先週、「祖父軍歴」一切が明らかになりました。
これは、「おせっかい焼き」様からのご指導によるものでした。
個人情報保護法に基づきまして、かなりのセキュリティーがかけられておりました。
資料送付先が下記。
厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室資料第四係。
こちらに問い合わせを行いました。
最初に尋ねられましたのが、「海軍、陸軍どちらですか?」でした。
援護局に「海軍」「陸軍」の担当が分かれていたことすら知識がなかった酔漢です。
さて、「資料請求」をいたしまして、翌日には届きました。
その内容。
「個人情報開示申請・請求用紙」これに必要事項を記入致します。
一通り記入を終えまして、添付資料の案内に目を通しますと。
「住民票(現在住んでいる市町村。請求後30日以内のもの)1通」
「運転免許証、保険証のコピー1通」
「開示請求者との関係が明示されている戸籍、または当人の除籍の分かる戸籍等1通」
現在、戸籍は宮城県塩竈市にございますので、母の手を煩わす結果とはなりました。
しかし、祖父と私とを直接結ぶものは1部の書類では無理。または、祖父関係の戸籍等は宮城県七ヶ浜町にありますので、そこまで母を向かわせるわけにはまいりません。
父と私、そして父と祖父とを繋ぐものをそれぞれ2通用意いたしました。
軍歴開示でございますので、祖父の電符が必要です。(記入用紙にあります)
幸い、先だって、祖父の辞令が公開されておりましたし、以前のコメントに「おせっかい焼き」様より教えて頂いた符号を二種記入致しました。
この一切合切を取りそろえるのに、約1週間かかりました。
さて、その後、2週間が経過。
届きました。
祖父の軍歴が全て記入されております。
写真は3部に分かれているものの内、最後の部分です。
その前の2部には、祖父が叔母が生まれた翌々月に休暇申請をし、七日間の休みをいただいている内容とか、賞受賞の履歴などが記入されておりました。
叔母の誕生には、祖父も大変嬉しかったのであろうと。
開戦前年ではありますが、すぐさま申請を行っております。(多少の時間差はありますが)
これは、軍人と言えども、現在の吾々と思うところは変わらない。そうした事も伝わります。
これまで、推測でしかなかった「くだまき」の内容も明らかになった部分もございます。
祖父、大和配乗の日時が「昭和19年12月5日」となってます。
先の「くだまき」では、11月20日の辞令から、計算いたしました。また、第二艦隊参謀長とご栄転になられました「森下信衛」さんの辞令が昭和19年11月23日。大和座乗は12月3日~8日のどちらかと考えております。(しっかり調べればわかる事柄なのですが)
上記の軍歴によれば、祖父は先にも語りましたが12月5日。
第二艦隊の旗艦大和への、座乗は12月23日の伊藤整一司令長官が最後となります。
「19年12月5日 第二艦隊 於 呉 旗艦大和 着任」
これが祖父の最期の切符となります。
一つ一つ精査しております。
乗艦した艦名、その日時。
祖父のキャリアの変遷。
この貴重な資料をもとに、まだ「大和」を語ってまいります。
また、これにより、一般に知られている部分にも訂正せざるを得ない事実も見つかりました。
これも、時間をかけ内容を紐解きましてお知らせいたしたく存じます。
戦後、67年の歳月。そして、祖父戦死からも同じ時間が経過しております。
これは、「おせっかい焼き」様からのご指導によるものでした。
個人情報保護法に基づきまして、かなりのセキュリティーがかけられておりました。
資料送付先が下記。
厚生労働省社会・援護局業務課調査資料室資料第四係。
こちらに問い合わせを行いました。
最初に尋ねられましたのが、「海軍、陸軍どちらですか?」でした。
援護局に「海軍」「陸軍」の担当が分かれていたことすら知識がなかった酔漢です。
さて、「資料請求」をいたしまして、翌日には届きました。
その内容。
「個人情報開示申請・請求用紙」これに必要事項を記入致します。
一通り記入を終えまして、添付資料の案内に目を通しますと。
「住民票(現在住んでいる市町村。請求後30日以内のもの)1通」
「運転免許証、保険証のコピー1通」
「開示請求者との関係が明示されている戸籍、または当人の除籍の分かる戸籍等1通」
現在、戸籍は宮城県塩竈市にございますので、母の手を煩わす結果とはなりました。
しかし、祖父と私とを直接結ぶものは1部の書類では無理。または、祖父関係の戸籍等は宮城県七ヶ浜町にありますので、そこまで母を向かわせるわけにはまいりません。
父と私、そして父と祖父とを繋ぐものをそれぞれ2通用意いたしました。
軍歴開示でございますので、祖父の電符が必要です。(記入用紙にあります)
幸い、先だって、祖父の辞令が公開されておりましたし、以前のコメントに「おせっかい焼き」様より教えて頂いた符号を二種記入致しました。
この一切合切を取りそろえるのに、約1週間かかりました。
さて、その後、2週間が経過。
届きました。
祖父の軍歴が全て記入されております。
写真は3部に分かれているものの内、最後の部分です。
その前の2部には、祖父が叔母が生まれた翌々月に休暇申請をし、七日間の休みをいただいている内容とか、賞受賞の履歴などが記入されておりました。
叔母の誕生には、祖父も大変嬉しかったのであろうと。
開戦前年ではありますが、すぐさま申請を行っております。(多少の時間差はありますが)
これは、軍人と言えども、現在の吾々と思うところは変わらない。そうした事も伝わります。
これまで、推測でしかなかった「くだまき」の内容も明らかになった部分もございます。
祖父、大和配乗の日時が「昭和19年12月5日」となってます。
先の「くだまき」では、11月20日の辞令から、計算いたしました。また、第二艦隊参謀長とご栄転になられました「森下信衛」さんの辞令が昭和19年11月23日。大和座乗は12月3日~8日のどちらかと考えております。(しっかり調べればわかる事柄なのですが)
上記の軍歴によれば、祖父は先にも語りましたが12月5日。
第二艦隊の旗艦大和への、座乗は12月23日の伊藤整一司令長官が最後となります。
「19年12月5日 第二艦隊 於 呉 旗艦大和 着任」
これが祖父の最期の切符となります。
一つ一つ精査しております。
乗艦した艦名、その日時。
祖父のキャリアの変遷。
この貴重な資料をもとに、まだ「大和」を語ってまいります。
また、これにより、一般に知られている部分にも訂正せざるを得ない事実も見つかりました。
これも、時間をかけ内容を紐解きましてお知らせいたしたく存じます。
戦後、67年の歳月。そして、祖父戦死からも同じ時間が経過しております。
ファイリングして、後世に残せますね。
また、新しい情報もあったようで一歩も二歩も進みました。
最近、CMで大和を作る!が出ましたね。
小遣いが無いので買えません。
その前に家を造る!です。(笑)
機銃の数だけみても125ですから、それを一つ一つ組み立てるとなりますと・・・その数値だけで腰が引けます。
最後まで作られる方も大勢いらっしゃるかと思いますが、大和のスペックを知りますと、本当に気が引けます。
今、この史料を読み解く作業をしております。
しかし…これがおじい様の生きたあかしでありますね。
海軍軍人として駆け抜けて行った人生をみることができます。
しかし最後の赤い文字での「西部太平洋方面に於いて戦死」の文字の哀しさときたら・・・
一番きになりましたのが「横須賀海兵団団長」の文字。
私も詳しくないのでこれから検証しますが、森下さんが第二艦隊参謀長の任を解かれ「海兵団団長」になられておられます。祖父と同じ任だったのか、これを検証するところです。
光人社の「海の狼」の史実が大幅に違っていることも考えられます。
生きた史料ですから後世にしっかり伝えたいと思っております。
第二艦隊
於呉
旗艦大和着任
黒字、青字、赤字で区別してあるんですね。
貴重な軍歴書を拝見させていただきました。
上海へ渡航する欄があるのですが、乗船した船の名前も記載されておりました。
個人情報に触れない部分は今後少しずつ整理しながら公開していこうかと考えております。
父に見せたかった。本当にこう思いました。
とても貴重なものを拝見させていただきました。
ありがとうございます。
祖父の名前は母里太志(もりふとし)です。
さっそくですが、母里太志機兵曹を名簿で確認いたしました。岡山のご出身なのですね。
大和轟沈の直前、大和の傾斜が50度を超えた際、スクリューが回っていたと、ご生還された皆様が話しておられました。直前まで任務にまっとうされておられた機関員の奮戦ぶりを物語る証言だと思います。
通信、機関は生還のかなわぬ部署ですね。
改めて、母里様のご冥福をお祈り申し上げます。
まさお様、このブログの左側に「メッセージ」とアイコンがありますが、私のメールに直結しております。
是非、ご連絡くださいませ。
お渡ししたい資料他ございます。
ご連絡お待ちいたしております。
これからも、よろしくお願いいたします。