東北随一の繁華街「国分丁」その三丁目には「一心」という日本酒のコレクションでは髄一の居酒屋がございます。
そのビルの名前「ダイハツ板垣ビル」
そこは「酔漢」でございますので、チェックは怠りません。
一度、青森の地酒「田酒」などをいただきながら、旬の肴を摘まんでおりました。
仙台在住の方でありますれば「板垣フルーツ」は御存知であろうかと思います。
「エスパルの中にあるフルーツショップ」と言えばお分かりいただけるかとも思います。
この「板垣」というお名前ですが、大和と深い関係があることはつい最近知ったことでした。
酔漢家族が大和会を知り、その入会した際、すでに能村次郎大和副長は鬼籍に入られた後でございました。
以前、祖父碑文をご紹介いたしましたが、父はその碑文を能村次郎元大和副長にお願いしたかったようです。ですが、全く伝手などもなく、当時の七ヶ浜村村長に依頼したという経緯でございました。
父としては、まだ情報が少ない時期、例えば、前回お話いたしましたが「石田恒夫元副官」をはじめ、ご生還された方は、この能村さんしか知らなかったとこう話しておりました。知っておったなら「石田さん、清水さん、森下さんにも連絡を取りたかった」と、生前こう話しておりました。
映画「男たちの大和」においては、副長は頻繁に登場しております。
特に、出撃前の総員に対しての激は、副長手記に沿うものでありました。
私共家族との接点はございませんが、ここに能村元大和副長を語らせていただきます。
第一回慰霊祭。能村さんは全戦死者に対して弔辞を読まれておられます。
ここにご紹介いたします。
弔辞
慎みて、
故第二艦隊司令長官伊藤整一氏、故軍艦「大和」艦長有賀幸作氏以下、三千有余柱の英霊に告ぐ。
上空に躍る数百の敵機、海中に綾なす数十の雷跡、火風弾雨、耳為に聾し、眼為に眩む。
思えば昭和二十年四月七日、九年前の今日唯今の時刻、生死の関頭に立ち、自若として己の配置を守り、平素修練の効をいかんなく発揮す。
これ軍艦「大和」覆没寸前、艦上に奮戦する卿等の雄姿なりき。
これより先、四月五日午後三時、艦長、総員を前甲板に集めて、出撃命令を伝達せらる。運命を決せしこの一瞬、満場寂として声なし。解散して直ちに、出撃準備を開始す。かねて期する所、何の混雑もなく、何等、動揺の色もなし。諸装置を改め、兵器を点検し、淡々として作業を終わり、余暇を得て、総員家郷に筆を執る。或いは爪を切り、あるいは髪を摘みて同封す。
翌四月六日は、さらに艦内の整理を行い、準備の完璧を期す。世界注視のこの行動、万が一にも、不用意の失策なからんことを期したるなり。
午後四時、錨を揚げ、護衛部隊を先頭に、粛々として空前絶後の行動を起こす。
世の人、ややもすれば、武人に対して情味なしと云う。乞う、余に少しく当時を語らしめよ。
軍艦「大和」に乗り組みし者、皆これ、万人中より選ばれたる俊秀の士にして、平素は温厚玉のごとく、世の敬愛を一身に集め、職を奉じては忠、家にありては考、克く人の道を弁えたる模範の人々なり。
三田尻沖を進発して間もなく、手すきの総員前甲板に集まりて「君が代」を奉唱す。
夕闇に薄れゆく内地の山々。雲か霞か、遥かに見ゆる爛漫の桜花。山答えず、花語らず。万感胸に迫り、歌い終わるも暫し、動くものさえなし。女々しと云う勿れ、頬を伝うはこれ、懐かしの故国に送る惜別の涙。
同夜は、各々配置に在りて仮眠す。結びし最後の夢、夢に通いしは誰。
明くれば、四月七日の当日なり。
早朝、九州の南端、大隅海峡を西進す。暗雲低く垂れ、ウネリありしも風穏やかなり。午前八時、敵機我を発見す。かれの発する警報、手に取るがごとし。大雨将に到らんとす。嵐の前の静けさ。
悠々、昼食を喫し終わりし午後零時二十分、前方遥か、雲間に現れし艦上機の大編隊。見れば右にも左にも、一団また一団。待つ間もなく数分の後、急降下「大和」に突っ込む敵機を合図に、攻撃の火蓋は切られたり。
爾後、奮戦力闘二時間余、十数本の魚雷と、無慮数十発の爆弾を受け、大爆発を起こし、徳之島の北方二百浬の海上にて、軍艦「大和」轟沈す。
卿等の大部が生を終わりしは、この時なりと認む。
天命なりとは言え、卿等は護国の神となり、われ等のみ現世に留まりて今日の日を迎う。苦衷、何をかもってか慰めん。
然れども昨年六月、映画戦艦「大和」が公開され、この悲壮にして崇高なる事蹟が世に明らかとなるや、江湖の同情翕然として集まり、卿等の遺徳を慕うもの、日夜応接に暇なし。
この行動、時已に大勢われに利なく、固より、生還を期せざる特攻作戦なり、しかも、命令一下、莞爾として勇躍壮途に就く。精錬にして豪胆ならざれば、成し能わざるところなり。
思うに今次大戦中、報告の美談は多々あれど、この右に出ずるもの鮮し。宜なる哉、世人仰ぎて、わが海軍の華なりとす。科学の粋、機械力の極、世界に冠たる七万トンの巨艦に乗りて、壮烈無比の特攻作戦に従い、名を後世に残す。卿等、もって瞑すべきなり。
われ等生存者一同、益々操志を固くし、和衷協力、卿等の志を継いで、平和社会の建設に努力せんとす。
霊よ、永遠に故国を守り給え。
変転九星霜、同じ春、桜花の下、本日ここに姿なき卿等を迎う。感慨転転禁ずる能わず。恨むらくは、卿等、呼べど答えず。この盛儀を語るに由なし。哀悼何ぞ勝えん。
若しそれ、この席に列せらるる遺族の胸中を察せんか、胸逼りて誓う所を知らず。眼を閉ずれば、卿等の温容、今なお髣髴として脳裏に浮かぶ。嗚呼、悲しい哉。
聊か、蕪辞を連ねて幽魂を弔う。
在天の英霊、願わくば来たり饗けよ。
「艦長、私もお供いたします」
「何を言うのか、副長は副長の任務を全うするのだ」
大和の最期が近い時間、能村副長と有賀幸作艦長との会話です。
「副長はこの戦闘を後世に伝えるのだ」
この有賀艦長の任を能村さんは果たします。
その手記、「慟哭の海」(読売新聞社編 昭和42年)は酔漢のバイブルとなっております。(その内容に一部誤記等はございますが、本編にて訂正させていただいております)
そして、上記、その弔辞です。
祖父に対しての弔辞であろうと、斯様に思いました。
この副長にまつわる数多いエピソードですが、先に酔漢が思い出しますのは、昭和20年4月5日にございました「候補生退艦」です。
この場面をやはり能村副長手記から見てみます。
乗り組み士官の転勤は、普通なら海軍省からの指示により、出先で勝手にすることは出来ないのだが、実は三日前に、海兵を出たばかりの少尉候補生五十三名が、大和に配属されて乗り込んでいた。広い艦内の地理も身についていない始末なので、有賀艦長と同期の森下艦隊参謀長とが相談し、長官の同意を得て、彼らを退艦させることにしたのである。同時に配属につくことのできない病人(重患十余人)、および戦闘配置に慣れない者(呉での補充兵十余人)も、ともに退艦させることになった。
午後五時三十分「候補生退艦用意」
「候補生集合、艦長室前」
とマイクが呼ぶ。ほんの少し前、艦隊出撃命令を聞かされ、大いに張り切って、慣れない作業を懸命に手伝っていた若者たちは、全く思いがけない号令を聞いて、いぶかしげに、艦長室前に集まってきた。
(能村次郎元大和副長手記 読売新聞社編 昭和史の天皇 42年9月某日 新聞切抜きより抜粋)
本編「奮戦スレド徒死スルナカレ」でもこの人数について申し上げておりますが、記録と能村さん手記では違っております。
記録ではこうです。
候補生42名(海兵74期、主計35期)
重病弱者26名
新乗艦の補充兵を含む73名
(原勝洋氏著 真相・戦艦大和ノ最期 KKベストセラーズ社 140~141頁より 参考)
再び、能村手記を見てみます。
けげんな表情で集まって来た五十三名の少尉候補生を前に、有賀艦長は重い口調で述べられた。
「大和乗り組みは、皆の長い念願だったと思う。しかし、熟慮の結果、今回の出撃には、皆を加えないことになった、出撃を前に退艦することは残念だろうが、皆には第二、第三の大和が待っておるだろう。皆はそれに備えてよく練磨し、りっぱな戦力になってもらいたい。では、ごきげんよう」
慈父のごとき言葉を残して艦長がその場を立ち去ると、われに返った候補生のひとりが、わたしに言った。
「副長。われわれは大和艦上で倒れる覚悟は出来ております。いま降ろされては残念です。艦長にお願いして是非連れて行って下さい。お願いします」
「お願いします!」が五十三の異口同音となって和して立てた。(中略)これから先、国のため働きうる有為の青年たちである。いますぐお役にたたない者を、出撃に参加させ、明日なき死への道連れにする必要はない。わたしははっきり言った。
「乗艦して三日にしかならない者を、このまま連れて行っても、足手まといとなるだけだ。艦長の言われる通り、この際潔く降りることが一番よいと思う。出ていくわれわれが国のためなら、残る皆もまた国のためなのだ」
もはや言葉を返すものはなかった。この措置は、楠公一子正行を残して残して二代の精忠を謳わる、桜井の庭訓瞭々として現世に薫る、とでもいうべきか。
(能村次郎元大和副長手記 読売新聞社編 昭和史の天皇 42年9月某日 新聞切抜きより抜粋)
候補生達は、駆逐艦「花月」へと乗艦し大和を離れます。
「軍艦矢矧海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争」において、著者「井川聡」氏はこう結んでおります。
池田たちの出撃は、国民を生かすための出撃、退艦していく若者たちを生かすための出撃だったのだ。生き残った彼らは戦後日本に貢献し、みごとな復興を成し遂げる。「大和」特攻は、終戦用意、の第一歩でもあったのだ。
(同著278頁より抜粋)
「宮城ダイハツ」元社長でいらっしゃいました「板垣欣一郎」さんは、この「板垣フルーツ」(現在)がご実家。(尤も、自動車屋さんよりはPL教の板垣さんとお話すれば、よりお分かりいただける方かと思います)
そして、この昭和20年4月5日に大和から降りた「少尉候補生」のお一人だったのです。
自動車工業を営んでおります叔母(祖父、長女)より知らされました。
「元、宮城ダイハツの社長、板垣さんとお話された際、『大和から降りた』と言っていた」と。「御縁があるのかと・・・そう感じた」と叔母は申しておりました。
生き残った彼らは戦後日本に貢献し、みごとな復興を成し遂げる。(同著 筆者談)
実業家として宗教家として板垣さんが仙台の復興を成し遂げた実績を振り返りますと、「候補生退艦」の意味があったのかと。
副長の弔辞と共に心に残る史実なのでした。
そのビルの名前「ダイハツ板垣ビル」
そこは「酔漢」でございますので、チェックは怠りません。
一度、青森の地酒「田酒」などをいただきながら、旬の肴を摘まんでおりました。
仙台在住の方でありますれば「板垣フルーツ」は御存知であろうかと思います。
「エスパルの中にあるフルーツショップ」と言えばお分かりいただけるかとも思います。
この「板垣」というお名前ですが、大和と深い関係があることはつい最近知ったことでした。
酔漢家族が大和会を知り、その入会した際、すでに能村次郎大和副長は鬼籍に入られた後でございました。
以前、祖父碑文をご紹介いたしましたが、父はその碑文を能村次郎元大和副長にお願いしたかったようです。ですが、全く伝手などもなく、当時の七ヶ浜村村長に依頼したという経緯でございました。
父としては、まだ情報が少ない時期、例えば、前回お話いたしましたが「石田恒夫元副官」をはじめ、ご生還された方は、この能村さんしか知らなかったとこう話しておりました。知っておったなら「石田さん、清水さん、森下さんにも連絡を取りたかった」と、生前こう話しておりました。
映画「男たちの大和」においては、副長は頻繁に登場しております。
特に、出撃前の総員に対しての激は、副長手記に沿うものでありました。
私共家族との接点はございませんが、ここに能村元大和副長を語らせていただきます。
第一回慰霊祭。能村さんは全戦死者に対して弔辞を読まれておられます。
ここにご紹介いたします。
弔辞
慎みて、
故第二艦隊司令長官伊藤整一氏、故軍艦「大和」艦長有賀幸作氏以下、三千有余柱の英霊に告ぐ。
上空に躍る数百の敵機、海中に綾なす数十の雷跡、火風弾雨、耳為に聾し、眼為に眩む。
思えば昭和二十年四月七日、九年前の今日唯今の時刻、生死の関頭に立ち、自若として己の配置を守り、平素修練の効をいかんなく発揮す。
これ軍艦「大和」覆没寸前、艦上に奮戦する卿等の雄姿なりき。
これより先、四月五日午後三時、艦長、総員を前甲板に集めて、出撃命令を伝達せらる。運命を決せしこの一瞬、満場寂として声なし。解散して直ちに、出撃準備を開始す。かねて期する所、何の混雑もなく、何等、動揺の色もなし。諸装置を改め、兵器を点検し、淡々として作業を終わり、余暇を得て、総員家郷に筆を執る。或いは爪を切り、あるいは髪を摘みて同封す。
翌四月六日は、さらに艦内の整理を行い、準備の完璧を期す。世界注視のこの行動、万が一にも、不用意の失策なからんことを期したるなり。
午後四時、錨を揚げ、護衛部隊を先頭に、粛々として空前絶後の行動を起こす。
世の人、ややもすれば、武人に対して情味なしと云う。乞う、余に少しく当時を語らしめよ。
軍艦「大和」に乗り組みし者、皆これ、万人中より選ばれたる俊秀の士にして、平素は温厚玉のごとく、世の敬愛を一身に集め、職を奉じては忠、家にありては考、克く人の道を弁えたる模範の人々なり。
三田尻沖を進発して間もなく、手すきの総員前甲板に集まりて「君が代」を奉唱す。
夕闇に薄れゆく内地の山々。雲か霞か、遥かに見ゆる爛漫の桜花。山答えず、花語らず。万感胸に迫り、歌い終わるも暫し、動くものさえなし。女々しと云う勿れ、頬を伝うはこれ、懐かしの故国に送る惜別の涙。
同夜は、各々配置に在りて仮眠す。結びし最後の夢、夢に通いしは誰。
明くれば、四月七日の当日なり。
早朝、九州の南端、大隅海峡を西進す。暗雲低く垂れ、ウネリありしも風穏やかなり。午前八時、敵機我を発見す。かれの発する警報、手に取るがごとし。大雨将に到らんとす。嵐の前の静けさ。
悠々、昼食を喫し終わりし午後零時二十分、前方遥か、雲間に現れし艦上機の大編隊。見れば右にも左にも、一団また一団。待つ間もなく数分の後、急降下「大和」に突っ込む敵機を合図に、攻撃の火蓋は切られたり。
爾後、奮戦力闘二時間余、十数本の魚雷と、無慮数十発の爆弾を受け、大爆発を起こし、徳之島の北方二百浬の海上にて、軍艦「大和」轟沈す。
卿等の大部が生を終わりしは、この時なりと認む。
天命なりとは言え、卿等は護国の神となり、われ等のみ現世に留まりて今日の日を迎う。苦衷、何をかもってか慰めん。
然れども昨年六月、映画戦艦「大和」が公開され、この悲壮にして崇高なる事蹟が世に明らかとなるや、江湖の同情翕然として集まり、卿等の遺徳を慕うもの、日夜応接に暇なし。
この行動、時已に大勢われに利なく、固より、生還を期せざる特攻作戦なり、しかも、命令一下、莞爾として勇躍壮途に就く。精錬にして豪胆ならざれば、成し能わざるところなり。
思うに今次大戦中、報告の美談は多々あれど、この右に出ずるもの鮮し。宜なる哉、世人仰ぎて、わが海軍の華なりとす。科学の粋、機械力の極、世界に冠たる七万トンの巨艦に乗りて、壮烈無比の特攻作戦に従い、名を後世に残す。卿等、もって瞑すべきなり。
われ等生存者一同、益々操志を固くし、和衷協力、卿等の志を継いで、平和社会の建設に努力せんとす。
霊よ、永遠に故国を守り給え。
変転九星霜、同じ春、桜花の下、本日ここに姿なき卿等を迎う。感慨転転禁ずる能わず。恨むらくは、卿等、呼べど答えず。この盛儀を語るに由なし。哀悼何ぞ勝えん。
若しそれ、この席に列せらるる遺族の胸中を察せんか、胸逼りて誓う所を知らず。眼を閉ずれば、卿等の温容、今なお髣髴として脳裏に浮かぶ。嗚呼、悲しい哉。
聊か、蕪辞を連ねて幽魂を弔う。
在天の英霊、願わくば来たり饗けよ。
「艦長、私もお供いたします」
「何を言うのか、副長は副長の任務を全うするのだ」
大和の最期が近い時間、能村副長と有賀幸作艦長との会話です。
「副長はこの戦闘を後世に伝えるのだ」
この有賀艦長の任を能村さんは果たします。
その手記、「慟哭の海」(読売新聞社編 昭和42年)は酔漢のバイブルとなっております。(その内容に一部誤記等はございますが、本編にて訂正させていただいております)
そして、上記、その弔辞です。
祖父に対しての弔辞であろうと、斯様に思いました。
この副長にまつわる数多いエピソードですが、先に酔漢が思い出しますのは、昭和20年4月5日にございました「候補生退艦」です。
この場面をやはり能村副長手記から見てみます。
乗り組み士官の転勤は、普通なら海軍省からの指示により、出先で勝手にすることは出来ないのだが、実は三日前に、海兵を出たばかりの少尉候補生五十三名が、大和に配属されて乗り込んでいた。広い艦内の地理も身についていない始末なので、有賀艦長と同期の森下艦隊参謀長とが相談し、長官の同意を得て、彼らを退艦させることにしたのである。同時に配属につくことのできない病人(重患十余人)、および戦闘配置に慣れない者(呉での補充兵十余人)も、ともに退艦させることになった。
午後五時三十分「候補生退艦用意」
「候補生集合、艦長室前」
とマイクが呼ぶ。ほんの少し前、艦隊出撃命令を聞かされ、大いに張り切って、慣れない作業を懸命に手伝っていた若者たちは、全く思いがけない号令を聞いて、いぶかしげに、艦長室前に集まってきた。
(能村次郎元大和副長手記 読売新聞社編 昭和史の天皇 42年9月某日 新聞切抜きより抜粋)
本編「奮戦スレド徒死スルナカレ」でもこの人数について申し上げておりますが、記録と能村さん手記では違っております。
記録ではこうです。
候補生42名(海兵74期、主計35期)
重病弱者26名
新乗艦の補充兵を含む73名
(原勝洋氏著 真相・戦艦大和ノ最期 KKベストセラーズ社 140~141頁より 参考)
再び、能村手記を見てみます。
けげんな表情で集まって来た五十三名の少尉候補生を前に、有賀艦長は重い口調で述べられた。
「大和乗り組みは、皆の長い念願だったと思う。しかし、熟慮の結果、今回の出撃には、皆を加えないことになった、出撃を前に退艦することは残念だろうが、皆には第二、第三の大和が待っておるだろう。皆はそれに備えてよく練磨し、りっぱな戦力になってもらいたい。では、ごきげんよう」
慈父のごとき言葉を残して艦長がその場を立ち去ると、われに返った候補生のひとりが、わたしに言った。
「副長。われわれは大和艦上で倒れる覚悟は出来ております。いま降ろされては残念です。艦長にお願いして是非連れて行って下さい。お願いします」
「お願いします!」が五十三の異口同音となって和して立てた。(中略)これから先、国のため働きうる有為の青年たちである。いますぐお役にたたない者を、出撃に参加させ、明日なき死への道連れにする必要はない。わたしははっきり言った。
「乗艦して三日にしかならない者を、このまま連れて行っても、足手まといとなるだけだ。艦長の言われる通り、この際潔く降りることが一番よいと思う。出ていくわれわれが国のためなら、残る皆もまた国のためなのだ」
もはや言葉を返すものはなかった。この措置は、楠公一子正行を残して残して二代の精忠を謳わる、桜井の庭訓瞭々として現世に薫る、とでもいうべきか。
(能村次郎元大和副長手記 読売新聞社編 昭和史の天皇 42年9月某日 新聞切抜きより抜粋)
候補生達は、駆逐艦「花月」へと乗艦し大和を離れます。
「軍艦矢矧海戦記 建築家・池田武邦の太平洋戦争」において、著者「井川聡」氏はこう結んでおります。
池田たちの出撃は、国民を生かすための出撃、退艦していく若者たちを生かすための出撃だったのだ。生き残った彼らは戦後日本に貢献し、みごとな復興を成し遂げる。「大和」特攻は、終戦用意、の第一歩でもあったのだ。
(同著278頁より抜粋)
「宮城ダイハツ」元社長でいらっしゃいました「板垣欣一郎」さんは、この「板垣フルーツ」(現在)がご実家。(尤も、自動車屋さんよりはPL教の板垣さんとお話すれば、よりお分かりいただける方かと思います)
そして、この昭和20年4月5日に大和から降りた「少尉候補生」のお一人だったのです。
自動車工業を営んでおります叔母(祖父、長女)より知らされました。
「元、宮城ダイハツの社長、板垣さんとお話された際、『大和から降りた』と言っていた」と。「御縁があるのかと・・・そう感じた」と叔母は申しておりました。
生き残った彼らは戦後日本に貢献し、みごとな復興を成し遂げる。(同著 筆者談)
実業家として宗教家として板垣さんが仙台の復興を成し遂げた実績を振り返りますと、「候補生退艦」の意味があったのかと。
副長の弔辞と共に心に残る史実なのでした。
この部分、大変興味深かったです。
戦後8年もたって、映画「戦艦大和」でようやく大和の最期の全貌が明らかになったんですね。
当事者しか知らない出来事が、いろいろな形で明らかになる。感違いや、意図的なデマや、推測や、何やかやで、定説というものが出来上がっていくのですね。
大和に関しては、毎年(昭和20年から今日まで)新しい情報や関連書が出てきます。
これだけ、多くの関心を集めているのでしょう。ですが、定説は歴史が作ってしまう。
これも、考えなくてはならないことなのでしょうね。
戦地の写真とか撮影してきます。
いつぞやの「ウルトラ缶」、面白かったです。
近況報告です。すず様にも宜しくお伝え下さい。
偶然売っておりました。
ガダルカナルへ。
私も想像するに難しい戦線です。
激戦に次ぐ激戦。
現地で眠る英霊の数々。
何も語らず何かを語る。
是非、ご紹介下さいませ。
さて、ウルトラ缶、ありがとうございます。
了解です。
またいらして下さい。