「硫黄島」最近、映画にもなりました。酔漢が最初に読みました大和関連の本「戦艦大和のさいご」(出版社覚えておりません。ですが内容は小学校高学年にしてはすばらしく史実を伝えていたと思います)では、その章の始めが「硫黄島」だったのでした。
サイパン島陥落の後、B29による本土空襲が激化します。が、「サイパン島と日本の丁度中間点に位置する硫黄島に飛行場を設置し、空襲機のメンテナンスを容易にする」という目的のために、アメリカが欲しくてならない島だったと聞きました。
西竹一と言えばロスアンゼルスオリンピック馬術の金メダリストです。戦車隊を率いております。「バロン西」の名は世界的に知られております。アメリカの実情には大変詳しいことは疑う余地もございません。また栗林忠道中将はアメリカ留学経験もあります。一機の飛行機ももたない航空隊「第二十七航空隊」は市丸利之助少将が率いております。結果3月27日に壮絶なる戦死を致しております。
市丸少将が突撃を慣行する際英語で直接ルーズベルト大統領へ抗議文を読み上げております。
「開戦の責任は米国大統領にあり。暴力で世界を支配せんとすれば、闘争は永遠に続き終わりなき世界となる。世界に平和と幸福をもたらすことあらず」
硫黄島の顛末は、最近の映画等でよく知られることとなりました。
アメリカをよく知る指揮官によって立案された作戦、遂行は、日本軍史におきまして稀有な史実として残っております。
「玉砕、突撃はなく、最後まで与えられた少ない物資でどのように生き残れる戦いをするか」に尽きるのです。
「サイパン玉砕」とは違った戦術だったと考えます。
アメリカ軍史料では実際の戦死者数は海兵隊だけでも2万4千名を越えております。日本軍の戦死者数を上回る数字だったのです。
有名な写真「摺鉢山の星条旗」は2月23日。先の市丸少将の突撃が3月17日。栗林中将が自決したのは同月27日。徹底抗戦後の結果だったのでした。
「こんな島で生涯を閉じるのは本望ではない。しかし、東京が少しでも空襲にさらされる事がなきよう、ここを守備する」
栗林の手紙にこんな件がございました。
大和、司令長官室内。「富嶽図」が一際大く見えるそんなある日。
「奮戦スレド徒死スルナカレ」
伊藤は黙って自ら書いたその訓を見ております。
「最早、海軍は特攻という戦略しか持ち得ないようになった。大西君は今だ特攻、特攻と言っておるが果してそれが正しいのだろうか」
第二艦隊副官石田少佐にこう質問しているのでした。
石田は黙って「ハイ」と言うしかありませんでした。
1945年2月3日:日本軍の航空作戦に関する陸海軍中央協定:陸海軍航空戦力を統合し、東シナ海周辺に来攻する敵に対する特攻と本土防衛の強化策を決定。主攻撃目標は,海軍が空母部隊、陸軍が輸送船団。しかし、3月以上の特攻作戦では,輸送船攻撃約束した陸軍も、士気の衰えを憂慮し、空母など大型艦艇を特攻目標とた。
「東海大学 鳥飼先生 史料より抜粋」
3月17日一通の電文が大和通信室に入電します。
「米機動艦隊、カロリン諸島ウルシー泊地を14日に出港。九州方面へ進出しつつあり」
「酔漢祖父殿、どのような電文ですか」
若い電信室兵が尋ねております。
「敵部隊が動いたのっしゃ。こいずばはやぐ参謀さ届けてけさいん」
「長官、これは・・・」有賀が伊藤に尋ねております。
「いよいよだね。宇垣君はどうするのだろう。GFはどのような作戦に出るか。特攻しかないんだけどね」
第五航空艦隊司令長官宇垣纒(まとめ)中将は開戦から日記を綴っております。
「戦藻録」と題するこの日記は太平洋戦争の記録として特筆するものだと考えております。
以前、大和公試の章でご紹介いたしました。
この三月十七日からのものをご紹介いたします
三月十八日 日曜日(晴れ)
敵機は○四二○頃ヨリ都井岬付近に少数出現。吊光弾を投下、誘導の模様ナリ。その後、敵機は○五四○より○九五○の間に連続来襲、三七五機に達セリ。
黎明時、発進セル彩雲10機の報告を総合し、敵は空母四、三、三、五計十五の四群なる事が判明。その四群中の一空母は炎上中にて、夜間攻撃の成功セルこと明瞭ナリ。
三月十九日 月曜日(曇後晴)
夜間索敵機は二三○○ころより敵を捕捉、○○一○及び○五三○ころより火柱一、炎上中のもの二、爆発一を認めるも、攻撃隊よりの報告なく詳細不明。
幕僚の大部分疲労の色濃厚にして攻撃中止。
三月二十日 火曜日
彩雲の黎明索敵により、都井岬の東方約一二○カイリを南下中の敵は六、四、一の空母を含む三群ナルこと判明。特攻隊は南北より迂回して、敵に迫り、エセックス型一、中部に命中、大爆発炎上、またサラトガ型一、大火災、両者とも撃沈確実。他に一隻の空母艦橋に突入、大火災を生じせしめたり。
戦果をあがれるをみて、一層猛攻を反復うべく奨励したるも、重爆銀河、天山など少数機に過ぎず、成果なし。
三月二一日 水曜日(晴)
神雷部隊は陸攻十八、桜花搭載一六 一一三五 鹿屋基地を出発セリ。
桜花隊員の白鉢巻、滑走中の一機が瞭然と目に入る。成功してくれと祈る。
しかるに五五機も出るはずの掩護戦闘機、整備完了せず、三○機に過ぎず。索敵続行の結果、空母三、二、二の三群集結隊形にて、南西に航ずるを知る。
桜花部隊の電波を、耳をそば立てて待つこと久しくも、ようとして声なし、その内掩護戦闘機の一部帰着し、悲痛なる報告をナセリ。
敵グラマン役50機の邀撃を受け空戦、墜撃数機なりしも我も離散し、陸攻は桜花を捨てて、わずか十数分にして全滅の悲運に会セリト。嗚呼。
大和通信室にはこの状況が刻々と入電しております。それは酔漢祖父が受信しておるものです。即、参謀、司令室へと報告されております。
それより早く十七日、我GFは「敵機動部隊がカロリン諸島ウルシー泊地を十四日頃出港し、九州方面に進行しつつあり」という情報を得た。
この機動部隊に対する作戦について、GF司令長官豊田副武(そえむ)海軍大将と九州鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官宇垣纒(まとめ)中将との間に意見が対立、激しい議論の応酬がおこなわれた。(中略)
この作戦で、五航艦は六十九機の特攻機を含む百九十三機の飛行機を使用し、百六十一機、すなわち精鋭機の八十%を失い、さらに地上で待機中の五十機を爆破された。一方GF司令部は、五航艦の報告により、敵に与えた被害は撃沈空母五隻、戦艦二隻、大型巡洋艦一隻、計十一隻に達し、このため米軍の東支那海周辺地域に対する次期進行企画は一頓挫をきたし、その時期は遅延するだろうと判断するとともに、米機動部隊は戦力の恢復のためウルシー泊地に帰投するものと判断した。しかし、実際には空母「フランクリン」一隻のみ大破、他数隻を小破したに過ぎなかった。
「大和副長 能村次郎 手記より抜粋」
3月25日、アメリカ機動部隊は沖縄本島南東の海域に、現れます。
この時点で沖縄進行が明らかになります。
3月26日 二○○○ やはりGFからの入電を受けます。通信室です。
GF司令長官豊田副武司令長官は「天号作戦」を発令します。
天号作戦指導要領
1.1945年3月末を目途に航空作戦準備を完成,来攻部隊を撃破する。
2.航空作戦の主要目標は輸送船団。
3.米空母任務部隊の撃滅のために,空母部隊が本土に来攻した場合,本土配置の特攻兵力の全力を使用する。また,南西諸島方面に来攻した場合,特攻兵力の一部を使用する。
4,航空基地を整備し,地上部隊による確保にも配慮
南西諸島は、九州南方から台湾東方にある奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島。
3月26日 アメリカ軍は沖縄慶良間列島に上陸します。
総指揮はスプルアンス。伊藤整一司令長官を自宅へ招き、酒を振舞った本人でした。
大和は日々の訓練と月月火水木金金とルーチンをこなしております。
ですが、これまでとは違って緊張感が艦内を走行しております。
「沖縄へ」噂とはなるものの、そうではないと信じる者もおりました。ですが運命を決定される日を感じ取っているのは確かなのです。
健在の大和もいずれは、遠からず運命を決する重大機に逢着するであろう。悲観的な空気など微塵もなかった艦内にも、いつとはなく落ち着かぬ、というよりはざわめいた気分が漂うようになってきたのも無理ならぬことであった。
「大和副長 能村次郎 手記より抜粋」
運命が加速度的に動き始めたのでした。
サイパン島陥落の後、B29による本土空襲が激化します。が、「サイパン島と日本の丁度中間点に位置する硫黄島に飛行場を設置し、空襲機のメンテナンスを容易にする」という目的のために、アメリカが欲しくてならない島だったと聞きました。
西竹一と言えばロスアンゼルスオリンピック馬術の金メダリストです。戦車隊を率いております。「バロン西」の名は世界的に知られております。アメリカの実情には大変詳しいことは疑う余地もございません。また栗林忠道中将はアメリカ留学経験もあります。一機の飛行機ももたない航空隊「第二十七航空隊」は市丸利之助少将が率いております。結果3月27日に壮絶なる戦死を致しております。
市丸少将が突撃を慣行する際英語で直接ルーズベルト大統領へ抗議文を読み上げております。
「開戦の責任は米国大統領にあり。暴力で世界を支配せんとすれば、闘争は永遠に続き終わりなき世界となる。世界に平和と幸福をもたらすことあらず」
硫黄島の顛末は、最近の映画等でよく知られることとなりました。
アメリカをよく知る指揮官によって立案された作戦、遂行は、日本軍史におきまして稀有な史実として残っております。
「玉砕、突撃はなく、最後まで与えられた少ない物資でどのように生き残れる戦いをするか」に尽きるのです。
「サイパン玉砕」とは違った戦術だったと考えます。
アメリカ軍史料では実際の戦死者数は海兵隊だけでも2万4千名を越えております。日本軍の戦死者数を上回る数字だったのです。
有名な写真「摺鉢山の星条旗」は2月23日。先の市丸少将の突撃が3月17日。栗林中将が自決したのは同月27日。徹底抗戦後の結果だったのでした。
「こんな島で生涯を閉じるのは本望ではない。しかし、東京が少しでも空襲にさらされる事がなきよう、ここを守備する」
栗林の手紙にこんな件がございました。
大和、司令長官室内。「富嶽図」が一際大く見えるそんなある日。
「奮戦スレド徒死スルナカレ」
伊藤は黙って自ら書いたその訓を見ております。
「最早、海軍は特攻という戦略しか持ち得ないようになった。大西君は今だ特攻、特攻と言っておるが果してそれが正しいのだろうか」
第二艦隊副官石田少佐にこう質問しているのでした。
石田は黙って「ハイ」と言うしかありませんでした。
1945年2月3日:日本軍の航空作戦に関する陸海軍中央協定:陸海軍航空戦力を統合し、東シナ海周辺に来攻する敵に対する特攻と本土防衛の強化策を決定。主攻撃目標は,海軍が空母部隊、陸軍が輸送船団。しかし、3月以上の特攻作戦では,輸送船攻撃約束した陸軍も、士気の衰えを憂慮し、空母など大型艦艇を特攻目標とた。
「東海大学 鳥飼先生 史料より抜粋」
3月17日一通の電文が大和通信室に入電します。
「米機動艦隊、カロリン諸島ウルシー泊地を14日に出港。九州方面へ進出しつつあり」
「酔漢祖父殿、どのような電文ですか」
若い電信室兵が尋ねております。
「敵部隊が動いたのっしゃ。こいずばはやぐ参謀さ届けてけさいん」
「長官、これは・・・」有賀が伊藤に尋ねております。
「いよいよだね。宇垣君はどうするのだろう。GFはどのような作戦に出るか。特攻しかないんだけどね」
第五航空艦隊司令長官宇垣纒(まとめ)中将は開戦から日記を綴っております。
「戦藻録」と題するこの日記は太平洋戦争の記録として特筆するものだと考えております。
以前、大和公試の章でご紹介いたしました。
この三月十七日からのものをご紹介いたします
三月十八日 日曜日(晴れ)
敵機は○四二○頃ヨリ都井岬付近に少数出現。吊光弾を投下、誘導の模様ナリ。その後、敵機は○五四○より○九五○の間に連続来襲、三七五機に達セリ。
黎明時、発進セル彩雲10機の報告を総合し、敵は空母四、三、三、五計十五の四群なる事が判明。その四群中の一空母は炎上中にて、夜間攻撃の成功セルこと明瞭ナリ。
三月十九日 月曜日(曇後晴)
夜間索敵機は二三○○ころより敵を捕捉、○○一○及び○五三○ころより火柱一、炎上中のもの二、爆発一を認めるも、攻撃隊よりの報告なく詳細不明。
幕僚の大部分疲労の色濃厚にして攻撃中止。
三月二十日 火曜日
彩雲の黎明索敵により、都井岬の東方約一二○カイリを南下中の敵は六、四、一の空母を含む三群ナルこと判明。特攻隊は南北より迂回して、敵に迫り、エセックス型一、中部に命中、大爆発炎上、またサラトガ型一、大火災、両者とも撃沈確実。他に一隻の空母艦橋に突入、大火災を生じせしめたり。
戦果をあがれるをみて、一層猛攻を反復うべく奨励したるも、重爆銀河、天山など少数機に過ぎず、成果なし。
三月二一日 水曜日(晴)
神雷部隊は陸攻十八、桜花搭載一六 一一三五 鹿屋基地を出発セリ。
桜花隊員の白鉢巻、滑走中の一機が瞭然と目に入る。成功してくれと祈る。
しかるに五五機も出るはずの掩護戦闘機、整備完了せず、三○機に過ぎず。索敵続行の結果、空母三、二、二の三群集結隊形にて、南西に航ずるを知る。
桜花部隊の電波を、耳をそば立てて待つこと久しくも、ようとして声なし、その内掩護戦闘機の一部帰着し、悲痛なる報告をナセリ。
敵グラマン役50機の邀撃を受け空戦、墜撃数機なりしも我も離散し、陸攻は桜花を捨てて、わずか十数分にして全滅の悲運に会セリト。嗚呼。
大和通信室にはこの状況が刻々と入電しております。それは酔漢祖父が受信しておるものです。即、参謀、司令室へと報告されております。
それより早く十七日、我GFは「敵機動部隊がカロリン諸島ウルシー泊地を十四日頃出港し、九州方面に進行しつつあり」という情報を得た。
この機動部隊に対する作戦について、GF司令長官豊田副武(そえむ)海軍大将と九州鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官宇垣纒(まとめ)中将との間に意見が対立、激しい議論の応酬がおこなわれた。(中略)
この作戦で、五航艦は六十九機の特攻機を含む百九十三機の飛行機を使用し、百六十一機、すなわち精鋭機の八十%を失い、さらに地上で待機中の五十機を爆破された。一方GF司令部は、五航艦の報告により、敵に与えた被害は撃沈空母五隻、戦艦二隻、大型巡洋艦一隻、計十一隻に達し、このため米軍の東支那海周辺地域に対する次期進行企画は一頓挫をきたし、その時期は遅延するだろうと判断するとともに、米機動部隊は戦力の恢復のためウルシー泊地に帰投するものと判断した。しかし、実際には空母「フランクリン」一隻のみ大破、他数隻を小破したに過ぎなかった。
「大和副長 能村次郎 手記より抜粋」
3月25日、アメリカ機動部隊は沖縄本島南東の海域に、現れます。
この時点で沖縄進行が明らかになります。
3月26日 二○○○ やはりGFからの入電を受けます。通信室です。
GF司令長官豊田副武司令長官は「天号作戦」を発令します。
天号作戦指導要領
1.1945年3月末を目途に航空作戦準備を完成,来攻部隊を撃破する。
2.航空作戦の主要目標は輸送船団。
3.米空母任務部隊の撃滅のために,空母部隊が本土に来攻した場合,本土配置の特攻兵力の全力を使用する。また,南西諸島方面に来攻した場合,特攻兵力の一部を使用する。
4,航空基地を整備し,地上部隊による確保にも配慮
南西諸島は、九州南方から台湾東方にある奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島。
3月26日 アメリカ軍は沖縄慶良間列島に上陸します。
総指揮はスプルアンス。伊藤整一司令長官を自宅へ招き、酒を振舞った本人でした。
大和は日々の訓練と月月火水木金金とルーチンをこなしております。
ですが、これまでとは違って緊張感が艦内を走行しております。
「沖縄へ」噂とはなるものの、そうではないと信じる者もおりました。ですが運命を決定される日を感じ取っているのは確かなのです。
健在の大和もいずれは、遠からず運命を決する重大機に逢着するであろう。悲観的な空気など微塵もなかった艦内にも、いつとはなく落ち着かぬ、というよりはざわめいた気分が漂うようになってきたのも無理ならぬことであった。
「大和副長 能村次郎 手記より抜粋」
運命が加速度的に動き始めたのでした。
特攻のお題目です。
ですが、誰が「行きたくない」と本音を言いましょう。
宇垣の日記を読んでおりますと、数行の間に「いったいどれだけの命が失われているのだ」
と感じざるを得ません。
指揮官としては、作戦遂行のためなのでしょうが「桜花」「回天」隊員達の思いはいかほどか。
「仙台青葉神社」祖父の隣のブースには特攻で戦死された宮城県ご出身者の記録が掲げてあります。その前に立ちますと、複雑な思いで一杯になります。
大和建造の際語りました「西島亮二」ですが、戦後多くを語らなかったのは特攻兵器を呉で作ったという思いがあったからではないか、と推察いたしております。
これは多くの証言から知ることができます。
特に、沖縄の様子はGFとリアルタイムに入ってくるのでした。そしてそれは仕官以上には正しく伝達されております。
兵にはうわさがいろいろ広まってはくるのですが、ねじ曲げられた事実ではなく、本物の噂で艦内中に広まっております。
ですから「GFの言っていることが正しくない」という事は誰しも知ったことなのでした。
この作戦にも意見を具申する仕官が大勢おります。これはこれまでの作戦遂行の過程とは違った過程を辿るのでした。
これから語りたいと思います。
ベイスターズがキャンプを行う宜野湾のホテルがお気に入りでした。家内の提案です。
南の海には縁のなかった酔漢にとりまして、東シナ海はまったく異次元な海でした。ハワイやアメリカ西海岸とも違ったにおいでした。
当然「首里城」や「沖縄激戦の跡」を観光するのが王道だとは思うのですが、どうも足が向きませんでした。それは「原爆ドーム」へ行けない感覚と同じなのでした。自身の思いがどうなるのか、それが恐いのです。本音です。
歴史から目をそむけている自分がいるのです。ですが、その恐怖は本物です。
足がすくみ涙を堪えきれない自分がわかるのです。
この話は努めて冷静に語っているのですが、その日が近づくにつれ自信がなくなってきます。
更新遅延はそのせいでもあるのです。
大和の中。広いとはいえ限られた空間で多くの人が人生を考えております。
その過程を祖父を通して語っていきたいと思っております
年末年始のお仕事お疲れ様でした…
それにしても、正月ぐらいは「日本中いっさい働くべからず」と
お触れがでても良いのではないかと思える昨今の風潮ですね。
かく言うオイラも正月2日は宿直勤務でしたが…
大和の戦況はいよいよ火急に入って来たようですね。
ところで、この頃の軍上層部と現代の中東の急進派の思考の共通性を感じてしまうのは不見識というものでしょうか?
どうも、国民を洗脳して自爆テロを強要していたようにしか思えなくてしょうがないのです。
おそらく当時のアメリカにとっての日本は、現代のアルカイダとかわりなかったのではと思わざるを得ないのです…
んでは、また今年もよろしくお願いします。
母艦の開発は英国が先鞭をつけ、フランスやイタリアも所持し、ドイツも建造中でしたね。
でも、母艦を集中かつ主体とした艦隊運用、機動部隊のシステムは日本が開発しアメリカが踏襲し、この2国だけが所持していました。
戦後から今に至るまで、この2カ国だけが成し得たのですね。
貧乏国が必死に建設した帝国海軍も、良くも悪くも、成人式とは無縁の存在ではあります。
・・・荒れる成人式。こんな若者に「未来を託し」沈んでいったのでしょうか。
「戦果の誇大発表」が国民をより悲惨な状況に追い込んだ元凶のひとつです。
護衛空母の甲板のボヤが制式空母撃沈にすり替わります。
諸々の事情はあったのでしょう。でも強気であることが傲慢であることに化けてしまうのは、平成の日本人にも共通しています。
なんだかまとめる力がありません。今から実兄の入院先へ向かいます。
沖縄の旧海軍司令部壕には一度行った事があります。
南部観光には、戦地を外して観光するわけには行きませんね。
沖縄県民が12万人もの犠牲を受けて、悲劇の地であることは、紛れも無い事実です。
聞けば、日本軍によるスパイ容疑の住民虐殺もあり、どこかボタンの掛け違った戦いになっていたような・・・・
沖縄に向かう、生還を考えていない大和の中では、何が起きていたのでしょう?
次回ですかね。