来ない人物です。これは「吉田満少尉」が戦後著されました「戦艦大和ノ最期」で良く知られます。
戦闘中ですが、酔漢の史観を交えてここで語ろうかと思います。
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」
彼、臼淵大尉ノ持論ニシテ、マタ連日「ガンルーム」ニ沸騰セル死生談義ノ一應の結論ナリ敢ヘテコレニ反駁ヲ加ヘ得ル者ナシ
(吉田満氏著「戦艦大和ノ最期」北洋社 1974年10月25日第一刷発行 43頁より抜粋)
大和を語っておりますが、「吉田満氏」からの証言、手記抜粋を酔漢はあまり使用しておりません。この「戦艦大和ノ最期」ですが、酔漢の中では「フィクション」としての比重が高い書として位置付けております。
臼淵大尉の上記の発言が「独り歩き」しているのではないか。そう考えております。
酔漢の史観としては、上記の発言はどうしても「戦後民主主義的な発言」に思えてまいります。そして、その発言に皆が賛同したとも考えることが出来ないのです。ですが、これは「美談」です。これを小説として否定するつもりは毛頭ございません。
三笠逸男さんと父との会話を覚えておりますが、「臼淵大尉は確かに若い士官達には(彼は彼で二十一才の若さだったのですが)大変人望が厚かった」のは事実のようです。ガンルームケブガンとして、上官からも信頼されておいでのようでございました。ですが、三笠さんは「あの日、あんな事があったとは信じられないし、ああいった話をする士官がいたとは思えない」とお話されておりました。
ですが、このフィクション(いろいろご意見もおありかと存じますが「フィクション」といたします)が生まれました背景にはやはり「臼淵大尉」の人望があったからこそとも、思うのです。
慰霊際にご出席された大和の御生還された方々の多くが、「臼淵大尉がおられたら・・」と、さかんにお話されておりました。先の「朝霜」でも語りましたが、御生還され、その最期の事をご自身の話として語っていただきたかった。そう思わざるを得ません。吉田さんと致しましては「臼淵大尉ならこう記述してもそれに相応しく、また、草葉の陰から黙って許してもらえるのではないか」と考えていたのではないか。これは、全くの想像であり、「くだまき」でございます。
前宮正一工兵長は「副砲揚弾機脇隙間よりアーマーに爆撃、爆弾は飛び込んで来た」との報告を受け、直ちに現場へ急行いたしました。
主計科鶴見直一上主(原勝洋氏著によりますと「鶴見直市」さんとお名前が記載されておりますが、生還者名簿によりますと「鶴見直一」さんと記載されております。「慟哭の海」巻末におきましても「鶴見直一」さんと記載されており、左記に従いました。)は「居住区まで爆弾がスポッと入ってきました。貫通したと思いましたので、とっさに防毒面を着けました」と証言しておられます。
大和建造中より副砲の防御については「欠陥」に近い認識が設計陣のなかにもあったのでした。その大和の弱点をつく一撃が戦闘開始直後に起こったのです。
この後部の火災は、ついに消えることはなかったのでした。
第一波攻撃。まだ半ばなのでした。
新米将校は案外近づけなかったのかもしれませんね。
という噂です。
それに引換え二十五ミリ機銃は耳に錐を突き立てられる様な音。
このような証言が、牧島貞一さんの『ミッドウェー海戦』(河出書房)に出ています。
戦争末期、進級の速度が速くなりました。
臼淵さんたち海兵七十一期は、
少尉も中尉も一年未満で大尉に進級しています。
坊ノ岬沖海戦時の臼淵さんも、
本来なら候補生か少尉でガンルーム暮しのはずでした。
また日華事変の頃から、
海軍では中尉で分隊長に任用されるように制度が改正されました。
中尉でも分隊長なら、
当然のことながら士官室(分隊長の中尉以上副長までの公室)に所属します。
一方で本来なら士官室に所属すべき大尉に
ガンルーム(正式には第一士官次室)(候補生、少尉、中尉の公室)を使用させることができるようにもなりました。
兵科以外(機関科、軍医科、主計科など)の中尉がガンルームの最先任になった時、
兵科の大尉がケプガン(一次室長)にしていたようです。
臼淵大尉の例が正にそれですね。
このことについては雨倉孝之さんの
『帝国海軍士官入門』(光人社NF文庫、原題『海軍オフィサー軍制物語』)を御参照下さい。
臼淵大尉のことに思いを致す時に痛感するのは、
二十歳を一つか二つ出たばかりの年齢で
ガンルームの後輩や部下の人望を集めるほど
人格を陶冶できたということです。
戦争という極限状況の中だからだとはいえ、
感歎せざるを得ません。
なお吉田満さんの『戦艦大和の最期』については、
改めて投稿したいと思います。
クロンシュタットさんへ
お父様の退院、何よりでした。
思っていた以上に真面目な学生諸君が多いのが印象でした。先生も一生懸命にご指導されていらっしゃいました。
シティラピッド君は酔漢よりもサラリーマンらしく振舞うようになりました。
お父様も無事に退院できるご様子。よかったですね。一安心ですね。
定期戦ですが、記事にしようか迷ったのですが、落ち着きましたら、再度記事にしょようと考えております。
この記事に関するアクセスが実は一番多いのでした。
高速で飛び回る敵機に対しどうやったら命中できるのか不思議です。艦体も不安定ですし。
もちろん次の瞬間に敵機が存在しているであろう空間を想定して先回りして発射するのでしょうが・・・戦闘中にそんな冷静な対応が出来るのでしょうか?
父はおかげさまでだいぶ良くなり、じきに退院できそうです。
現実として「親の死」を身近に真剣に考えたのは初めてでした。
陸前高砂駅そばの病院です。乗車した仙石線の車種もよく憶えていない帰郷でした。
長男は高校生生活を満喫しているようです。中学生時代は周りから浮いていたようでしたが、やはり好きな道に進めたことは彼の人生に大きなプラスでした。
おかげさまで次男も「鉄度」がアップしっぱなしです。2人別行動で「201系」を追っかけています。
・・・「201系」についてはご長男にご確認を!
東小金井駅ホームに100名以上集結していました(って親父も行ってたのかよ)。
丹治さんにもよろしくお伝えください。定期戦。女子生徒同士の応援って想像もつきませんよね。え、勝敗?