日本産業カウンセラー協会講師 中台英子先生の「職場のメンタルヘルス事例検討」セミナーを受講しました。
表題はインテーク(初回)面接でリファー(この場合精神科医への治療依頼)が必要と見立てたクライエントで 精神科受診に抵抗を示す方への対処法を述べた珠玉の名言です。
具体的な事例検討のため その内容を発表できないのは非常に残念ですが温かい人間愛、そして数十年にわたる実践と成果に裏付けられた テクニックのコラボレーションには眼から鱗が落ちまくりの6時間でした。
エリック・エリクソン(ミルトン・エリクソンとは別人)の発達理論は、心理学に関心を持つ方ならどこかで接していると思います。私が興味を深めたのは、この理論の優秀性もさることながらこの偉大な心理学者の生い立ちに謎が多く、またそのキャリアが極めて異例であったということからです。
エリクソンは生涯の大半をアメリカ合衆国で過ごしていますが、出生はドイツのフランクフルトで両親はデンマーク人であったということです。彼の実父が誰であるかは、母親が遂に明かさなかったので不明ですが、母親の再婚相手はユダヤ人の小児科医で、エリクソンもユダヤ系の名前を名乗らなければならなかったのです。そこで当時のドイツで高まってきた反ユダヤ主義の影響で学友たちから仲間はずれにされ、かつユダヤ社会からはユダヤの血統を全く持たず顔立ちも北欧風なために「異教徒」として排除されました。
この経験が、後に彼が「アイデンティティ(自我同一性)」という概念を生み出すきっかけの一つになったと言われています。青年期になり、彼は養父のユダヤ姓(ホンブリガー)を捨ててエリクソンを名乗るようになりますが、このエリクソンという名前の由来もはっきりしていません。
高校卒業後、エリクソンは画家を志してヨーロッパ中を放浪し、様々な職業を遍歴し、
25歳のとき、ウイーンでアメリカン・スクールの図画の教師の職につきました。ここでのある出会いが、彼の人生を大きく変えていくことになります。アメリカン・スクールの校長をしていたピーター・ブロス(後に渡米し、青年期を専門とする精神分析家となる)の勧めで近所にあったウイーン精神分析研究所に通うことになりました。ここでアンナ・フロイト等から、児童精神分析家、精神科医としての訓練を受け、遂に資格も取得するに至ったのです。
ドイツにナチス政権が誕生して、ユダヤ系の人々の苦難がいよいよ本格的になろうとするころ、エリクソンは、招かれて渡米し(31歳)そのまま定住して、後にはアメリカの市民権も取得しています。ここからが凄いところで・・・・、渡米の翌年に彼はハーバード大学の教授に就任しています。高卒の学歴で、小学校の図画教師であった彼が世界的名門大学のしかも医学部から教授として迎え入れられたのですから、かなり異例のことだと思います。以後、エリクソンはカリフォルニア大学、スタンフォード大学、イエール大学、MITなど各地のいずれも名門大学を渡り歩き、最後はスタートに戻って、ハーバード大学人間科学研究所で教授生活を終えています。
彼の著作「幼児期と社会」より
・・・そして、実に、人間の生存という社会的ジャングルの中では、自我同一性の観念が無ければ、人は生きているという実感は得られない。同一性を剥奪されると、人は殺人さえ犯すことがあるのである。
出 所:放送大学教材「教育と心理の巨人たち」
文教大学人間科学部臨床心理学科 布柴靖枝教授の「家族療法の理論と実際」のセミナーを
受講しました。
家族療法で特徴的なことは
*家族を「クライエント」とみなす
*家族の中で問題を抱えている人のことを「IP(アイピー)」と呼ぶ
identified patient
*IPの心の問題は、家族システムが機能不全を起こしている信号と捉える
*犯人捜しをしない
・家族を責めない姿勢
・家族と協働して問題解決を図ろうとする姿勢
*家族を見立てること
・何が問題、症状を維持させているか?
・問題解決のためにできる小さな変化をおこすためには何が出来るか?
よく使われる技法としては
①ジェノグラム(多世代学派): 3世代以上の家系図を作成し当該家族の
家族神話(意識的、無意識的に世代伝達され、個人の価値観、感情を
規制し、独自の世界観を形成している家族の物語)を探る
②リフレーミング(ミニューチン): 言い換えにより現象に対する見方を変化させる技法
例 頑固→信念がある
その他
③スケーリングクエスチョン(SFA)
④コーピンングクエスチョン(SFA)
⑤例外探しと Do differennt (SFA)
⑥問題の外在化、物語の書き換え(ナラティブ)
等の技法が多用されています
家族療法は以上のように多くの心理療法を活用した統合的もしくは折衷的療法
であるといえましょう