酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ノグチ

2013-10-02 06:29:20 | もっとくだまきな話
「偉人」という言葉を最初に覚えたのは幼稚園のとき。
何故か、年長組の私達に園長先生は「野口英世」の伝記を読み聞かせておりました。
ただ、酔漢の場合・・・・。その本の表紙がひらがなだったものですから、ある誤解を引きづりまして。
「せかいのいじん」・・・「・・・・いじん」とは「えらいひとのこと」だから。
♪いじんさんにつれられていっちゃったぁ♪
この歌詞の意味を。
「偉い人が、横浜に住む優秀な女の子を『このまま日本に埋もれさせるわけにはいかない!私が外国で教育しよう』ということ」
このように考えておりました(^_^;)。
「異人」という言葉を知ったのは小学校高学年の頃でして。
ですから、小学校時代の殆どをこのような誤解を持ったまま過ごしておった訳です。

その「偉人伝」に最初触れましたのが「野口英世」であって、その幼稚園にあった本のシリーズには「エジソン」であるとか「ヘレンケラー」であるとか。
「お決まり」の人達が描かれておりました。
さて、その「野口英世」編ですが。そのストーリーに酔漢は大きな衝撃を受けたのでした。
どの部分に一番衝撃を受けたのか。
「ヘビ」です。
写真に「ヘビ」を持ち上げる野口英世があって、(蛇毒の研究、特にガラガラヘビの毒、血清の研究は彼の大きな功績だと思うのです)それを平然と見つめる野口。
もう夢に出て来ました。
この写真一枚で、他のこども達が思うような感想は抱きませんでした。
頭の中では「野口英世」=「ガラガラヘビ」という式がインプットされました。
「左手のやけど」のことやら「母親の事」とかは、すっかり消えておりました。

久しぶりの特集です。
「野口英世」を語ります。
今、何故。
やはり、酔漢的見方になるのです。
「あまりにも美化され過ぎている」こうした思いの方が強いのでした。
時代の寵児は、前回の「立松和博」にしても、どこか時代に翻弄されているところがあります。
翻弄という簡単な表現ではないのですが、自身にその原因があったとしても、それを単純に「時代だから」と言ってはならない「何か」があります。
その「何って?」。
考えるところなのですが、どうしても答えが出て来ません。
「ノグチ」を見る事で少しは分り得るところもあるのではないか。
そう考えました。
「野心家」であり、「詐欺師的」であり、「自分に厳しいところと極端に甘いところ」を併せ持ち。
「日本に帰りたかった」のか「そうではないのか」。
先の見えない「くだまき」を語って行こう。
そう思いました。
始めます。

明治25年(1892年)5月。
ある晴れた日。
横浜港。
大きな鞄を携えて一人の男が船を降ります。
「ちゃんと、連絡はしておいたのになぁ・・・俺、間違えて時間とか電報にしたかなぁぁ」
小柄で洋服を着た髭面の男。
ぼーっとしたまま、海を眺めております。
男の鞄の中身は、ドイツ語で書かれた論文。
「北里柴三郎」その人。

数週間前。ドイツコッホ研究所。
「どうしても、日本へ帰るのかね?キタサト。君がいなくなるのは大変淋しいのだが・・」
「コッホ先生。お世話になりました。私は、日本のこの研究所のような施設を作りたいと考えております。それが、遅れた日本の医学を立て直すことにもなります」
「でもだねぇ・・・君が存分に腕を振るえる環境が日本にあるとも思えんのだがね。一番気になるのは、君の実力に見合った報酬を受け取ることは出来るのかということなのだが」
このコッホの質問には、北里も答えに窮するのでした。
諸外国、例えばフランスのパスツール研究所をはじめ、多くのヨーロッパの大学、研究所では、このノーベル賞に尤も近いとされる優秀な医学者の争奪戦を繰り広げておりました。
では、実際には「キタサト」の待遇はどのようなものだったのでしょうか。
イギリスのケンブリッジ大学では「我が大学では、『細菌学研究所』を設立させ、その所長には『キタサト』を迎えたい。待遇は彼に決めてもらっても良い!」と言い。
アメリカのペンシルバニア大学に至っては具体的な金額まで提示してきました。「研究費(日本円にして当時の換算)40万円。年俸4万円」
因みに年俸4万円の価値は今だと「約1億と少し」と言ったところです。(資料参照)。
イギリスもアメリカも、当時の医学の主流「細菌学」「免疫学」にはドイツ、フランスに大きく後れを取っている実情がありました。
キタサトを迎えることで一気に追いつこうと考えたのでした。
当時のドイツ帝国は、キタサトの帰国を知り、引き留めにかかりますが、キタサトの決心の堅さに諦めます。
「君の業績には、これが最も相応しい・・」と、外国人では初めて「プロフェッソル」の称号と勲章を授かります。

中々ノグチまで行きつきませんが、当時の細菌学の歴史をキタサトの業績を含めて整理してみましょう。
「細菌ハンター」こう呼ばれる彼らは、その祖をコッホにしております。
「結核菌の発見」でご存知の方が多かろうそのコッホですが、その凄さは、原理、原則を作ったことにもあります。
いわゆる「コッホの三原則」という奴です。
※コッホの三原則
あるひとつの病気の原因として、ある特定の、ひとつの細菌が決定づけられるためには、次の三つの条件が満たされねばならない。
 ①特定の病気について、常にその特定の細菌が発見されること。
 ②体の外で、その特定の細菌の培養が可能なこと。
 ③健康体に、その特定の細菌を入れると、その特定の病気の発症を見ることが出来ること。

この原則によって飛躍的に細菌学は病気を克服させていきます。

1882年 コッホ (独)    結核菌の発見
1883年 クレープス(独)   ジフテリア菌の発見
1884年 コッホ (独)    コレラ菌の発見
1884年 ニコライエル(独)  破傷風菌の発見
1885年 エシュリッヒ(独)  大腸菌の発見
1886年 フレンケル(独)   肺炎球菌の発見
1887年 ワイクセルバウム(独)脳脊髄膜炎菌の発見


キタサトはこの頃ドイツにやって来ます。
その最たる実績は「破傷風菌」の発見です。
1889年の年。
「破傷風菌の純粋培養が成功しただと?あれは共生によってのみ培養が可能なのではないのかね?」
「先生、キタサトはですね・・大きな実験器具を使いまして・・」
「シャーレの他に何が必要だというのかね?」
しぶしぶ、キタサトの研究室へ向かうコッホ。
「本当だというのなら、キタサト君。このマウスにその菌を注射したまえ!」
「先生、見てください」キタサトは注射をいたします。
数時間後・・・。
「こ、これはまさしく破傷風の典型的症状・・。キタサトどうやって・・」
「破傷風菌は土壌の中で繁殖します。ですから、嫌気性の菌ではないかと考えました。酸素ではなく水素下で培養してですね」
「世紀の大発見だ!キタサト」
1889年の年です。
しかも、キタサトはその後免疫療法をも確率させます。
短期間の間に世界を揺るがす程の実績を次々を挙げてまいりました。

時計の短針が一つ進もうとしていたころあい。
陸軍の盛装を着て、馬に乗った男が一人キタサトへ近づいて来ました。
その顔に覚えがあるキタサトです。
思わず駆け寄ります。
「森君!森君ではないか!」
同じ、ドイツで留学生として学んだ間柄です。(北里は内務省、森は陸軍)
「もりくぅぅーーん!ひさしぶりぃぃぃ!」
しかし、森は表情を変えず、馬上にいるままでした。

ノグチを語るには、どうしても、キタサトの話しを避けることは出来ませんでした。

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1 コメント

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こんばんは (見張り員)
2013-10-03 22:15:59
野口英世。
単なる偉人伝的な人物ではないというのは、いろんな話を聞いて感じております。

中学三年の修学旅行で彼の生家を見学しました。そのころはただ、「黄熱病の研究した偉い人」という認識しかなかったですが・・・

酔漢さんの「野口特集」これからが楽しみです!
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