連合赤軍によるハーグ事件という、遠い世界で起きた事が、よもや僕等の身近なところで繋がっていたなんて、想像すらできませんでした。まして、小学生ですから、主義だの主張だのは理解できません。ただ僕等の頭の中には、浅間山荘事件の記憶がまだ新しく残っておりましたし、単に、恐ろしい集団、それこそ、本当に存在したならば、ショッカー(仮面ライダー)と同レベルでの認識でしかありませんでした。(小学生の考えてることだっちゃ・・)
話は2年遡ります。酔漢小学校4年生。
丁度写真に移っております校舎の右側に職員室もありました木造校舎がありました。(写真では、右に写っているコンクリートの新校舎の位置です)4年5組はその二階は真ん中に位置しておりました。
その年、浅間山荘事件がありました。事件は冬でございました。「将棋の名人来校」は秋の事です。
「おめぇ中原誠ってしってっか?」
「しゃねぇけど誰っしゃ?」
「今朝の新聞(もちろん河北新報)さ載ってたのっしゃ。最年少で将棋名人になったんだと」
「俺(酔漢)将棋わかんねぇおん。なんでさわぐんだべ」
「塩竃の人だど。ほして、おらほの学校の卒業生だべ」
「なして、しゃねかった」
朝授業がはじまり、先生が、教室に入って来ました。宮崎ばっぱ(この先生の存在は酔漢に大きな影響を与えてくれました)は、例の河北新報を持っていました。
(やっぱし「かほぐぅすんぽ」が正しい発音だっちゃなや)
「新聞見たと思うけど、この小学校の卒業生、中原誠棋士が大山康晴名人を破り史上最年少名人になりました。この話知ってた人」(宮崎ばっぱは、ほとんどなまっておりません。。。少しね)
「私おとうさんに聞いた。叔父さん同級生だったって」
「小松崎(こまっつぁき)さいたんだと、裏門階段の下のあたり、植木屋(鈴木造園)の隣あたりでねかったけかや」
よく、羽生棋士が、小学校で100人と対戦するというニュースがありましたが、別に中原棋士がいたからと言って、将棋クラブに力を入れている風はありませんでしたし、将棋がさかんだといったこともありませんでした。
「来月、中原名人がこの小学校を訪れます。5、6年生は全員話が聞けますが、4年生はクラス代表4名までです。参加したい人は手を挙げてください」
酔漢は迷わず手を挙げました。
宮崎ばっぱ(担任の先生)は、中原誠名人の講演会に出席できる4名を選びました。酔漢もその一人でした。講堂へは、椅子持参で移動です。5・6年生で11クラスそして4年生約25名が狭い講堂に入りました。当然PTAゲスト組と市の教育委員会のお歴々は数名おりました。
校長先生の紹介の後、中原名人が壇上にあがり話を始めました。
内容は将棋名人戦の事が中心だったように記憶しています。対戦相手の大山康晴棋士との心理戦が中心だったでしょうか。でも小学校の思い出の事をこう話しておりました。
「小学校は4年生までしかおりませんでした。最後の教室は、この木造校舎の2階一番端っこ。今もありますね。そのあとすぐ、東京の小学校に転向しました。あとは将棋の勉強ばかりしていました」
講演の最中です・・が。そこはお行儀の悪い小学生が多数おりまして・・
「けっこう昔から、校舎あったんだなや」
「塩竃でも、この前、一小が校舎立替えたべ。三小は一番早く鉄筋校舎だんな。おらほだけ木造だぉんなぁ」
「おまけにプールもビニールシートだっちゃ」(不思議に思うかもしれませんが、25mビニールシートプールだったのです)
とか、勝手に話しております。
その日、中原名人は将棋クラブの6年生と将棋をした後、学校を後にしました。
塩竃市出身の有名人は少なかったこともあり、新聞はだいぶ賑わったのでした。
「中原名人故郷に錦」(新聞を覚えているわけではありません。でもこんな一面はありきたりで・・・でもそんな感じでしょ。)
タイトルにある、名人はこれでお分かりかと思いますが、将棋の中原誠名人の事です。
つい最近も女性とのスキャンダルでマスコミを騒がせてはおりましたが。やはり名人のタイトルを勝ち取ったわけですから、ある意味天才だったと言えると思います。
さて、木造校舎2階。前回お話しました「ハーグ事件」の首謀者と「将棋の名人」が一つの廊下で時代こそ違うのですが、すれ違っておりました。
ですが、もう一人、ここから手塚アニメ初期のヒット作品のキーとなる人物が育っていった事は、塩竃市市民の間でもあまり知られておりません。
「わたしの見る夢 秘密だよ」この歌の字幕とともにスタッフの紹介がされますが、設定デザインを担当した人物がその人です。
次回はその人の事を語ります。日本アニメ界の重臣です。
話は2年遡ります。酔漢小学校4年生。
丁度写真に移っております校舎の右側に職員室もありました木造校舎がありました。(写真では、右に写っているコンクリートの新校舎の位置です)4年5組はその二階は真ん中に位置しておりました。
その年、浅間山荘事件がありました。事件は冬でございました。「将棋の名人来校」は秋の事です。
「おめぇ中原誠ってしってっか?」
「しゃねぇけど誰っしゃ?」
「今朝の新聞(もちろん河北新報)さ載ってたのっしゃ。最年少で将棋名人になったんだと」
「俺(酔漢)将棋わかんねぇおん。なんでさわぐんだべ」
「塩竃の人だど。ほして、おらほの学校の卒業生だべ」
「なして、しゃねかった」
朝授業がはじまり、先生が、教室に入って来ました。宮崎ばっぱ(この先生の存在は酔漢に大きな影響を与えてくれました)は、例の河北新報を持っていました。
(やっぱし「かほぐぅすんぽ」が正しい発音だっちゃなや)
「新聞見たと思うけど、この小学校の卒業生、中原誠棋士が大山康晴名人を破り史上最年少名人になりました。この話知ってた人」(宮崎ばっぱは、ほとんどなまっておりません。。。少しね)
「私おとうさんに聞いた。叔父さん同級生だったって」
「小松崎(こまっつぁき)さいたんだと、裏門階段の下のあたり、植木屋(鈴木造園)の隣あたりでねかったけかや」
よく、羽生棋士が、小学校で100人と対戦するというニュースがありましたが、別に中原棋士がいたからと言って、将棋クラブに力を入れている風はありませんでしたし、将棋がさかんだといったこともありませんでした。
「来月、中原名人がこの小学校を訪れます。5、6年生は全員話が聞けますが、4年生はクラス代表4名までです。参加したい人は手を挙げてください」
酔漢は迷わず手を挙げました。
宮崎ばっぱ(担任の先生)は、中原誠名人の講演会に出席できる4名を選びました。酔漢もその一人でした。講堂へは、椅子持参で移動です。5・6年生で11クラスそして4年生約25名が狭い講堂に入りました。当然PTAゲスト組と市の教育委員会のお歴々は数名おりました。
校長先生の紹介の後、中原名人が壇上にあがり話を始めました。
内容は将棋名人戦の事が中心だったように記憶しています。対戦相手の大山康晴棋士との心理戦が中心だったでしょうか。でも小学校の思い出の事をこう話しておりました。
「小学校は4年生までしかおりませんでした。最後の教室は、この木造校舎の2階一番端っこ。今もありますね。そのあとすぐ、東京の小学校に転向しました。あとは将棋の勉強ばかりしていました」
講演の最中です・・が。そこはお行儀の悪い小学生が多数おりまして・・
「けっこう昔から、校舎あったんだなや」
「塩竃でも、この前、一小が校舎立替えたべ。三小は一番早く鉄筋校舎だんな。おらほだけ木造だぉんなぁ」
「おまけにプールもビニールシートだっちゃ」(不思議に思うかもしれませんが、25mビニールシートプールだったのです)
とか、勝手に話しております。
その日、中原名人は将棋クラブの6年生と将棋をした後、学校を後にしました。
塩竃市出身の有名人は少なかったこともあり、新聞はだいぶ賑わったのでした。
「中原名人故郷に錦」(新聞を覚えているわけではありません。でもこんな一面はありきたりで・・・でもそんな感じでしょ。)
タイトルにある、名人はこれでお分かりかと思いますが、将棋の中原誠名人の事です。
つい最近も女性とのスキャンダルでマスコミを騒がせてはおりましたが。やはり名人のタイトルを勝ち取ったわけですから、ある意味天才だったと言えると思います。
さて、木造校舎2階。前回お話しました「ハーグ事件」の首謀者と「将棋の名人」が一つの廊下で時代こそ違うのですが、すれ違っておりました。
ですが、もう一人、ここから手塚アニメ初期のヒット作品のキーとなる人物が育っていった事は、塩竃市市民の間でもあまり知られておりません。
「わたしの見る夢 秘密だよ」この歌の字幕とともにスタッフの紹介がされますが、設定デザインを担当した人物がその人です。
次回はその人の事を語ります。日本アニメ界の重臣です。
知ってらっしゃる事などございましたら、是非コメントお願いいたします。
「丸山正雄」氏。多くの作品を手がけておりますが、虫プロを出る際、「りんたろう」さんもおられました。
実は正確には25mなかったとの話もございます。本日、更新しました。
アニメの重臣を少しばかりご紹介しました。あわせて、高校時代、隣の席の女の子の話もいたしました。彼女の話は別に語ろうかとも考えましたが、この機会に紹介いたしました。
彼女の肉声インタビューはYouTubeでもご覧いただけます。「菅野よう子」同じ宮城県出身で同じ早稲田大学で同じピアニストで同姓同名の「菅野洋子」さんもおられます。
これも偶然で面白いお話です。
「妖怪の群れ」という冊子は仙台一高に残っておりますが。あの当時主流となると思っておりました「私服男女共学」です。ですが、開校以来となりますと母校の他ない事に気づきました。「三校禁」は僕らの頃までまだその匂いがありました。
「喫茶店公安騒動」いずれお話いたします。
誤解なさらないで下さい。笑える話です!
私の知っております「い○み」さんは、一高ヨット部の方でした。
全然違うお話で、すみません。
そうすると、現在二小の校舎が一番新しいのでしょうか。月見が丘も古いですが。
塩竈三小が一番古くなったのですね。
時代を感じます。
いいですね。教室で話が聞けたなんて。
うらやましいです。
Wとニアミス、さて、もう一人は楽しみです。
それでは、千賀の浦にかけて、浦情報ですかね。
アニメの重臣・・楽しみです。
そうそう、プールはビニールシートですね。
今では笑えますね。
だから、ベルト付の水着は駄目だったのです。
確かに自分は、ベルト付のパンツを履いてました。
将棋は、まるっきしだめです。
動かし方は知ってるだけです。
でも、そのころの仙台にはいまだ70年安保の熾火がくすぶっていて、高校生だったオイラたちにもそちこちのセクトからの誘惑がありましたね。
そんなこんなで当時の仙台には「三校禁」という制度があって、先生たちが定期的にパトロールしてましたよ。
ただし時代はもう安保から成田闘争にシフトしており、オイラの後輩にも成田の反対砦の援軍にでかけて検挙されたやつがいましたよ。
※三校禁:宮城県内の三校以上の高校生が生徒のみの主催で集会をもつことを禁じたもので、法的にはなんの根拠もないのに見つかれば補導された。
その辺の路線ではありませんでした。
でも「い○み君」て聞いたことがあるなー。
英語の田嶋先生や化学のバテレンに美術の麻呂。いろいろ揃ってました。
屋上の望遠鏡で尚絅を覗いておりましたが、酔漢さんの奥様の出身校とは・・・
あんなにピカピカだった校舎も今では相当くたびれています。
給食用の小さなエレベーターが珍しく、よくこっそり乗っていました(おっと秘密だよー)。
4年から6年まで放送部員でした。校長室の隣の放送部室には思い出がたんまりです。
私の放送を丹治さんは100%聞いていたはずですが・・・
さて、本文でお断りしておくべきだったかも知れませんが、三小が鉄筋校舎になったのはあの火事があったからですよね。
現在の三小の校舎がその当時のままでしたら、写真の校舎より三小の校舎の方が少し古いのではないかとふと思いました。
知ってらっしゃいましたら、お知らせお願い申し上げます。ちなみに写真の校舎は昭和43年築でございます。
中原名人は毎年地元の自分の冠大会に参加していました。
小学生時分の弟は大会で大人に混じり優勝したこともあります。
当然、名人の目に留まり「上京して弟子になって奨励会に入らないか」と本気で誘われました。
両親の反対もありお断りしましたが。
兄も強くて二高、トンペイでは将棋部に出入りしていたようです。
私?はじめは飛車角落ちで弟に勝っていたのですが・・・