えびす顔の造花卸売問屋元社長からの手紙

かすかな希望を抱いて幸せを自慢する尊大な手紙。重複掲載御免。造花仏花の造花輸入卸売問屋ニューホンコン造花提供

151112エピソード拙著

2015年12月16日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 母は週3回人工透析を受けていました。その時バッグを持っていきます。小銭や飴ちゃんやハンカチなどが入る小さなやつです。歩くだけでも心もとなく、歩行器を使わないといけないぐらい。ちょっとでも荷物が少ないほうがいいのに。それなのにそのバッグの中に重たい本を一冊入れて必ず持ち歩いていました。本の名は、

 「小さな会社マスコミデビューの法則」

 拙著です。

 妻が母の遺品の整理をしていて、バッグから見つけました。行く先々で「これ、私の息子が書いてん」と言って、自慢してくれていたんでしょう。
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1112エピソード八寸壺

2015年12月15日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 普通は5寸の壺を使うそうです。しかし、

 「全部持って帰ってきたれ」

 と言う父の願いで、八寸壺にしました。それでも入りきれなかった時の為に、家にあったせんべいのブリキ缶まで持っていきました。

 とても小さくなっていた母は、ちゃんと八寸壺に収まりました。

 先日、八寸壺に入ったお骨を全て我が家の墓に納骨しました。
 小さい骨壺は天王寺の一心寺さんにお預けします。

 
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1114-5

2015年12月14日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 そのお骨を祭壇に供えて初七日法要が始まった。会場は葬儀と同じ場所。親類だけでこじんまりとしている。開場が広すぎて殺風景だ。それでも50人近くいる。読経の最中に再び焼香。30分もかかっただろうか。さっと終わる。住職を送り出して、終了。お供えの果物や菓子を15ほどに分けてもらっていたので、皆に持って帰ってもらう。遠い親戚から帰っていく。父がまだ残っている姉妹らに声をかけられ、泣き出した。その叔父叔母らも帰っていくと、我が家と姉家族、妹家族のみになる。段々静かになっていく。母の死を悲しむことを減らしてくれた一連の儀式がなんとなく終わる。

 みなで一緒に葬儀場を後にした。寝不足に加えバタバタな3日間に関わらず、疲れはない。
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1114-4

2015年12月13日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 鶴見斎場に着くと、ロビーに通されてほんの少し待った。市営の斎場はきれいになった。ロビーはホテルのようにゆったりしている。炉前室に通された。住職の読経が始まり、焼香。お棺が炉の中に閉じ込められる。妹はまだ泣いているが、こちらは自然と落ち着いた気持になっている。
 帰りはマイクロバスでみなと一緒に葬儀会館に戻る。隣に座った従弟は3歳前に母を亡くし、母の記憶を持っていない。その母親の話をしたりしながら会館に戻る。
 すぐに精進落としが始まる。「何もないけれど、母の供養に召し上がってくれ」とあいさつする。50人足らずの出席者全員にしゃくに回った。1時間弱で再びマイクロバスに乗って、お骨上げ。通夜から葬儀、告別式、斎場と続く流れの中では一番乗り気になれない儀式だ。父が母の骨をすべて持って帰ると言って、普通なら五寸の骨壺を八寸にした。それでも入りきれなかった時のために、お菓子の入っていたブリキ缶も持参していた。亡くなる前に35キロもなかった母はとても小っちゃくなっていて、壺だけで十分に入った。叔母が、「のど仏が今までに見たことないほど立派」という。再びマイクロバスで式場に戻る。
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1114-3

2015年12月12日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 母のお棺が開けられ、花を添えていく。どんどん覆われていく。西国三十三か所参りの朱印の押された半纏も被っていたんだろうか。着物が好きだからと着せられた比婆色の着物も見えていたんだろうか。姉が付き添った時に母が「柿が食べたい」と言ったといって、誰かが足元に柿を入れたはずだ。「よう頑張ったな」と思うと涙が出てくる。何度も何度も「お花を」と言われて何度も何度もお花を入れる。母の顔をさする。ドライアイスで冷たくなっているのに驚く。とても時間が長く感じる。お棺が閉じられた。母の光った若く見える顔は思い浮かぶが、それと花しか記憶に残っていない。感情の高まりが、記憶を消す。

 みなが一階に降りた後、住職と位牌を持たされた私、遺影を持った妻が台車に乗せられたお棺の後に続いてエレベーターで階下へ降りる。下では息子らが待ち受けていて台車からお棺を担ぎ上げて霊柩車に載せる。高ぶった感情はお棺が閉じられてから、自然に収まっきている。妻と霊柩車に乗り込む。マイクロバスに乗る人、送り出す人、車の中から少し曇った窓ガラス越しに人の動きが映画のスローモーションシーンのように見える。車が動き出した。
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1114-2

2015年12月11日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 あっという間に式が近づいた。父が、「最後やから3か寺にしたれ」といって。お坊さんは3人になった。暖かになっている布施・明専寺の住職が導師を務め、同寺のもう一人の僧侶と父の親戚筋西願寺の住職が脇導師を務める。式場がとても大きく、3人並んで恰好がつく。読経、親族焼香と続く。止め焼香は横浜に住む叔父、母のすぐ下の弟にしてもらう。一般焼香の時に通夜と同じように男は立礼、女は座ったまま礼をする。焼香が終わると喪主挨拶。

 「本日はお忙しい中、母岡田宏子の葬儀告別式にお越しいただきありがとうございます。生前母に賜りましたご厚誼に感謝します。ありがとうございます。昨夜の通夜から今日の葬儀まで、様々な方から母とのご縁のお話をお聞きしました。母が多くの方に支えられて生きてきたことを知りました。ある方が、母が私たちに知らないところで子供のために大変な努力をしていてくれていたことを聞きました。55を過ぎて親のありがたさが今さらながら身に染みました。最後の2か月、右大たい骨を折った母は左肩骨折でリハビリ入院中の父と同じ病院で過ごしました。二階の病室に父、三階に母。歩ける父は毎日母の病室を訪ね、『どないや』と声をかけていました。車いすの母は姉や妹、妻に連れられて父の病室へ。我が家ではないにしても最後は二人で支えあっていました。そんな大きな母を失い、我が家は悲しみ深く途方にくれています。しかし、明日から新たな生活をスタートさせます。これまで同様、私たちを温かく見守って頂ければ幸いです。本来なら皆様方のもとにはせ参じてお礼申し上げるところですが、何分我が家は取り込んでいます。ご容赦いただきますようよろしくお願い申し上げます。これまで本当にありがとうございます」
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1114

2015年12月10日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 11月14日土曜日、6時半ごろに起きた。葬儀は11時半からだが、2時間前には来てくれと言われている。ちょっとした仕事もこなして家を出て、9時前に葬儀会館に到着する。高齢の父の負担にならないように、家に置いておいて後で迎えに来ようというが、一緒に出るというので、連れて行く。妻らは着付けで忙しい。司会の方と段取りの打ち合わせ、焼香順に氏名の確認、弔電の順番の確認。お参りいただいた方々へのあいさつ。帳場に立ってもらっている大阪造花連合会と社員への気遣い。10時半からは親族の写真撮影。お寺様へのあいさつとお布施の手渡し。何かとバタバタする。悲しんでいる暇がない。

 その方が、母のことを思って悲しみ落ち込まなくていい気もする。忙しくなかったらもっともっと悲しんでしまって自らの収拾をつけられない。通夜葬儀の諸々のことで気が紛らわされ、悲しんでいる暇がない。葬儀は上手い仕組みになっていると思う。
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1113-3

2015年12月09日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 通夜が終わると、参って頂いた方々に夜とげの振る舞い。最初40人前ほどのお寿司を頼んでいたが、ちょっと足りなさそうと思い直し当日10人前分増やした。まだ少し足りなかったかもしれない。参列して下さった方々に十分な振る舞いができず、本当に申し訳ない。通夜が終わってからもお参りして下さる方がいらっしゃって、その方々へのあいさつや、料理を食べていただいている方々への酌で動き回る。その最中に翌日の葬儀、さらに焼き場に行ってもらって骨上げまでいていただけるかどうかを親類に尋ねたりと、忙しい。

 火葬している最中に精進上げをするのが一般的でその人数を把握しておかないと料理を頼めないため。11時ごろにはお参りして下さった親戚の方々も帰り、あとは我が家と姉、妹家族だけ。父は先に姉夫婦が我が家に送ってくれた。やっと残った料理で夕飯。その姉、妹夫婦も12時ごろには帰り、妻と葬儀の焼香順、弔電の読む順番を一緒に考える。葬儀会館には息子と妹の二男が残り、午前1時前に会館を出て我が家に戻る。
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1113-2

2015年12月08日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 午後7時前に一番前の喪主席に座った。通夜が近づくにつれ席が埋まりだした。親類が50人ほどで親族席はほぼ埋まっている。さらに一般席が50くらいとその脇に数十席。こんなに大きな会場ほんまに埋まるのかと思っていたが、後ろを振り返ると席はほぼ埋まっている。良かった、と安堵した。葬儀社さんから通夜にあいさつに立つ女性は洋服でよいと言われていたが、母が着物が好きだったと、姉妹、妻の三人とも色無地に黒の帯。それもうまく色が被らなかった。

 午後7時を少し回って明専寺の住職が入場してきた。読経が始まる。お経を聞きながら、最後の喪主挨拶を反芻する。母の最期の様子を話そうと決めていた。それを反芻すると涙が出てくる。喪主として一番に焼香する。止め焼香は母のすぐ下の弟、叔父に務めてもらった。親族の焼香が終わると姉妹夫婦、妻、息子と計7人で祭壇脇に並らび、焼香を終えた方々に挨拶をする。わざわざ参って頂いた一人一人に少しでもきちんと礼をしたいと何度も頭を下げる。そして喪主挨拶。

 「本日はお忙しい中、母、宏子の通夜にお越しいただきありがとうございます。また生前宏子に賜りましたご厚誼にお礼申し上げます。ありがとうございます。母は心臓弁膜症の手術を二回した5年ほど前から何度も入退院を繰り返し、15回は超えているでしょうか。そのたびに死線をさまよい、回復、我が家に戻ってきてくれました。何度も病院で苦しい目に遭い、本人はとても大変だったと思います。しかし元気になると、孫の結婚式で喜んだり、ひ孫を見て笑うんですよね。そんな姿を見るともう少しもう少し長生きしいや思います。それに応えて母はとても頑張ってくれました。しかしもうここらでゆっくり休みやと言ってあげたい。これまで本当にありがとうございます」
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1113

2015年12月07日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 11月13日金曜日は妻の足音に驚かされて起きた。前日から八尾の流通センターへは行っていないが午前中、家のパソコンに向かって仕事をする。さらに昨日連絡できなかった知人らにもメールなどで連絡を取る。お昼は前夜、姉家族やお参りの方に振舞おうと出前で取った助六寿司がたくさん残っていて、ほおばる。その食事中に姉らが来た。葬儀社さんが母を我が家から通夜会場の会館へ「運ぶ」のを見送るためだ。

 午後1時過ぎに葬儀屋さんが二人で来た。病院から我が家に来た時と同じで、二階から一階へは階段を母をおぶるような格好でうまく降りた。母が乗った車が去っていくのを見ながら、「もう家には帰ってけえへんねんな。これでおかんも最後の家やな」と思うと涙が出てくる。

 見送って家族で会館へ向かう。会館では先についていた妹家族が母を迎えた。少し待たされてから納棺が始まる。綺麗に化粧をして、着物が好きだった母にと妻らが用意した比婆色の着物を着せられた。かつらも被った。肌が透けるように光りとても若く見える。その肌のつやは病気と年齢で肌がとても薄くなっているせいらしい。「綺麗に化粧してもらってよかったね」とやっぱり皆で涙ぐんでしまう。化粧をしてくれた方に、自然と「ありがとう」の言葉がでる。午後7時の通夜までまだまだ時間があると思っていたが、60本も立った供花の順番の指示や、先に来た叔父叔母らの対応、式の打ち合わせで時間がどんどん過ぎていく。

 受け付けは社員二人に頼んでいたが、供花の集金もあって葬儀屋さんからもう二人ほど必要と言われる。誰にしてもらうか決めかねていたら、午後5時半ごろに大阪造花連合会のHさん早く来てくれて、連合会から役員3人が来るから手伝うと。とてもありがたい。すぐにお願いをした。
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1112-7

2015年12月06日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 あわただしくなんとなく一日が終わる。午後11時ごろには姉と妹の家族も引き上げた。その夜は母が生きていたら私が病院に付き添う日。亡くなった母の隣の部屋で座布団に横になって付き添った。形は替ってもその「当番」を務めるころになった。明け方近くまでうつらうつらしていると、母の部屋から音が聞こえる。え、母が生き返ったの、幽霊が出たのかと驚く。既に朝の6時を回っていたようで妻が起きてきて母の部屋に入ってきた足音だった。
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1112-6

2015年12月05日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 母が眠るすぐ横で葬儀の打ち合わせが始まる。どれほどの参列者が集まるかから。我が家、姉妹家族、妻の実家、娘が嫁いだ先の実家、父の兄弟、母の兄弟、さらにその先の親族。父が8人兄弟、母が6人兄弟と多く、数えると50人をこえる。しかし、会社関係はほとんど呼ばないつもりだから、一般の参列は少ないはず。でも式は100人以上収容できる大ホールで行うのがいいと葬儀屋さんは言う。そして祭壇とそれを飾るお花の話し、マイクロバスの数、通夜、告別式の後の料理の数、お寺さんのこと、何が何かよく分からない。通夜の後、何人の方が残ってくださって料理を食べていただけるのか。見当がつかない。お寺さんへのお布施もいかほどにしたらいいか分からない。祭壇もどれくらいが良いのか。葬儀屋さんのアドバイスを聞きながら決めていく。

 湯かんの話になった。故人の体をお湯で洗う儀式だ 妻の父が亡くなった時、湯かんをした。馴染めなかった。母の湯かんも頭にはなかった。葬儀屋さんが帰ってから妻に湯かんのことを尋ねると、「よかった」という。神聖な感じがしたと。その後、女性のいとこからも湯かんはした方がいいよと聞かされた。男と女では感じ方が違うのかもしれない。結局湯かんは無にした。
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1112-5

2015年12月04日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 2年ほど前の朝、妻が母を起こしに行くとベッドの上で意識をなくし倒れていた。シーツには血のようなものが飛んでいる。救急車を呼んだ。到着して救急隊員が血中酸素濃度を測ると健常者なら100あるのが70を切っている。救急車中で酸素マスクをつけてもらっても全然上がらない。息も絶え絶え。病院に着くなり救命救急医療が始まった。管を通して肺に酸素を吸入する挿管も施された。医師の懸命の治療のおかげで少しずつだが酸素濃度も上がる。それでもその日は90も届かかなかっただろうか。ICUに入った。そこでほんの少し意識が戻っていた。医師から説明を受けると、重度の肺炎を起こしていて、肺に水もたまっている。きわめて重篤。抗生剤で炎症を抑え、また利尿剤で水を抜くと。危篤だけれど、医師の話の端々から今回は何とか命は取り留めるような気配を感じる。
 
 だが続けてこんなことも話した。糖尿病で、さらに透析を受けている高齢の患者がこういう症状を起こすと、一年生存率は極めて低い。たしか8、9割の確率でなくなる。そんな風に言われた。まだその時は他人事のように思っていた。それから半年ほどたって、葬儀会館の会員になった。母にそれなりの葬儀を準備しておいてやりたい気持ちから。
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151112-4

2015年12月03日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんにちは

 家に帰ると母は霊柩車からタンカごと降ろされ、庭にいた。葬儀社の二人はてきぱきと動く。母を2階まで狭い階段をおぶるようにしてあげた。妻と先に病院を出た妹が白いシーツの布団を敷いてくれていて、母はそこに寝かされた。母を覆っていた白い布はを葬儀社の二人がほどいてちょこちょこっと動作すれば布団になった。あの病室で体の上に銀色の装飾の入った掛け布団がかぶせられた母をその掛布団ごと顔まで覆うように白いシーツで巻き、それを我が家でほどいて布団の上に乗せた。そんな風だった。母はあっという間に死に旅への白い布団に寝かされ、枕祭壇もいつの間にか出来上がっている。流れるような『作業』。その『作業』を終えると、少し葬儀の打ち合わせをする。通夜は翌日午後7時から、葬儀告別式はその翌日の午後11時半からと書かれた紙を渡される。そのスケジュールで焼き場を抑えたから、お寺さんに確認してくれ。確認できたらすぐに訃報を作ってFAXすると。そして3時過ぎに打ち合わせに来ると言って帰って行った。それまでに参列してくれそうな親類の数を勘定しておいてくれと言い残して。

 入れ替わるように、お寺さんがきた。妻が少し前に電話を入れてくれていた。枕経をあげてもらう。お経が終わると葬儀の話になる。父が「三か寺」にしてほしいと頼む。我が家は浄土真宗本願寺派、俗にいうお西さん。お寺は隣町布施の明専寺。導師を明専寺の住職が務め脇導師の一人は同寺の僧侶。もう一人の脇導師は父の親戚筋に当たる西願寺に頼むことになる。父がさらにお布施はどれくらいですかと何度も尋ねるが、住職は「お気持ちで結構です」を繰り返す。結局、葬儀社に最後は相場を尋ねてそれなりに決めることいなる。通夜、葬儀の時間も了解を得たので、葬儀社さんに知らせる。

 我が家に加え姉、妹家族もいて、お昼は近くのそば屋からうどんやどんぶり物の出前で済ます。私はどうしても済まさないといけないたまった仕事、香港・中国のメーカーとのメールのやり取りや、葬儀社に言われた親類の書き出し、それにお昼過ぎには叔父らが弔問に来てくれてその応接と、やっと午後3時前に昼飯を頂く。それを食べている最中に再び葬儀社がきた。
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151112-3

2015年12月02日 14時46分18秒 | 我が家
 東北のみなさん こんんちは

 20分ほど経っただろうか、姉が夫と(姉の)次女と来た。真っ先に母に「よう頑張ったね」と声をかけた。姉もそれを見る方も泣けてくる。家にいる妻に電話する。父はもう病院へは来ないとという。その方がいい。そして葬儀社に電話する。その葬儀社の会員になっている旨を伝え、葬儀通夜をしてもらいたい、まず母を家まで運んでほしいと頼む。何時ごろに伺えばよいか聞いてきた。看護婦さんに尋ねると、ちょうど勤務の交代時期で、午前10時ごろならいいという。そのまま伝える。今日は自宅で仮通夜、翌夜に通夜、さらに翌日葬儀の日程でしてほしい。お寺さんは布施の明専寺で、浄土真宗本願寺派、お西さんだと伝える。

 家に連れて帰った母を寝かせる準備をしないといけない。妻と息子がやってくれているようだが、助けに妹にも先に帰ってもらう。看護師が体をさらに体を拭きにきた。家族の方もと促され姉と姪がタオルで母の体をふく。できない。化粧道具も用意してくれていて看護師が化粧をしてくれた。紅は姉が自分のを塗った。顔が華やいだ。母にはこれが似合っている。

 10時過ぎ、救急車に備え付けられているような車付のタンカを押して葬儀社が二人で来た。タンカに母を移す間、病室から出た。母は頭の先から足の先まで体全部を白い布で覆われて出てきた。これだと息ができない。亡くなったことを感じる。緊急用エレベーターに載せられ地下1階へ向かう。主治医と看護師が付き添ってくれる。ありがとうございますと声をかけるが、医師はいいえと首を横に振った。医師は助けられなくて残念に思っているのだろうが、こちらは、ここまで看てくれて実にありがたい気持ちだ。車を見送り、霊柩車と言ったらいいのだろうか、その車を追うように姉らと家に戻る。
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