酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

サッカー編2 あの頃の宮城は

2007-05-18 17:18:11 | サッカーの話
 酔漢のいた(もうさんざんお話しましたが)塩竃市立第二小学校は、野球の盛んな小学校でした。当時といえば、野球が人気ナンバーワンのスポーツであることは、確かなのですが、塩竃はサッカーも盛んな町でした。特に、これも小学校レベルでは県下1、2を争うチームがありました。塩釜FCは当時、塩竃市内の小学校からオープンで人を集めた、クラブでした。特に、塩釜市立月見ケ丘小学校や第一小学校の児童が多かったと記憶しています。塩釜FCの前身「仁井町スポーツ少年団」は加藤久さん(偉大な加藤久さんを従兄弟は「キューちゃん」と呼んでます)も所属した団体です。としひこちゃんは小学校の頃からゴールキーパーでした。小学校の頃遊びに行くとよく「酔漢ちゃんもサッカーやればいいちゃ」といわれましたがそばにいた親父が「だ
めだっちゃ、だれこいづおくびよたかりだおん」と返されて終わります。
彼は実際、ゴールキーパーとしては、小柄な方かもしれませんが、小学校時代は健康優良児で表彰されるようながっちりとした体形をしておりました。その塩釜FC出身者で構成された、当時の塩竃高校(男子高校)は結束の強い、常に上位を狙うサッカーチームでした。(彼をとりまく、サッカーの話、早稲田大学のリーグ戦の話などはまた後程)
 さて、話は多少変わります。加藤久さんといえば、元日本代表主将、Jリーグ創成期にも読売クラブの主将を務めてこられた人ですが。
「お兄ちゃん、今日から教育実習生が来たんだけど。加藤先生ってサッカーすごい上手な人だって言ってた」(当時、酔漢の妹は塩竃市立第一中学校に通っておりました)
「どこの大学生?」
「早稲田だって。塩竃にも早稲田に行った人いたんだ」
「そりゃいるさ。卒業生なんだ」
「家の出身で、仙台二高から早稲田の教育だって、その上、読売クラブの現役サッカー選手で、ひげがあるの」
妹は、同じクラスのサッカー部の友人に頼んで、サインをもらってきたようでした。(今も実家にあるのかな)「読売クラブ 加藤久」と書いてあったのを覚えています。
「陽人君(はるひと)にたのんでもらっちゃった」
彼は当時塩竃一中サッカー部の主将でした。
妹の話だと彼はその後、読売クラブの下部に所属したそうですが、その後どうなったかは、知りませんでした。
 で、4月24日読売新聞
塩釜FCヴィーゼ 足元から地域に根差す」という記事が目に留まりました。小幡先生と芝生のグラウンドの写真。そして記事。読んで行くと。
「就任3年目の小野寺陽人監督」とそのコメント。彼は、まだサッカーを続けていたのでした。地元で。そして、記事の最後には「地域に根ざす利点を武器に、長期的にJリ-グ入りを目指す」(4月27日読売新聞抜粋)とありました。
「塩竃近くにサッカー場が出来て、ベガルタとヴィーゼでR45(国道45号線)ダービーマッチ」これは、夢でしょうね。ソニー仙台も強いしね。

「としひこちゃん、塩竃から早稲田大学蹴球部、加藤久さんと2人いるわけだ」
「でも代表選手は宮城出身はキューさんだけだおんな。小幡先生は塩竃から代表選手を出して、ワールドカップで活躍してもらうのが夢なのっしゃ」

塩竃発世界へ、田舎のクラブが世界を目指す。FCヴィーゼの成績を今後も見守って行きたいと思います。「本当に地元の球団だおんな。応援すっぺ。」

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1 コメント

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加藤 久 (クロンシュタット)
2008-05-31 04:12:58
高校2年のとき、二高のサッカー部がインターハイに出場しました。
確か、佐賀県で開催されたのかなー。
もちろん加藤キャプテンです。
彼は1年先輩です。
大学まで一緒なんですが...

ちなみに私の教育実習は、二高(地理)でした。

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