守屋さんが、今年後半大変世間をお騒がせいたしております。もう皆様ご存知とは思いますが、あの守屋さん。酔漢がいろいろお話いたしました、故郷「塩竈市」のご出身でございます。塩竈で申しますなら。亀井さん(じゅんいち先輩お元気ですか)と佐浦さん(こういち君、寒い日が続きますのでご自愛下さい)と並んで、地元では有名な名家でございます。でもね、ゴルフ場の名前に「佐浦」と偽名をつかっちゃ、塩竈バレバレでしょ。(やっぱり塩竈の人ですね)
その守屋さんですが、いろいろなテレビでの発言を聞いておりますと、少しではありますが、(本当に少しなんだけどね)懐かしいイントネーションで話されるときがあります。守屋さんもきちんと「宮城標準語で話すればえがったんでねぇかや」と考えてしまった酔漢でありました。
耐震設計偽造問題となったマンションは、酔漢の部屋から正面に見えました。テレビで再三登場しました藤沢市のマンションですが、今現在土台から1階部分が残った状態となっております。本当にゆっくり解体しておりました。その姉歯さんと小島さんは古川の御出身と聞きました。テレビでのコメントを聞いておりますと、やはりこれもほんの少しですが言葉の端端に、宮城標準語的な話され方をされておりました。
関西出身の同僚と呑んでおりましたところ、「酔漢さん、大阪で仙台弁ではなしたら、必ず人気者になりまっせ」と話しておりました。大阪人の方が、方言に対して寛大なのかもしれません。
このブログでの会話はそれを、意識いたしました。特に、小学校でのエツジ(学級担任)や同級生との会話は本当にそうでした。
宮城でも、酔漢は塩竈の出身ですので、県北や県南の言葉よりかは、かなり早口の言葉のように思います。特に、父の実家のある七ヶ浜あたりまいりますと、親戚の方々が話される言葉はかなり昔の?仙台弁のような気がいたします。
酔漢の母方の祖母は池月の出身です。当然のことながらかなり・・・です。酔漢結婚式のとき、鹿児島から来塩された家内方の親戚に、祖母は「酔漢のばっぱでがす」と、いうこともきかない身体を折り曲げて一人一人に挨拶をいたしておりました。酔漢、その姿を見て、本当に「暖かい言葉だなぁ」と、思いました。
ここで問題です。その「ばっぱ」が酔漢を叱ったときの話です。
「なにすてぇけつかんのや?てそづらすぃごだ。あんますぃおだってっつとおすぃいれさぁいれっつぞぉ」
どうです?おわかりになりましたか?
酔漢の祖父(父の父)は、海軍におりました。幸いなことに、祖父を知る海軍OBの方がつい最近までご存命でいらっしゃいましたので、最後の作戦直前まで、生前の祖父の様子を知ることが出来ました。
「酔漢さん(祖父)、ずうずう弁だったし、声も大きかったから、大和(戦艦)の中でも、有名だった」(祖父と大和の話は、今史実を調査中です)と。関西文化の艦でしたから(祖父は第二艦隊司令部。横須賀鎮守府所属)東北訛りは、かなり目立った存在だったのでしょう。
「社会党の佐々木代議士を見ていると、思い出します」とも、慰霊祭のときに話されている方もいらっしゃいました。祖父がずうずう弁でなかったら、そこまで多くの人達に覚えてもらっていたかどうか。と考えます。
今、酔漢は、仕事中に方言で話すことはありませんが、ふと口をついて出て来る事があります。書類を捜している部下に対し、「ほれ、そこさぁあっちゃ!」とか
「今日なんだか、いづいごだや」とか。 いいんでねぇかい?
「ジャンボリクエストAMO」毎週聞いておりました。吉川団十郎さんのディスクジョッキーは普段通りの仙台弁でした。(名取訛り?「もろぼし団」とかあったよね)あんな、放送もうないんだろうな。
井上ひさし氏は「青葉繁れる」の中で渡部俊介を介して、こう言わせておられます。
「ここの言葉は『ま』がぬけてるよな」
「『ま』が抜けてるって『まぬけ』ってことすか?」
「そうじゃないか『ありがとうございます』を『ありがとうござりした』って。『ま』がないじゃないか」
上手いことをいうものだと稔は関心したのだった。
先日の話。次男へ家内が話したこと。
「今日、『ゴミの日』だから、玄関先のゴミ、投げてきて!」
「かぁちゃん、どこに投げればいいの?重くて出来ないよ」
家内気付いたらしく
「違うの。『ゴミ捨ててきて』って言ってるの」
まだこれならいいですよね。
忘れ物を小学校に届けに行った酔漢です。小学校の先生に
「『ジャス』届けに来たんですけど」
「『ジャス』って何ですか?」
と聞かれました。
その守屋さんですが、いろいろなテレビでの発言を聞いておりますと、少しではありますが、(本当に少しなんだけどね)懐かしいイントネーションで話されるときがあります。守屋さんもきちんと「宮城標準語で話すればえがったんでねぇかや」と考えてしまった酔漢でありました。
耐震設計偽造問題となったマンションは、酔漢の部屋から正面に見えました。テレビで再三登場しました藤沢市のマンションですが、今現在土台から1階部分が残った状態となっております。本当にゆっくり解体しておりました。その姉歯さんと小島さんは古川の御出身と聞きました。テレビでのコメントを聞いておりますと、やはりこれもほんの少しですが言葉の端端に、宮城標準語的な話され方をされておりました。
関西出身の同僚と呑んでおりましたところ、「酔漢さん、大阪で仙台弁ではなしたら、必ず人気者になりまっせ」と話しておりました。大阪人の方が、方言に対して寛大なのかもしれません。
このブログでの会話はそれを、意識いたしました。特に、小学校でのエツジ(学級担任)や同級生との会話は本当にそうでした。
宮城でも、酔漢は塩竈の出身ですので、県北や県南の言葉よりかは、かなり早口の言葉のように思います。特に、父の実家のある七ヶ浜あたりまいりますと、親戚の方々が話される言葉はかなり昔の?仙台弁のような気がいたします。
酔漢の母方の祖母は池月の出身です。当然のことながらかなり・・・です。酔漢結婚式のとき、鹿児島から来塩された家内方の親戚に、祖母は「酔漢のばっぱでがす」と、いうこともきかない身体を折り曲げて一人一人に挨拶をいたしておりました。酔漢、その姿を見て、本当に「暖かい言葉だなぁ」と、思いました。
ここで問題です。その「ばっぱ」が酔漢を叱ったときの話です。
「なにすてぇけつかんのや?てそづらすぃごだ。あんますぃおだってっつとおすぃいれさぁいれっつぞぉ」
どうです?おわかりになりましたか?
酔漢の祖父(父の父)は、海軍におりました。幸いなことに、祖父を知る海軍OBの方がつい最近までご存命でいらっしゃいましたので、最後の作戦直前まで、生前の祖父の様子を知ることが出来ました。
「酔漢さん(祖父)、ずうずう弁だったし、声も大きかったから、大和(戦艦)の中でも、有名だった」(祖父と大和の話は、今史実を調査中です)と。関西文化の艦でしたから(祖父は第二艦隊司令部。横須賀鎮守府所属)東北訛りは、かなり目立った存在だったのでしょう。
「社会党の佐々木代議士を見ていると、思い出します」とも、慰霊祭のときに話されている方もいらっしゃいました。祖父がずうずう弁でなかったら、そこまで多くの人達に覚えてもらっていたかどうか。と考えます。
今、酔漢は、仕事中に方言で話すことはありませんが、ふと口をついて出て来る事があります。書類を捜している部下に対し、「ほれ、そこさぁあっちゃ!」とか
「今日なんだか、いづいごだや」とか。 いいんでねぇかい?
「ジャンボリクエストAMO」毎週聞いておりました。吉川団十郎さんのディスクジョッキーは普段通りの仙台弁でした。(名取訛り?「もろぼし団」とかあったよね)あんな、放送もうないんだろうな。
井上ひさし氏は「青葉繁れる」の中で渡部俊介を介して、こう言わせておられます。
「ここの言葉は『ま』がぬけてるよな」
「『ま』が抜けてるって『まぬけ』ってことすか?」
「そうじゃないか『ありがとうございます』を『ありがとうござりした』って。『ま』がないじゃないか」
上手いことをいうものだと稔は関心したのだった。
先日の話。次男へ家内が話したこと。
「今日、『ゴミの日』だから、玄関先のゴミ、投げてきて!」
「かぁちゃん、どこに投げればいいの?重くて出来ないよ」
家内気付いたらしく
「違うの。『ゴミ捨ててきて』って言ってるの」
まだこれならいいですよね。
忘れ物を小学校に届けに行った酔漢です。小学校の先生に
「『ジャス』届けに来たんですけど」
「『ジャス』って何ですか?」
と聞かれました。
私のような仙台市内在住の山の者には、塩竃や石巻などの海の町の言葉は、とても早口で怒っているように(失礼)に聴こえます。仙石線に乗っていると、仙台から石巻に着くまでに、どんどん言葉が変わっていくのが判りますよね。
ちなみに「いづい」を標準語に訳すって、とっても難しいと思われませんか?(笑)
本人「しっくりこない」とか話しておりましたが、
「酔漢さん、でも何となく違うよね」と。
そう、何となく違うんですよね。
でも、北海道で「いづい」を使ってたって知ったのは彼女と会ってからでした。
仙台弁、否、ミヤギ語(山浦玄嗣さんの「ケセン語」にあやかりました)のこともいろいろあるのですが、本文より長くなってしまいそうです。ブログを不法占拠するのは本意でありません。酔漢さん、またミヤギ語のことを書いて下さい。
お正月準備で忙しいですが、体調は如何ですか。
身内に不幸があり、岩手に帰ってました。(20日に私の母が亡くなりました)
2週間、方言の中にどっぷり居ましたので、未だにイントネーションが変な感じです。