酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 矢矧 三

2010-09-09 11:00:35 | 大和を語る
不幸にして艦が停止するや、わが矢矧は敵攻撃の生き目標となり、いながらにして雷爆銃の集中攻撃をうけるに至った。もちろん損傷少ないわが砲銃は一刻たりとも黙してはいない。全員必死の奮闘により、少なくとも七、八機の敵機は確かに撃墜撃破したものの、いよいよ苛烈となった敵雷爆撃の命中炸裂によって、わが高射砲機銃は架台も人も、もろともに、相次いで空中高く吹き飛ばされてしまった。
(原為一 矢矧艦長 手記より抜粋)

測的長池田邦夫中尉は戦闘中方位盤射撃装置にその神経を集中させておりました。しかしながら、雲高低く、その測敵もままならず、敵機を確実にとらえることが困難だったのです。

恐ろしい、とう気持ちは微塵もない。ただ恥ずかしくない死に方をしたいというだけだった。敵機は目の前に見えている。レーダーもなにもなかった。
(矢矧測的長 池田邦夫中尉 証言より抜粋 「軍艦矢矧海戦記」より抜粋)

池田中尉はもはや自分の持ち場にいる必要がなくなりました。応急指揮官として艦の防禦にあたる事が任務となりました。

「応急班、後甲板急げ!」
しかし、先の魚雷で矢矧艦内の通信網が途絶状態。機関室とは全く音信不通でした。
機関停止後、すぐさま三番主砲後方に爆弾が命中。立て続けに右舷後部と艦首前方への直撃弾。最早、矢矧甲板は修羅場と化した状況状態です。この時点で撃沈されておりません。
奇跡とも言える状態です。
第一機銃群指揮官、降旗武彦少尉が負傷いたしました。

全く突然、後から棍棒のようなもので頭を強打され、めまいがして意識を失い、前へ倒れた。その直前、瞬間的に私の育った長野の山河が鮮明に頭をよぎった。どれくらい時間が経過したのか。意識が戻って自分の倒れていることが分かり、体じゅうを触って負傷箇所を探した。鉄兜に触った時、左頭部がささくれ立って、中へめり込んでおり、左手に鮮血がついていた。頭がやられた!と思った瞬間、もう助からないという絶望感が頭をかすめ、戦慄が体中をかけめぐった。
(降旗武彦少尉 証言 「軍艦矢矧海戦記」より抜粋)

矢矧には傾斜を復旧させる為の大和のような「注排水装置」はありません。
「艦傾斜の復旧作業に全力を挙げよ」原艦長から各員に下令されます。
「大坪中尉、艦復旧の見込みは」
「最早、自力での復旧は不可能です。艦を極力軽くするしか方法がありません」
艦橋から急いで前甲板へと戻った甲板士官大坪中尉です。
「主錨、錨鎖を海中投棄する」
この措置により幾分喫水が上昇し、傾斜も幾分収まるのでした。
この間も対空砲を休ませる事なく打ち続けている矢矧です。

サディウス・コールマン大尉は焦っております。
「おれの小隊はいったいどこいっちまった!」
自身が指揮官でありながら、自身が迷子?になっていることに気付いたのでした。
「クソデカイ奴まで行ったら燃料が切れちまう。こうなったらあの止まった『あひるのクルーザー』に爆弾をプレゼントしてやろう」
独自の判断です。矢矧に急降下を試みようとしているコルセアとヘルダイバー隊(所属不明)に合流します。
「この『椋鳥』だってこんな芸当は朝飯前さ」
戦闘機である彼の機ですが、その汎用性は高く評価されております。コールマンは高度4500フィートから急降下に入ります。が、そこはやはりコルセアより角度が浅いため。
「しまった!くらっちまった!」
左翼へ一発「あひるのクルーザー」の対空砲を食らいました。しかし、機はそれでも飛行を続けます。丁度、中部艦橋附近で爆発するのを確認できました。他の爆撃機は至近弾のみ。
「どうだい!椋鳥だってこのくらいできるんだぜ!」
「本当は停止したクルーザーに爆弾のプレゼントは似合わない。それにしても、あの状態で正確な対空砲を打ち上げてくるジャップのクルーザーはタフだ!信じられん!」
コールマンが帰路につこうとしていた時、見失った自身の小隊が現れます。
「おめぇらオソイ!さっさとやっちまぇ」
一発の爆弾が後部へ命中。艦尾が持ち上げられます。
「轟沈か?」
しかし、クルーザーは水柱が収まるとまたもとの姿を見せるのです。
「おい?またか!」
エセックス隊がクルーザーに浴びせた0.5ミリ機銃弾は150万発を数えておりました。

応急措置が適切であったのです。矢矧は轟沈を免れております。大傾斜そして転覆することなくしかも未だ激しい対空砲を撃っているのです。
第一次第二波(米軍記録による出撃回数によるカウントです)の頃、矢矧は大和から後方二十キロも離れてしまいました。
川添航海長は機関停止の矢矧にあって、艦橋におります。そのそばにある伝声管より聞きなれた声が聞こえてまいりました。
「艦長!かんちょうぅぅぅ!申し訳ご・ざ・い・ま・せぇぇん!」
川添航海長はその声が豊村時信兵曹長であると気づきました。
壊れかけている伝声管ですが、豊村兵曹長の大きな声は聞こえてまいります。
「どうした!豊村兵曹長!なにがあったのだ!」
川添航海長はありったけの声で伝声管へ向かいました。
「陛下よりお預かりしている御艦。敵魚雷を命中させしめたるは、見張り指揮官である自分の責任であります。ここにこの責任を取ります!腹かっ切って・・・」
「ぶぅかぁものぉぉぉ!血気に逸るなぁぁぁ!軽率な行動は慎むのだ!」
この声が届くかどうか。
豊村兵曹長は、短剣を腹部へ当てたかと思うや否や、二番砲塔下に飛び降りたのでした。
「豊村兵曹長!へいそうちょうぅぅ・・・・!」
川添航海長は目を閉じると大きく天をむき、ため息をついたのでした。
時計の針は間もなく一三○○を刺そうとしておりました。

「最早、矢矧の沈没は時間の問題となった。しかし、わが二水戦はまだ『雪風』『磯風』『初霜』が健在である。二水戦の旗艦を移乗させる。たとえ『矢矧』を失おうとも、作戦は断固として決行すべき!『大和』が健在な今、共に沖縄へ突入敢行する!」
矢矧はもっとも近くで戦闘航海中に磯風に信号を送ります。
しかし、敵爆撃が激化。磯風は矢矧に近づけません。
板谷参謀が「カッターを降ろせないか」と提案します。
原艦長が「敵機銃掃射が少し収まってから」とそのタイミングを計ろうとします。
「今のうちに負傷者も他の艦に移します」
原艦長の意見に古村司令官も同意するのでした。
「御真影を!」
航海士松田幸夫中尉が御真影を背中に括り付け最上甲板へ戻ります。
カッターを海面に降ろします。
しかし、その瞬間。敵の銃撃。

航海士松田中尉にお写真を背負わせ、負傷者と共に何とか安全地帯へと考えて、ボートを水面近くに卸したが、却って敵機の銃爆撃の的となって粉砕された。
(原為一 矢矧艦長 手記より抜粋)

特攻艦隊大和 戦後60年目の真実によれば、御真影を背負った松田幸夫中尉(海兵七十三期)は、このカッター撃破と共に戦死と記載されておられますが、松田中尉は、初霜に救助され、この戦闘からはご帰還されておられます。しかし、終戦間近昭和二十年八月一日。伊一三号で戦死されておられます。ここに補足追加といたしました。

「内野副長!」原艦長は左舷露天甲板に古村司令官はじめ他幕僚と共に立っています。
その声に副長は原艦長のそばへ駆け寄ります。
「作戦は決行する!矢矧はもはや戦闘状況にない。磯風へ旗艦を移乗させる。食糧他移動できるものは、移動させよう。艦内は暗い。食糧庫までたどり着けるのは副長と主計兵しかいないのだ。副長、頼む!」
「ハッ!」内野副長は、原艦長の眼を凝視し、決意を込めた敬礼。原艦長もそれに応えるように敬礼。
内野副長は三村主計兵と共に、船倉へと向かったのでした。
内野副長、三村主計兵の二人の姿を後に見た者はいなかったのでした。

「おい、やつら艦を捨てて逃げようとしていやがる」
「『あひるのクルーザー』に近づいている小さい奴もついでにやっちまおうゼ」
アベンジャー二十数機が磯風に向かおうとしておりました。

写真です。「原勝洋氏著『真相・戦艦大和ノ最期』八十頁より引用」しました。
中央被雷している艦が矢矧。その上に近づいている磯風が写っております。矢矧の周りには夥しい重油の海。懸命に矢矧に近寄ろうとしている磯風です。
海軍きっての敏腕。「駆逐艦の操艦にはこの人の右に出る者がいない」とも言われたベテラン。磯風艦長「前田実穂中佐」です。敵をかわしながら矢矧に近づきます。

沈まない限り爆撃も続く、もう早く沈んでくれと思うくらい沈まなかった。
(矢矧測的長 池田武邦中尉 証言 「軍艦矢矧海戦記」より抜粋)

驚異的な難沈艦「矢矧」だったのです。

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6 コメント

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丹治様へ (酔漢です)
2010-09-15 20:18:16
鋼板の厚さがわずかしかない軽巡がこれほどの被弾の後も沈まなかった事実です。
阿賀野型はタフさより機動性を重視した設計。復元力が勝っていた設計でもありました。
水雷戦隊旗艦として最新鋭の装備。活躍する場が少なかった艦ではありましたが、このスペックの高さを世にしっかり示しておるかと。
不沈艦に近いタフな軽巡であったことは確かです。
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ひー様へ (酔漢です)
2010-09-15 20:14:12
アメリカの記録の取り方ははんぱではありません。実は第一次攻撃時、撮影専門の機が、大和の対空砲ですぐさま撃墜されてます。
その機が健在であれば、多くの写真が世に出ていたかと考えます。が、これは、遺族とかという前に野次馬的発想になってしまいます。
本編では語ることを止めた史実です。
全機の飛行攻撃図がアメリカには残されております。これも、すごい記録です。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です)
2010-09-15 20:10:54
母から電話があり、塩竈はすっかり秋風がふいたようです。
御真影は、田舎に行くとまだ飾ってあったりします(飾るという表現ではないのですが)
ですが、今だ昭和天皇でしか見たことがありません。
不思議なような気がします。
大和に空襲を行った「ヘルキャット」です。
全機に「八木アンテナ」を装備しておりました。遭難する機がなかったと聞きました。
返信する
Unknown (丹治)
2010-09-15 20:06:42
その池田さんの本ですが、
「矢矧は沈むまでほとんど平衡状態を保った」
ということが書いてあったような気がします。

つまり結果として沈められたとはいえ、
矢矧の応急能力が遺憾なく発揮されたということです。
「米国の軍艦に較べて日本の軍艦はダメージコントロールの機能が云々」
などとよく言われます。
しかしこのような状況下における矢矧応急員の奮闘は評価されてしかるべきでしょう(大和の場合もそうですが)。

「日本海軍ほどよく訓練され、頑強に抵抗した敵を見たことがない」
「日本の海軍で一番優秀だったのが下士官兵。その次に優秀だったのが若手の士官・・・」
とは、戦後の米海軍の日本海軍に対する評価です。
運用科はじめ矢矧応急員の奮闘は、まさにその評価の一端を証明するものではないでしょうか。

(海軍上層部のバカさ加減については、今回のお話の趣旨から外れますので、論評を控えたいと思います)。

この作戦で空襲が始ってからの矢矧の行動が水雷戦隊旗艦にふさわしいものであったことは、
以前にコメントした通りです。

阿賀野軽巡洋艦は、水雷戦隊旗艦としては理想的な艦でした。
五千五百トン型軽巡の主砲は単装七門ですが、
片舷に指向できるのは六門のみ。
一方の阿賀野型は連装三基を中心線上に配置したので、
全砲門が両舷に指向することが可能。
魚雷発射管も五千五百トン型は連装四基ですが、
片舷に指向できるのは四門のみ。
阿賀野型は四連装二基を中心線上に配置したので、
八門すべてを両舷に指向させることが可能。
従来の軽巡に較べて主砲と魚雷発射管の配置に
合理性があります。

そういえば軽巡では阿賀野型と大淀型、重巡では最上型と利根型です。
艦橋のシルエットが実によく似ていますね。
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宮城は寒くなりました (ひー)
2010-09-15 16:02:14
写真の黒い部分がオイルだったのですね。
携帯から見ていたものですから・・・・
当然アメリカの写真でしょうが。

惨いですね。
しかし、それが戦争なのですね。
昨夜から宮城は冷え込みました。
今朝も、半袖一枚で出勤したのですが、ホームに立っているのが寒いと思いました。
稲刈りも始まりあっという間に秋の訪れを感じます。
心配していたサンマも上がってきたようです。
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Unknown (クロンシュタット)
2010-09-13 05:43:37
「レーダー」に象徴されるように科学技術の面ではまだまだ二流国でありました。
戦後の高度成長期からジャパンアズナンバーワン時代までは世界に冠たる科学技術立国ではありました。
そうして2010年代。なんだか「置いてきぼり」の国に戻ってしまったかのようです。

御真影。敗戦後は一斉に撤去されてしまったのですが、どこかで目撃した記憶があります。
なにかの施設だったのでしょうか。まさか駐屯地ってことはないでしょうが。

仙台周辺の大雨が気になります。
昨日父親と話したら寒くて上着を着ているとのこと。
なんだか「よく知っている夏」に戻ったようですね。
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