「ひーさんの散歩道 戦艦大和:熱き男達のドラマ2009年07月16日」では、仙台護国神社境内にございます英霊顕彰館の様子が描かれております。
「ひーさん」とはブログで知り合いました。
仙台やその周辺、宮城や東北の自然など、ひーさんの視点から、写真とともに書かれておりますブログです。
ひーさんの写真の腕は酔漢には真似できません。
ひーさんの撮影されました「大和模型正面写真」には迫力がございます。
この記事には祖父が紹介されております。
5年前、父が同神社へ預けた遺影と遺品です。
父がなぜこうしたことをしたのか、実は酔漢も詳しくは聞いておりません。
聞こうといたしますと、父は必ず「だれ、自分の事しか考えてねぇんだおん!死んだ後に『さらし者』にしてやっちゃ!」
父はこう笑って話すのでした。
父の本音は聞けずにいました。(この話題になるとこれ以上は話さない父なのでした)
なぜ、父が祖父を「さらし者」(父だけの表現を使用しました)にしたのか。
この話題と別なことで父がもらした言葉がございます。
「どんな死に方でもや、父親がいねぇのは、子供は不幸になるってこったっちゃ。そいずばぁ身に染みてわがってる。『おらいさぁ親父がいたら』って何度おもったかしゃねぇ」
これが、本音だったのでしょう。
父が祖父を「さらし者の刑」?にしたのは、実は尊敬していた祖父であるのに、「死ななくて済んだのに、わざわざ死にに行った」。そのことが、後々まで心に引っ掛かったままでいたのかと。そう思うのです。
大高勇次氏が父に話したこととして(以前に語った内容ですが)「酔漢が2Fにいたなんて、知らなかった。てっきり丘勤務だとばかり思っていた。何で前線に行くような行動を取ったのだろう」という証言がございます。
昭和19年11月に発令された海軍の人事異動で、祖父は第二艦隊配属となり、同時に大和乗艦しております。
「断るどころか、自分で配属先を選べる立場だった」との話もあります。
「だれ、判断間違えたんでねぇかな」とは叔父(父弟)の弁。
叔父は、「艦隊出撃は最早あり得ないと、その状況から祖父が判断し、大和座乗ということで第二艦隊と行動を共にすることを選択したのではないか」とこう推察しております。
もし、そうだとしたら、祖父は歴史の読み違いをしたのでしょうか。
ですが、「出撃に至る経緯」を語りました中で、出撃3日前までは「2Fの解散」まで検討されていたのですから、その「間違いの指摘」は違っているとも言えます。
複雑な思惑が交差した結果の出撃、そして戦死。
これをひとつひとつ解きほぐす作業は、難しく長い時間を要することともなります。
しかも、ご生還されてる方が高齢となり、生でその証言をお聞きすることも難しい状況です。
父は第二世代として、未来に「何かを伝えたくて、護国神社に祖父の遺影を展示したのではないか」これは間違いはありません。
その「何か」は具体的には、(父が墓までもっていきましたものですから・・・・)わかりかねますが、「親のいない家族の苦しみ」というものを感じ取ってもらいたかったのではないか。
そう考えています。
英霊顕彰館には、宮城県出身の英霊が数多くその遺影と共にございます。
決して語ることのないそれぞれの英霊の遺影と対しますと、「何かを語っているのではないか」そう思わらざるを得ません。
そして、見学にいらした方がそれをどう聞くのか。これはそれぞれの胸の内に返ってくる言葉なのだと思います。
シティラピッド君が呉を訪ねたことは語りました。
彼一人で出かけました。
「大和ミュージアム」では学芸員、新谷さんと直接話をし、貴重な資料も拝見させていただきました。本人に取っては、すばらしい思い出になったに違いありません。
大和ミュージアムの様子はやはりブログ上で知り合いましたトム様のアッと!乱だム「大和ミュージアム 」(2010年06月19日) にございます。
その中に「宇宙戦艦ヤマトの展示」と、ございました。
そういえば、上記、仙台護国神社にも「宇宙戦艦ヤマト」の展示が行われるようになったと、丹治さんからお聞きいたしました。
酔漢、「宇宙戦艦ヤマト」はそれぞれの作品、すべて拝見しております。が。
自分の中で片仮名の「ヤマト」と漢字の「大和」は全く別ものとして扱っております。
松本零士氏とお会いする機会に恵まれました。
その際同氏は「戦艦大和は知っていたけど、その中身までは知らなかったし、戦艦を宇宙へという思いだけで作品にしたから、その歴史などは全く考慮していない」と話されておられました。
作品的にも全く別物であるわけです。
では、なぜ、大和ミュージアムにも護国神社英霊顕彰館にも「宇宙戦艦」の模型が展示されているのでしょう。
酔漢の中には違和感はあります。
大和ミュージアムの正式名称は「呉市海事歴史博物館」です。「『宇宙戦艦』は『海事』の『歴史』に関係あるのか」とかように思う疑問です。
確かに、今の若い人達にとりまして「ヤマト」が先で「大和」が後に、それを思い出すことなのでしょう。
ですが、その歴史と顛末を「後世に正しく伝える」ということが主旨であったとすれば、はたしてそれが叶うのか。疑問です。
「大和ミュージアム」であって「ヤマトミュージアム」ではない事を、改めて伝えることが大事ではなかろうかと考えます。
しかして、大和ミュージアムがあり、館長が戸高さんでいることは、その海軍の歴史を伝えるという意味においては、その存在は未来へ伝えるということにおいては、大変貴重な資料館だと考えてもおります。
いつぞやお話しました、「謎の民間人」が写っております写真を再度ご紹介いたします
祖父は右上に見られますが、中央の私服を着ている人物は同博物館でも「未確認人物」として現在も調査中だそうです。
こうした、調査などは、博物館がなければ、「歴史の中に埋もれたまま」となってしまいます。
大和の資料が一か所に集まる。これはとても大事なことだと思うのです。
シティラピッド君が同博物館を訪ねた際、学芸員「新谷」さんは、大変驚かれていたようです。
「これまでは、孫の人が訪ねてくることはあった。でも、ひ孫が一人で訪ねてきた」
酔漢は、あまり「大和と祖父」を家族に話したことはございません。
ですから、彼が「広島に行く」と聞いたとき、正直呉まで足を運ぶなんて想像してもおりませんでした。
やはり気になるところだったかと、そう思うのです。
戦艦大和会が会員の高齢化からその活動を中止しております。
第一世代中心になって、作られておりました。
「石田恒夫」さんがご尽力された話は語ったところです。
今、九州鹿児島県枕崎市「火之神公園」には第二艦隊戦没者慰霊の為に「平和展望台」があり毎年四月七日に追悼式が執り行われます。
約四百名が参加する行事となりました。
酔漢いまだ出かけたことがございません。
一度、他のご遺族とお話しする機会を設けたいとは思うものの、地が遠く、叶いません。
ですがいつか出かけたいと考えております。
先の「くだまき」でその内容を疑問視いたしました「岩波新書1008 『戦艦大和生還者たちの証言から』(栗原俊雄氏著)」です。
再び、ある一節を抜粋いたします。
未来の人々は大和をどうとらえるだろうか、最新の科学技術を結集した「世界最大・最強」としての側面に注目し、また守るべきもののために散って行った兵士の象徴として、「民族の誇り」ととらえることは可能だ。一方で膨大な国費を注ぎ込んで建造しながら、成功の見込みがほとんどない作戦に投じられた大和を、軍事力増強に国力を傾けて勝算のない戦争に突き進んだ時代の象徴としてとらえることもできる。
大和は、見る者の歴史観を映す鏡である。
(同書 213ページより抜粋)
そう思います。「くだまき」を語っている自身の歴史観を大和を鏡としてどう写し、どう表現してきたのだろう。
そう考えてしまいます。
思えば、「見切り発車」同然の「くだまき」でした。
多くの方々のご意見を拝聴、拝見しながら、ここまでまいりました。
「遺族、第三世代として、次の世代に大和と祖父をどう伝えることができるか」
自問自答しながら語ってまいりました。
途中「父の死」「東日本大震災」などがあり、予定よりはるかに遅い次回の最終話となりました。
ですが、これだけの回数を同一テーマで語るなどとは当初考えておらず、自分としても、驚いております。
コメントをいただきました多くの方々に改めまして御礼申し上げます。
次回は読み込みました資料他、参考にいたしました文献、写真、書簡などの一覧を記事にしようかと考えております。
本編は、本日が最終話でございます。
ですが、今後「大和」「第二艦隊」などの情報が入りましたら、記事更新は吝かではございません。
本当に感謝、感謝でございます。
ありがとうございました。
追伸
2011年6月1日 読売新聞夕刊 「海の細道」より
「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク 川崎展宏
俳人川崎展宏は昭和二年、母の実家である呉の海産問屋で生まれた。父は海軍士官。終戦のとき十八歳だった。
この人には戦争の名句がいくつもある。この句のカタカナ部分は海底の大和からの打電の形をとる。ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)は死の国(黄泉)へとつづく坂である。
川崎はなぜあまたの戦争の句をよんだか。(この記事の著者 長谷川櫂氏は大和ミュージアムを訪れたことを引き合いに出しておられます)
館内の一面に大和とともに海底で眠る乗員たちの遺影が並んでいる。ほとんどが二十歳前後のまだあどけない若者である。
この世に人として生まれながら人生の喜びもしらぬまま、文句ひとついわず戦争に殉じた同世代の若者たち。川崎の句は戦争の時代を生きのびた者から彼らへの詫びではなかったろうか。
ヨモツヒラサカスミレサク
祖父が打電したと。
そう思うことにいたしました。
「ひーさん」とはブログで知り合いました。
仙台やその周辺、宮城や東北の自然など、ひーさんの視点から、写真とともに書かれておりますブログです。
ひーさんの写真の腕は酔漢には真似できません。
ひーさんの撮影されました「大和模型正面写真」には迫力がございます。
この記事には祖父が紹介されております。
5年前、父が同神社へ預けた遺影と遺品です。
父がなぜこうしたことをしたのか、実は酔漢も詳しくは聞いておりません。
聞こうといたしますと、父は必ず「だれ、自分の事しか考えてねぇんだおん!死んだ後に『さらし者』にしてやっちゃ!」
父はこう笑って話すのでした。
父の本音は聞けずにいました。(この話題になるとこれ以上は話さない父なのでした)
なぜ、父が祖父を「さらし者」(父だけの表現を使用しました)にしたのか。
この話題と別なことで父がもらした言葉がございます。
「どんな死に方でもや、父親がいねぇのは、子供は不幸になるってこったっちゃ。そいずばぁ身に染みてわがってる。『おらいさぁ親父がいたら』って何度おもったかしゃねぇ」
これが、本音だったのでしょう。
父が祖父を「さらし者の刑」?にしたのは、実は尊敬していた祖父であるのに、「死ななくて済んだのに、わざわざ死にに行った」。そのことが、後々まで心に引っ掛かったままでいたのかと。そう思うのです。
大高勇次氏が父に話したこととして(以前に語った内容ですが)「酔漢が2Fにいたなんて、知らなかった。てっきり丘勤務だとばかり思っていた。何で前線に行くような行動を取ったのだろう」という証言がございます。
昭和19年11月に発令された海軍の人事異動で、祖父は第二艦隊配属となり、同時に大和乗艦しております。
「断るどころか、自分で配属先を選べる立場だった」との話もあります。
「だれ、判断間違えたんでねぇかな」とは叔父(父弟)の弁。
叔父は、「艦隊出撃は最早あり得ないと、その状況から祖父が判断し、大和座乗ということで第二艦隊と行動を共にすることを選択したのではないか」とこう推察しております。
もし、そうだとしたら、祖父は歴史の読み違いをしたのでしょうか。
ですが、「出撃に至る経緯」を語りました中で、出撃3日前までは「2Fの解散」まで検討されていたのですから、その「間違いの指摘」は違っているとも言えます。
複雑な思惑が交差した結果の出撃、そして戦死。
これをひとつひとつ解きほぐす作業は、難しく長い時間を要することともなります。
しかも、ご生還されてる方が高齢となり、生でその証言をお聞きすることも難しい状況です。
父は第二世代として、未来に「何かを伝えたくて、護国神社に祖父の遺影を展示したのではないか」これは間違いはありません。
その「何か」は具体的には、(父が墓までもっていきましたものですから・・・・)わかりかねますが、「親のいない家族の苦しみ」というものを感じ取ってもらいたかったのではないか。
そう考えています。
英霊顕彰館には、宮城県出身の英霊が数多くその遺影と共にございます。
決して語ることのないそれぞれの英霊の遺影と対しますと、「何かを語っているのではないか」そう思わらざるを得ません。
そして、見学にいらした方がそれをどう聞くのか。これはそれぞれの胸の内に返ってくる言葉なのだと思います。
シティラピッド君が呉を訪ねたことは語りました。
彼一人で出かけました。
「大和ミュージアム」では学芸員、新谷さんと直接話をし、貴重な資料も拝見させていただきました。本人に取っては、すばらしい思い出になったに違いありません。
大和ミュージアムの様子はやはりブログ上で知り合いましたトム様のアッと!乱だム「大和ミュージアム 」(2010年06月19日) にございます。
その中に「宇宙戦艦ヤマトの展示」と、ございました。
そういえば、上記、仙台護国神社にも「宇宙戦艦ヤマト」の展示が行われるようになったと、丹治さんからお聞きいたしました。
酔漢、「宇宙戦艦ヤマト」はそれぞれの作品、すべて拝見しております。が。
自分の中で片仮名の「ヤマト」と漢字の「大和」は全く別ものとして扱っております。
松本零士氏とお会いする機会に恵まれました。
その際同氏は「戦艦大和は知っていたけど、その中身までは知らなかったし、戦艦を宇宙へという思いだけで作品にしたから、その歴史などは全く考慮していない」と話されておられました。
作品的にも全く別物であるわけです。
では、なぜ、大和ミュージアムにも護国神社英霊顕彰館にも「宇宙戦艦」の模型が展示されているのでしょう。
酔漢の中には違和感はあります。
大和ミュージアムの正式名称は「呉市海事歴史博物館」です。「『宇宙戦艦』は『海事』の『歴史』に関係あるのか」とかように思う疑問です。
確かに、今の若い人達にとりまして「ヤマト」が先で「大和」が後に、それを思い出すことなのでしょう。
ですが、その歴史と顛末を「後世に正しく伝える」ということが主旨であったとすれば、はたしてそれが叶うのか。疑問です。
「大和ミュージアム」であって「ヤマトミュージアム」ではない事を、改めて伝えることが大事ではなかろうかと考えます。
しかして、大和ミュージアムがあり、館長が戸高さんでいることは、その海軍の歴史を伝えるという意味においては、その存在は未来へ伝えるということにおいては、大変貴重な資料館だと考えてもおります。
いつぞやお話しました、「謎の民間人」が写っております写真を再度ご紹介いたします
祖父は右上に見られますが、中央の私服を着ている人物は同博物館でも「未確認人物」として現在も調査中だそうです。
こうした、調査などは、博物館がなければ、「歴史の中に埋もれたまま」となってしまいます。
大和の資料が一か所に集まる。これはとても大事なことだと思うのです。
シティラピッド君が同博物館を訪ねた際、学芸員「新谷」さんは、大変驚かれていたようです。
「これまでは、孫の人が訪ねてくることはあった。でも、ひ孫が一人で訪ねてきた」
酔漢は、あまり「大和と祖父」を家族に話したことはございません。
ですから、彼が「広島に行く」と聞いたとき、正直呉まで足を運ぶなんて想像してもおりませんでした。
やはり気になるところだったかと、そう思うのです。
戦艦大和会が会員の高齢化からその活動を中止しております。
第一世代中心になって、作られておりました。
「石田恒夫」さんがご尽力された話は語ったところです。
今、九州鹿児島県枕崎市「火之神公園」には第二艦隊戦没者慰霊の為に「平和展望台」があり毎年四月七日に追悼式が執り行われます。
約四百名が参加する行事となりました。
酔漢いまだ出かけたことがございません。
一度、他のご遺族とお話しする機会を設けたいとは思うものの、地が遠く、叶いません。
ですがいつか出かけたいと考えております。
先の「くだまき」でその内容を疑問視いたしました「岩波新書1008 『戦艦大和生還者たちの証言から』(栗原俊雄氏著)」です。
再び、ある一節を抜粋いたします。
未来の人々は大和をどうとらえるだろうか、最新の科学技術を結集した「世界最大・最強」としての側面に注目し、また守るべきもののために散って行った兵士の象徴として、「民族の誇り」ととらえることは可能だ。一方で膨大な国費を注ぎ込んで建造しながら、成功の見込みがほとんどない作戦に投じられた大和を、軍事力増強に国力を傾けて勝算のない戦争に突き進んだ時代の象徴としてとらえることもできる。
大和は、見る者の歴史観を映す鏡である。
(同書 213ページより抜粋)
そう思います。「くだまき」を語っている自身の歴史観を大和を鏡としてどう写し、どう表現してきたのだろう。
そう考えてしまいます。
思えば、「見切り発車」同然の「くだまき」でした。
多くの方々のご意見を拝聴、拝見しながら、ここまでまいりました。
「遺族、第三世代として、次の世代に大和と祖父をどう伝えることができるか」
自問自答しながら語ってまいりました。
途中「父の死」「東日本大震災」などがあり、予定よりはるかに遅い次回の最終話となりました。
ですが、これだけの回数を同一テーマで語るなどとは当初考えておらず、自分としても、驚いております。
コメントをいただきました多くの方々に改めまして御礼申し上げます。
次回は読み込みました資料他、参考にいたしました文献、写真、書簡などの一覧を記事にしようかと考えております。
本編は、本日が最終話でございます。
ですが、今後「大和」「第二艦隊」などの情報が入りましたら、記事更新は吝かではございません。
本当に感謝、感謝でございます。
ありがとうございました。
追伸
2011年6月1日 読売新聞夕刊 「海の細道」より
「大和」よりヨモツヒラサカスミレサク 川崎展宏
俳人川崎展宏は昭和二年、母の実家である呉の海産問屋で生まれた。父は海軍士官。終戦のとき十八歳だった。
この人には戦争の名句がいくつもある。この句のカタカナ部分は海底の大和からの打電の形をとる。ヨモツヒラサカ(黄泉比良坂)は死の国(黄泉)へとつづく坂である。
川崎はなぜあまたの戦争の句をよんだか。(この記事の著者 長谷川櫂氏は大和ミュージアムを訪れたことを引き合いに出しておられます)
館内の一面に大和とともに海底で眠る乗員たちの遺影が並んでいる。ほとんどが二十歳前後のまだあどけない若者である。
この世に人として生まれながら人生の喜びもしらぬまま、文句ひとついわず戦争に殉じた同世代の若者たち。川崎の句は戦争の時代を生きのびた者から彼らへの詫びではなかったろうか。
ヨモツヒラサカスミレサク
祖父が打電したと。
そう思うことにいたしました。
枕崎も呉も訪れたことがなく、遠き地を思います。
4月7日は、仕事となりますが、墓参りの予定でおります。
落ち着いたら、二艦隊をめぐる旅をしたい。
こう思っております。
いつもご高覧ありがとうございます。
私も第二艦隊の遺族ではありませんが、30数年思い入れのある艦や英霊に対する御心は多少なりとも持ち合わせておりますので、枕崎の平和祈念展望台での追悼式には2度参列させて頂きました。
縁あって大和の八杉さんの講演会の壇上を飾った大和の大型模型を枕崎市へ寄贈させて頂き、現在は漁港前の地場センターに展示して頂き大和や沖縄特攻の事実を伝えて貰っています。
又いつか訪ねたいと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
>文官として勤務していた法務官を武官扱いにしたのが、法務科士官の制度です。
海軍刑務所の看守なども法務兵や法務科の下士官になったと聞きます。
前段部分については、昭和17年4月1日の改正により法務官が法務科士官になったことは分かっていましたが、後段部分については勉強不足であまり知りませんでした。そこでアジ歴で調べてみました。
昭和20年2月9日法律第5号で海軍軍法会議法が改正され、録事は法務科の特務士官、准士官または下士官を以て、警査は法務科の下士官又は兵を以て之に充つ、となったことが分かりました(ただし施行は同年5月15日)。書記はそのまま文官だったということになります。
また看守などについても、録事、警査と同様の措置が採られたことが確認できました。
おかげさまで大変勉強になりました。
法務科士官の制度です。
海軍刑務所の看守なども法務兵や法務科の下士官になったと聞きます。
でも法務科士官なら、襟章や肩章の色による識別線はともかく
軍服を着ていたと思います。
おせっかい焼きさんのお説の通り、
奏任官待遇の軍属ではないでしょうか。
それと士官から兵にいたるまで、
任地や勤務先を「選ぶ」ことは確かにできませんでした。
しかし海軍は
異動に際して本人の希望を意外と聞いてくれるところでもあったそうです。
もしかしたら以前にも投稿したかもしれませんが‥‥‥
学徒出身の予備士官が艦艇勤務を希望したら、
駆潜艇乗組を命じられました。
しかも教官から
「ちいさなフネだが、南方で随分と暴れたヤツだ。お前も頑張れ」と励まされました。
光人社から出ている『‥‥よもやま物語』シリーズで読んだ話です。
もっとも南方勤務の長かった短期現役の主計科士官が異動に際して
「東京方面陸上勤務ヲ熱望ス」と希望を出したら、
返ってきた辞令が「父島分遣隊勤務を命ズ」だったという話もあったそうです。
阿川弘之さんの本に出ています。
もっとも雨倉孝之さんによれば、
下士官兵は人数が多いので
海兵団で転出者を整列させて
「‥‥‥、以上何名、××乗組を命ずる」
ということが多くなったそうですが。
酔漢さんのお爺様も異動にの際に希望を出し、
それが叶えられたということはあると思います。
私の中でも大和とヤマトとは完全に別物です。
確かにテレビ版第一作では、
漁船に乗った親子が第二艦隊の出撃を見送る場面と
大和沈没に際して艦長が羅針儀に我が身を縛りつける場面がありました。
(映画版第一作ではどうだったでしょうか)。
それが映画で続篇が何作も作られ、
実写版まで登場し、
「宇宙戦艦」ヤマトが独り歩きしてしまっているので、
ひときは「大和とヤマトは別物」の重いが強いのだと思います。
仙台護国神社の英霊顕彰館でヤマトの模型を見た時には、
大いに驚きました。
英霊顕彰館は飽くまでも国のために命を捧げた戦死者を偲ぶ場であり、
御遺族の皆さんが遺影や遺品と向き合って
故人と対話する場です。
同じ模型を展示するにしても、
模型博物館なら別です。
しかし英霊顕彰館は模型博物館ではありません。
護国神社でもあまり深くは考えなかったのだとは思いますが、
いささか軽率との批判は免れないでしょう。
英霊顕彰館に宇宙戦艦ヤマトの模型を展示することには
強い違和感を覚えます。
新たな情報に感動すら覚えました。
そして、祖父ですが、自身としてはこうです。
「親父、そんでも、じいちゃんは下士官だすぺ。下士官が自分の持ち場選べっべか?」
「んだども、自分で志願しねくても二艦隊さぁいぐことはねぇんだべ」
このような会話から記事になりました。
おっしゃいます通り、下士官が配属先を選べるとは思いません。
ありがとうございます。
第二艦隊司令部へ、祖父が着任したときの気持ちが想像できました。
重ね重ねありがとうございました。
上記投稿は私です。すいません。
>昭和19年11月に発令された海軍の人事異動で、祖父は第二艦隊配属となり、同時に大和乗艦しております。「断るどころか、自分で配属先を選べる立場だった」との話もあります。
確証があるわけではありませんが、一少尉が「自分で配属先を選べる立場だった」とは思えません。人事異動に対して、一少尉の立場で、どうのこうの言うことはできなかったはずです。どんなに不満があろうと受け入れざるを得ません。
仮に希望を言うにしても、せいぜい前線に出してくれとか、今の勤務が長くなったので別の勤務に変えてくれとか、というくらいではないでしょうか。
それに出先の小部隊などに配属されるのとは違って、艦隊司令部附として配属されるというのは、やはり名誉なことだったのではないでしょうか。例えて言えば、支店・出張所勤務と本社勤務との違いみたいなものでしょうか。前者のほうが気楽でいいと思う人もいるかも知れませんが。ですからご祖父は「大和」の司令部に、緊張しつつも勇躍赴任したと考えられます。
失礼しました。
2F軍法会議法務官兼2F司令部附黒田法務大尉が「大和」に乗って戦死しています。GF司令部附兼2F司令部附海軍書記垣原順治郎(GF軍法会議附兼2F軍法会議附海軍録事垣原順治郎という辞令も出ている)とGF軍法会議附兼2F軍法会議附海軍警査山根岩夫も乗っていた可能性があります。この他に、彼らの上司であるGF軍法会議法務官兼2F軍法会議法務官GF司令部附2F司令部附仁礼愛之法務大佐も乗っていたと思われます(当時の職名は長たらしいので、略語を使い、関係部分だけを記載しました)。
それは昭和19年10月の捷号作戦時、GF軍法会議法務官兼1KdF軍法会議法務官2F軍法会議法務官GF司令部附1KdF司令部附2F司令部附由布喜久雄法務大佐、2F軍法会議法務官兼2F司令部附皆川一郎法務大尉、GF司令部附兼1KdF司令部附2F司令部附藤本宗利書記、GF軍法会議附兼1KdF軍法会議附2F軍法会議附山根岩夫警査が「武蔵」に乗っていた(「武蔵」戦時日誌による)ことで推測できます。
書記は「判任官」ですが、「各庁職員優遇令」(昭和十八年三月二十日勅令第百三十七号)により奏任官になった可能性があります。「各庁職員優遇令」には「各庁の属、書記、技手其の他の判任文官(同一官名の奏任文官の制あるもの及月俸八十五円以下を最上級俸とするものを除く)たる者にして重要の職に当り事務練熟優等なるものは優遇の為特に之を奏任と為すことを得」とあります。
垣原書記が、果たして当時奏任官であったかどうか確認する必要がありますが、もし奏任官であったとしたら、謎の人物は海軍書記垣原順治郎という可能性が強くなります。なお海軍警査は「判任官待遇」です。
仁礼法務大佐が「大和」で戦没しなかったことは確かですから、出撃までに黒田法務大尉を除いて仁礼法務大佐、垣原書記、山根警査は「大和」を退艦したと思われます。
101頁の判任官と思われる5人の内、1人は山根警査として、残りの4名はどういう関係の人たちだったのでしょうか。英語に堪能な人が嘱託となり、敵信傍受に従事していた可能性がありますが、戦死者に1人もいないので、可能性はないようです。
防研図書館で「海軍辞令公報乙」などを調べることができれば、もう少し確かなことが分かるのですが、ちょっと行く機会がありません。
なるほど、よくよく観察すればそうですね。
写真の写しは手元にございますが(ネガから焼き増ししたもの。キャビネサイズ)そういう見方はしておりませんでした。
「本編」は終了いたしました。
ご指導、ご鞭撻に感謝いたします。
多くの事を教えてくださり、本当にありがとうございました。
祖父は二次士官ですが、この集合写真は「渡辺光男様」から父が頂戴したものです。
二十年一月七日と、記録はございませんが、渡辺様からはそう聞いたと父が話しておりました。
>いつぞやお話しました、「謎の民間人」が写っております写真を再度ご紹介いたします
祖父は右上に見られますが、中央の私服を着ている人物は同博物館でも「未確認人物」として現在も調査中だそうです。
民間人ではなく、軍属だと思います。私が見ているのは『呉市海事歴史科学館図録 日本海軍艦艇写真集別巻 戦艦大和・武蔵』(ダイヤモンド社)100頁に収録されている写真です。同じ101頁に掲載されている大和准士官室士官の中に同じ服装、襟章の人が5人写っています。
このような集合写真を撮るときに民間人が士官に交じって写ることはないと思います。
海軍の服制についてはあまり詳しいことは分かりませんが、写真の人物は私服ではなく、開襟式略服で、襟章と胸に略綬が見られますし、軍帽もかぶっています。襟章は、写真でははっきりしませんが、海軍文官従軍服制で定められたもののように感じます。
軍属だとすれば、2次士官室士官の中に入っているということは、奏任官クラスの文官ではないでしょうか。上記101頁の人たちは判任官クラスということになるでしょう。
しかし当該人物の名前を特定する具体的な情報は、残念ながら持っていません。
ただ第2艦隊司令部附か大和乗組かのどちらかであったと思われますが、第2艦隊司令部・大和戦没者名簿を見ると、軍属として判任官より下位の傭人6名(大和乗組)の名前が出てくるだけです(傭人では士官、准士官の集合写真に写ることはないと思いますが、人数は一致している)。特に第2艦隊司令部の戦没者に軍属が1人も出てこないのが、ちょっと気になります。出撃までに軍属全員が転補しているか、奇跡的に戦死者が1人も出なかったかのどちらかとすれば話は別ですが。
なぜ同じ土俵にあるのか、その価値観がわからないでおります。
「大和」はSFの材料になることは多々あるのですが、慰霊の意が込められるべき場所には、やはりそぐわないのではないのかと思います。
「遊び感覚」では、やはりそういう意味でも違和感はあります。
靖国神社だったら大騒ぎになっているかもしれませんね。
自分はヤマト展示後、訪ねておりませんが、今度帰省の際には行ってみようかと思っております。
>仙台護国神社にも「宇宙戦艦ヤマト」の展示
へぇ、そうなんですか? 驚きです。
今の日本、公私混同というか、節操がないというか、われわれテレビ漫画第一世代のせいだといわれればそれまでですが、漫画、アニメの空想の世界を現実の歴史の展示物に混ぜる感覚が信じられませんね。
「公」の中に平気で「私」を持ち込む感覚が今の風潮でしょうね。
音楽の教科書にポップスが、英語の教科書にビートルズが、この流れも同じですね。
片や、維新の会の「君が代条例」。この会の考え方だと大和展に「ヤマト」は絶対許せないと思いますが、この人たち意外と平気だったりして。