1月25日、琵琶湖水生植物公園の入口を入ってすぐのところにあるコミュニティ広場ではアイスチューリップがきれいに咲いていた風景を見ることができました。
スマホやデジカメで何枚も撮影しました。
入口の写真です。大人は300円、65歳以上は150円でした。
1月25日、琵琶湖水生植物公園の入口を入ってすぐのところにあるコミュニティ広場ではアイスチューリップがきれいに咲いていた風景を見ることができました。
スマホやデジカメで何枚も撮影しました。
入口の写真です。大人は300円、65歳以上は150円でした。
1月22日、白浜駅で撮影した写真です。
待合室の座布団もパンダ柄でした。
観光案内所で展示されていたくえのぬいぐるみ
ホームにて
観光案内所の窓をホームから見るとパンダの顔に見えていました。
1月22日、串本駅前を撮影しました。
久しぶりに訪ずれた串本駅前はだいぶん前とあまり変わってなかったところも多かったように感じました。
駅前にあった日米就航の記念碑は昔から駅前にあった気がします。少し前に読売テレビの夕方のニュース番組「ten」の「Let’s GO!若一調査隊」のコーナーで若一さんが橋杭岩や潮岬や大島を旅されていたコーナーでこの記念碑が取り上げられていたのを見ました。その番組内でペリーの黒船が日本に来航した62年前の鎖国時代、アメリカの商船が大島に上陸していた歴史があるという話を知りました。そのときの記念碑がこの碑だったというのもこの番組で初めて知りました。
串本駅の構内にパネルがたくさん展示されていました。串本の歴史を知ることができるパネルですね。若一さんのコーナーでもエルトゥール号やイラン・イラク戦争のときに取り残された日本人を救ったトルコのお話も取り上げられていました。
JR串本駅の看板は昔から変わってなかったように思いました。
午後2時20分串本駅発の特急に乗り、天王寺駅に午後5時半頃着きました。
今回、串本を訪れたのは久しぶりでした。父がだいぶん前から釣りを楽しむために借りていた部屋を撤退する下準備のために訪れました。前の日に白浜で観光し、1泊してから白浜駅から特急で串本まで移動、串本駅前からタクシーに乗り父が借りていた部屋に向かいました。部屋に掛けていた鍵がどんな鍵だったか覚えていなかった父でしたが、掛けていた鍵が番号方式の鍵だけだったので、その番号はしっかり覚えていたので開けることができ、部屋の中に無事に入ることができました。もし、違う鍵を付けていたら部屋に入ることができなかったので、その場合の手筈も整えてきましたが、第一段階の鍵の件が難なくクリアできてほっとしました。部屋に入り、本撤退の際の準備のために冷蔵庫や炊飯器やこたつ、布団などの家財道具、細々したどんなものが残っているのかを確認しておきました。父は部屋にあるものは全部必要ないし、もう撤退してもいいと、この日この部屋に入るまでは言及していたのですが、いざこの部屋に入ると考えが変わったようでした。今は亡き母や父の弟にあたる亡き叔父たちや昔の会社の同僚の皆さんと楽しく釣りをしていたときのことを思い出したのかもしれないですが、いますぐ撤退したくないとこの日私に言いました。南海地震がいつ起こるかも心配ですし、コロナ禍でオミクロンがどんどん増えてきている現況も心配な昨今で、串本のこの部屋を早く片付けて悩みを残すことなくすっきりしたかったのですが、父の気持ちを尊重し、すぐに撤退しないことにしました。だいたいの部屋の様子が掴めたので数年先に撤退を延ばすとしても、なんとか段取りできそうですし、たとえ自分ひとりだけで撤退しなければいけない事態になったとしても、何年か先にまた撤退しにくることにしようかと腹をくくることにしました。釣りが大好きだった父の微かな楽しみのひとつだった串本の部屋がまだあると思うのともうないと思うとの違いを父の立場に立って考えたらまだあると思うほうがお金は掛かるけれど気分的には未来と希望を感じることができるのではないのだろうかとも思いました。
昔はあった駅前から出ていた熊野交通のバスも10年くらい前に撤退されたそうで、今はコミュニティバスが走っていました。変わっていたことも少しありましたが、ほとんど変わっていなかった風景を眺めるとその変わらない風景に癒されたりそのときのことを懐かしく思い出した一時を少しだけ過ごしてきた日になりました。