酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

サッカー編 あの頃の宮城は 1

2007-05-09 12:24:49 | サッカーの話
 1978年初夏。宮城県蹴球場。コンクリートの客席に、芝生席。土のグラウンド。時たま土ホコリが舞うピッチ。
 宮城ユースゴールキパー佐藤敏彦(塩釜高校)の甲高い声が響いていた。相手は秋田ユース代表。
「宍戸(仙台向山高校)もどれ!サイド!サイド!。井深(仙台向山高校)右!」
一瞬のスキを突かれた感じである。宮城の誇る黄金の中盤がミスをした後、最後の攻撃を秋田が仕掛けてきた。この時点でスコアは2-1。エース茂木(宮城県工業高校)が叩き出した2点を必死に守ろうとしているイレブンであったが、PKを与え1点差に詰め寄られたばかりであった。
 秋田のカウンターアタックは鋭く、サイドを抉られた格好の宮城は追いつくディフェンダーはいなかった。右ファーサイドからセンタリングがあがった。場内は悲鳴にも似た声があがった。そのとき、ゴールキーパー佐藤は、果敢にも飛び出し、パンチング。76cmの小柄なゴールキーパーはその勇猛果敢なプレイで宮城ユース代表の座を勝ち取っていたのだ。ヘディング試みた相手フォワードと激突。しかし、ボールは後ろまで下がっていた鈴木淳(仙台向山高校)の足元へ渡った。そして奇跡が始まった。監督庄子(仙台向山高校サッカー部監督。当時体育教師)は鈴木淳にボールが渡った瞬間立ち上がった。
「鈴木イケーモッテケー!」
センターラインよりやや後方からドリブルを開始。左から中央突破を試みる。宮城の10番はそれまで、相手ディフェンダーから執拗なマークをされていた。この時もマンツーマンに近いマークをされていた。が、しかし、エンジン全開の鈴木を止める程、相手のスキルが勝っているわけではない。鈴木のドリブルは、マラドーナ(翌年第二回ワールドユースサッカーが国立で開催されますが、アルゼンチンが優勝。彼のプレイを目の当たりにした酔漢はそのテクニックの凄さにあぜんとしました。この話はそこまで繫がります)のような直線的なものでも、カズのような相手にフェイントをかけて抜き去るというものでもなく、彼独特の柔らかいボールタッチで、相手を体ごと抜くというものでした。
一人目、二人目をかわし、三人目がしつこく足元に食らい着いてきました。いったん体の後ろにボールを回すと、相手の足が空振り。ヒールでボールを横に出したかと思えば、左足のトウでボールを蹴りだし、相手の又を抜いて行きました。そして、全速力でゴールを目指します。ほぼゴールラインまで行き着いたとき、彼はミドルシュートを放ちました。しかしゴールポストにあたりました。ボールがルーズになりかけたとき、フリーになっていた茂木のヘディング。逆をつかれたゴールキパーは、必死に手を伸ばしたものの、届きません。ゴーーール!3点目が入りました。茂木はこの試合ハットトリック。だが、観客は茂木のゴールよりも鈴木淳の華麗なテクニックに感動していました。
(酔漢自身も母校の一年先輩である鈴木淳さんのプレイに感動しましたしちなみに、ゴールキパー佐藤敏彦さんは酔漢の従兄弟です)
後半終了間際のこのプレイは、あとあとまで語り草になるのでした。
TV(地元仙台放送)は生中継をしていました。アナウンサーが高校生の大会とはいうものの、やや興奮した状態で実況を続けております。
「杉山さん今のプレイの解説をお願いします」
「。。。。。。。」
「杉山さん。杉山さん」
翌年開かれるワールドユース大会日本代表選考をかねての試合。正直、宮城の田舎でこんな試合が行なわれるとは、解説者でもあり、代表監督でもある杉山さんも驚きのあまり解説することを忘れていたというのが事実でした。
「まったくノーマークでした。いやこれは私のことです。こんすばらしい高校生が宮城で育っていたとは。驚きです。世界レベルの試合です」

この大会の後、日本代表の発表がありました。高校生は3人選考され鈴木淳さん(現在は新潟監督)は見事選ばれました。背番号10を背負って。風間、水沼と言った、全国区の天才プレイヤーを押しのけての背番号。彼の本番での活躍は次回書き込みます。

帰省すると、酔漢は従兄弟の敏彦ちゃんと必ず飲みに出かけます。話題はサッカーの事。(甥っ子のこともね)
「あの頃の宮城強かったよね。敏彦ちゃんは小学校の頃からゴールキパーでしょ。
早稲田でもそうだし」
「小学校の時にいきなりキーパーになってそれからずっと」
「この前読売新聞に塩釜FCと小幡先生がでたんだけんど?」
「あの頃は敵だったのっしゃ。おらほとは、よく練習試合なんかしのっしゃ」
「塩竃のレベルって高いの?」
「小学生は高いよ。ベガルタユースに入ってレギュラーやっていける子もいるしね。でもあの頃は関東学生でも宮城出身者はレギュラー多かったし、早稲田も酔漢の先輩、宍戸と井深いたしな」
「久(きゅう)さん(加藤久)も代表のキャプテンだったし」

そう、宮城のサッカーは高校選手権こそ1.2回戦のレベルでしたが、一人ひとりの実力は極めて高いところにありました。そして今でも塩竃から全国をあきらめていない男がいるのでした。

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