ある小雨が降る午前。
総合病院、8階の個室。
「そろそろ点滴を変えてもらわなきゃ・・・な・・・」
「病室の壁は閉鎖空間ではない。むしろ無限の広がりを見せているのだ」
ある小説を思い出す。
「今日は見舞いは無し・・か」
頭は冴えていた。
復帰した際の作品の構想を練り始めた。
「彼等に・・・神と戦わせようとしている。その自分。『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR』だった・・・」
雨の音は病室の中までは聞こえない。雨粒の大きさがその激しさが小雨ではなくなったことを伺わせた。
「何十年も・・彼等に安らぎを与える事などなく、俺は戦わせている・・のか」
これも、また(彼の癖のように)繰り返す独り言ではあった。
患者。
「石ノ森章太郎」。
漫画家である。
ふと、ドアをノックする音。
看護師の声がする。
「石ノ森さんの病室はこちらです」
「どうも、ありがとう・・」
初老の老人が入って来た。
石ノ森は、その大きな鼻に見覚えがあった。・・・・ん?見覚え?
驚いた。
ベッドから慌てて身体を起こした。
「あ!あんだ・・は?もしかして・・って!えっ?」
イントネーションがどことなく故郷の響きに変わる。
これほど動揺したことはなかった。
「『アイザック・ギルモア』です。初めまして。で、いいだろう。石ノ森君」
「サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR」冒頭より、酔漢脚色。
幼稚園のお昼寝は苦手でした。
短い時間でしたが、眠たくもないのに、寝かしつけられる。これは苦痛と感じておりました。
塩釜小松崎にございました「あさひ幼児園」です。「幼児園」これは造語でして、「幼稚園」ではなかったのでした。
所謂「無認可」です。
ですが、この先生たちは案外個性派ぞろいで楽しかった。
かつて、塩竈様表参道ほど近いところに老舗の畳屋「加藤畳店」がございましたが、そこを御実家にお持ちの園長先生。
塩竈の旅館「えびや」の長女で、「ノイエタンツ・モダンバレエ研究所」(榴ヶ岡)にもおられました日野先生。
楽しい?幼稚園生活ではありました。
その日の出来事は、毎日「おたより帳」で連絡されます。
「酔漢君は寝られないのはいいのですが、隣の子に悪さをします」
ある日、母と買い物。
お昼寝用の枕を買ってくれるというものでした。さして興味はありません。「枕なんてなんでもよい」わけです。
ですが、お店に入ってすぐ、その枕をねだりました。
「あれ買ってけさいん!」
その枕。今で言えば「キャラクター枕」となるのですが、その絵柄は「009!」そして、「001を抱いているフランソワ」3人同時の枕。
買ってもらいました。
これで、お昼寝が楽しい時間となった訳です。
「白のスーツにマフラーは赤」でした。
東宝映画で最初に見たのは、その頃。
初期の「サイボーグ009」でした。後に、テレビ版、白黒番組として放映されます。
この主題歌は「石森章太郎」自身が作詞しております。
フルコーラスではありません。これは劇場版で挿入歌(ドルフィン号発進の場面でのみ使われました)として使われます。
「003=フランソワーズ・アルヌール」の声が「ジュディ・オング」でした。(劇場版「怪獣戦争」)
メロディーが転調し短調に変化してからの詩。
行く手は嵐だ吠える海
大空を翔る黒い雲
平和の敵だ
世界の敵だ
力の限り戦うぞ
こうあります。
ご記憶の方がおられますれば、そのキャラクター設定も原作とは違っております。
「007=グレート・ブリテン」がシリアス調ではなくて、「ロンドンのいたずらっ子」として書かれてます。
先の平成版では、「イギリスのアクター」として書かれ、今回の作品では「MI6の詳報員」として設定されております。(そういえば・・バンコランも・・・)
後に語りますが、この白黒アニメのキャラクターに接したのが最初でしたので、この印象が大変強かったのですが、原作を拝読するに、やはり違和感が、拭い切れません。
まだ活字を理解できない頃でしたので、漫画掲載には接しておりませんでした。
その歴史を紐解きます。
東京オリンピックの年1964年の「少年キング」に連載が開始されます。
島村ジョーがブラックゴーストへ捉えられ、サイボーグとされ、その後、8人の仲間とギルモア等と共に脱走します。これがプロローグ。この時間が長い。
そしてその後、「第9部」からは、ブラックゴーストから繰り出されるその後に改造された(これは、当時言葉が無いのですが)サイボーグ達と戦って行きます。
「第11部」で完結します。そして「ネオナチ」や「ベトナム戦争」へ巻き込まれながら一応完結を見ます。
ここで全員が最期となります。ヒーローが全員最期を遂げる。
複雑な設定と背景は読者が少なかった理由となりますが、キャラクターが多くそれを消化するのに時間がかかります。
「打ち切りにさせられた」酔漢的私見はこうです。
昭和41年より「少年マガジン」へ掲載されます。これは、少しばかり記憶がございます。
ですが、内容は「ちんぷんかんぷん」。
まだ字を追いかけることが出来ません。
内容を把握したのは中学校時代。
「宿敵ブラックゴーストを地底人の為に戦う」というもの。(簡単に語りました)「地下帝国ヨミ」と題されております。
この編でブラックゴーストが絶滅。と同時に「002=ジェット・リンク」と「ジョー」が大気圏に突入しこれも最期とされます。
ストーリー的には完結されていて、「ヒーローの死」という形で終えます。
話しはまた、私的に変わりますが、このシーンに触れるたび、「ガッチャマンのコンドルのジョーの最期」を思い出したり致します。
「2」という数字の「あや」なのでしょうか・・・。
このとき、少年マガジン側は、石ノ森に「ストーリーの完結を」と要求しております。
しかしながら、その後、すぐさま「冒険王」で連載が開始。
「ジョーもジェットも生きていた」となります。
これが物議となります。
「怪人鳥編」「モーゼ編」「移民編」「ローレライ編」「海底編」そして完結を見ない「天使編」となって行きます。
「死んだヒーローが三度。ストーリーも新たに新展開」を見せるわけです。
いろいろな見方がございます。
「何だまたかよ!」と呆れれる方。「やっぱりジョーは不死身だった」とその展開に期待を寄せる方。
酔漢が、この作品を未だに消化できない理由はここにございます。
その両方が交錯し、この「サイボーグ009」を「駄作」と思う気持ちと「石ノ森のメッセージはどこにあったのか」という興味と、単に「俺はこのキャラ達が大好きだったんだ!」という子供の心に帰る思いと・・・。
「COM」に連載されている頃には、記憶が多少芽生えております。ですが「神々編」を自身の意識フィルターへ入れるという作業が終了しないまま、少女コミックで「北欧神話編」など描かれるようになってまいります。
再び、話しが変わりますが、別次元とはいうものの例えば「平井和正」の「犬神明」であるとかが、島村ジョーとだぶってきたりも致しました。(これには、無理があるのですが、匂いというか、神というキーワードがそうさせるのか・・・)
現在もそれが続いております。
テレビ版を最初に見て、その後、アニメがリメイク。
「誰がために」と新作が作られました。
この詩も「石ノ森」自身の作詞。
アニメブームが起こり、「宇宙戦艦ヤマト」であるとか、そうした時代の作品となります。
ですから、漫画の世界、また白黒テレビ漫画の時代を知らない世代はこれが、その切っ掛けとなったのかと思います。
「単純な正義の味方」とは違った展開を見せます。
ですが、視聴率が低迷します。
テレビアニメは、原作とは違った展開を見せております。
それぞれのエピソードは踏襲してはおりますが、そのテレビシリーズが作成される度「サイボーグとは」から説明が必要になって、どうしても「島村ジョー」がブラックゴーストに捉えられ、ギルモアによって「サイボーグ手術」を行うところから始まります。
平成に入り、また、新たな「009」として誕生します。
スーパーバイザーが「小野寺章」氏。
原作者「石ノ森章太郎」の、御二男でいらっしゃいます。
氏のアドバイスにより展開されたストーリー。
元となりましたのが、「少年キング」連載時のものから使われております。
キャラクター設定が、原作により近くなりました。
しかしながら「今さら何で」という思いもあります。
「この作品でも、まだ自身の未消化の部分は残ったまま」なのです。
この「くだまき」明日もまた語ります。
何故、今、酔漢が「サイボーグ」なのかとお思いの方もおられる事と思います。
「神山健治」監督作品が公開中で、今再び「サイボーグへの想い」が自身の中で蘇った次第。
この作品がどう評価されるのだろう、未だ見ていないまま語るのは「口はばったい」のですが。
このCMは単純に面白いと感じました。
では、また明日。
総合病院、8階の個室。
「そろそろ点滴を変えてもらわなきゃ・・・な・・・」
「病室の壁は閉鎖空間ではない。むしろ無限の広がりを見せているのだ」
ある小説を思い出す。
「今日は見舞いは無し・・か」
頭は冴えていた。
復帰した際の作品の構想を練り始めた。
「彼等に・・・神と戦わせようとしている。その自分。『サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR』だった・・・」
雨の音は病室の中までは聞こえない。雨粒の大きさがその激しさが小雨ではなくなったことを伺わせた。
「何十年も・・彼等に安らぎを与える事などなく、俺は戦わせている・・のか」
これも、また(彼の癖のように)繰り返す独り言ではあった。
患者。
「石ノ森章太郎」。
漫画家である。
ふと、ドアをノックする音。
看護師の声がする。
「石ノ森さんの病室はこちらです」
「どうも、ありがとう・・」
初老の老人が入って来た。
石ノ森は、その大きな鼻に見覚えがあった。・・・・ん?見覚え?
驚いた。
ベッドから慌てて身体を起こした。
「あ!あんだ・・は?もしかして・・って!えっ?」
イントネーションがどことなく故郷の響きに変わる。
これほど動揺したことはなかった。
「『アイザック・ギルモア』です。初めまして。で、いいだろう。石ノ森君」
「サイボーグ009 完結編 conclusion GOD'S WAR」冒頭より、酔漢脚色。
幼稚園のお昼寝は苦手でした。
短い時間でしたが、眠たくもないのに、寝かしつけられる。これは苦痛と感じておりました。
塩釜小松崎にございました「あさひ幼児園」です。「幼児園」これは造語でして、「幼稚園」ではなかったのでした。
所謂「無認可」です。
ですが、この先生たちは案外個性派ぞろいで楽しかった。
かつて、塩竈様表参道ほど近いところに老舗の畳屋「加藤畳店」がございましたが、そこを御実家にお持ちの園長先生。
塩竈の旅館「えびや」の長女で、「ノイエタンツ・モダンバレエ研究所」(榴ヶ岡)にもおられました日野先生。
楽しい?幼稚園生活ではありました。
その日の出来事は、毎日「おたより帳」で連絡されます。
「酔漢君は寝られないのはいいのですが、隣の子に悪さをします」
ある日、母と買い物。
お昼寝用の枕を買ってくれるというものでした。さして興味はありません。「枕なんてなんでもよい」わけです。
ですが、お店に入ってすぐ、その枕をねだりました。
「あれ買ってけさいん!」
その枕。今で言えば「キャラクター枕」となるのですが、その絵柄は「009!」そして、「001を抱いているフランソワ」3人同時の枕。
買ってもらいました。
これで、お昼寝が楽しい時間となった訳です。
「白のスーツにマフラーは赤」でした。
東宝映画で最初に見たのは、その頃。
初期の「サイボーグ009」でした。後に、テレビ版、白黒番組として放映されます。
この主題歌は「石森章太郎」自身が作詞しております。
フルコーラスではありません。これは劇場版で挿入歌(ドルフィン号発進の場面でのみ使われました)として使われます。
「003=フランソワーズ・アルヌール」の声が「ジュディ・オング」でした。(劇場版「怪獣戦争」)
メロディーが転調し短調に変化してからの詩。
行く手は嵐だ吠える海
大空を翔る黒い雲
平和の敵だ
世界の敵だ
力の限り戦うぞ
こうあります。
ご記憶の方がおられますれば、そのキャラクター設定も原作とは違っております。
「007=グレート・ブリテン」がシリアス調ではなくて、「ロンドンのいたずらっ子」として書かれてます。
先の平成版では、「イギリスのアクター」として書かれ、今回の作品では「MI6の詳報員」として設定されております。(そういえば・・バンコランも・・・)
後に語りますが、この白黒アニメのキャラクターに接したのが最初でしたので、この印象が大変強かったのですが、原作を拝読するに、やはり違和感が、拭い切れません。
まだ活字を理解できない頃でしたので、漫画掲載には接しておりませんでした。
その歴史を紐解きます。
東京オリンピックの年1964年の「少年キング」に連載が開始されます。
島村ジョーがブラックゴーストへ捉えられ、サイボーグとされ、その後、8人の仲間とギルモア等と共に脱走します。これがプロローグ。この時間が長い。
そしてその後、「第9部」からは、ブラックゴーストから繰り出されるその後に改造された(これは、当時言葉が無いのですが)サイボーグ達と戦って行きます。
「第11部」で完結します。そして「ネオナチ」や「ベトナム戦争」へ巻き込まれながら一応完結を見ます。
ここで全員が最期となります。ヒーローが全員最期を遂げる。
複雑な設定と背景は読者が少なかった理由となりますが、キャラクターが多くそれを消化するのに時間がかかります。
「打ち切りにさせられた」酔漢的私見はこうです。
昭和41年より「少年マガジン」へ掲載されます。これは、少しばかり記憶がございます。
ですが、内容は「ちんぷんかんぷん」。
まだ字を追いかけることが出来ません。
内容を把握したのは中学校時代。
「宿敵ブラックゴーストを地底人の為に戦う」というもの。(簡単に語りました)「地下帝国ヨミ」と題されております。
この編でブラックゴーストが絶滅。と同時に「002=ジェット・リンク」と「ジョー」が大気圏に突入しこれも最期とされます。
ストーリー的には完結されていて、「ヒーローの死」という形で終えます。
話しはまた、私的に変わりますが、このシーンに触れるたび、「ガッチャマンのコンドルのジョーの最期」を思い出したり致します。
「2」という数字の「あや」なのでしょうか・・・。
このとき、少年マガジン側は、石ノ森に「ストーリーの完結を」と要求しております。
しかしながら、その後、すぐさま「冒険王」で連載が開始。
「ジョーもジェットも生きていた」となります。
これが物議となります。
「怪人鳥編」「モーゼ編」「移民編」「ローレライ編」「海底編」そして完結を見ない「天使編」となって行きます。
「死んだヒーローが三度。ストーリーも新たに新展開」を見せるわけです。
いろいろな見方がございます。
「何だまたかよ!」と呆れれる方。「やっぱりジョーは不死身だった」とその展開に期待を寄せる方。
酔漢が、この作品を未だに消化できない理由はここにございます。
その両方が交錯し、この「サイボーグ009」を「駄作」と思う気持ちと「石ノ森のメッセージはどこにあったのか」という興味と、単に「俺はこのキャラ達が大好きだったんだ!」という子供の心に帰る思いと・・・。
「COM」に連載されている頃には、記憶が多少芽生えております。ですが「神々編」を自身の意識フィルターへ入れるという作業が終了しないまま、少女コミックで「北欧神話編」など描かれるようになってまいります。
再び、話しが変わりますが、別次元とはいうものの例えば「平井和正」の「犬神明」であるとかが、島村ジョーとだぶってきたりも致しました。(これには、無理があるのですが、匂いというか、神というキーワードがそうさせるのか・・・)
現在もそれが続いております。
テレビ版を最初に見て、その後、アニメがリメイク。
「誰がために」と新作が作られました。
この詩も「石ノ森」自身の作詞。
アニメブームが起こり、「宇宙戦艦ヤマト」であるとか、そうした時代の作品となります。
ですから、漫画の世界、また白黒テレビ漫画の時代を知らない世代はこれが、その切っ掛けとなったのかと思います。
「単純な正義の味方」とは違った展開を見せます。
ですが、視聴率が低迷します。
テレビアニメは、原作とは違った展開を見せております。
それぞれのエピソードは踏襲してはおりますが、そのテレビシリーズが作成される度「サイボーグとは」から説明が必要になって、どうしても「島村ジョー」がブラックゴーストに捉えられ、ギルモアによって「サイボーグ手術」を行うところから始まります。
平成に入り、また、新たな「009」として誕生します。
スーパーバイザーが「小野寺章」氏。
原作者「石ノ森章太郎」の、御二男でいらっしゃいます。
氏のアドバイスにより展開されたストーリー。
元となりましたのが、「少年キング」連載時のものから使われております。
キャラクター設定が、原作により近くなりました。
しかしながら「今さら何で」という思いもあります。
「この作品でも、まだ自身の未消化の部分は残ったまま」なのです。
この「くだまき」明日もまた語ります。
何故、今、酔漢が「サイボーグ」なのかとお思いの方もおられる事と思います。
「神山健治」監督作品が公開中で、今再び「サイボーグへの想い」が自身の中で蘇った次第。
この作品がどう評価されるのだろう、未だ見ていないまま語るのは「口はばったい」のですが。
このCMは単純に面白いと感じました。
では、また明日。
最近の009、とても「イケメン」になってしまいましたね~これも時世時節でしょうか・・・
ペプシのCMなかなか面白いですね!ジョー、加速装置つかったな!?
加速装置編という題がつけられております。
昔の映像が「新幹線と競走」ですから、各段の差がありますよね。
同じCMで「スイカイダイビング編」があって、これも面白いです。何せフランソワ-ズが・・・・・デス。